2003年02月02日(日)
669, ぶざまな人生

本屋で見かけた本のタイトルである。
「ぶざまな人生」というタイトルにハッとさせられる。
軽く1分程度立ち読みした程度だったので概要は主観的になる。
「人生を捉えてみると誰もが皆ぶざまな人生だ。それを初めから割り切って
自分のやりたいよう、生きたいように生きるべきだ」という内容だ。
シビアなタイトルだが、皆「ぶざま」という言葉に呪文をかけられている。
誰もが本当はぶざま人生じゃないか、見っともないという他人への
思惑など捨て切って、自分のやりたいことを、やりたいように生きるのが本当だ。

政界のプリンスと、この前まで言われていた鳩山由紀夫だって、
最後は見っともない醜態を曝け出してしまったではないか?
でもこれからが本人の真の力が湧き出てくるかどうか試されるのだろう!
凡人が「ぶざまな人生」と初めから割り切れるかというとなかなか難しい。
よほど哲学的に裏づけか信念が必要だ。それがその本の主旨だったようだ。

「ぶざま」という言葉を使う人は「教養のない中年のオバサン」だろうが。
心の奥に誰もが「ぶざまな人生だけはおくりたくない!」
あるいは「みっともない最後だけは人に見せたくない」というのがある。
自分の人生を顧みて、ぶざまとも格好よかったとも思ってない。
それではやりたいこと出来たか?というと、こんなものかという感がする。
ただ専攻が人間関係学であった為、人生のトータルデザインを考えて生きてきた。

自分の真にやりたい事を一生通して追求するのは自明の事であった。
「ぶざま」という言葉自体が「世間様」という虚構の言葉である。
それでは「ぶざまな人生とは、どういう人生だろうか?」
その言葉にやはりこだわって何も出来ないで終わってしまった人生のことだ。それなら
「初めから人生はぶざまなものと割り切ってしまえば、開き直った生き方が出来る」。

「悟りということは、如何なる場合では平気で死ぬ事かと思っていた事は間違いで、
如何なる時でも平気で生きていることであった」正岡子規の病床六尺の言葉である。
これは「ぶざまな人生を平気で生きることが悟りである」と言える!
完全な人生を求めるな!そんなものは元々ある訳がない。
しかし知らないうちに社会的動物として完全を人生に求めてしまう。
完全でなく充分な人生しか存在しない、
それが人生というものだと割り切ってしまえばよい。

充分の人生を初めから求めるべきだ。それを脇で見たらぶざまに見えることもあろうが。
親戚・姉兄や知人を見ていてカッコウいい人生の人など殆どいない。
遠くから見ていて例外の人がいたら、ただそう見えるだけだ。
 
 書いていたら気分が楽になった!!

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