2002年06月06日(木)
429,両親の死

両親が亡くなった時、一緒に住んでいた。
そしてその死に様から「生きるとはどういうことか」を学んだ。
死ぬとは如何に大変な事を知った。今ひとつ、死の視点から生を見るということを。

世間とか、娑婆の事を徹底的に割り切って見れるのも、両親の死から、それがいかに幻想である事を学んだからだ。
結局,残るのは「子供と愛情」だけ。それと‘生きてきた事’ー乗り越えてきた「行蔵」それだけだ。
意味とは最後の自己慰めかー心の印ということか?

死を自覚した瞬間の人間の「生に対する渇望」のすざましさに、側にいて身震いした。
その瞬間−死を覚悟した瞬間‘砂漠の真ん中に立たされる残酷さ’を直感した。
‘心’は「主体」と「イメージ」で成立している。
心を失っている状態は、「主体をなくして何も考えられない状態」と考えれば逆に解かる?

何で‘心’が両親の死の話しから出てくるかと言うと、両親が死と直面した時に、
「主体」と「イメージ」が湧き出てくる事実を見たからだ。それは死の恐怖感からくるものである?
特に「主体」が凄い。人生の全てのことは自分の戯曲でしかない。
それに満足できるか、できないかだ。死ぬ事はそう簡単のことではない。

昨日の朝、隣の主人が亡くなられた。 今夜通夜、明日葬式に出る予定!

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