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今日のYoutube
https://www.youtube.com/watch?v=FSYYwHMlefg
今朝も、悠久山の散った桜絨毯を見に行く予定だったが、
雨のため中止。 ネット検索で、『悠久山の桜』と検索したところ、
ここで載せた過去数年分の写真が多く出てきたのに驚いた。
それも出来栄えの良いものが・・・
午後にでも、雨が降ってなかったら、花絨毯の写真でも撮りに
行く予定だが、どうなることか?
・・・・・・
2209, 反時代的毒虫 -4
2007年04月21日(土)
U(^(ェ)^)U おはようございます!
ー読書日記ー
「反時代的毒虫」
ー河野多恵子、奥本大三郎との対談ー
『人の悲しみと言葉の命』から
P-153
奥本:お金を恥ずかしがったり、汚がったりするのは、日本独特のことじゃ
ありませんかね。
河野 やっぱり武家社会の影響だと思います。武家社会はお米が給料でしょう。
奥野:武家の負け惜しみ。
河野:武家は、一種の俸給生活者。それでお米をお金に替えたりするわけだけど。
お金というものに縁遠かった。
奥野:商人階級を特に分離して、それを卑しめる。
しかも時代とともに苦しくなって、それに頭を下げなければならない悔しさ。
そこから不浄感が余計に出てきた。
P-156
車谷:「お金がないということが生きることの原動力になっている人と、
それが無気力を呼び込んでしまっている人と、ふた通りありましたね。
前者はなりふりをかまわず、金さえあればっていう考えで生きている。
そういう人たちの顔色は溌剌としていた。ニヒリズムというか、
絶望感というか、そういうものをはっきり意識していた。」
車谷:「(無気力組のほう)つまり金がないということの行き着く先は、
浮浪者というかホームレスという形になっていくと思いますね。
比喩的な意味では、この世での居場所を失うということです。
じゃあ気力がある人はどうなるかと言ったら、
ドストエフスキーの『罪と罰』みたいに人を殺すんです。
ラスコーリニコフみたいに人を殺すとか強盗に入るとか」
奥本:「気力はあるが、判断力がないんじゃない。」
車谷:「判断力のある人は、だいたい水商売に行くんです。
なぜ水商売に行くかといったら、この日本社会では保証人になって
くれる人がない限り、水商売以外では、暮らしていけないからです
私も多分にもれずに、水商売を、9年もやった。
水商売の場合は、タコ部屋というのが用意されていますから。
そこでともかくねどまりをする。 だからそれは判断力のある人。
P-184
車谷;大江健三郎さんは、上品というようなことをいいます。
人間の中の叡智の部分を信じたいということでしょう。
しかし人の偉さは限りがあるけれど、人の愚かさは底なしの沼です。
僕は人間の本質は相当にタチが悪いものだと思うんです。業が深いというか。
文学の原質は、世俗の中の下品な、血みどろの欲望の渦巻く、
煩脳や迷いが流れ出るようなものだと思うんです。
なりふりをかまわないとか、場合によれば人を殺してしまうというか、
そういう世界が流出するのが文学だと思います。
東京の山の手文化というのが、生身の欲望にひと皮きれいなベールを
被せたような文化ですね。
ところが、ひと皮めくると、たちの悪い生身の色と欲、迷いがあるわけでしょう。
奥本:その山の手文化の不思議な気取りみたいなもの、腰の弱さ、底の浅さ、
あれが純文学の世界にもあるんだろうと思うんですけれども、ウソがあるんですよ。
そのウソが安っぽいスノビズムみたいな形で西洋文化の理解のほうへ行ったり
上品さを装ったり、いい面もあるんだけれども、やっぱりウソはウソなんです。
車谷:窓辺に花が飾ってあるのを見ると、いつもそれを思う、うその生活をしていると。
車谷:久米正雄が、昭和初年代に、この世のことは金で半分は片がつくって
行っていたらしいけれども、平成7年の今では、8~9割まで金で片付くような
世の中になりましたね。それは物事が金で買えるということですね。
物が買えるのはよいけれど、事が買えるということですね。・・・・
ーーー
解)
お金に関しては、ここで多く書いてきたが、また小説の中での
「金に関する扱い」もシビアで面白い。
金と女(男)は、人間の煩悩の元である。
車谷の「人の偉さは限りがあるけれど、人の愚かさは底なしの沼です。
僕は人間の本質は相当にタチが悪いものだと思うんです。業が深いというか。
文学の原質は、世俗の中の下品な、血みどろの欲望の渦巻く、煩脳や迷いが
流れ出るようなものだと思うんです。」という言葉が深く染みる。
私自身も父親の影響を受けたため、金に関してシビアの方だ。
父は「人間の金に対する建前と本音」の乖離を冷たくみていた。
特にひ弱な教養人と自認している人間の、腰の弱さ、底の浅さ、
うそと安っぽさを見抜ききっていた。
問題は、それを直視するかどうかである。
世の中は、やはり8割は金で解決できるのだろうか?
まあ、「猫に小判」という言葉もある!
馬鹿に金を持たせても、ただ見ているだけのヤツ多いね、ホント!
m(_ _)m 使い切るヤツよりいいか? どっち?
・・・・・・・・
2006年04月21日(金)
1844, ローマから日本が見える-4
ォ'`ョ━━(。・∀・)ノ゙━━ゥ★
第二章 かくしてローマは誕生した。
以下は、ウィキペデェア百科辞書から
「ローマ誕生」について抜粋したものだ。
ーー
ー建国伝承ー
狼の乳を吸うロムルスとレムスの像ローマ建国までの伝説は、
次のようになっている。
トロイア戦争で敗走したトロイ人の末裔(アエネイアスの息子アスカニウス)が、
イタリア半島に住みついた。この都市をアルバ・ロンガという。
時代がくだり、王の息子アムリウスは兄ヌミトルから王位を簒奪する。
ヌミトルの男子は殺され、娘レア・シルウィアは処女が義務付けられた
ウェスタの巫女とされる。
ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マルスが降りてきて彼女と交わった。
シルウィアは双子を産み落とすが、怒った叔父の王は双子を川に流した。
双子は狼に、その後羊飼いに育てられ、ロムルスとレムスと名づけられた。
成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して大叔父を討ち、
追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力する。
兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとする。
しかし兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺される。
この丘に築かれた都市がローマであった。
ー王政ローマの制度ー
初代ロムルス王以来、多くの一族を抱える有力者は「貴族(パトリキ)」
として終身の「元老院」を構成させ、王の「助言機関」とした。
人類の社会史上ローマにのみ見られる特徴として、
他国から一族郎党を引き連れて移民してきた者や、
戦争で破った敵国の有力者も一族ごとローマに強制移住させ、
代表者を元老院議員にすることで味方に取り込み勢力基盤とした。
これは、エトルリア人都市国家やアルバ・ロンガなどのラテン族都市国家に囲まれた
小さな「寒村」ほどの規模から出発した新生ローマでは、最大・喫緊の課題は
「人口増加策」であり、人口が増えないことには、自衛のための兵力すら
維持できないからであった。
さらに、奴隷や一時居住者以外のこれら自由市民は「ローマ市民」として
王の選出を含む国家最高議決機関である民会で投票する権利を与えられた。
もっとも、この市民による王の選出は共和政期に共和政の歴史を古くに求めるために
作られた伝説とする説もある。
ローマ建国の王であったロムルスも治世の途中で、この民会の選挙で選出
(この場合信任)され、改めて選挙で選ばれた王となった。
王の任期は終身。しかし原則として世襲制はとらない。
王の最大の責務はローマの防衛であり、そのため自由市民が「輪番」で
兵役を勤めるローマ軍全軍の指揮を担当した。
(全軍とはいっても草創当時は2,000名程度であったと推測される)
(。・・)_且~~ お茶どうぞ
ーー
以上だが、面白いのはロムスルは王になっても権力を独占しようとしなかったことだ。
彼は国政を、王、元老院、市民集会の三本柱で支えるという制度を定めた。
ローマの王は市民全員が参加する市民集会での投票で決められる。
王は終身制であったが、他国と違って王の子孫や血縁者が自動的に王になるのではない。
あくまでもローマ市民の同意がなければいけないということにした。
さらに、市民集会は王の政策に承認を与えるという権能も持っていた。
このように王の権利はかなり制限されたものになっていた。
その王の政策の助言として元老院が創設された。
現代の民主政体では国家権力を司法、行政、立法の三権にわけ、
それらがお互いにチェックしあうことで、権力の暴走を防ごうとしている。
ローマの制度は現代式の民主制度ではないにしても、
国家権力の三分割という点で似ている。
形式上は王政であっても、その王は市民集会によって選出されるので、
ローマ市民の意識は「王の国」ではなくて「我らが国」であった。
だからこそ、彼らは戦争の連続にも耐えられたし,戦意も衰えなかった。
現在の日本より政治体制と大して変わりはないでないか?
いや、皇族ー王政が選挙という面でローマのほうが?
人間性という面で、千年経っても変わっていない?
ー つづく
☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪
・・・・・・・・
2005年04月21日(木)
1479, 『知りたいことがなんでもわかる 音楽の本』-1
クラシック、ジャズからワールドミュージック、日本のポップスまで、
幅広く網羅した、音楽の基礎などが書いてある本である。
ほぼ全てのジャンルの歴史が詳しく分りやすく書いてある。
入門書に留まらず歴史的な考察も入っている。
一冊にこれだけ音楽の体系をまとめてあるのに感心した。
この一冊で、音楽の世界を鳥瞰したような気分になれる。
「人生を肯定するもの、それが音楽」というが、
どん底の時に何度も音楽で救われたことがあった。
むしろどん底の方が、音楽を受け入れることができるようだ。
音楽の奥底から感じ取られる作曲家の気持ちが通じやすくなるためだ。
ボーズのステレオを買ったのをキッカケに、音楽の世界に
急に興味をおぼえ始めたに過ぎないが、先ず知りたいのが歴史と
分野の体系であるから、この本はタイミング的にみてもベストであった。
これまでに、知識としてクラシック、ポピュラー、世界の民族音楽の三分類と、
・クラシックではバロック、古典派
・ポピュラーではブルース、ジャズ、フォーク、ロック
・世界の民族・地域音楽として、アルゼンチンタンゴ、スペインのフラメンコ、
ロシア民謡、イタリア民謡、
・・・位のものであった。
それが、この本では解りやすく、時系列と分類を鳥瞰できるように
纏めてあった。
ー以下は検索で調べた概要である。
ーーー
ー知的生きかた文庫
三枝成彰監修
この一冊で‘音楽通`になれる!
・バロック、古典派、ロマン派・・・どんな音楽?
代表的な作曲家は?
・「ソナタ形式」「交響曲」の定義は?
・バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン・・・これだけは知っておきたい!
・どんなオペラが有名で、何から観ればいい?
・ジャズは、いつどこでどうして生まれた?
・「スウィング、ビバップ、ハード・バップ」ってどんなもの?
・ブルースが生んだ重要な音階「ブルーノート」って何?
・プレスリーブームからフォーク・ロック、ハード・ロック、パンク、
そして90年代グランジ・ロックまで
・歌舞伎に欠かせない音楽の知識とは?
ー目次
1 クラシック音楽(中世・ルネサンスの音楽
バロックの音楽
古典派の音楽 ほか)
2 ポピュラー音楽(ジャズ
ロック
世界のポピュラー音楽
日本のポピュラー音楽)
3 世界の民族音楽(ラテン・アメリカの音楽
アジアの音楽
アフリカの音楽)
4 知っておきたい日本の伝統音楽(邦楽の世界)
ーー
次回から、
具体的に、それぞれの音楽の言葉の意味(ジャズとは?クラシックとは?とか)
をまとめてみる。
つづく
・・・・・・・・
2004年04月21日(水)
1114, 「ライフ・レッスン」 ー5
ー力のレッスン
・ほんとうの力はその人の社会的な地位、銀行の高額の預金残高、華麗な肩書きなど
から生まれるのではない。
それは自己の内なる真正さ、つよさ、誠実さ、いさぎよさから生まれる。
どんな人にも内奥には宇宙の力があるのだということに、わたしたちは気づいていない。
一粒のタネがたくさんの花を咲かせ、毎日、太陽を大空をわたっていくのをみて、
そこに力を感じ取る。
・感謝をする人は力のある人である。感謝が力を生み出すからだ。
世にある豊かなものはなんであれ、いまあるものに感謝する気持ちに根ざしている。
真の力、真の幸福、真の幸福は、感謝という高度の技術の中にみいだされるものだ。
いま与えられているものに対する感謝、
ものごとがそのようにあることへの感謝、
自己が自己であることへの感謝、
生まれてきたときに自分がこの世界に持ち込んできたものへの感謝。
自己の唯一無二性への感謝。-たとえいまから100万年経ったとしても
自分とまったく同じ人間は現れない。
自分と同じように世界を眺め、同じように反応する人間はいない。
感謝の種は尽きない。
「感謝の筋肉」を鍛えたことがない限り感謝をすることはできないのだ。
「もっと」というゲームをやめて「もう足りている」というゲームをはじめよう。
・人間は内部に大きな力を持っているが、その使い方には無知同然である。
真の力は、真の自己を知り、世界のおける自己の立場を知ることより生まれる。
ー感想
力のレッスンに感謝ーありがとうーがあるとは思ってもみなかった。
しかし考えてみれば、内奥の力は今あるものに対する感謝・気づきから
出発することを考えれば至極当然のことである。
「感謝の筋肉を鍛える」という言葉も心にのこる。
感謝は長年のトレーニングが必要ということだ。
毎日「ありがとう」という言葉を繰りかえすのも、
トレーニングで感謝の筋肉を鍛えあがていることになる。
・・・・・・・・
2003年04月21日(月)
747, 散る桜残る桜も散る桜ー2
ー雨中の花見
昨日、散歩がてらの悠久山の花見に行ってきた。
毎年のこの時期の恒例の一人花見である。
もう十年以上続いている。
他の場所はどうか解らないが、長岡は4~5年に1度があたり年である。
季節の微妙なバランスが影響しているのだろう。
今年は例年並であったが、満開時期に雨が続いたという点で外れの年と
言ってよいだろう。
午後一番に悠久山に向かって出発したが、小雨がダンダン大粒の雨になり、
丁度悠久山の参道に到着したと同時に大雨になってしまった。
いまさら帰るわけにもいかないし、とりあえず瓢箪池に行く。
それでも、いろいろな団体がテントの中で「やけ花見?」をしていた。
雨が桜にとっての天敵ということが散歩をしていて解った。
それまでは大風と思っていたが、雨も桜の花を叩き落してしまう。
最近の桜では6年位前に2~3年に大当たりが続いた。
その時に早朝、悠久山で写真を撮っていると、中年の男の人が話しかけてきた。
「自分はこの近くに住んでいるが、これだけの桜は初めてだ!」
という。それだけすばらしい桜だったのを憶えている。
ここで桜を見ていると、子供の頃家族で夜きたことを思い出す。
参道の両側に多くの屋台がならんで華やかな雰囲気であった。
もう50年も前のことだ。
花見こそ一期一会である。
吉野とか京都の名所のあたり年の桜は、魂を吸い取ってしまうのだろう。
・・・・・・・・・
2002年04月21日(日)
383,チンパンジー
TV のドキュメントや本などでチンパンジーの生態の研究が面白い。
人間そのものである。 まずはその社会、ボス争いが面白い。
彼らの社会は厳格な序列が決まっていて、常にその力関係の争いと緊迫が漂っている。
特にボス争いが熾烈である。
また2番手3番手の力バランスが、人間の政争とそっくりである。
鼻が詰まった時など鼻の穴に小枝を入れ、くしゃみを誘発したりもする。
蟻の穴に棒を入れ蟻を抜く行為もする。
ボスのいない隙に浮気をしたりもするし、子供期の遊びと虐めも人間とほぼ同じ。
嫁いびりや集団リンチなどもある。
京都大学の霊長研究所の代々の名物教授が、数十年にわたりその研究を続けている。
その内容がいろいろ出版されている。
またTVでそのドキュメントを数年に一度づつ放映している。
今アメリカの研究所で、チンパンジーの一番人間に近いボノボというチンパンジー
の研究が進んでいる。数回そのドキュメントを見た。
言葉の研究やゲームの姿を見ていると、「人間との差は何処にあるのだろう?」
と考えさせられる事がある。
日本でもアイコという雌チンパンジーとその子供の研究がすすんでいる。
今ではヒトを「第三のチンパンジー」と呼ぶべきという動物学者も出てきている。
人間は狂ったチンパンジーパンジー(猿)というが、言葉を持った猿の
欲望の無限の拡大のなせる業か。