「東京湾 漂流死体は語る」−読書日記
                   海上保安庁 岸善朗著
 
  漂流死体の身元や、死因を調べていくうちに、あまりに悲しい気の毒な理由を知る。
世の中は、一度道を踏み外すと過酷な人生が待っている。その中で最も悲惨なケースを抜粋してみた。
アルコールとギャンブルで狂った男の犠牲者の母娘のケースである。正視できないとは、こういうことか。
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巡視艇が死体で揚収した女性は生前、荒川の上流にある土木工事現場の飯場で働いていた。
粗末なプレハブの寮で、十九歳になる娘と共に住み込みの賄い婦をしていた。
亭主がどうしようもなギャンブル狂で、競輪にうつつを抜かし、当時山谷と呼ばれたというところに寝泊まりをして、
ほとんど妻や娘のもとに寄りつかない。 しかも、競輪で金をすっては、すってんてんになりにっちもさっちも
いかなくなると決まって妻のところに舞い戻って来た。 そして、駄々っ子のように金を無心。
酒に酔っては妻と娘は、そんな男から逃げ回るように関東近辺の飯場を転々と渡り歩いていた。
そして、幾多の流浪の果てに、辿り着いたのがこの飯場だった。二人にとってここは束の間の安住の地であった。
しかし、二人はすぐに男に居場所を突き止められ、探し当てられてしまう。そのたびに男は妻と娘に金を無心し、
それが叶えられないと容赦なく暴力をふるった。 娘は十九歳で精神障害者
母親が飯場の賄いの仕事だけで稼ぐ金はたかが知れている。娘はやがて寮の近くの精神障害者の人ばかりを雇う
縫製工場で働き始めた。その娘が稼いで入るなにがしかのお金と、飯場の賄いで得る僅かな賃金とが、
二人の母子の唯一の生活の糧だった。
妻と娘は最低限、雨露をしのぐ場所を与えられ、飯場では男たちに混じって自分たちの食事も
一緒に食べさせてもらうような、そういう困窮の生活を続けていた。

その夜も男はやって来た。世間からは今や相手にされず、酒を呑んでは金を無心し、
どうしようもなくなると妻の髪の毛を引っ張り回すなど暴力を振るった。
ギャア、ギャア、と悲鳴をあげながら逃げ回る母を、追いかけては殴る蹴るの乱暴をはたらく父を、
娘はどんな思いで見ていたのだろう。
飯場の同じ屋根の下に暮らす住み込みの管理人の老婆だけがその光景を目撃している。
その夜、母と娘はどんな思いで飯場の寮を出て、どんな思いで川辺までの道を歩いていったのだろう。
生きる望みもなく、夢もなく希望もなく、どんな言葉を二人は交わしながら川辺の道を進んでいったのだろう。
妻は、もうこれ以上、男から逃げきれないと観念したのだろうか。
娘には心を動かす好いた男の一人もいなかったのか。母と娘はどんな気持ちで冷たい川の中へと入っていったのだろう
(二人の死体からは、一切の薬物反応も検出されていない)。 それを思うと、この母と娘が不憫でならない。
川辺には二人の靴と、娘のクリーム色の色槌せたビニール製の鞄とが残されていた。
数日後、地元の警察が、二人の靴と娘の鞄とを発見した。
鞄の中には、娘の勤務する町工場の給料の明細書が印刷された茶封筒が入っていた。
娘の遺体は、荒川の上流の岸辺に引っ掛かっているところを発見され、警察に揚収されたが、
母の遺体は娘のもとを離れ、荒川から東京湾へと流れ出て、はるか川崎の沖まで漂流していたのだった。
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心中したことを、この亭主に言っても、ただ頷くだけで無反応だったという。
 ただただ、人間の性の奥底の暗闇が恐ろしく心に響いてくる。 ただ、二人の母娘に合掌である。

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