<「生きづらさからの脱却」岸見一郎著>
   * アリストテレスの「原因論
      〜「質料因」「形相因」と、「起動因」
 社会や、物事の原因を簡明に読み解くに、解りやすい事例である。
≪ アリストテレスは、彫刻を例に原因を、次の4つに分類している。
・まず、青銅、大理石、粘土などがなければ兆候は出来ない。この場合、
 これらは、彫刻の「質料因」(何からできているか)である。
・次に、「形相因」(何であるか)。彫刻が何を現しているかということ。
 彫刻家は像を刻むに時に、何をつくろうかというイメージを持っている。
・原因の三つめは「起動因」(動がそこから始まる始現)である。
 父親が子供の始原であるように、彫刻家が彫刻の起動因である。
・さらにアリストテレスは、これらの他に、「目的因」(何のために成立
 したか)を考える。彫刻家が、彫刻を望まない限り、彫刻は存在しない。≫
 ―
   * アドラーの「原因」論
 〜 感情も脳も、感動さえ使う、極意とは 〜
≪ アドラーも、行動について「なぜ」と問う時、「原因」という言葉を使う。
アドラーは「なぜ」という問いによって、行動の「目的」を答えとして期待して
いる。「どこから」でなく、「どこへ」を問うのである。アドラーの「原因」は、
プラトンアリストテレスのいう4つの原因のうちの「目的因」である。…
アドラーは、他の原因は目的に従属していると考えた。
  ―使用の心理学―
 …またアドラー心理学は「所有(何が与えられているか)の心理学」でなく、
「所有(与えられたものをどう使うか)の心理学」である。人が置かれている
状況がそのまま人のありかたを決定するのではない。
『大切なのは、何が与えられているかでなく、与えられたものを如何使うか』
 … アドラーは、アリストテレス原因論にプラスして「目的」を加えた。
目的論とは、「善」を目指し、それを目的にしているという観点から行動や
症状などを理解することである。 脳を例えると、私と脳は別物であり、私が
脳を使うのであって、脳が私を使うのではない。脳は大事ではあるが、人が行動
する時、それによって目標を決める起源ではなく、脳が心を支配するわけでない。
【善を実現する目的のため、脳を使う。】のである。
  ―感情を使う―
感情もまた、我々を支配するのではなく、感情をある目的のため使うのである。
感情は意志の力によって左右する。交通事故で車をぶつけられた時に、男は
美人と意地悪そうな相手では全く対応が違ってくる。感情なぞ使い方で如何様に
良くも悪くもなる。ヒトラーは大衆煽動に怒りの力を利用した。怒りは、隠れた
エネルギーとして直接的になる。

▼「感情を使う」の論を考えていると、「感動をつかう」の言葉が類推された。
秘・異郷ツアーの旅先で、何度も何度も感動体験をする。その結果、脳に蓄積
された精神面でのデ・トックス(体内に溜まった有害な毒物を排出させること)
で、心というより、魂の解放を実感する。「感動を使う」こと、そのものになる。
早朝の一時間のミニ・チャリも、小さな感動の旅になる。目的は、デ・トックス
の「善」の自己実現。このブログの書き込みも一種のデ・トックスになっている。
 で、<感情も脳も、感動さえ使う、極意とは?> 
自分の足と脳と、おカネを使って極限?の感動を求めること! そうでしょ!

 追: 全くの偶然になるが、去年の同月同日にアドラーを書いていた!
・・・・・・
5720,嫌われる勇気~人は変われる
2016年11月12日(土)       
         『嫌われる勇気〜自己啓発の源流「アドラー」の教え』
   * 人は変われる
 都会では目立たない「個人主義」を地方で貫けば、「大変な人」として
忌み嫌われる。「郷に入っては郷に従え」だが、どうしても露見するのが
地方の生きづらさ。これは、そのまま欧米社会と日本社会に、スライドする。
 それでも、31年間、職住分離だったためファジーだった。この二人の
対話、青年と哲人ともども、現在の日々の自己対話に近い。
 更にいえば、これを20歳から続けてきたことになる。
普通の生き方では、世間に押しつぶされたIT(こいつ)になる。  
   
  〜まずは、Amazonの「紹介内容」より
≪・フロイトユングと並び「心理学の三大心理学」と称されるアドラー
 再評価されている。それは、トラウマに象徴される“原因論”の心理学とは
一線を画す“目的論”を唱えたものだ。過去も世界も変えることはできないが、
「自分は変わることができる」とするコペルニクス的転回の心理学を知ることで、
対人関係の悩みも解消されるかも。

アドラーの心理学を、青年と哲人の対話という形式でまとめた本書では、
「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いに迫る。
「人は変われる」「世界はシンプルである」とする哲人に対し、青年は懐疑的だ。
なぜなら青年は学歴や容姿の劣等感があり、過剰に人の視線が気になってしまう
悩みを抱えているため、哲人の主張が絵空事に聞こえてしまうのだ。
しかし、世界を複雑にしているのは青年自身の主観なのだと哲人は言う。
過去に「トラウマ」という「原因」を見つけて物語的に分析するのがフロイト
心理学だが、アドラー心理学はトラウマ(過去)を明確に否定し、
「いま」の「目的」で考えることを基本としている。

・何年もひきこもっている人が「両親に虐待を受けたから社会に適合できない」と
主張していたとしたら、親は子育てが間違っていたのかと思い悩み、腫れ物に触る
ように子どもを丁重に扱うようになる。これは、自らのトラウマを武器に相手(親)
の注目を集め、支配しようとする働きかけなのだ。ただし、家にひきこもっている
限り自尊心は守られるが、一歩外に出ると誰からも注目されない凡庸な「私」に
なってしまう。ひきこもりの状態に不満もあれば不幸も感じているが、自尊心を
傷つけられることはもっと嫌なこと。これを避けようとする「目的」が、過去の
トラウマに理由付けしているのだ。

・過去の経験が人格形成に及ぼす影響がゼロだというわけではない。
ただし、過去の経験が必ずしも人格を決定するわけでもないのだ。
経験をいかに解釈するかが自らを決定する、というのがアドラー心理学の考え方。
過去を変えることはできない。しかし、経験に対する意味づけや解釈は更新する
ことができる。これが「人は変われる」とするアドラー心理学の前提となっている。

・青年はひねくれた性格であることや自意識過剰という短所ばかりが目につき、
自分のことを好きになれない。これに対し、哲人は「他者との関係のなかで
傷つかないこと」が「目的」となっているため、対人関係に踏み込まない理由
付けとして、自分の短所ばかりに目を向けていると言うのだ。

・孤独や劣等感を感じるのも他者あってこそのものであり、
「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」とアドラーは断言した。
そして、対人関係の軸に「競争」がある限り、人は悩みから逃れることは
できないとする。「競争」で考えると、他者が敵のように映り、世界が危険な
場所のように感じられてくるからだ。「競争」から解放されることができれば、
他者が「仲間」だと感じられるようになり、世界の見え方は安心できる居場所
へと変わってくるのだという。≫

――
▼ これを平易の問いかけに転換すると、こうなる。
『そこで、まだ、何やってるの! 群れてないで、人のことばかり
  気にしないで、もう少し自分のことを考えたら!』
『何で本を読まないの? 一歩、外に出ないの? 今を遊ばないの?
 果てしない世界の深さと広さを知ろうとしないの? それも今!』
『何で、愚痴ばかり言っている内向きな老人のマイナスから学ばないの?』
 
せっかく与えられた地球上で、何もしないで、何も知らないで、卑近な
物事に拘り、気付いた時には先がないのが人生。あくまで比較の問題だが。
・・・・・・
6087、閑話小題 〜 「日の名残りに」 (2)―つれづれに
2017年11月12日(日)
   * 51歳の誓い
 人生を変える切掛けになった、カズオ・イシグロの『日の名残り』を読んだ
51歳の時節に、「還暦までの9年間に80歳までの大よそ30年分を圧縮して生きる」
と決心し、実践した。そこで「具体的に、どのように生きたか」を思い返した。
・まずは、捨身で! 目先に面白そうと思えば、迷うことなく決断。常識的な人
 や会合と一線を画す。何故か、その頃、近しくしていた友人・知人が、亡く
 なるか、転勤などで遠ざかっていった。
・その頃、拡大戦略の教えのペガサス・クラブから脱会。拡大路線の見直しに
 入っていた。
・また、意識の重心をパソコンとネット世界に移動することに決心した。
 まず、取引先のパソコンに詳しい人を紹介してもらい、個人HPの開設のための
 基礎の教えを乞うことに。その数年後に自宅近所にパソコン教室がオープン。
 早速、通うことに。その数ヶ月後に、このブログを開設することになる。
・40歳代の10年間に合計10数回、2年に3回?近く、海外ツアーに参加していたが、
 2年で5回近く?にアップ。結局、50歳代では20数回、行くことに、 40,50歳代
で40回、年に2回近くの割合になった。それも秘境・異郷の難易 を数ランク アップ。
・母親の介護の5年半で、子供たち二人が巣立っていった。

死に物狂いで、目先の面白そうなチャンスには躊躇することなく挑むことに。
少し迷うと曽野綾子女史の言葉、<人生の良いところは還暦まで、今を楽しめ」
のキーワードを想い浮べ実行していた。毎日が面白く、楽しく、精一杯の日々。
そしてハッピー還暦を向かえることに。
☆ そういえば、1994年のケニアツアーの同行者の一人が、『父親の介護を
 終え、念願のケニアにきた。万感の想いだ』と涙を浮かべてキリマンジェロ
を見ていた。イスラエルでは60歳の女性が目を血ばらし『2000万の退職金の全て
を毎月のツアーで使い切る予定。働きづめの人生を取り返すの!』と宣っていた。
アフリカ・中近東の一人参加には、深い人生を背負い、思い詰めて来る人が多い。
人生、生きているうち、動けるうち、気力があるうち、笑えるうち、泣けるうち!
追)日々是口実か、結局は自慢話ですか!それも似たようなことを何度も何度も。
 でもね、何度言いたいのが、「楽しんだもの勝ちさ、人生は」。
<エッ、楽しそうに思えない?> <薄汚れているからね、日常に、誰の眼も。> 
 …これを「日々是口実」という。 

――――
「45」ギリシャ                    2007
「44」北イタリア                   2006・
「43北ケニア                     2005・08
「42」オーストリア                  2004・08
「41」アイスランド                 ー2003・10
「40」アラスカ                    2003・07
「39」パタゴニア                  ー2002・12
「38」スイス                    ー2002・07
「37」西アフりカーコート−ジボアール・ガーナ・ベナントーゴ /02・03
「36」ベトナム                   ー2001・11
「35」北欧ーロシア-スカンジナビァ          ー2001・06
「34」メキシコ                     2001・01
「33]モッロコ                    ー2000・11 
「32」パキスタン・中国                ー2000・06     
「31」シリア・ヨルダン・レバノン            2000・04  
「30」ノルウエー                   ー1999・12 
「29」ケニア                     ー     ・08   
「28」イスラエル                   ー    ・04     
「27」ネパール                      1999 ・02
「26」北インド                    −1998・10   
「25」 北スペイン                    1998・07  
「24」タンザニア・ウンゴロウンゴロ・セレゲッテイ高原) 1997・12  
「23」 べネゼイラ・(ギアナ高地)                ・08
「22」 ペルー・(マチュピチ・チチカカ湖)        1996・06    
「21」エジプト・トルコ(カルナック神殿・ ピラミット)     ・02   
「20]南アフリカ(ビクトリアの滝・チョベ国立公園・喜望峰)1995・10   
「19」ニュージイランド(クウーンズタウン・ミルフォードサウン)ー ・05    
「18」ブラジル(リオのカーニバルイグアスの滝)・  ー   ・02?
「17」ケニヤ(ナクル湖・       )         1994・06 
「16」ドイツ・パリ(ライン川下り・ロマンチック街道)  1993・12 
「15」フィジー(コマ島・ )              1992・11
「14」スペイン1周の旅(アンダルシア・アルハンブラ・闘牛) 1991・08  
「13」カナダ・ロッキーの旅              ー ・05
「12」香港クルージング                 1990・07 
「11」アメリカ・ペガサス(ボストン・アトランタ)    ー・04     
「10」スペイン・イタリア・パリ・ヘルシンキの旅    1989・12   
「9」 中国(北京・けいりん・上海)          1988.09    
「8」アメリカ西海岸SC・ペガサス           ー  ・06
「7」カナダ・ナイアガラの旅              1987・08 

・・・・・・
2016/06/29
60歳までに、人生を前倒しをしていて!

 70歳を過ぎた現在、「60歳までに人生を前倒しをしていて良かった!」と、
つくづくと思うことしばしば。以下にコピーしたの13年前の文章を読返すと、
1年後に中越地震、その3年後に刈羽柏崎沖地震、4年後の2008年に、リーマン
ショック、更に8年後に東北大震災が、たて続いた。その結果、私も、まさかの
事業整理に至った。 作家の曽野綾子が、「人生の良いところは、60歳まで」
といっていたが、体力も考慮すると、成るほど正しいと実感する。 
 以下の内容を書いて13年間、友人、知人、親族が次々と倒れ、亡くなった。
病に倒れて発する共通の言葉は、「まさか、自分が! これから、ノンビリ
するつもりだったのに!」である。 死に直面した時の恐ろしさと動揺は、
「人生に、やり残した無念」があるため。 とすると、老後の残務整理は、
それを探し、潰していくこと。そうこう考えると、【して失敗した後悔より、
しなかった後悔の方が遥かに大きい】ことになる。 どうだろう?
「してしまった後悔1に対して、しなかった後悔が3」ではないか。
 30年分を10年に圧縮して生きた50歳代は、充実感があって実に面白かった。
60歳代の最大のイベントが、会社整理だったが、3・11もあって、未練も後悔も、
最小になっていた。両親の晩年に同居していたこともあって、「その都度、
計画的に楽しんでおくべし」という、人生の何たるかを、後姿から学んでいた。
この教えを学んで実行していたのは大きい。10年前と、13年前に書いてある
文章を読返してみると、計画通りに、遊び、楽しむ必要性を知っていた。
その時々に、真面目?に学び、楽しみ、遊んでおけ、ということ。
 辛いことも多かったが・・ それも楽しみの内。
――――
2003/06/16
50歳の頃ー1
  −60歳までの人生
 曽野綾子の本で『人生の良いところは60歳まで』という文章があった。
丁度私が50歳の時であった。50歳で、母親を見送り(亡くなり)人生の
損益分岐点を超えたという思いがあった。あとの人生を如何生きようかという
自分への問いかけをしていた。その翌年、下の子供と家内と3人で南米の
ギアナ高地に出かけた。テーブル・マウンテンのキャンプ場で、夕陽を見ながら
息子と日本酒を飲みながらふと思った、「自分の人生の元は充分にとった」と。
 その時に考えたのは、
曽野綾子の『人生60歳までがよいところ』なら、それ以降の人生を60歳
までに詰め込んで生きよう!『人生の純益』を60歳までにとってしまおう」と。
・海外旅行をそれまでに50回行くことー不景気で無理か?
・人の目を気にしない生き方を更に徹しよう
・好きな事を可能な限りしよう 等、生き方を変えようと。
しかし曽野綾子は60歳少し前の文章である。
その時、母の行き方を見ていたこともあり、まだ解っていないと思っていた。
本当に良いのは60歳からというのを母から教わっていたが、しかし
「60歳以降の前倒しにする決心』は良いと解釈した。 
 その翌年にネパールに行ったとき、67歳の初老の人から人生の秘訣を
教えてもらった。「私は43歳までに必ず死ぬ家系であった。それを前提にし、
そこまでに人生のすべてを燃焼し尽くした。その一つに日本を全てを家内と
娘と3人で回り尽くした。しかし死ななかった。その後は世界にチャレンジを
始めて、ほぼ全てをまわり尽して現在もこうして生きている。短命の家系の
前提がなかったら人生をここまで味わいつくせなかった!」。 深い人生の示唆
であった。「60歳までに人生の全ての前倒し」を自分の生き方に取り入れた
直後であったから、尚のこと心に響いた。あと2年半で、その60歳である。
「それでは60歳以降如何いう生き方をするのか?」。
元を取ってしまったので、逆にあとは一日一日をじっくりと味わって生きる
ことができるのではないだろうか。そして、それまで経験をしたことのない
分野を探し出しチャレンジすることである。その意味では、逆に広い世界に
飛び出せるのではないかと考えている。
 最近、景気後退ー恐慌一歩手前になってきたり、SARSやテロなどで
アフリカや中近東には以前ほど気楽に行けなくなってきた。
この時勢に優雅に海外旅行などともいっていられなくなってきた。
あの時点にやはりギアチェンジをしていて良かったと思っている。

つれづれに

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

 他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/549/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive



 大相撲が昨日から始まった。
稀勢の里、病み上がりで回復は、まだまだの感があった上に… 
一人横綱の重圧に押しつぶされる懸念があった。そして早速、
初日から負けてしまった。 さて、乗り切れるかどうか? 

 今日、掲載の夕陽の写真、世界中で多く見てきた。
なにはあれ、ケニアの‘ヌ~の河渡り’の帰り道でみたサバンナの
夕景が抜群。それと、ギリシャサントリーニ島からみたエーゲ海
沈む夕陽も。








・・・・・・
4990,暴走する世間 -6
2014年11月12日(水)
            {暴走する「世間」―世間のオキテを解析する}佐藤直樹(著)
    * 家族の解体の原因とは
< 日本の「家族」は、世間様の「贈与・互酬の関係」の共同幻想に侵食されていて、
元もと解体されていた> という論旨は、身近を見れば納得できる。特に世間に生きる
女性の場合、連添いで人生が大きく変るため、「贈与・互酬の関係」にシビアになり、
相手も商品と同じ?ように選定する。   ーその辺りからー
≪ 高度消費社会がもたらした「過剰商品化」によって、なぜもかくも、やすやすと家族が
解体されたのか、それは、一部例外を別として、日本には市場原理に対抗できる近代家族、
愛情原理が存在しなかったためである。この家族の解体に大きな役割を果たしたのが
「世間」であった。その本質は共同幻想だが、ある場合には社会を意味し、ある場合には、
親族や家族を含むという、極めて曖昧な共同幻想である。 世間体が悪い、という世間とは、
「公」であるが、日本では家族もまた「公」と考えられるので、ヘーゲルのいう愛情原理で
構成される家族と、市場原理で構成される対立は存在してない。
家族は「世間」という共同幻想に侵食されていて、高度資本主義=高度消費社会によって
「解体」されるまでなく、あらかじめ「世間」によって、解体されていたのである。 ・・(略) 
 日本の夫婦には愛情がないためなのか?たしかに男女の恋愛はない。
恋愛は、個人の存在を前提とし、しかも二人の間が平等であることを前提にするが、「世間」
の中では、男女の間でも「平等な個人」は存在しない。「世間」には「目上・目下の関係」
という差別性原理があって、さまざまな男女差別は、これから起因しいている。
例えば、夫婦茶碗や夫婦箸が、夫用が妻のものより大きい。日本では男女間の愛など、
もともと信じてなかった? 日本の家族愛が建前、「滅私奉公」になっているが、日本の
「愛」は、「贈与・互酬の関係」があるため、どこかで見返りを求める「愛」となる。
日本人は何か親切にすると、「お返し」を求めるから、ボランティアと行為が、広まらない。≫    
▼「世間」という共同幻想は、知らないうちに、「愛」や、「家族」のベースに大きな影響を
与えている。 そこには、「目上・目下の関係」の差別性原理があって、少しでも弱点を
みせると、襲い掛かってくる。それに動じないためにも、その本質を見極めてないとウツに
陥る。その防御には、ただボ~ッした「ぼんやり」の時間と、長年かけた教養が必要になる。
家族の解体の流れ、家族、核家族化、個族化は止まることはない。それを暴走する世間
が加速させているとすると、ただ事でない事態である。日本は国家として下り坂になった。
・・・・・・
4623, 閑話小題 ー創業当初の営業担当の年賀欠礼の葉書
2013年11月12日(火)
   * シネマ・人間資金
 シネマの『人間資金』が期待してなかった分、良かった。邦画で90点は、私としては
高評価。内容といえば、「実は噂のM資金が存在しており、日米の選ばれた人たちで
運営されていた。それも人類の発展のためが建前。日本の戦後の復興資金にも
貸し出されていた。しかし米国の責任者が、それをファンドで、自分たちのために利用
しようとし、日本の責任者と対立する。その一部の資金で情報端末を某国の国民の
多くに配布、それが国民に有意義に使われて、理想像に近い国家になっていた。
しかし、それを良しとしない米国の責任者が、その国を攻撃しようと企らむが、ギリギリの
場面で、国連の壇上で、個々の国民の生の映像が次々と流され、その企みを阻止する」
というストーリー。もっと、欲と欲の中での生々しいと思っていたが、最後は
ヒューマンストーリー。こういうのも、良いのだろう!
   * 創業時の営業担当の、年賀欠礼の葉書
 実務で創業を始めて40年になるが、10年ほど前から次々と年賀欠礼の葉書が届く
ようになった。昨日は、35年前に実家の商業ビルを建替えた淺沼組の新潟営業所長
だった牧野さんの奥さんから、年賀欠礼の葉書が届いた。3ヶ月前の8月2日に、
74歳で死亡、とあった。長岡のビル建設の後、新潟駅前ホテルを三棟、合計四棟を
営業責任者として直接の交渉担当者としてやりあった相手。 酒好きで、重症のアル中。 
一時、二千万の酒代のツケがあるといっていた。ゼネコンの営業は、会社の上司と、
施主、現場責任者、下請けなどに挟まれた軋轢があって、殆どがアル中になるか、
ガンでの壮絶死が待っている、と言われる世界。
一緒に飲む分には、これほど面白い相手はいないヤクザな役割。3~4年前に、
以前の会社の事務所に10年ぶりに訪ねてきた時には、以前の面影は無く別人のような
顔つき。「ガンが進行していて、長期間、何度も入院、いつ何時、お迎えが来るかも
しれない」と、深刻な顔。互いに、これが最期と別れた。 勿論、そんなことは、
口に出さないが。 私も、この人との付き合いで、酒浸りの日々が続いたことがある。
逆に、「あれだけ飲んで、よくぞ74齢まで、生きていたもの!」というほど、酒浸り。
 ところで長岡も含めた事業の当初の親しくなった営業担当が、半分近く亡くなっている。
朝広の五十嵐さん、新潟デザインセンターの阿部さん、マルヒロ不動産の後藤さん、
富士総業の小竹さん、と次つぎと顔が浮かぶ。亡くなる順番は、来るまで誰もわからない。
全てが夢幻の宴の仲間。辛さ三割、面白さ七割、だった。ご冥福を!
・・・・・・
4258, しまった!  ー7
2012年11月12日(月)                   
  * 状況は「偉大な杖」の如しーしまった!「失敗の心理」を科学するージョゼフ・T・ハリナン著
 私たちは目先の出来事(現象)に、惑わされてしまう。大部分の人は、目先の周りばかり
みて長期的見方をしようとしない。それをするには考えなければならないが、本質など
見知りたくないのである。出来るのは、他人の表面を見ることだけ。そういう私も同じだが、
そのことを自覚していると思い込んでいるだけ、タチが悪い。 
   ーその辺りを要約してみるー
≪ 日常の出来事を認知するうえで私たちがいかに「状況」に頼っているかである。
 状況は偉大な杖だ。私たちは自覚しているよりもはるかにこの杖に頼っている。
ハロウィーンの時期に事件があると(ろくに考えもしないで)ハロウィーンに関係があると
思いこむ。たいがいはそのとおりだ。しかし、そうでないことも多々ある。 街角で首吊り
自殺が実際にあっても、ハロウィンの飾りの一つと見てしまう。スキムという法則がある。
情報の表面的理解のことだ。これはベテランの投資家や、音楽家などで多く見られる。
人は得意の分野ほどウッカリミスのスキムしがちになる。特に集団が暗示にかかった
時など、それに大きく左右される。日本のバブルと崩壊が、その典型的事例である。
それを悪用したのが証券会社。現在、アメリカの金融工学とかで世界中に不良債権をばら
撒き、恐慌一歩手前の金融危機を向かえている。世界の金融機関が状況に騙されたのだ。
ある実験で、催眠中に暗示を与えられ気分が楽くなった人と、悲くなった人が、それぞれ
以下の物語を聞かせた。
【 二人の大学生が仲良くなり、テニスを楽しんでいる。一人は何をしてもうまくいく
 楽観論者、もう一人は、何をしてもうまくいかない悲観論者。後催眠をかけられた
被験者たちは、物語を読み終えた時、主役は誰かと問われた。すると、楽しい気分の
人たちは楽観論者に、悲しい気分の人は悲観論者を主役と感じた方が多かった。】
これが人間。 ≫
▼ 「幸福な記憶は、幸せなときこそ鮮明によみがえる」のである。だから貧してはならない。
貧すれば鈍するになる。人は、あまりに目先の状況に対して隙だらけ。
だから考えなければならない。自ら省みて、考え足らずを思い知らされる。
 ・・・・・・・
3883, 無知蒙昧が老いると、無知老害! ですか
2011年11月12日(土)
 「無知蒙昧」が歳をとると「無知老害」になるというが、成るほど老いて、つくづく実感する。
何事も知っていると知らないとでは天地ほどの開きが出てきて当然である。それが自覚
出来ないのが人間の儚さ。それでも情報機器の飛躍的進化で私たちは、情報(知ること)が
無限に近く入手可能になっている。とはいえ情報蓄積と、分析と加工のベースがないと、
情報が、そのまま通過するのみ。 知識の蓄積と知恵への変換の基礎教養が必要になる。
そのため己の無知蒙昧を自覚するのが、第一歩。「無知の涙」という死刑囚の執筆があるが、
これは万人の姿。人生を精一杯生きるほど、自分の限界線が鮮明に見えてくる。
何度か極限を見えたことがある。その先は何とか意識的狂気で乗り越えた。事故死をした
レーサーの名言がある。「誰もが極限まではやる。問題は極限の先を何処までやるかだ」と。
限界を超えようとすることを狂気という。自分の正気は小さな限界を示している。 
狂気こそが、その限界を破壊してくれる。 正気の世界のみで生きている人たちこそ、
蔑視に値する人としてみると、成るほど合点がいく。自分の現在だからである。
正気の世界のみで生きた人生こそ「正気の沙汰」の人生になる。「若気の至りがない
人生こそ、若気の至り」も同じこと。「若気」こそ、人生のヒントが隠されている。
この言葉から「老気」という造語?が浮かぶ。 歳相応の「老気」も悪くはないが、人生を
旅路とすると、最期まで旅そのものを楽しむ「若気」は失わない方が良い。
私たちは、あまりに人生を無意味に生きている。それもこれも、死んでしまえば皆同じ、
と思えれば良いが、心は足りなかった部分にいく。 それが無知老害になっていく。
これ、顔に出るから恐ろしい! 最近、鏡を見るのが恐ろしい? 
 ・・・・・・・
3518, 不況景色とは、こんなもの? -2
 2010年11月12日(金)
 これまで何度も書いてきたことだが、日ごと娑婆が留まることなく冷え込んでいると実感。 
「来年2011年から2012年にかけて世界も日本も大きな節目になる」と仮説を立てると、
現在の深刻度がはっきり見えてくる。二年前、アメリカのプライムローンの債権ばらまきから
発した金融恐慌が、本格的に世界経済を大混乱に陥る時期である。1929年に始った恐慌も
大波は3~4年後の1932年~33年度にきている。その一番の大波がまず日本に来る。
アメリカの軍事・金融属国の宿命で、当然といえば当然。悪いことに、その時期が団塊
世代が大方、年金生活に入る時期に重なる。その引き当て財源の多くがアメリカ国債などに
化けている。 それが表面化すると一挙に円高から円安に転換し、5~10年かけて300円
まで下がると予測される。あと数年で国家予算すら組めなくなり、国家の信用失墜となり、
長期金利の上昇をもたらす。不動産は底抜けし、株は暴落、ハイパーインフレが吹き荒れる。 
日本がG8の中で最初にデフォルトを起こし、IMFの管理国家として悲哀を味わうことになる。
これが近未来に起こる大波の現象である。 現在は、まだ預金が1400兆円あるというが、
それらはハイパーインフレで価値が激減する。 一部の資産家は金の現物か、香港、
カナダか、オーストラリアの国債に替える等の避難をするが、一般人は丸裸に近い状態
というイメージがわく。 この5年間の年替わりの政権たらいまわしをしてきたツケが、
今後10年の間、さらに低落に拍車をかける。日本の政治システムが激変に対応できない。 
これらを考えると悲観的になってしまうが、これが現実。 割り切るしかない。 
これも情報化社会の到来による劇的変化の一現象でしかない。
 ・・・・・・・・
3143,プロ野球の順位予測と結果
 2009年11月12日(木)
毎年、毎日新聞の「記者の目」のコーナーで、スポーツ記者10人によるプロ野球
順位予測が、開幕前に取上げられる。それぞれのリーグに5人ずつの記者が予測するが、
その平均予測順位はセリーグ、巨人、中日、阪神、広島、ヤクルト、横浜。結果が巨人、
中日、ヤクルト、阪神、広島、横浜だった。 ヤクルト5位の予測が3位に入れ替わった
だけだから、良しとしなければならない。しかしパリーグが惨敗で、予測平均は西武、
ロッテ、日本ハムオリックスソフトバンク楽天。 そして結果は日ハム、楽天
ソフトバンク、西武、ロッテ、オリックスというから惨憺たるもの。特に西武が完全に外れ。
その原因はコーチの大久保と、黒江が抜けてチーム全体が緩んだことを上げていた。
さっそく大久保の現場復帰が決定された人事が発表されていた。 それと楽天
最下位に5人中3人が予測していたから、これまた大きな外れといってよい。
一位日ハムを予測した者は誰もなく、二位楽天も一人も予測する者は無かった。
野球はチームプレーで、チョッとしたコーチの配置で、結果が変わってくる。
だから、面白いのだろう。
・・・・・・・・・
2778, 世界は一冊の本
2008年11月12日(水)
 次の詩がよい。その中の「本でないものはない。世界というのは開かれた本で、
その本は見えない言葉で書かれている。」 私が秘・異郷ツアーに魅せられるのは、
世界の開かれた本を正しく読めるからだ。それぞれ一期一会の出会いがあるからだ。
そして感動し、考えるのである。生きるとは感動し、そして考えること。
ーー  
  「世界は一冊の本」        -長田弘
 本を読もう。 もっと本を読もう。 もっともっと本を読もう。
書かれた文字だけが本ではない。 日の光り、星の瞬き、鳥の声、川の音だって、本なのだ。
ブナの林の静けさも、 ハナミズキの白い花々も、 おおきな孤独なケヤキの木も、 本だ。
本でないものはない。世界というのは開かれた本で、その本は見えない言葉で書かれている。
ウルムチ、メッシナ、トンブクトゥ、地図のうえの一点でしかない 遥かな国々の遥かな街々も、
本だ。そこに住む人びとの本が、街だ。 自由な雑踏が、本だ。  夜の窓の明かりの
一つ一つが、本だ。シカゴの先物市場の数字も、本だ。 ネフド砂漠の砂あらしも、本だ。 
マヤの雨の神の閉じた二つの眼も、本だ。人生という本を、人は胸に抱いている。  
一個の人間は一冊の本なのだ。 記憶をなくした老人の表情も、本だ。
草原、雲、そして風。 黙って死んでゆくガゼルもヌーも、本だ。  権威をもたない尊厳が、
すべてだ。200億光年のなかの小さな星。 どんなことでもない。 生きるとは、考えることが
できるということだ。 本を読もう。 もっと本を読もう。 もっともっと本を読もう。
ーー
 ローガウの「格言詩」の中に「世界は一冊の本であり、人間ひとりひとりは活字である。
国々は綴じひもであり、時代はページである。」という詩がある。これを人生という視点で
置き換えると「人生は一冊の絵本であり、出会ったひとりひとりは挿絵である。
家族は綴じひもであり、時代はページであり 筋書きは愛である」という詩ができる。
それにしても、「世界は一冊の本」の詩は、ひとことひとこと胸に刺さる。                          
 ・・・・・・・・
 2007年11月12日(月)
2414, 反転 ー闇社会の守護神と呼ばれて -2      オハヨウ (▼皿▼#)!
 この本の中には検事の職業の裏と表を、あますことなく書いてあるが、次の言葉が
解りやすく象徴的である。「検事を含め法曹界におけるわれわれの仕事は、しょせんその
「ドブ掃除」にすぎない。 正義を振り立て、人をリードする職業などではない。
人間のやった後始末をするだけだ。 それも人間のいちばん汚い部分の後始末である。」
それゆえに、ヤメ検は裏社会に適応するのだろう。 ー前回の続きの部分をコピーしてみるー
  (字数制限のためカット09年11月12日)
ーーーーーーー
2006年11月12日(日)
2049, あたりまえなことばかり -5          オッハ ∠_(o ̄∇ ̄o)  
{「私」のための現代思想 }の読書日記を17回にわたり書いたが、ここの著者の「私」に
ついての解釈も面白い。「私」については、知れば知るほど面白い。ソクラテス
「汝自身を知れ」ではないが、汝が居てはじめて「私」が存在する。複数の汝によって、
「私」は社会の存在者として表出する。         
 ー 生きているとはどういうことか ー
科学的世界観時代のドクマとして、自分は肉体であると思い込むに至る。しかし自分は
肉体であるとは、どういうことなのか。それを極言すれば、自分とは脳であると、現代人は
9割がたの人が疑ってない。「私」という言葉で、精神、感情、心とかいったことも含めるん
でしょうが、精神的なことも脳波を測定したりしていますが、「私」は果して脳なのでしょうか。
脳には触れることができるとしても、考えそのものには触れることはできません。 
感情だって、同じである。「私」という存在にもっとも驚いたのは近代哲学のデカルトである。
なんだこれは。考えている「これ」です。「精神」「コギト」と彼は言いましたが、非物質の精神
の存在、コギト。 彼はそこで失敗したのは、それに「私」という名を持ってきてしまったことだ。
そこに「私という名を持ってくると、どうもそこに私が存在するようになる。問いとしてあべこべに
なってしまう。 つまり考えている「これ」に「私」という名前を当てたに過ぎないのであって、
「私」というものが予めてあるのではない。何かにあてられた一人称代名詞。これも名前に
過ぎないということに気がつきます。この一人称代名詞「私」は一体、何を代名しているのか。
最近「自分探し」というのが巷で流行っているそうですが、これは方向としてあべこべで「私」
という何かが何処かに在ると思っている。たぶんそれは社会的なアイデンティテーが欲しい
ということなんでしょうが。それは正しい問い方ではない。「私なんてものは、無いんですから。
無いにもかかわらず、考えている何かがある。それは何か、ですから。「何が私という名前で
呼ばれているか」これが哲学的な問いです。どうも「私」は物質ではないらしい。
非物質。それと「私」は死なない。 死が無いから、「死後」は問えない。死後が在るか
無いかという問いの間違いは、死が存在するとして時間が前方に直線的に流れている
という誤った表象に基づきます。この誤りに気がつけば、すべては、今ここにすべて存在する、
ということに必ず気がつきます。「私」が死なないという意味であって、死後にも生きている
ということではない。なぜだか、全ては今ここに存在すると知っているこの何者かは誰なのか、
これが正当な謎として立ち現れてくる。このような不思議な存在に対して、「魂」と言い
たくなる。しかし魂という言葉はつかい方が非常に難しくなる。何か実体があるような、
そういうものが生まれかわりするようなイメージになりがちです。実体的イメージ。
しかし、すべてが今ここに存在しているのだから、前世来世を問うのはナンセンスです。
だからと言ってそういうものが無いというものでもない。 とはいっても「私は私である」
「私は個人である」とは、「私とは誰なのか」という問いを止めてしまった我われの
思い込み。    
 ーーー
ー死後が在るか無いかという問いの間違いは、死が存在するとして時間が前方に直線的に
流れているという誤った表象に基づきます。ーここがポイントではないか?「死があると信じて
時間が直線的に流れている」と、思ってきたが少なくとも私は死なないのである。 
「すべては、今ここに存在する」と、「死は無い」とが、深く結びついているのである。
「永遠の今ここ、そして永遠の、《私》」ということか・・  死ぬわけ無いじゃん、
わたすは私だから