2005年03月02日(水)
1429, 中年クライシス(中年の危機)の悲劇

岐阜で57歳の父親が子供と孫と犬を道ずれに心中を図った事件があった。
以前から、随想日記で書いてきた「中年クライシス」の暴発である。
母親の痴呆と、長男の問題、病気、職場の関係、犬の世話等々で、
自分の神経をやられてしまった典型的な事例である。

そういえば、十数年前の私の環境に似た環境である。
海外旅行と、精神療法系の本を読んでいたので何とかのりこえた。
40代後半から60代前半は、こういう問題が誰にも押し寄せる。
見せているか見せていないかだけである。
その中で一人でする、スキップと鼻歌は、背中に大きな荷物がある為か演歌調になるが。

真面目な人ほど、ある日突然爆発する。その処理法の知識がない上に気弱だと、尚のことである。
この人の趣味は警察犬の調教とTVでいっていた。
それでも苦しみを乗り越えることができなかったのだろう。

外的適応に疲れ果てた末路といえばそれまでだが、
人生の転換期に、内側に対して目を向ける術を知らなかったのだろう。
深い洞察に裏づけされた内的適応が必要だったのだ。
痴呆症の親族と同居は、苦しみの底に落とされてしまう。直接原因はこれだろう。

以前、読書日記に ー『心』の出家ーの感想文を書いた。
後でコピーしておきますが、 その一節の言葉が印象的である。   
自分の周囲に張りめぐらした垣根(ペルソナー仮面)を取りさることである。
神吉拓郎の「金色の泡」の中での主人公欣吾と従兄弟の会話で以下を語らせている。

 ー文雄がいった。
「俺、発見したんだ」「なにをさ」
「40にして惑わず、という言葉があるだろう。騙されてはいけない。
 あれは偉大なる皮肉なんだ。本当はそうなんだ」
「どうして」
「とにかく、そうなんだ。40前には、迷うことなんかないよ。
 夢中だよ。世の中に出たばかり、目がくらんでいるか解らない。
 あり合せの目標に突っ走る。 一段らくしたときが一番恐い。
 40をすぎた頃に初めて迷いが出るんだ。今まで何をしてきたのだろうか気づくんだ。
 え、そうじゃないか。迷いが出てきただろう」「そういえば、そうかな」
「迷うのは、40からなんだ。それが本当だよ。恐らく、死ぬまで迷い続けるんだろうと思う」
「迷わない奴だっているだろう」「そんな奴は、一生馬鹿なままさ。
 しあわせという言い方もあるだろうがね」

ペルソナ(社会的仮面)は必要なものである。
それは一定の効果を持つし、社会を渡って行くために不可欠かもしれない。
しかし、その仮面を剥いで生きたいと、こころの奥に思っているものだ。
そのことに気づき、生き方の大転換を図るのが、こころの「出家」なのだ。

ペルソナについて、ユングは、外部に対する適応とか、やむをえない便宜とか
理由から生まれてきた一種の「機能コンプレックス」であるという。
それは個性というものとは違うものである。
安定したペルソナの下に。常にそれに影響を与え、それを脅かす内的世界が存在している。
ーー
誰も、この一家心中の中年男の心を知ることが無かった。
タマタマ犬の調教で、TVのニュースの映像が流されていた。
真面目な、気弱そうな、何処にでもいる善人面をしていた。
私の解釈では、
・真面目な、・気弱そうな、・善人面
ということが、問題全てを一人抱え込んでしまった。
誰に聞いても、優しい良い人だというところに問題があった。
それ故に、 母親と長男の問題と、職場の配転とか、犬の調教の疲れなどの
全てが、長年にかけて山積になった。
良い人というペルソナを、脱ぎ捨てるとかができなかったのだ。

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