東京湾 漂流死体は語る -1

   図書館で見つけた本だが、それぞれの死体が語りかけてくる刺激的な内容が初めからつづく。
   悲劇の深い悲しみが、その死者の追跡から浮かび上がってくる。
   ホテルの自殺の場合、当事者として刑事が自殺の原因とか、家庭の事情を知ることとなる。
   横浜港の漂流死体の場合、その原因を追究していると、あまりに不幸な生き様が見えてくるという。
   読んでいても、行間から人間の業の深さと、その結果としての悲しみが胸に突き刺さってくる。
   ここに出てくるのは世間を騒がすような猟奇的な事件ではない。
   しかし、一人悲しみが死体として漂流している人間の結末から叫びとして突き刺さってくる。
   死ぬには死ぬなりの事情が、それぞれあるのである。 娑婆には亡霊が彷徨っていても不思議ではない。
    これを読んでいてつくづく思ってしまった。一つ間違えば誰にも、ありえるのである。

 この本が出版されて14年にもなろうとしているが、現在も同じような仕事に従事している人がいるのである。
 アメリカのTVドラマのシリーズで、「CSI]という刑事ものがある。
 死体から、犯人を追い詰めていく内容だが、この本は、人生を追いもとめるもの。
 だから、読むものの心を引き付けるのである。 あとがきーに、この本の要約が明快に書いてあった。 
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 豪華客船、貨物船、タンカーなど、世界各国の船が出入りし、あらゆる人種が行き交う世界最大級の海の玄関口、
横浜港……。 経済大国ニッポンの大動脈を担ってさ様ざまな船が往来する東京湾
……この現代社会の縮図ともいえる東京湾をはじめ、太平洋の荒波が打ち寄せる房総東岸など、
関東近隣の海を舞台に繰り広げられる犯罪の捜査、取締まりの最前線で私は働いてきた。
そして、この手で揚収した漂流死体も数え切れないほどである。
海上での「漂流死体情報」に接するや、私はなりふり構わず巡視艇や監視取締艇で飛び出していく。
死体との出会いは一刻でも早い方がいい。風や潮流で流され、それだけ発見揚収が難しくなるからだ。
現場に直行し、死体を発見揚収し、合掌ののち、他殺か自殺か、あるいは事件死なのかといった、
いわゆる事件がらみの死体かどうかをはっきりさせるため捜査活動を展開する。
 死因、死亡時期などを明らかにするため検視を行い、解剖に立会い、また、これらと並行して死体の人相、特徴、
着衣、所持金など手掛かりとなるものを頼りに身元を突き止め、さらに死者の肉親、友人などから事情聴取をすすめ、
「なぜ漂流死体となったのか」を徹底的に調べていく。 それは「死者の生前の旅」を辿っていくことに等しい。
その結果、我々は死者が決して触れて欲しくなかったであろう生前の隠しておきたい部分までほじくり返すことにもなる。
そして、その過程で出会うさまざまな人間模様・・・ これらの漂流死体は、ある意味で現代を生きる私たちの
もう一つの姿でもあるような気がしてならない。
 「死」という壮絶な経験をした死体が語る人間の在り方は、虚飾がないだけに、いずれもその迫力には圧倒され、
かつ、真に迫ってくる。 不思議なもので、自分自身が直接、揚収した死体のことなどは、それが10年、
20年前のことであっても、つい『昨日の』とのように、鮮明に蘇ってくる。
私は死体と接するとき、そのたびに「相手は死体でも人間だ。血の通った私たちと同じ人間なんだ」……と考え、
常に温かい気持ちで接するように心がけてきた。 そんな気持ちで接していると、死体がひとりでに
何か語りかけてくるような気がするし、時にはしきりに何か訴えているようにも感じることがある。
生と死を超えたところで見せる人間の壮絶さとでもいうのだろうか。
 死体と対面するたびに、つい私は「生きるとは」…「人間とは」…:と考えさせられてしまう。
自殺であれ、事件がらみであれ、冷たい海の中から揚収し、死に至る経緯を調べ上げ、供養し成仏させるのも
我々海上保安官の重要な仕事の一つであると私は思っている。
また、これまでの経験から、漂流死体はそれだけでは決して死んでいるのではなく、発見され、揚収され、
その死因を明確にされるまでは生き続けているのではないかとも思う。
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                         つづく
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