* 大問題に発展か、それとも手打ちか
 日馬富士の取調が本場所中に関わらず、「国技館」で行われたのに吃驚。
ニュース映像で、役人風の黒服の男たち20人位が、次々と出てきたところが
映し出されていた。 特別法人の認可に関わる部署の縦割りの役人たちも、
取調に参加していた?のなら分かる。何はともあれ白鵬の前日の、時間前の
張手は、39回の優勝をしてきた横綱なればこそ、日本国家への最悪の挑発。
所詮は勝手に「国事」と名乗っている格闘技でしかない。更に、白鵬が率先
した「偽証疑惑」が表立ってしまった。だから、即断で、場所中に関わらず、
こともあろうに国技館で取調に入ったのは、白鵬本人の偽証と、直接、間接
の偽証強要の疑いがあるため? 下手をすると、大相撲史に残る大問題になる
可能性が窺える。白鵬の無知と逆上せ上りが政財界のドンを怒らせてしまった? 
 事なかれ主義の相撲協会も、ここは正念場。もう、火の手が上がり、延焼
を始めた、酒席のリンチ問題。 本場所より、遥かに、リアルな展開に。
 としても、「許してやって頂戴!」が、治めどころ。
白鵬、「一つ間違えると「逮捕、引退」の事態」を理解出来ないのでは。
――  
   * 3D映像のショック
 昨日、時間帯の関係で2D、3Dの二館のうち、3Dを見ることにした。
以前、二度、見たが、眼鏡が重なり見づらいこともあり、この3年程は、
見ることはなかった。ところが、昨日の<マイティ・ソー バトルロイヤル>
には、以前に見た『アバター』を見た時の衝撃と同じぐらいに衝撃的であった。
 立体映像を前提に観客を楽しませる仮想現実に誘う内容。現在、バーチャル
リアリティの映像機器が次々と売りだされている。また視聴体験はないが…
近じか家電の店頭で体験するのだろうが、面白そう。いい歳をして、何だが!
▽ 偶然だが、去年の同月同日も似たような内容。要は「御隠居の閑話小題」。

・・・・・・
5726,閑話小題 〜グーグルアースと、スマートTV
2016年11月18日(金)
  * グーグルアースと、スマートTV
・最近、家電の店先をぶらぶらすることが多い。そこで感じたことといえば、
パソコンの主流がノートパソコンからスマ―トフォンとタブレットに移動して
いること。これを取り上げること自体が一線を離れた故の時代感覚のずれか。
 iPadを買って5年余りになるが、非常に重宝して使いこなしている。
居間に置いているが、家内が8割方は使ってネットサーフィン、とりわけネット
上のウィンドウショッピングを楽しみ、私は書斎コーナーのパソコンが主流。
去年春、購入したソニーの卓上型『バイオ』を、最近、メインにしたばかり。
 携帯電話は家内共々ガラケイ。リタイアの身に電話が来るのは、家内の外出
からの帰るコールと、同級会と友人の飲み会の誘いぐらい。家の中では、Wifi
環境を利用したiPadを使用しているため、スマートフォンは必要としない。
で、久々に家電店頭のタブレットPCのグーグルアースの画面にビックリ。
5年前のiPadとの機能と画質の差も加えてか、映像が立体的、かつ鮮明に
なっていた。いずこも進化が続いているのを現物で知ることになる。
・6年前のTVの買いかえで、思いきって最先端のものにしたが、これでTV生活
が一変。内臓のビデオ機能が思いのほか便利。地上波TVの全局は自動録画機能。
録画は見たいジャンルごとに編集される。しかし、店頭で見たスマートテレビ
に驚いた。家電メーカーが、TV局の圧力か、気を配ってか、このコマーシャル
を控えていると聞いていたが。「何だろう、これは?」と思わせる機能。
 一言でいえば、TVの見れる大型パソコン」。たとえば、YouTube、Ýahoo!、
蔦屋のHPから簡単に映像画面につながる。これではマスメディアを代表するTV局
の否定につながる。 情報化社会の時代の豊かさとは、『金持ち』より『暇持ち』と
いうこと。お金だけでなく娯楽情報も、上位数%に面白いのが集まるのか。
一点豪華主義?でスマートTVを購入すれば、社会の窓は広く開かれる? 
 いや、タブレットPCスマートフォンで、既に開かれている。
 
・・・・・・
5361,うらやましい死に方 〜愛犬に見守られ
2015年11月18日(水)
          ーうらやましい死に方ー五木寛之[編]
 20世紀末に、文芸春秋に投稿された、身近な「うらやましい死に方」が
幾つか編集されていた。死に方は様々あるが、この中には、素朴な何処
にでもある死だが、何か心をうつ味わい深い死が連なっている。
「死に方」は、その人生き方に左右されている。「うらやましい」は、
あくまで受けとめる者の主観でしかない。そう思うのも供養の一つである。
昨日、兄の連れあいの御父さんの葬儀に参列したが、故人は穏やかな
人生を絵にかいたような人で、白寿をむかえて、ひっそりと亡くなった。
うらやましい生き方で、うらやましい死に方だった。 御冥福を!
  * 愛犬に見守られ    吉田達也(広島県三原市85歳)
≪ 近所のアパートに30年住む、独居老人が昨年暮れ心臓発作で他界された。
老人は年金生活者で、数年前に連れ添った妻とも別れ、我が子も訪ねてこない
孤独な一人住まい。愛犬を連れての散歩が唯一の楽しみであった。
近所付き合いもなく、愛犬と寝食を共にする生活であった。
 真夜中に急に苦しくなり、階下の管理人にすぐきてくれと電話する。
 管理人が駆け付けると、苦しい苦しいと胸を押さえて寝返りする。
愛犬は部屋の中を泣きながらぐるぐる駆け回る。主人の死を予感したのか
泣き声は悲痛であった。管理人は直ぐ近くの医師に連絡する。医師と看護師が
駆け付ける。診察の結果心臓麻痺で手のうちようもなく、死亡が確認された。
 その時の愛犬の泣き声がひときわ大きく、遺体に取り付いて離れようとしない。
周囲の人達は嘆き悲しむ愛犬の姿に、涙を拭うことができなかった。
 主入を慕う愛犬の姿に、親子以上の関係を見ることができた。
 老人と愛天とは十数年のつながりであったが、その後血のつながった我が子が
駆け付けると、涙ひとつ流すことなく、葬儀屋と相談し遺体を棺桶に型通り納める。
愛犬は棺桶から離れることなく、回りを泣きながら駆けまわる。
老人はいつも愛犬と一緒に寝る。愛犬を抱えた時の笑顔、微笑みは、安らぎの
境地を思い出していたのではないかと、管理人は回想する。
 息子は犬が嫌いで、置いていくという。「ご主人様がこれほど可愛がっている
犬を置いていくとは何事か」と、犬は棺桶から離れようとしない。
「その犬はお父さんの形見だから連れて帰れ」と管理人は強く言う。
息子は周囲の意見に従い連れて帰ることになる。犬は嬉しそうに車に飛び乗る。
孤独な老入は愛犬によって、安楽な往生を与えられたのである。
 我が家で家族に囲まれ、静かに息を引き取ることが、私の希望である。
とはいえ、一人暮らしの老人になったら、この老人のように、愛犬を友に
暮らすことも考えてみたくなった。孤独死だけは避けたいと思う。≫
▼ 動画投稿で鮮明に記憶に残っているのがある。「殺された若いギャングの
 傍で、可愛がっていた?野良犬が悲しげに佇んで、人を寄せ付けない姿」と、
「交通量の多い車道で、轢かれた仲間の犬を、必死に歩道に引いている犬の姿」。
犬は、死の何たるかを直感で分かるようだ。ところで、『孤独死』という言葉に
違和感がないか? 誰もが死ぬ時は、最たる孤独感が渦巻いているのでは?
・・・・・・
4996,暴走する世間 −10
2014年11月18日(火)
     「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹(著)
  * 公共性と「世間」とは、同じでない!
往復一時間の新幹線通勤を30年続けてきたが、そこは全国レベルの公共の場。
時どき、台風などで在来線が不通になると、一般客で満席になることがある。
そこが、公共性のある新幹線車内の「社会」と、通学、通勤の客の「世間」の
ミスマッチのクロスになる。都会と田舎の違いは、両者がクロスしているか、
いないかの差。それは、ネット社会でも同じことがいえる。ーその辺りからー
≪「世間」は私たちを支配しているが、具体的にみえるモノではない。しかも
「世間」は、「広い世間」のウチに「狭い世間」が存在し、その「狭い世間」
のウチにもまた「より狭い世間」があるというように、一種の入れ子のような
複雑な構造をもっている。問題なのは、「世間」は「共通の時間意識」をもつ
ために、「世間」のウチの人間にたいしては相互に「配慮」しあい「優しい関係」
をつくるが、「世間」のソトの人間は、人間だとは思わないという本質をもって
いることだ。つまり「世間」は「世間」のウチにいる者を「身内」とよび大切に
するが、ソトにいる者を「赤の他人」と排除する。公共性という概念が「世間」
に似ているのは、ある種の社会的強制力をもつからである。しかし「世間」が
公共性と異なるのは、「世間」がつねにウチとソトという区別をおこない、
「世間」の内部の原理がソトまで及ばないこと。さきほどの例でいえば、
「世間」のウチとみなされる町の駅はキレイに保たれるが、「世間」の目の
とどかない「世間」のソトとみなされる富士山の頂上では、この「キレイにする」
「ゴミを捨てない」という倫理・道徳は通用しない。日本は「旅の恥はか捨て」
というとんでもない格言があるが、これこそ、自分の「世間」のソトでは、
「世間」がみていないので、タガがはずれて「なにをしてもいい」ということを
意味する。 居酒屋で盛り上がっている人間は「世間」をつくっているから、
他の人間は「赤の他人」であり、人間だと思ってない。「世間体」とか
「世間の目」という言葉は、その内部だけで通用するのであって、その外では
まったく機能しないのである。花見でも同じで、世間はグループ内だけの話で、
他のグループには通用しない。最近若い女性が電車の中で他人の目を気に
しないで化粧するのも、自分の「世間」を離れたところの行為。≫
▼ ワールドカップで、日本人観客席が、帰り際に綺麗にゴミを持ち帰る
 姿が話題になったが、これも「世間」の特質の現れである。その世間が、
神様かわりをしているとしたら、三年前の節目から突然、私の前に現れ出てきた
神様気分の、あの連中をコミック的に思えたのは当然至極。これは、実際に経験
してみないと味わえない経験でもある。世間様世界は、面白い動物で満ちている。
とすると私は、珍獣?
・・・・・・
4629, 夫婦格差社会 〜どういう男女が結婚するのか
2013年11月18日(月)
 『夫婦格差社会 ー 二極化する結婚のかたち』橘木 俊詔 (著) (その他)
* 結婚相手に何を望むのか ー
 ∵ 「なぜ一夫一婦制なのか?」に、
第一に、子供を養育する義務があるのは、男女の関係を結んだ一組を明確に
するためである。大昔は、生まれてくる子供の親が特定できないことが多々
あったため、養育に支障をきたした。一夫一婦制で子育てを義務化する
ことができる。第二に、キリスト教などの倫理観から生まれた。
性の乱れを防ぐ目的もある。第三に、弱者保護の目的である。権力、資産、
容姿、体格、知能などを有する以上、弱者と強者が出てくる。強者が多くの
異性を抱え込んで、弱者が異性から排除される事態を防ぐための人類の知恵
としての制度という学説がある。
 ∵「何故、男女が結婚をするのか?」に、「相補説」と「類似説」がある。
 相補説は、互いに違った点をもち、補完できるような組み合わせの方が結婚
生活は、うまくいくと考える説。類似説は、素質の似た者同士の方がうまく
いくという説。補完説でいえば、経済力がない人は、経済力のある人を、
精神的に弱い人は、心の強い人を、背の高い人は、低い人を求める、という
ことになる。自分のない部分を相手に求める。 一方、類似説では、
背の高い人は、背の高い人を、低い人は、低い人を、美男は美女を求めるなど、
同じ素養、素質を共有する方が、相手の欠点を気にしないで済む。
人と好み、育ってきた環境で異なる。人それぞれの優先順位で変わる。
 ∵ 「未婚者は相手に何を望んでいるか?」に、
第一に、男女とも相手の人柄で、具体的に会話が弾み、結婚生活をスムース
 に進む相手、
第二に、「家事能力」である。第三は、男女とも大きく異なるのが、職業と、
 学歴。女性の9割は経済力、男性は4割でしかない。まだ男女の役割分担
 の意識が高いが、学歴に関して、男女とも同類婚を望んでいる。
 ∵ 「見合いか、恋愛か、どこで出会うか?」に、
 大まかに分けると、職場と、友人・兄弟姉妹を通じてが、それぞれ30%。
学校が10%。サークル、街中、アルバイト、見合いが、5%と9割を越す。
見合いが低いが、結婚紹介所の出会いが、それを補完。
▼ 世界のおお方が一夫一婦制のわけや、何故結婚をするのか、何を相手に
 望んでいるのか、が解りやすい。殆どの人は、学歴、家柄、容姿のうち、
二つが揃っていれば良しとして結婚するしかない。誤解で結婚をし、理解し
合って、離婚するのが、今では3〜4組に一組。世の中、すべからく妄想で
なりたっている。その最たるのが結婚の妄想。青年期を振返ると、女性の方が
シビアで、見るところを見ていたようだ。それで人生、決まってしまうからだ。
・・・・・・
4264, しまった!  ー12
2012年11月18日(日)
 ー しまった! 「失敗の心理」を科学するージョゼフ・T・ハリナン(著)
  * 人生の財産 ーこの著書を総括するー 
 瞑想は、静かに独り座し、心を沈め、バイアスのかかった自分を見つめ、
かえりみること。ある人は、「飛行機のビジネスクラスで世界を移動する
ことを仕事の核にしている」という。10時間以上の、まとまった時間、
ただひたすら、黙想する。その時、深い何かに触れるという。
前回の旅行でエコノミーの席だったが、耳栓をし、同じように、ただひたすら
黙想をしてみた。「一万メートル上空で、時速千キロ以上のスピードの空間の
半睡のような黙想体験は、言葉で表現し得ない悟りというか、マドロミに
包まれた夢のよう。 考えるでなし、何かの思いが浮かんでくれば思うまま、
半睡状態にいる。それが飽きることなく(トイレと食事以外)、その状態。
宇宙と一体になっているような、何かから解放されているような永遠な何かと
一体になっているような。疲れ果てたとき、決断したいとき、頭を整理したい
とき、ただ、あの空間で、飲食のサービスを気ままに受け、自然体で黙想する
には理想的空間である。高速の移動空間は、脳内活動を活発にすることは
新幹線内での読書で経験していた。学生時代の友人の娘が日航のスチュワーデス
をしていて、小泉元首相が外国への飛行での機内専用サービスの担当になった時
経験談を聞いたことがある。「10数時間、お茶を一口飲んだだけで、
ただ眠り続けていた」という。あれは疲れで寝ていたと同時に、黙想?も
あったのだろう。 過去に機内で同じ状態でいた時間はあったが、ひたすら
10数時間を黙想状態にしたのは初めての経験だった。 時間とお金に余裕が
あれば、充分価値のある時間になると、納得。この経験から、ひとつの習慣が
出来た。休日などで、ふと何もすることが無いとき、独り寝室で半睡をする。
大体30分〜1時間。ただ目を瞑り、休む。この春から始めたヨガで、
最後の5分、マントラを聞きながら大の字で弛緩する。これも機内と同じ状態。
好きなことに熱中している時も、これと似ている。この時間こそ、人生の財産
である。私には時間という財産だけは充分にあった。装置産業を選び、それゆえ
に固定化されたマイナス面があったが、反面、自由になる時間が充分にあった。
これこそ財産。秘境ツアーに、読書に、パソコンに・・ 日本人には、何も
しないと価値のない時間と思い込む妙な習性がある。定年をむかえ、それまでの
延長に生きている人が、あまりに多い。私も似たようなものだが、改めて、
じっくり時間の過ごし方を考えなければ!
・・・・・・
3889, 積極的逸脱 ー2
2011年11月18日(金)
 積極的逸脱は、その視点で捉えると多くの分野で見て取れる。
ベターに妥協せずベストを求めた結果の現象が逸脱になる。
天才と秀才の差は逸脱をしているかである。秀才は決して逸脱はしないで、
その世界の価値観の中で頭角する。野茂がメジャーに行き、その後にイチロウ、
松井秀喜が続いた。初めてのチャレンジは逸脱と捉えられがちになる。
彼らは天才、それとも秀才だろうか? 日本のレベルを超えているので、
日本では天才、アメリカでは秀才? いやイチロウはアメリカでも天才だろう。
そう考えると天才、秀才は比較の問題。とすると、自分で地元で、積極的逸脱
をしていたと思っていたのは、自己詭弁でしかなかったことになる。
単なるアウトサイダー、ハグレモノ。天才は、対象に没頭するあまり誤解の
ベールに包まれ逸脱者として扱わた。ところで、酒や薬でトリップするのを
積極的逸脱というのか?というと、それは違う。前回、書いたが、40・50歳
代に多くの問題が重なり、そのストレス解消のため秘境旅行に数多く行ったが、
これは日常からの積極的逸脱であった。その総量のエネルギーと感動は、
その他の人生の総量と同じぐらいはあった。人生の積極的逸脱で見られるのは、
40歳半ばから50歳で一線を引退し、早々に自分の趣味の世界に入る人がいる。
江戸や明治時代には多く見られたが、現代では経済的事情があり、そんな優雅
がことは難しい。 いや、それより、早々に産業廃棄物扱いをされてしまう
恐怖感が壁になっている。 私も結果からして、10年前に会社を売却して、
第二の人生に入った方が得策だった?と考えたが、それは後講釈。
どちらにしても結局は同じ。事業に「たら、れば」はない。積極的逸脱もある
なら消極的逸脱もあってよい。一般にいう落伍者である。落伍による失意の
果てに待っているのが自死。これも、あの世への積極的逸脱と考えられなくも
ないが、好き好んで自死をする人は皆無に近いから、消極的逸脱の果てになる。 
鎌倉時代中期の僧侶一遍は時宗の開祖。「捨聖(すてひじり)」
と尊称された。捨てて捨てて捨て去った人。
 ・・・・・・
3524, 「人・ひと」と、「人間」の違い
2010年11月18日(木)
 私たちは「人」と「人間」の違いを意識せず何気なく使っている。
しかし、そこにはハッキリした違いがあるようだ。 この違いについて膨大な
エネルギーで和辻哲郎が研究している。
【 和辻哲郎は「人・ひと」と、「人間」の違いにこだわり、これがどのように
 混同されて使われてきたかを、英語、フランス語、ドイツ語などと比較対照
しながら、考察を進めてきた。日本語に「われひとともに」という言葉がある
ように、ひと」「人」はわれの人としての自覚から始めて、他人を意味している。
そのうち「ひと」は「人は言う」や「人聞きが悪い」などのように世人・世間の
意味に用いられるようになった。 では、「人間」という言葉はどうか。
これは、人に間の字を添加している。間を加えるとすると、すでに「ひと」「人」
は、自、他、世人を意味しているのだから、そういう人の間を意味し、そういう
人の間の関係を示すということになる。人間とは世間であり、世界でもある。
和辻は「法華経」や、その原典に関わる古いインドの神話まで渉猟して、人間
とはあくまで人間社会のことであって、天上や自然界に関わるものでないことを
実証している。】 ( 哲学者の言葉100 −稲垣真美著 p‐37 )
 〜「人間は、人の間の関係を示す」とすると納得する。人は人との関わり
あいの中で、人間になっていく。また、それは人だけでなく、我われを産み
出してきた根源といわれるものと発展していくが、それは、人間の意味に、
あくまでも含まないとする。根源を含め人間というと、それぞれの自己絶対化が
生じてくる。人は人間関係、社会を通して人間になっていく。
書物を通した色いろな人物もである。「出会い」こそ、人を人間に変えていく。
 ・・・・・・・・
3149,つれづれに ー閑話小題
 2009年11月18日(水)
  * 論理的思考とは
毎日、二〜三時間かけてレポート1〜2枚分の文章を書き続けて8年半経つ。
自分のメルクマールのため続けているが、この習慣で得たことは「インプット
した知識もあるが、各種の題材を探し出し、その要点をまとめ上げる過程で
身に付いた本質を見抜く視点と、それを起承転結にシンプルにまとめる論理力
がついたこと」理構成力こそが、自分の核である。その核?はウネウネと
トグロを巻いているようで、ブラックホールのようなトンネルの先の別世界
に繋がっているようにも思える。大した論理構成力でないが、その蓄積と、
その発酵は、トンネルの先で起こっているようだ。純真の視点ということか。
何かのイベントに参加すると、その事象をスラスラと文章化できるように
なったのが一番の収穫であるそれは記憶のパッケージ化をしていることになる。
その蓄積は人生経験を豊かにしてくれる。デジカメで日常の写真を撮り、
そこに言葉を添えて毎日の日記帳にすれば、それだけで豊かな気持ちになれる。 
その人によるが。
  * ブルーレイ録画機
7年間使ってきた、DVD録画機が故障を始めたのでブルーレイを
ネットで買った。量販店の7〜8掛けである。  
  * オモシロ、オカシク
(字数制限のためカット2011年11月18日)

つれづれに

イメージ 1

他のブログ
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今日のYoutube


 昨日の <マイティ・ソー バトルロイヤル> が、なかなか面白い。
3D映像の映画をマトモにみたのが、初めてのため。眼鏡の上に、
3D用の眼鏡を重なるので、フィットしない。しかし、ワクが小さい
のをしていたので、今度は大丈夫だった。 それにしてもリアリティが
半端でない。撮影技術も格段進歩したのだろう。見てない人は騙されたと
思って見るがよい。 評価:95点。最近のTVや、シネマを見る度に
思うことは、「しっかりと21Cになってしまった!」ということ。



・・・・・・
・・・・・・

3524, 「人・ひと」と、「人間」の違い
2010年11月18日(木)
 私たちは「人」と「人間」の違いを意識せず何気なく使っている。
しかし、そこにはハッキリした違いがあるようだ。 この違いについて膨大な
エネルギーで和辻哲郎が研究している。
【 和辻哲郎は「人・ひと」と、「人間」の違いにこだわり、これがどのように
 混同されて使われてきたかを、英語、フランス語、ドイツ語などと比較対照
しながら、考察を進めてきた。日本語に「われひとともに」という言葉がある
ように、ひと」「人」はわれの人としての自覚から始めて、他人を意味している。
そのうち「ひと」は「人は言う」や「人聞きが悪い」などのように世人・世間の
意味に用いられるようになった。 では、「人間」という言葉はどうか。
これは、人に間の字を添加している。間を加えるとすると、すでに「ひと」「人」
は、自、他、世人を意味しているのだから、そういう人の間を意味し、そういう
人の間の関係を示すということになる。人間とは世間であり、世界でもある。
和辻は「法華経」や、その原典に関わる古いインドの神話まで渉猟して、人間
とはあくまで人間社会のことであって、天上や自然界に関わるものでないことを
実証している。】 ( 哲学者の言葉100 -稲垣真美著 p‐37 )
 ~「人間は、人の間の関係を示す」とすると納得する。人は人との関わり
あいの中で、人間になっていく。また、それは人だけでなく、我われを産み
出してきた根源といわれるものと発展していくが、それは、人間の意味に、
あくまでも含まないとする。根源を含め人間というと、それぞれの自己絶対化が
生じてくる。人は人間関係、社会を通して人間になっていく。
書物を通した色いろな人物もである。「出会い」こそ、人を人間に変えていく。
 ・・・・・・・・
3149,つれづれに ー閑話小題
 2009年11月18日(水)
  * 論理的思考とは
毎日、二~三時間かけてレポート1~2枚分の文章を書き続けて8年半経つ。
自分のメルクマールのため続けているが、この習慣で得たことは「インプット
した知識もあるが、各種の題材を探し出し、その要点をまとめ上げる過程で
身に付いた本質を見抜く視点と、それを起承転結にシンプルにまとめる論理力
がついたこと」理構成力こそが、自分の核である。その核?はウネウネと
トグロを巻いているようで、ブラックホールのようなトンネルの先の別世界
に繋がっているようにも思える。大した論理構成力でないが、その蓄積と、
その発酵は、トンネルの先で起こっているようだ。純真の視点ということか。
何かのイベントに参加すると、その事象をスラスラと文章化できるように
なったのが一番の収穫であるそれは記憶のパッケージ化をしていることになる。
その蓄積は人生経験を豊かにしてくれる。デジカメで日常の写真を撮り、
そこに言葉を添えて毎日の日記帳にすれば、それだけで豊かな気持ちになれる。 
その人によるが。
  * ブルーレイ録画機
7年間使ってきた、DVD録画機が故障を始めたのでブルーレイを
ネットで買った。量販店の7~8掛けである。  
  * オモシロ、オカシク
(字数制限のためカット2011年11月18日)


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2784, こんな経験したことありますか?
2008年11月18日(火)

 下記に近いことを、私は何度も経験している。人間の五感が受けるのは、普段動いている五感の範囲
のことでしかない。犬は数万キロの彼方の子供の泣き声を感じ取れるというし、象は遠くの仲間の音波
信号を感じ取れる。以下の内容は不思議でもなんでもない。普段は動かなかった感覚が動いただけのこと。
絵に残った痕跡が著者の心の奥の何かに反応し、墓に感応しただけ。
でも、何ともいえない著者の心の内が顕れている。 
 ーー
*うぶだしや*             (うぶだしや=遺品買取屋)
「大正の末か昭和初年でしょうか?職業画家のものにはみえない」それらは令壌の死をいたむものだった。
ほかにもたくさんの政界の名士が弔辞をよせていた。令嬢は長く病床にあッたという。肺を病んでいたのだろう、
と私は思った。友達が学校に通い、結婚していくなかで、令嬢は、ずっと病床にあって、死病に向きあっていたに
ちがいない。思えぱ、日本画に描かれているものは、彼女が送ることのできなかった女の幸せな日常ばかりであった。
彼女は、死にゆくなかで、絵筆をとり、現実には、自分が送る二とのできない憧れの生活を描きつづけていた。
そのせいか彼女の残した日本面はどこか畏様な気配がただよっていた。日本画は通信添削で習っていたのか、
絵の裏に、師匠の画評が書き込まれていた。 彼女の遺品のなかに「磨かずぱ玉も鏡もなにかせむ学びの道もかく
こそありけれ」と書かれた額があった。昭和皇太后の肉歌であった。私が、それをながめていると、うぶだし屋が、
そっといった。
「これ!もう売ったんですか?一枚だけでいいですから、ぼくに売ってください!」「ようござんす。まだ商売に
なっちゃいない。一番、いいのをひとつ選んでおくんなさい」うぶだし屋は、大きくうなずいた。うれしそうであった。
私は、髪をたばねた少女が着物にエプロン姿で立ち、カフェで給仕をしている絵を一枚えらんだ。お代は二千円。
このうぶだし屋は、ただ同然で品物をゆずるときは二千円ときめていて、だまって指を二本たてる癖がある。
私はその絵を大切にした。箱にいれて、しまっておき、ときどき取り出しては、うっとりとながめた。
画中の女は、美しいというより、どこか寂しげであった。だが、あるとき、ほかの骨董屋に、こんなことがあったと、
右のいきさつを話したら、その骨董屋の顔色が変わった。「先生、そういうお品はいけません。それ死人の念の
こもった御品です。 悪いことは申しません。御縁が遠くなりますから、ご供養のうえご処分なさい」
たしかに、それからというもの、私はいくら結婚したいと思っても、まったく、縁がなかった。
 (やはり、あの女の絵のせいではなかろうか…と思ったが、どうにも絵を捨てられない。 捨てられないと、
こだわるほど、悪いことが起きそうな予感がした。 ところが、しばらくして、信じられないことが起きた。
ある妙齢の女性から花見の誘いをうけた。 顔は知っていたが、それほど親しいわけではない。
なのに突然、電話がかかってきて、「青山墓地の桜が縞麗だから二人で見にいきませんか?」という。
こういうことはまるでなかったから、素直に、誘いにのって、いくこことにした。桜は美しかった。
墓地に眠る人の命を吸っているから、美しいのだろうと思っった。私は、はずかしいから地面をみて、
女性のうしろを、とぼとぼついて歩いた。私は女性の顔をちらりとみた。青白い気品のある横顔であった。
体が弱いのか、のどくびを覆い隠す洋服を着ている。しばらく墓地をみてまわったところで、女性がいった。
「桜、きれいね」 そのと教私は背後になにか気配のようなものを感じた。目をあげると、そこには、信じられない
ないものがあった。あの日本画をかいた乃木坂の令嬢の墓石であった。「享年二十七歳、昭和九年没」と刻まれていた。
地の底から、女が、じっと、こちらをみているような気がした。 気味が悪くなって、それっきり、
その花見の女性とは会わなくなった。 二十七歳で死んだ女の絵は、いまも私のもとにある。
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 私なら、花見の女性と深い因縁があると考え、一歩踏み込む。そして、その墓の若い女性を自分の守り
本尊にし、毎年、花見に来て、墓に祈るだろう。 いや、感謝をする。 何で気持ちが悪いのだろうか? 
まあ、いいか! これも解釈の一つでしかないが。 桜には霊気が満ちているというが!

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2007年11月18日(日)
2419, 『楽天主義
     *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ! 
 『楽天主義』ーヘレン・ケラー著  
                     ー読書日記
 この本を図書館で見つけ、数ページ読んで、その行間から溢れ出てくる光のようなメッセージに驚いてしまった。
三重苦を乗りこえた偉大な人物ということは周知のことだが、実際に彼女の本を手にするのは初めてであった。
それも何と彼女の処女作で、100ページ足らずの読みやすい本である。この一冊を20歳前に読んでいたら人生が
変わっていただろう。 三重苦の中で、言葉の持つ意味を深く理解したのである。もしかしたら、
今年の最高の本といってよい本だろう。この本はもう廃刊になっていて、中古本で二倍の値がついていた。
ーその概要といえばー
 この本は、ヘレン・ケラーが1903年、大学在学中に初めて書いた処女作である。
ヘレンは三重苦の身でありながら、88歳の生涯を障害者の救済のために力強く生きた。
彼女は生後19ヶ月の時に熱病に罹り、聴力と視力を失い、三重苦の生活を強いられた。サリバンという女先生と
出会い、読み書きを覚え、大学を卒業後、世界各地で講演したり福祉活動を行い「奇跡の人」と呼ばれた女性。
ここで彼女は「楽天主義者とは、善を信じ、輝かしい未来の到来を確信し、明日を今日より美しいものにするための
努力を重ねる生き方」と述べている。楽天主義者は、信じ、試み、そして目標を成し遂げる。楽天主義こそいっさい
を成功に導く信念である。 希望がなければ何ごとも成就するものではない。
人生の目的は何か、などと堅苦しく考える必要はない。楽しく生きて、この世を去るときに、
「生まれてきてよかった。幸福な人生だった」と振り返ることができたら、その人は人生を楽天主義者として
過ごした成功者である。将来に希望をもって努力することで幸せは得られるものである。
逆に、悲観的な考え方のクセがある人は、幸せになりにくく、不幸になりやすい。幸せになるためには、悲観的
な(不幸になる)考え方をストップし、意図的に楽観的な考え方をできるだけ心がけたほうがよいのである。
ー彼女は、ここで次にように述べている。
「幸福は心の持ち方の問題で、外見から他人が判断できるものではない。
私は、盲・聾・唖の障害者でも、世間の常識に反して自分は幸福である、という考え方を信条としている。 
どんなに幸せそうに見えても、本人が幸せと思っていなければ、その人は幸せではありません。
どんなに不幸に見えても、本人が自分は幸せと思っていれば、その人は幸せである。
『自分は幸福であるという考え方を信条としている』という強い意志と、意図的楽観主義こそが自分である。」
ー評論家の小林秀雄は彼女を評して以下のように書いている。
「人生の深淵を覗いて、ニーチェは大声で喚めき、ランボーは静かに引き返した」(ニーチェはドイツの
哲学者、ランボーはフランスの天才詩人。ともに人間の悪徳をのろい、生を受けたことの悲劇を説く)
 もしヘレンだったら、こう述べたであろう。
「人生の深淵を覗き、さらにその奥深く、神の善の世界があることを知り、幸福と歓喜に打ち震えた」と

未来に用意された、光に包まれたバラ色の善の世界。その存在を確信するゆえに、
ヘレンはその人生は幸福に満たされて精一林に生き、その希望を人々に与えて生涯を送ったのである。
 ー目次ー
第1章 私の楽天思想
 (私の幸福;思想の輝き;現実に立つ;善の世界;働く喜び;信じること)
第2章 楽天主義の世界
 (哲学との出会い;心の支え;神の世界で;楽天主義の根拠;教育の進歩;寛容の精神)
第3章 楽天主義の実践
 (厭世主義者;楽天主義の力;楽天主義の文学;神からの贈り物;
  光明を招く;キリストの福音;未来への確信;私の信
                               ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
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2006年11月18日(土)
2055, あたりまえなことばかり -9
                  読書日記
                        (~Q~;) おはよう~~            
 自分とは何、これは考えても考えても尽きぬ問である。
孤独という実感の先にある「宇宙の真っ只中に浮いている意識」が真我であるのか?
以前も書いたが、「禅」の字は「単を示す」と、新井石龍禅師が語っていた。
「宇宙に誰もいない、ただ一つの生命」これを実感するのは死期を悟った時。
これが苦しいのか、苦しくないのか経験したことが無いので今のところ解らない。
恐らく、あのバンジージャンプの板の上に立った実感が近いのだろうが・・
しかし、あの落ちていく瞬間の覚醒の意識が最後の見納めとして周囲を見渡す時のそれなのであろうか。 
私の場合の「私」は、このHPそのものである。このHPの先にいる得体の知らない「これ」である。
デカルトのいう「考えている、『!』『?』」である。たしかコギトと表現していたが・・考えている、
思っている、思い出している、想像している、これであるー> ( ̄ω ̄;)!!エッ `
ー孤独とは苦しいものなのか -
 *自分とは何であろうか
たとえば、自分とは自我でなく、この肉体でもないとしたら、同じ理由によって、他者とは誰のことであろうか。
他者もまた、その自我でもその肉体でもないとしたら、孤独の癒しとして求められるような他者とは、自明な
ものだろうか。孤独であることは、苦しいことと感じられるほど確かなものであり得るのだろうか。自分とは
「何であるか」、他人や社会によって知ることができないと知ったとき、人は自我の向こうに自己をもとめて、
船出することになる。(字数の関係でカット、2009年11月18日)
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2005年11月18日(金)
1690, 僕が最後に言い残したかったこと
                   ー読書日記
「銭道」などのシリーズで売れっ子漫画家の青木雄二の本を手にしたら、彼の遺書代わりの本であった。
死を直前に書いた本で迫力がそのまま伝わってくる。   (二年前に死亡)
図書館で何度か、この人の本を手に取ったが借りる気はしなかった。金に関して素人向きの内容だからだ。
 現に、この本もそうだが、死を前にお金と人生の関係をシビアに表現しているところが面白い。
私は、両親からお金について幼児の頃から話を聞いていた。 耳年増であるが、特に父の死の直前に
教わったことは 現在の私の金銭哲学になっている、
 § d^^b  
 ┃  ^namu           
 Э ∬∨∬                (^┰^;)ゞ
 ┃(~∞~)
 ┃( 人 ) ・お金は自分で稼いでこそ価値がある
   ノ   ハ   ・使う楽しみを知らなくては稼いだ価値がない
           ・あの世には持っていけないもの、使うべき時に使うからこそ金の価値がある
             ・自分で事業をみつけ、それを楽しめ。 そのカスがお金として残ってくる。    
   ・:*:`☆、。・:*:`★   
 *この本でなるほどと感じたところを書き出してみた*
  ー最後にこれだけは言っておく。金は貯めるために存在するんじゃないで。
   時間を有意義に使うために金はあるんやで。そう、金は使うために存在するんや。
   死んでしまってからは使えんのやからな。それが僕の偽らざる実感や。    
  ー忘れてならないのは、お金自身に価値があるのではない。
   お金を「真に価値あるもの」と交換することが大事だということや。
                      ♪~(=^ε^= )          
  ーサラリーマンの人たちは、定年後を考えて現役のうちから人生設計を考えておくことや。
   とにかく「自分のやりたいことをやることや」趣味でもよいし、アルバイトでもよい。
    大きな器をつくるには、時間がかかるんや。 定年では遅すぎるんや。
   では、何をやるか。それはあなたが考えることや。特に奥さんとの仲を良好にしておきなさい。
             (o;´=ω=)o)) ドキッ!
  ーある人が一千万円の資産を持っていたとしても、厳密な意味で、「持っている」というわけではない。
    一千万という資産が、ある人間を「自らの管理者」として雇っている、といっても論理的に矛盾は
ありません。実際に、その人が死ねば、その一千万円の資産は自分の管理者を変える。
ただそれだけのことや。(◎-◎;)!!        
    人間はいずれ死にますが、お金はこの世から無くなることはない。 
  ーこれから先もお金は大切であることに間違いはありませんが、社会の主人公は、人間でなくては
ならないのです。お金や物の所有が一時のかりそめのものである以上、人間が完全に勝ち取ること
ができる所有物は知恵ということになるでしょう
                      ヾ(^-^)ゞbaibai    
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2004年11月18日(木)
1325, 小型のヒト 
 以下は、10月末に一斉にマスコミに流された内容である。 
「新種」のヒト化石を発見、インドネシア東部フロレス島
  2004.10.28 - CNN/REUTERS/AP
(字数の関係でカット、2008年11月18日)
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584, ーこころのかぜをひいたら      
 - 2002年11月18日(月)
  ー宗親ー                      
そうかい こころのかぜをひいたのかい
こころのかぜは からだのかぜとおなじだよ
こじらせると はいえん まんびょうになってしまうんだ

そのときは おいらの いざかやにおいてよ
ぶるーの こーなーにおすわり
そこはかぜをひいたひとの せんもんこーなーなんだ

そこで たまござけ のむといいよ
そして にんにくのまるあげを ちゅうもんするのさ
かえりに もうひとつ にんにくあめを おみやげにあげるよ

そしたらすぐに へやにまっすぐおかえり へやをあっためて
そうそう ねることさ

こころのかぜは さむさに とくにゆわいんだ
ひえたこころを まずあっためてやらなくてはね
そして つかれをとることさ

こころのかぜは からだより びみょうなんだ
とくにさむさにね 

だれにも あわないほうがいいよ
ひとにうつしてしまうからね 

ひとり ふとんのなかで なんにも かんがえないで
ゆっくり ねることさ ゆっくり つかれをとることさ 
そして あせをたっぷりかくといいよ
はやく なおそうとしないのが こつなんだ

こころのかぜは こころのかぜは 
こうねつになるからね きをつけたほうがいいよ

こころのかぜは かみさまのさいん
うすぎを しているよという さいんだよ
わるいばしょに いるという さいんだよ

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[231] ベトナム旅行記ー3
-偽100ドル事件ー    2001/11/18

今回の旅行で面白い事件に出くわした。 明らかに観光客を狙った偽100ドル詐欺事件だ。
日本では大事件だが、ベトナムでは日常に行われているのだろう。三日目になるが、写真に載って
いるハロン湾で食事を終えた頃、ベトナムの刺繍を売りに来た。私達はもちろん買うわけでなし、
しかし何人かが買っていた。 4人席の目の前の同行の2人の老女がそこで買い物をしていた。
確かその場面の写真を撮っていた。現地の金とドルの交換を頼まれ、親切心で替えてやったのだ。
それも人の良さそうな老女を狙ったのだ。そして最終日の帰る日に、その目の前の年寄りの一人が
デパートで100ドル札の引き取りを拒否された。それを添乗員が偽札と疑い銀行で偽札と判断した。
添乗員が言うにはカラーコピーの幼稚なシロモノ。観光客の老人を狙ったのだ。日本では大事件だが、
ベトナムでは単なる日常の軽い詐欺なのだ。現地の代理店の責任で、その100ドル札は彼女に
本物と取り替えられたが。日本とベトナムの差を垣間見た。何人かがその詐欺の女の写真を撮って
いたため恐らく警察にマークがされるだろうが、日本ではありえない事件である。