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ー以下の論が、非常に面白い。
*「意識」のあり方は、どのようなものか?
サルトルは、「世界へと関わる」ということを、「否定」と「無」と結び付けて考える。
人間が世界へと「「関わって」いる、ということは、人間は世界では「ない」ということなのだ。
たとえば、私は目の前のグラスでは「ない」し、窓の外の木ではない。サルトルは、人間が「世界に関わる」
というあり方をしているが、それは「世界ではない」というあり方だと、いう。
言い換えれば、人間と世界の間には「すき間」「裂け目」がある、ということだ。
人間が「世界と関わる」ということは、人間が、「世界との間に裂け目を作る出す」ことだと考える。
サルトルは人間と世界の間の「すき間」「さけ目」を「無」と呼ぶ。
ただしここで重要なのは、意識は、裂かれた片方の「モノ」なのではなく、「さけ目そのもの」ということだ。
意識としての人間は、いわば世界の中の裂け目、世界の中の無である。
それは、意識が、関係する片方の「モノ」ではなく、「関係」そのものであり、
外部の世界への「矢印」そのものである。・・・・・
「世界に対して」裂け目をもたらす人間は、それだけでなく、「自分自身に対して」も裂け目をもたらす、
とサルトルはかんがえる。 人間は、常に過去の自分から脱出して新しい自分になっていく存在である。
過去と現在を乗り越え、未来に向かって自分を投げかけていく存在、それをサルトルは「投企」と呼ぶ。
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解)
人間の意識が、世界と関わると、その世界との間に裂け目をつくりだす。
それも人間の意識は、片割れの一方ではなく、裂け目、世界の無である、という。
過去を振り返ると、実感として接してきた世界の片割れとしての自分というより、
色いろ経験してきた世界の接触の中での私の意識は、それぞれが「無」だった。
その時の己は、片割れの「モノ」ではなくて、「関係」そのものであった。
それは「矢印」であった。世界中を観光してきて、そして事業を幾つか立ち上げてきて、その通りである。
世界との間に裂け目を作り、世界の中に裂け目をもたらす、
「意識としての人間」をサルトルは「対自存在」と呼ぶ。異郷・秘境の地で我を忘れて見入っているとき、
自分は、そこに居ない。自分は、後で振り返ったとき、見入っている自分を対自として見ている
内なる我が見ているとき、初めて顔を顕す。対象に魂を奪われているとき、そこは一方の割れた「私」
ではなく、裂け目そのものが私である。別に難しいことではないのである。
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*サルトルの人間観
サルトルは、人間が自分のあり方を自由に選択し、自分の本質を自分で作り出すものだということを明示した。
人間の実存は本質に先立つとする。
・まず人間は、「何ものでもない」ものとして、まず実存する。
・そして、自分の行動の中で自分が「何であるか」を決めていく。
自分のあり方を自由に選択するものとしている。
人間において実存が本質に先立つとは、人間は自由な存在だということでもある。
同時に、人間が自分のあり方に責任を持っているということである。
「卑怯である」ということは、卑怯であるものとして自分を作ったということである。
解)
人間は、己を作っていく存在ということだ。常に未来に向かって自分を投げかける存在である。
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