2007年03月11日(日)
2168, 池田晶子が亡くなった!ー 2
            おはよう!♪〜 ヽ(´π`)ノ
    
    先日、8年前に出版された『考える日々』の中古本をネットで買ったが、
    最近の本を読んでいるためか、一つピンとこない部分があった!
    哲学者も8年で大きく成長するようだ。
    彼女を偲んで、印象的な彼女の文章を幾つか書き出し考えてみる。
    ーーー
『人生のほんとう』 ー人の死は悲しいのかー 

・・・・親しい人が死ぬと、当然「悲しい」という感情が起こります。
ただ、なぜ悲しいのかなと少し距離を置いて考えてみると、
第一に「もう会えない」という思いがあります。
その次がたぶん、「かわいそう、気の毒だ」「死んだひとは悲しいんじゃないか」
そういう思いもありますね。

    でも、これはよく考えてみると、わからないんですよ。
    ひょっとしたらそれも思い込みではないかと考えることもできます。
    死んだ人が悲しいと思っているかどうかはわからない。
    死ぬのが本人にとって悲しいことなのかどうか、
    われわれにはあくまでもわからないんですよ。
    だって、われわれは死んだことがないわけですから。
 
(略)けれど、たいていは、「もう会えない」という感情のほうが、
悲しみの内容としては強いのでしょう。
でも、その「もう会えない」とはどういうことかと考えてみると、裏から言えば、
会えたこと自体が、そもそも奇跡的なことだったと気がつくことになる。
つまり、なぜ存在するのかわからない宇宙に、なぜかわれわれは存在していて、
なぜだかわからないけれども、その人と出会ってしまったわけです。

    これはすごく不思議で、これ自体が奇跡的なことだったと気がつくと、
    悲しんでばかりでもなくなる。驚きとともに、感謝にも似た感情も起こってきますね。
    また、会えたこと自体が奇跡ならば、なぜまた会えないことがあるのか、
    という考え方もできますね。

さきほど「無というものはない」といいましたが、いなくなるということは、
実は無がないかぎり「ない」のですから、いなくなるということ、
無くなるということはないともいえる。おそらくそれが、
われわれがなぜだか出会ってしまったという奇跡の意味でしょう。
 「一期一会は存在の構造です」
 −− 
   解)昨年末に義母が亡くなった時に悲しんでいる家内に、
   {亡くなったとしても、自分の生きてきた過去が消えるわけでなく、
    母親が生きているより身近な存在になっただけ。
    「いま・現在のここ」で母親を思い出せば、会っていると同じではないか。
    もう会えないということ自体、将来のことで今のことではないか。
    いま、キッチリと母親と心の中で会話ができれば、それでいいじゃないか。}
    と諭したところ、「それでも会えないという事実は事実。」と言い張る。
   「それでは、貴女が明日、来月生きている確証がどこにある?
    灰になってしまった母に会いたいというのは、センチメンタルな感情。
    それはそれで良いが、悲しいという気持ちは、死という在りもしない言葉に
    縛られた感情でしかない。そこを早くしないと、『母の死というイメージ』
    に降りまわされているだけ!死のイメージを早く払拭すればよい!」
 ーー

『あたりまえのことばかり』
ー言葉はそれ自体が価値であるー

生きるために必要なものは、言葉であって、金ではない。
なぜなら、金のために生きる人もまた、なぜ金のために生きるのかを問うためには、
言葉によらなければならないからである。生きている全ての人は、
問わなければならないからである。「なぜ人は生きるのか」。
 
   したがって、言葉はそれ自体が価値である。人がそのために生きるまさにその価値である。
   価値とは思わないもののために人は生きることをしない。
   それなら、「真善美」という言葉は、われわれの全生活をその根底において
    衝き動かしている価値そのものではなかろうか。
    価値ではないものを間違えて価値だと思うためにも、これらの価値による以外に
    ないのだから、われわれの人生とは言葉そのものなのである。
   「売れなければしょうがない」、そう言う彼らが間違えているのは、
    損得という価値と善悪という価値だ。しかし、値段は価値ではない。

逆に、言葉に値段がつくと思うそれがその人の生の価値だ。
だから、安い言葉を大量に売り飛ばして平気なのである。「読まれなければしょうがない」、
言葉を仕事に選びながら、なぜそう言うことができないだろうか。
ーー
    解)言葉自体が価値とは、自分が絶対と信じていることそれ自体が、
     言葉の羅列としてこびり付いている絶対確実言明でしかない。
    その絶対確実言明(信じきっている価値)自体も小さな自分の体験か、
    親か世間様の価値をそのまま信じた結果でしかない。
  
 頭の良し悪しは、言葉がストンと脳に入るかどうかで決まってくる。
 他人事ではないが、「本を読まない人は、ストンと言葉が脳に落ちない」のだ。
 体験を経験に落とし込むには、そこに言葉を介して脳に刻み込む作業が必要になる。
 その為にも言葉への変換能力と、逆に言葉から脳への変換作用が必要となる。

                 ~~ヾ(´ω`●)バイ(●´
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