『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 苦しみと不幸の違い
 ことにあたった時、〔幸福の状態とは、ポジティブ3に、ネガティブ1〕
と、自問自答すると、嫌な気分が早々に消えていく。良いことが続いたら、
〔今に、マイナスが起こるだろうが、敢えて受けとめる〕と、有頂天に
ならないよう気をつけてはいたが、これが難しい! で、この様。人生を
俯瞰すると、どん底の時節に素晴らしいことが集中していた。 苦しみ、
不幸には、安楽がソッと傍に控えて支えてくれている。当人は、それに
気づく心の余裕がないためだが、辛いときは心底、辛い!〜その辺りから〜
≪ 幸福と快楽の違いを考えたところで、心身の苦痛や苦難と不幸を区別
 する必要がある。 苦難は外から被るもので、不幸は自らが作りだす。
サンスクリット語にドウッカという言葉がある。これはスカの反語で、
定義は、「不快な感覚だけに留まらず、究極的に厭世観にながる苦しみ、
痛みに対する基本的な脆さ、生きることが無意味で価値がない状態」と
なっている。 サルトルは著書『嘔吐』の主人公にこう言わせている。
【 もしも存在とはなんであるかと問われたならば、私は誠意をもって、
 まったく無意味なもの、空虚な入れ物である、と答えたであろう。
私たちは自分自身に当惑し気詰まりな存在の群れであって、誰も彼も、
そこにいることの理由を少しも持たなかった。それぞれ存在するものは、
当惑し、なんとなく不安で、互いに他のものとの関係において余計なもの
である、ということを感じていた… ところでこの私もまた余計なもの
だった …これら余計な存在の少なくともひとつを消滅させるために、
自分を抹殺することを漠然と思い描いてみた。 】
 自分がこの世から居なくなった方がいい、と信じることが自殺者に共通する
動機である。苦しみ(苦難)は、無数の原因によって生じる。中には自分の力で
何とかできるものもあれば、まったく無力のこともある。身体障害者として
生れたり、病に侵されたり、愛する者を失ったり、戦争や天災に巻き込まれる、
等の苦しみは不可抗力である。それに引きかえ不幸はまったく違う。
なぜなら、不幸は、外的な条件によって生じる身体的、道徳的な苦痛と
関連するとはいえ、本質的な関係はない。
 四肢麻痺に関する研究によると、麻痺が生じた直後に大半の障害者が
自殺を考えるそうだが、一年後には10%だけが惨めな人生と考えているという。
残りの90%は、生きることの素晴らしさを考えているのである。苦しみを不幸
と解釈するのが心の在り方であるのと同様、それをどう理解するかを支配する
のも心である。世界観を管理、知覚、解釈する流儀をわずかに変化させるだけ
で、私たちの在り様が大きく変わるのである。移ろいやすい感情を経験する
仕方を変化させることが、気分と在り様を永久に変えることにつながる。
 人間を悩まし続ける苦しみを消滅させることになるこの「治療法」は、
人間として生きるに最適な生気溢れる状態をもたらしてくれる。≫
▼ ネットで四肢麻痺を検索すると、
【いずれの場合にせよ,対麻痺では,上肢は健全なので,車椅子の使用により
日常生活を営むことがかなりの程度まで可能である。しかし,脊髄損傷が頸髄
に生じたり,末梢神経や筋肉の病気が下肢だけでなく上肢にも生ずるような
ことがあれば,上肢も下肢も運動麻痺を生じ,四肢麻痺となってしまう。 
四肢麻痺は左右の上下肢がすべて運動麻痺に陥った状態であり,頸髄損傷による
ものでは,下肢の痙性対麻痺に上肢の弛緩性麻痺が加わって生ずるものである…】
とあった。この状態で、90%の人が生きることの素晴らしさを感じているとは!
 四肢麻痺は、動物から植物(人間)へ移行するようなもの。その状態を瞑想と
内的変化で割切らざるを得ない結果、生きることの幸せに気づくののか?
 急に盲目になったり、四肢麻痺になったとしたら、死にたくなって当然だが、
一年で90%の人が、これ以上ない絶望の淵から逆照射した諦めの心境が、
その事態を受入れる、強烈な力が湧き出るためである。
・・・・・・
5065,あわいの力 ー②
2015年01月26日(月)
        ーあわいの力 「心の時代」の次を生きるー安田登(著)
  * お能の世界とは 
 この本を読んで、長岡高校の講堂で『能』を観た時、その幽玄の世界に
魅入ったことを思い出した。以来、TVで何度か観たことがあったが、知って
いることは、シテと、ワキの存在ぐらい。 ネット辞書によると、
<芸能としての起源は、飛鳥〜奈良時代に遡る。観阿弥世阿弥金春禅竹
から現代まで約7百年。江戸幕府の終焉とともに衰退したが、明治中期に、
その状況を憂える文化人や資産家の尽力によって復興へ向かい始めた。
猿楽に代わる「能楽」という用語も広まった。 現在、ユネスコ
「人類の口承および無形遺産の傑作宣言」を受け、2001年「世界無形文化遺産
として登録されて、少し演能が盛んになり、神社やお寺での薪能なども増えた
ように見受けられる。>とある。登場人物の役割を序文に簡潔に説明してある  
≪・能には、シテとワキという二人の主要な登場人物がいます。
 シテは面をつけ舞台で華やかに舞い、ダイナミックに飛んだり跳ねたりする。
 能といわれて普通の人が思い浮かべるのは、このシテでしょう。
・ワキは、面をつけることもなければ、派手に立ち回ることもない。
 装束も地味で、目立った活躍をすることもありません。
 ほとんどの時間、舞台上でじっと座っている。
・シテを演じる役割の人をシテ方、ワキをの役割の人をワキ方といいます。
 能の世界は、シテ方の人は一生シテを演じ、ワキ方の人生ワキを演じます。
 能楽師の家に生まれた人は、生まれたときから決まりますが、私のように外の
 世界から入ってきた者の場合は、その道が決まるのは、能の世界に入るとき。
 シテの師匠に弟子入りしたら一生シテ方だし、ワキ方の師匠に弟子入りしたら
 一生ワキ方です。ワキ方が、「今日はちょっと面をつけてみたいな」とたまに
 シテ方を演じるようなことはありません。
・私は、高校教師をしていた25才の時、ワキを演じる師匠の姿に魅せられたのが
 きっかけで弟子入りをして、ワキ方になりました。ですが、どうもこの
 「ワキをわざわざ選ぶ」というのは、一般の人たちだけでなく、能の世界に
 いる人たちからもときどき不思議がられます。「なぜワキ方なんか選んだのか」
 などと聞かれたりします。「ワキなんか」か、とは失礼ですが、シテ方には面、
 笛方には笛、鼓方には鼓という「お道具」がある。しかし、ワキ方は何もない
 じゃないか、そう言うのです。・・・ ≫
▼ 小中学校の同級生の一歳年上の兄が能楽のシテで、地元紙に、『続けている
 内に、シテの役割の人か、現実の自分が混同するようになった』と、その幽玄
の世界の魅力を書いていたが、談志の『芝浜』に似ている。最近、若い女優が
インタビューで、一年間、地方で、あるヒロインを撮影した感想を述べていた。
『自分と、演じている役割との間にある皮膜を如何に薄くするか、に苦心した!』
〜〜
4700,閑話小題 ーシネマの観客は、私一人!
2014年01月26日(日)
   * 映画館貸切?の念願成就!
 映画館を、一人貸切ってみたいと思っていたところ、奇しくも、
その思いが成就。一度、上映の直前まで一人だったが、数分前に5〜6人が
入って来てガッカリしたことがあったが・・ 一昨日は、4〜5百人の会場に
私が一人だけ。 その感想は、映画に集中できるのがベスト。
内容は、宇宙もの『エンダーのゲーム』で、期待してない分だけ、面白かった。
若者のゲームの物語に参加して、手軽に自分の枠を超えて宇宙に開放される
感覚がよい。一晩、飲みに出歩いたと同じぐらい?
とすると、一割以下のコストは価値がある! 
   * 近所の喫茶店
 二度目になるが、一昨日の午前中、近くのチェーン店の喫茶店
『米田コーヒー』に行く。一〇時過ぎから一時間半いたが、11時までは
トーストと卵がサービスでつくためか、広い店内は満席。何か落ち着くのは
何だろう? ほぼ老夫婦か、中年女性づれ。それが昼飯かわりになって
夕方まで腹持ちがした。100席+別席で150席。値段は400円なら、
価値がある。コーヒー・パンレストランという風。
  * ウィリアム・ブレイク の詩が良い!ー『無垢の予示』より         
 人の定めとしての喜びと傷心、希望と絶望、幸と不幸・・ まさしく、
これらを「正しく知ったとき」、私たちはこの世を無事に進んでいける。             
 ――                             
 一粒の砂に世界を見/ 一輪の花に天国を見る/ 
 手のひらに無限を/ ひとときに永遠をつかむ
・・・・・
4333, 自己とつきあうということ −3
2013年01月26日(土)
        「自己の探究―自己とつきあうということ」和田 渡 (著) 
 * 自己の主題化とは、変化する自分を距離を置いてみる自分を見つめること!
≪ われわれは万年筆や鉛筆といった事物と異なり、不断に生成し続ける存在
 であり、同時にその途上にあって、しばしば自己へのかかわりを課せられる
ような存在である。われわれは、事物や植物や多くの動物のように自己の存在を
意識することなく生きることはできず、自己や自己の生にかかわりをもちつつ
存在することを余儀なくさせられるのである。年齢的な変化とそれに伴う生成の
途上で、自己に関連することで言えば、自分がどのように変化しているのかを
問うこと、自分がどのような位置にいるのかを確認すること、自分がどのような
方向に進めぱよいのかを探ることなどは、誰にも避けられないであろう。
自己が自己を問うということは、自己をひとつの問題として意識することであり、
自己のなかに問うに値するものを見いだすということである。それはまた、自己
といった課せられた問いとして積極的にひき受けることでもある。
そして、その問いを実りあるものにするためには、自己のおかれている状況や
変化に対して注意深く見つめていなければならない。 自己の主題化とは、
状況のなかで変化した、あるいは変化しつつある自己の姿を一定の距離を置いて
何度も眺め変す試みである。しかし、それにとどまらず自己の変化を観察する
自分自身をも距離をおいて捉えなおす試みでもある。自己が生成の途上にある
かぎり、この試みは何度もくりかえされ、そのつど異なった自己の姿が
あらわれてくるであろう。・・・ ≫
▼ この随想日記の楽しみは露悪的、自虐的に自分を曝け出すことである。
 それは、自分を上から目線で見つめることになる。それを続けていると、
書いた数年後に、上から目線の自分を、さらに上から見ることが出来るようになる。 
だから、自虐をしている自分を見下している己もまた、自動的に見ている自分が
出来ている。毎年の同月同日に、10数年分の、これを毎朝、読み返している。
その時々の視線と視点が、デズニーのキャラを見ているようで、それがまた面白い。
 それは自分自身だけでなく、その対象にした人、出来事をも上から目線でみる
ことが出来る。だから、極限の喜怒哀楽の現象も、冷静に再体験することが出来る。 
晩年に、多くの人が自分史を書くのは、自分の人生を主題とした物語として、
書き残すため。他からみたら大したことでないが、本人からしたら人生は自分が
ヒーローである。 変化する自分を予め物語としての粗筋と、生きる指標を
決めておくとおかないで大きく違ってくる。最期は、‘面白かった!’
と実感できるかだ。
・・・・・・
3958, 他人を責める「新型うつ」について ー4
2012年01月26日(木)
    * 「他責的」な新型うつの病理
 ー 次の部分が、「新型うつ」の病理を解明しているー
≪ 大衆にある「よりよく機能したい」という欲望を満たしてくれるかのような
 幻想を覚える「ハッピードラッグ」を求めて、医師のもとを訪れる消費者、
いわば「抗うつ薬信者」ともいうべ患者が増えたのである。
なぜ、この欲望はこんなに強くなったか? まず、消費社会が購買意欲をかき
立てるために「あきらめるな」「すべて可能である」といったメッセージを送り
続けた結果、あきらめきれない人が増えた。断念せずにすむ手っ取り早い方法が
開発されたことが宣伝されればされるほど、以前であればあきらめを受け人れ
ざるをえなかった人も、あきらめきれなくなった。とりわけ、「こうありたい」
という自己愛的イメージにとらわれている人ほど、「自分はこんなもんじゃない」
という思いが強いので、自分を「底上げ」してくれる手段にすがって、あきらめを
何とか回避しようとする。当然、自己愛の強い人ほどあきらめきれないが、現在、
こういうタイブが増えている。少子化の影響もあって、子育ての失敗が許されなく
なり、親の期待がもろに子供の肩にのしかかるようになったからである。
親の期待とは親の自己愛の再生にほかならず、敗北感や不全感にさい悩まれて
いる親ほど、自分自身が放棄せざるをえなかった自己愛を、よりいっそうわが子
に投影する。 子供は、親の期待に応えなければ愛してもらえないと肌で知って
いるので、親から投影された自己愛を引きずったまま成長していくわけである。
子供が多くの時間を過ごす学校という場で、自己愛的イメージを徐々に断念
させて現実の自分を受け人れさせる、つまり「身の程を知る」ようにさせる
システムが機能しているかというと、現状は正反対。何しろ、「やれぱできる」
「誰にも無限の可能性がある」といった類の幻想を盛んに吹き込んでいるから。
こういう幻想を吹さ込まれ続けて「なりたい自分」のイメージだけが肥大して
いくと、現実の壁にぶつかって自己愛的イメージと現実の自分のギャップに
直面したとき、ふくらむだけふくらんだ自己愛の風船をどうやってしぼぽせたら
いいかわからず、落ち込んでうつになる。おまけに、現実の自分が
「これだけでしかない」のは、オ能、努力、意欲が足りなかったせいなどとは
決し思えない、いや思いたくないので、他人にせいにして責める。
これが「他責的」な新型うつの病理である。≫
▼ 私も八人兄姉の末っ子で、両親から特に大事にされ育ったため、
 心のどこかで常に親の期待に答えようと意識していた。青年期は、その葛藤の
中で常に、「自分はこんなものじゃない」と、自分の「底上げ」を心掛けていた。
27歳で父が亡くなった時、創業の激務もあったが、何かから解き放たれた
ような気持ちがあった。 当時は高度成長期、誰もが坂の上の雲を目指していた。
先日、青年期に読んだ「精神論」について書いたが、「誰も無限の可能性がある」
の刷り込みだったか、右上がりに必要だったのか? 偶然だが、下記の去年の
文章が関連している。 アメリカそのものが、深刻なノイローゼである。
・・・・・・・
3593, 誰も書かなかったアメリカ人の深層心理  −1
2011年01月26日(水)
  「誰も書かなかったアメリカ人の深層心理 」 加藤 諦三 (著)
 普段、マスコミなどから受けるアメリカと、著者が、ここで述べている
内容とは大きな隔たりがある。度々、アメリカに滞在した普通の目線で
平均的なアメリカ人を描写し、合せ鏡で日本人を見ている。
 日本人が誤解しているアメリカ像が、現在の日本社会を疲弊させている
という論には納得する。 ーアマゾンの内容紹介よりー
≪ なぜリーマンショック後、平気で多額の報酬を受け取ろうとするのか?  
 アメリカ人は、本当は何かを考えているのか。 経済格差の国・アメリカと、
幸福格差の国・日本。世界一楽観主義の国・アメリカと、悲観主義の国・日本…
長年、アメリカ・ハーバード大学で准研究員として活動を行ってきた心理学の
第一人者の著者が、そのベースにある彼らの宗教観や家庭観などから紐解いて、
初めて綴った目からうろこのアメリカ人論。
〈レビュー1〉 この本ではマスコミなどで流布されている米国像とは異なる、
 米国の一般の人々の社会における価値観、その元になる宗教、特にプロテス
タンティズムについての考察を通じて、日米社会の違い、さらには現代の日本が
抱える最重要課題、日本における人々の社会への不信感について論じている。
そうした不信感が人々のきずなを失わせ、米国とは大きく違う日本社会に
 米国流の競争システムを導入する問題を指摘している。実際、この10年で
大きく日本社会は壊れてしまったのではないか。 では日本における心の問題を
社会レベルでどのように解決していけばいいのだろうか。著者は宗教の重要性に
ついて述べているが、日本では宗教は儀式化しており、生きる知恵を授ける
存在になっていない〉 
▼ 著者は、ここで哲学者のアドラーの言葉を借りて、アメリカの金融資本
 主義者の殆どが深刻なノイローゼ患者という。そのほんの少しの患者を、
一般のアメリカ人と解釈するのは間違っていると。 彼等は子供のときから
スポイルされ、幼児の頃から他人のなしとげたものを如何に搾取するかの訓練が
出来ている。そして、そのノイローゼ患者は、大衆に影響を与える。
この人たちが、心の基準のない日本人に与えた影響は深刻である。
日本人が経済的豊かさにあるに係わらず、幸福と感じないのは「心の基準」
を見失っているからでないかと指摘する。人が社会性を生み出すのは、
カレン・ホルティのいう「積極的感情」である。それが日本になくなって
いるのが、現在の日本である。日本の少子化と高齢化もあるが。 ーつづく
・・・・・・・
3228, フリー −5
2010年01月26日(火)
 「フリー <「無料」からお金を生みだす新戦略>」クリス・アンダーソン著 
 * フリーワールド ー誘発された陳腐化ー(p271)
≪ 中国では、不正コピーが音楽消費の95パーセント占めているといわれる。
 といって、ミュージシャンは動じない。彼等は多くの人が聞いてもらえるほど、
そのコンサートツアーのギャラが高くなるから、別に困らない。困るのは音楽
会社だけ。経済学には「海賊版パラドック」という用語がある。ファッション業界
を下支えする根本的なジレンマから生まれている。 つまり、「消費者は今年の
デザインを気に入らなければならない。そのうえに、直ぐにそれに不満を持ち、
翌年のデザインを買いたいと思う必要がある。技術商品と違って、アパレル
メーカーは翌年の製品が優れているとは主張できない。見た目が違うだけ。
 そこで、消費者に熱を冷まさせる理由が必要となる。その解決策は偽物が多く
出回ることで、高級だったデザインが大衆向けのコモディティになることなのだ。
そうすると、そのデザインの神秘性が失われ、目の肥えた消費者は何か特権的で
新しいものを探さなければならなくなる。これが「誘発された陳腐化」と呼ぶもの。
 コピー商品の登場で、そのファッションが流行に敏感な人のものから大衆のもの
へとすばやく移り、敏感な人は何か新しいものを見つけなければならない。
中国では敏感の人とは。新興の富裕層と、中流階級で、10億の大衆はまだ、
その偽物を持つことで高級品の市場に足を踏み入れたばかりである。本物と
偽物の異なるセグメントをターゲットにし、互いに相手の役に立っている。 ≫
▼ 偽ブランド品はメーカーにとって不可欠な存在だったのだ。
「偽ものが出回るほど、一般の人が憧れる商品としての価値の 証明になる」
上に、更に「誘発した陳腐化をうながしてくれる」。 悪役が善玉を引き
立ててくれる上に、善玉の次なる善行を引き出す役割になっている。
 ・・・・・・・・
2853, 格差世襲  −1
2009年01月26日(月)
 ー貧困とは溜めのない状態ー
格差について、一昨年の今ごろ(2007年01月25日(木)階級社会ー不平等社会を
考える)で取り上げたことがある。他にも読書日記で幾つかの本を取り上げた。
ところが先日、図書館で半年前の08年8月30日号「週間ダイヤモンド」
を見つけた。 ー「下流」の子は下流?格差世襲 ー の特集である。
 普段の会話ではタブーに近い内容が次々と出てくる。格差といえば差別。
自分が上位に立っているときは何とも感じないが、下位にたたされて差別で
屈辱を経験した時に格差社会の実態を知る。差別からくる屈辱は傷になり、
恨みは何時までもまとわりつく。般若の面は差別の屈辱に対する怒りの顔。
 この特集では、いろいろな視点から格差を調査しているが、
・「育った家庭によって、機会の不平等が生じている」という
 「格差世襲」の残酷な調査結果を示している。
・「まるで溜めのない貧困層」、それに対して「溜めに包まれた富裕層」
 「貧困とは‘溜め’のない状態」と現実は教えてくれる。
その典型が何も考えない若い人の成り行きの「??婚」。何の経済的な裏づけ
のない人たちの結婚である。ここに夫婦格差が生まれる。その子どもには両親
以上の教育が施すことなど、出来ようがないのである。その結果、下流の子は
下流になるしかない。「溜めのない貧困層」といえば、大阪・堺市生活保護
受給者の四分の一が、親の世代も生活保護を受けていた。母子家庭にいたって、
四割が‘生活保護二世’。また母子家庭の26・4パーセントが十代の出産を
経験。まさに貧困の連鎖の構図がここにある。 逆に溜めのある人は、溜めの
ある人と群れるケースが多くなる。一例として最近、医者同士の結婚が多い。 
女性が医学部に多く進学するようになった結果である。また医者社会での結婚
のチャンスも多く、二人の給料の総額は莫大になる。1995年以降に自分でのし
上がってきたベンチャー経営者や、専門職を中心にした新世代の富裕層は、
お金より自分の知恵や経験を子どもに相続させたいと考えている。
多額のお金を相続させるより、子どもの教育に金の糸目をつけないのが特徴。
無形の財産を与えることで、子どもにも自分の力で成功を勝ち取るように
教えている。「地位獲得競争ゲーム」に、無形の「出来レース」を与えている
ことになる。世界の億万長者のトップのビル・ゲイツ、ウォレン・バフェット
とも、資産は子どもに残すことをせず、大半を寄付をすると公言。−つづく
ーーーーーーー
2008年01月26日(土)
2488,  iMacの感想!        
 Mac製品の売り場を何度か通って、何時かは使ってみたいが何か壁があった。 
それは外国メーカーと、少数派の壁だったろうか、それとも周囲に一人も使って
いる人がいなかったため?だったのだろうか。しかし今度思い切って買ってみた。  
   (字数制限のためカット 2012年1月26日) 

つれづれに

イメージ 1

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 
   今日のYoutube

以下の内容は、明日の「はてな」のブログに加筆して、転載予定!

====
 甘利経済相の汚職問題、これ、おかしくないか?
明らかにアメリカとのTPPで宗主国の尾っぽを踏んだ、見返りの
謀略としか思えない。 たまたま、一昨日の夜に放映された
冷戦時代のCIAと、KGBの謀略の秘密映像を放映した録画を
昨日、見たが、時も、ぴったり。 見せしめに、そこまで計画していた?
田中角栄の、「ロッキード汚職」のケースに似ている。
 アメリカの三大自動車メーカーが国営化したとき、
トヨタ車の欠陥で、社長を公聴会に呼び出して、吊るし上げをして
謝罪をさせたが、後になって、あれは、明らかに謀略と判明したが、
何の謝罪もない。 これが、アメリカである。

 積雪が1mあり、昨日、スポーツジムに出かけようとしたが、
除雪をしないと、外出は無理。 で、ジムのトレーニング替わりに、
除雪と割切ることにした。 それが、結構、面白いが、腰には悪い!
 これも仕方がない、痛むなら痛めと、恐々始めたが、道路を
除雪した雪が、5Mはある駐車場の出入り口に幅、3M、高さ
1・5mもあるため、2時間を要した。 出入りを考えると、
今日、あと1時間は、かかる。 で、今日あたり、腰痛が出るのでは、
と、起きたが、今のところ、大丈夫。 ヨガ効果があったのか。
元もと腰痛は、昭和38年の「三八豪雪」で、長岡高校の校舎の
除雪で痛めたもの。 

 新しい健康保険証が送られてきたが、70歳からは、これまでの
3割負担から、2割負担になると、あった。 ただ、それだけの話・・

 ・・・・・・・・
2853, 格差世襲  -1
2009年01月26日(月)
 ー貧困とは溜めのない状態ー
格差について、一昨年の今ごろ(2007年01月25日(木)階級社会ー不平等社会を
考える)で取り上げたことがある。他にも読書日記で幾つかの本を取り上げた。
ところが先日、図書館で半年前の08年8月30日号「週間ダイヤモンド」
を見つけた。 ー「下流」の子は下流?格差世襲 ー の特集である。
 普段の会話ではタブーに近い内容が次々と出てくる。格差といえば差別。
自分が上位に立っているときは何とも感じないが、下位にたたされて差別で
屈辱を経験した時に格差社会の実態を知る。差別からくる屈辱は傷になり、
恨みは何時までもまとわりつく。般若の面は差別の屈辱に対する怒りの顔。
 この特集では、いろいろな視点から格差を調査しているが、
・「育った家庭によって、機会の不平等が生じている」という
 「格差世襲」の残酷な調査結果を示している。
・「まるで溜めのない貧困層」、それに対して「溜めに包まれた富裕層」
 「貧困とは‘溜め’のない状態」と現実は教えてくれる。
その典型が何も考えない若い人の成り行きの「??婚」。何の経済的な裏づけ
のない人たちの結婚である。ここに夫婦格差が生まれる。その子どもには両親
以上の教育が施すことなど、出来ようがないのである。その結果、下流の子は
下流になるしかない。「溜めのない貧困層」といえば、大阪・堺市生活保護
受給者の四分の一が、親の世代も生活保護を受けていた。母子家庭にいたって、
四割が‘生活保護二世’。また母子家庭の26・4パーセントが十代の出産を
経験。まさに貧困の連鎖の構図がここにある。 逆に溜めのある人は、溜めの
ある人と群れるケースが多くなる。一例として最近、医者同士の結婚が多い。 
女性が医学部に多く進学するようになった結果である。また医者社会での結婚
のチャンスも多く、二人の給料の総額は莫大になる。1995年以降に自分でのし
上がってきたベンチャー経営者や、専門職を中心にした新世代の富裕層は、
お金より自分の知恵や経験を子どもに相続させたいと考えている。
多額のお金を相続させるより、子どもの教育に金の糸目をつけないのが特徴。
無形の財産を与えることで、子どもにも自分の力で成功を勝ち取るように
教えている。「地位獲得競争ゲーム」に、無形の「出来レース」を与えている
ことになる。世界の億万長者のトップのビル・ゲイツ、ウォレン・バフェット
とも、資産は子どもに残すことをせず、大半を寄付をすると公言。-つづく

ーーーーー
2488,  iMacの感想! 
2008年01月26日(土)

     ○( ̄ ̄ ̄ ̄o ̄ ̄ ̄ ̄)○ おっ W( ̄ ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄ ̄)W は~♪
Mac製品の売り場を何度か通って、何時かは使ってみたいが何か壁があった。
それは外国メーカーと、少数派の壁だったろうか、
それとも周囲に一人も使っている人がいなかったため?だったのだろうか。
 しかし、今度思い切って買ってみた。 
iMacというWindows兼用可能の製品で、オールインワン型である。 

買ってみて初めて分かったことは初心者に優しいということである。 
まだ合計でも数時間しか使って(いや、触って)ないが、
それでもWindowsより使いやすいことは分かった。
Windowsは、あらゆるメーカーのパソコンにのせるため、
メーカーの方に顔を向けざるをえないのである。
ソフトとハード一体型開発の大手は、考えてみたらアップルしかない。
それを強みにして消費者に(特に初心者)にとって使いやすい開発に特化してある。
ところで、なぜマイクロソフトにシェアをおさえられたのか?
多くのパソコンのメーカーが、それぞれ特化しながら売り込みを図るからである。
更にマイクロソフトのナンバーワンの強みに、ソフトのシェアが
Windowsで占めている事情がある。
一般企業や大衆はMacに魅力を感じながら躊躇するのである。 

ところが私のような、ブログとHPとインターネットと、写真管理ぐらいしか
必要としない大多数が、Windows vista の不評をキッカケにMacに関心を向け
はじめつつある?ようだ。 
会社の事務所のMacはWindows Vistaと兼用のものだが、
ソフトを多く必要としなければ、Mac専用の方が、その良さを引き出せるのでは!
という見方もある。 あと一~二週間後に結論を出すが、その方が面白そうか?
それも時間が経ってみないと分からないのか?
自宅は、少し様子をみてからMacを入れるつもりである。
恐らく、一年後、いや数ヵ月後は、Macの熱狂的なファンになるだろう?
まあ単純なものだが・・・
それにしても、現在使っているノート型のパソコンと、この薄型のデスクトップ型と、
これほど違うのには驚きである。ブラウン管とデジタルTVの差の違いと同じである。
ブログにしても、このMacにしても、進化はとどまることはない。
                      (。´_`)ノ ホナ!             
ーーーーーーー
2007年01月26日(金)
2124, 死んだ人に、もう会えない?
             <(_ _)> おはようございます!

義母が昨年の12月01日に亡くなって、もう49日以上が過ぎ去った。
家内を慰める言葉として、哲学者のエピクロス
「<われわれ>が生きているとき、死はそこになく、死がそこにあるとき、
<われわれ>は生きてはいない。だから死はわれわれに何のかかわりもない・・」
の意味を説明し、補足として、
「一人称の本人の死は存在しないし、三人称の死は他人ごとでしかない。
二人称の死も実際のところ本人じゃない。死に慌てている、そして死に対し
無知な自分がいるだけ。死はあくまでも他人の昇天と周囲の悲しみを見て感じ
つくりあげた観念でしかない。実際は死んではいない」といったところ、
家内「でも、会うことがもう出来ないじゃないか」と素直な気持ちを吐露した。

それに対し、スラスラ出た言葉が、「でも、それはこれからのこと。
唯心論じゃないけれど、思い出の中で会える。 自分の大部分は過去で出来ているし、
過去は都合の良いように変えることも出来るが、 間違いなく存在していた。
その存在こそ絶対であるし、消すことも無くなることもない。
もし死んだとしても、実は死んではいないし、もう会えないということより、
母親その人と会えたことの方が奇跡だし、その方を考えた方が良い。
悲しいのは解るが、死とは何かじっくり見つめ学ぶ機会と考えた方が良いんじゃないか」
悟ったような答えであったが、考えてみたら哲学者の池田晶子の言葉のうけ売りの言葉。
しかしスラスラと出たのは事実。

『死』は人生の最大の関心事である。
それも自分の母親の死は、自分そのものの死を考える機会になる。
両親が亡くなって、その直後の数ヶ月を過ぎてからは寂しい思いはなかった。
亡くなることによって、心の中心により深く住むようになった。
そして心の底から感謝ができるようになった。
しかし、これは義母-二人称の死の話だが、実は自分のことでもある。
まさに死そのものより、「現在、いまここ、にある自分の存在」の意味と
同じことをいっているのである。死を考えるということは、
自分が「いま・ここ」に、そして生きてきたことの不思議を考えることである。
    
亡くなる=無になる、ということは有り得ない。
「無にどうしてなるのか? 無いものに成るなど、ありえないことである!」
全くそのとおりで疑う余地は全くない。それが存在することの不思議につながる。

「何故いま・ここに、自分がこうして存在しているのだろうか?」不思議で不思議で、
  まずそこから出発しないと・・存在とは何か?そして、その消滅とは?
                       ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪
  ・・・・・・・・・・・
2006年01月26日(木)
1759, 閑話小題
          (●′∀`)σ )Д`○)★Ohayou☆
ー新手のおれおれ詐欺?ー

・友人A 氏の名をかたった「おれおれ詐欺?」の電話が自宅にあった。
一昨日の午後、自宅に友人A氏 の名前で「主人在宅ですか?」という電話が入った。
家内が声が違うので不審と思い、直ぐに切ったという。
昨日友人A 氏に聞いたら、先週の金曜日に、彼の前の会社の元部下B氏 
の自宅にも同じ時間に同じような電話があり、やはりB氏の奥さんに疑われて
電話を切ったという。私とその友人氏B は顔見知りだが仕事上の直接の繋がりは無い。
友人A氏の10年前の会社を名乗ったというから?A氏の現状を知らないとみてよい。
恐らく十年以上前にA氏と行った飲み屋?で渡したA氏の名刺の裏?に、
会話の中から名前を知り書いたか、あるいは私もB氏も(別々)に名刺を置いてきた
のかもしれない。
  こういう仮説をたてるのは面白い!が。
  直ぐ電話を切らないで、相手が何を狙ったのか聞いていたほうが面白そうだが。
  新手のおれおれ詐欺だろうが、気楽に名刺も出せない時代になった。
~~旦_(‥ )ま、茶どうぞ!

ーうそー
日本語は面白い。その中で、人のためと書いて「偽」ーウソがある。
昔の人は深く偽善を見抜いていたのだろう!
人が為すことは全て偽とも受け取れるが!
論語を黄色い声で読んで、その視点で(自分ではなく)
他人を攻撃する輩を何人か知っている。それでも勉強をしないよりましか?
そういえば亡くなったが、茶坊主の経営評論家が、論語を持ち出し片っ端から
切り捨てていた。経営者は人格がまず要求される第一の要素だが。(*ノω<*)
                ヾ(*´▽`)ノ=з=з=з バイバイ!
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2005年01月26日(水)
1394, 人間の成長角度
ー知人が面白い話をした。

「人間には、それぞれ上昇角度がある。
それを早く見抜いてエリート教育をすべきである。
その角度は、よほどの事がない限り、変わらない。
変わるとしたら、大きな挫折か、大失恋かである。」
なるほど、と感心をした。ある共産党員が話していたとか。

中学校は選抜される前の最終の集団である。(今は違っているケースが多いが)
その時の成績の順位が、そのまま人生の優劣を決定している。
以前にも書いたことがあるが私の中学校の同級生を見ると、
一番が慶応の教授(故人))、
二番が日本レコード協会の専務理事、
三番が自衛隊の偉いさん?で、
四番が私?で、
大手損保の支店長、中学の先生、
その後が税理士になって??の税理事務所長(二代目だが)で、
ー女性は省いたー成績で見ると目立った人はいなかった

成績の悪い順は書かないほうがよいようだ。??な人が殆んどである?
別に「慶応の教授がどうだ」ということはないが、
生き生きしているかどうかで判断してもよい。

人間の成長角度は、その時に決まっていたのは事実である。
大体が、10歳で既に決まってしまっているが、
次の筋目の時期は、中学二年であろう。
両親の質?の問題が、大きいのが最大の理由である。

その成長角度も、20歳で終わってしまうケースもあるし、40歳の場合もある。
大器晩成型もある。高校一年の時のクラスが担任の先生が素晴らしいこともあって、
そのクラスから東大、早稲田、慶応に多く合格した。
しかし、東大は精神病で廃人、早稲田は自殺、・・・。
振り返ってみると、順調な人生の人は性格のよい人が多い。
そうでもないか?いや、そうだ!

反対に無事・長生きにかけるしかない人もいるが。
老後は、これが一番か! しかし、これは傍迷惑になる?
ライフワークを持って、仕事とのバランスを保っている人が
成長角度を保っているようだ。世間様の世界で浮きしずみしている人は、
下降角度になっているのが多いが。まあ、いいか!誰が見ているか解らない?

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2004年01月26日(月)
1027, 大人のワッペンー勲章の意味

「新リーダーの研究」          読書日記-1
「叙勲に辞退」が価値をもつ時代

飯塚昭男著の「新リーダーの研究」を図書館で借りて読んだが、
なかなか内容があった。
目次の見出しだけ見ていても、ハッとする内容が並んでいる。
その中で『「叙勲に辞退」が価値をもつ時代』というのが良い。
叙勲は春と秋の定例行事になっている。 批判をしたいが、
「貰えないからやっかんでいる」と思われるから、誰も批判しないで黙っている。

著者は、誰もが普段思っていることを辛らつに書いているのが良い。
私の意見と、著者の意見をミックスして書いてみる。
責任転嫁もできるからよいが、著者は辛らつである。

・「大人のワッペン」とズバリ言ってのけている。
 ーもらって涙をこぼしている姿は可愛いといえば可愛いが。

・大体が叙勲で人の価値が決められるというのか。
 どういう規準でランクをつけるというのだ。
 詐欺まがいの元首相と一生を教育や福祉に捧げた人を含めて
 どういう規準でランクの上下を決めているというのか。

総理府の勲章局というのがあって、「全銀連盟」や「鉄鋼連盟」
 などの業界団体が推薦者をあげて、各々の所轄官庁に書類を提出。
 その中から選ばれるという。 要するに官民の談合で決められるという。
 それを総理府などの長官会議で決めたものを、総理がサインをして決定する。
 それは政財官の癒着の温存の元凶になっているという。
 ーこの本を読んでマスマス馬鹿馬鹿しくなってきた。

・心ある財界人はほとんど辞退をしているという。
 政治家は喜んで、いや自分から働きかけて哀願するという。
 政治家は国民を騙す以前に自分を騙しているから、ワッペンで自己証明を
 しないと御祓いができなくなる。 政治ごろの鑑札?は、言い過ぎか。
 
 文化勲章は認めてよいのではというが、人間国宝というのがあるから、充分である。
 さっきも書いたが国が、いや役人がそれを決めるとはオコガマシイ。 
 天皇制の一つのフレームなのだろう。

また経営改革は自己改革という言葉にハッとした。会社の転換期に入っているので、
一番実感している。 一番の抵抗勢力は、自分の固定観念と甘さである!

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【新】リーダーの研究 ◇飯塚昭男
<内容紹介>
 政党の党首や社長といったトップ・リーダーは、いまや状況のイノベーター
(革新者)であって、その自意識が企業の盛衰を大きく左右する。
「改革はトップしだい」ということになる。
単なる利害の調整役、足して二で割るような世話人タイプは必要ないのである。
 
さて近年において、経営革新でかなりの実績をあげている人たちにある共通点が
うかがわれる。従来の物差しでは簡単に測れないような人物という点だ。
むしろ従来の枠組みから外れた人、あるいははみ出た人がかなり輩出している
ということだ。

こういう人物はその企業の土壌の中ですんなりと伸びてきたわけではない。
その生い立ち、キャリア、発想、気概においてかなり異質だった。
企業内を、エスカレーターに乗るように順調に上がってきたわけではない。
それだけに自身がトップになったとき、思い切った変革ができたのではないか。
過去のしがらみに縛られることが少なく、また過去の成功体験に埋没しなかった。
 
「革命は常に辺境から起こる」といわれるが、異端こそが危機に陥る一歩手前で
舵を大きく切り替えられるのではないか。
筆者はそれを「正統を越えた異端」と命名しているのだが、いかがであろう。
いまこそ、「正統を越えた異端よ、出て来い」と声を大にして叫びたい。
常識を越えた異端こそ、企業を大きく変えられるのだ。
<本文より>
(次回は、この目次の小項目と、その解説を書き込む予定)
 
  ・・・・・・・ 
2003年01月26日(日)
662, 「他人の血で自分の傷口を洗うな!」

この言葉を初めて聞いた時、その意味をしばし考えてしまった。
相手を傷つけてしまう事は「何らかの意味で自分の問題を相手に投影
してしまった」という事でないか。

いじめっ子は家庭の不和の子が大部分だ。
そのトバッチリを学校で弱い相手を捜して攻撃する卑劣の行為だ。
これが「他人の血で自分の傷口を洗おうとする行為」の典型だ。
あと戦前の日本軍の古参兵の新兵虐めもそうだった。
「新兵の時の虐めをやりかえす」という行為で傷口を洗っている愚劣の行為だ。
必要悪の部分もあるが。

傷ついて膿を心に持っている精神症(精神病)の人も、その苦しさのあまり
血の匂い嗅ぎつける。「自分の人生失敗だった」という敗残者もこういう傾向が強い。
精神に深い傷を持っている。といって正常の人でも、誰でもその傾向はある。
その軽い症状が「他人の噂しか話す内容を持たない人種」だ。
教養を積んでこなかったオバちゃんだ。男ー子狐もいるが。

これには大きな落とし穴がある。他人の血で傷を洗うという事は、
その傷を目先癒すが逆にどんどん傷を深くし、さらに黴菌が入ってくる。
それこそ「無知の涙」である。

他人の事といっていられない自分の問題だ。
誰もが心の傷を持って知らないうちに他人を傷つけている。
そして傷つけてきた??・・!!それに気がついているかどうかのだが。
「恨んだ相手は高いびき」その相手になっているのではなかろうか?

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 2002年01月26日(土)
312,書くということ

書くということの意味とは 毎日随想日記を書き続けて、いろいろの事にきずく。
書くということは、話すということより、ずっと多くの事を、意味を感じるように
なってきている。この20年間社内報に隔月に文章を書き続けて、
その継続も含めて意味を感じるようになりました。

その時々のメルクマールだ。
あの時アア考えていたのだ、こういう本を読んで感銘していたのだと。
それが全くやり続けてなかったら何が残っていたのだろうか。
書けば消えずにそのまま残っている。

したがって話すという表現手段と、文章化の手段と一見小さな相違が、
継続という時間の中で無限に近い相違を引き起こす。
つくづく 書き残していてよかったと実感している。
時間が経つとその自己表現が、自己認識になってくる。
したがってそれに書き加えていけば、自己認識が深まる。
そして自己吟味できるようになる。

実をいうと、そのためにホームページにさらし、自己表現のレベルの維持と、
自己顕示のそれを原動力にして書き続けているのです。
地方にいると例の「子狐の群れ」の中で自分を見失いがちになります。
見失わない為に、これは最低限必要なシャワーでもある。
ー自己詭弁,正当化もいいとこ?

まずは書き出す、そしてそれに筋を通す、そして客観化する、
そして深めていく行為である。

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1月26日 日曜日 1969年

12時起床。 市川さんと食事に行く。
この人、理系がお医者さんのお守りの営業をさせられているためか、
理詰めで社会を理解しようとしている。
人間の、いや社会の、いや自身の嫌らしさを知らない。

その後読書をする。夜、レポートの作成に入る。
次にマーケッテングのレポートを作成。夜半の3時に就寝。
今は卒業をする為の集中が必要だ。