つれづれに

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洞窟絵画といえば、アルタミアの洞窟壁画である。
それにしても、見れば見るほど、その躍動感に恐れ入る。


・・・・・・
2549, 一神教vs多神教 ー3
2008年03月27日(木)
                    ヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよ~♪
  *近代天皇制は一神教か?
 まずは、この本にある、「近代天皇制は一神教か」という部分を抜粋。
 ~~
近代天皇制は一種の一神教、擬似一神教ではなかったかと、
ぼくは考えています。近代日本は一神教の欧米の脅威にさらされて、
わが国も一神教で対抗するしかないと思い、京都にすっこんでいた
天皇を引っ張りだしてきて神聖不可侵の神のような存在にし、
国民、特に兵士に天皇への絶対服従を強いたのですが、日本人も
追いつめられると同じようなことをしたわけです。
ウェーバーユダヤ教の神、ヤハウェは戦争神だと言ったという
ことはさっきも話題になりましたが、近代日本も、その前の徳川時代
には二百数十年、国内的にも対外的にも戦争をしなかったのに、
明治になってから戦争ばかりやっていました。これも、天皇
一神教の神のコピーのようなものにしたことと関係があると思います。
多神教徒だって、追いつめられると、一神教的になり、原理主義
走るんですよ。ガンジーを暗殺したのは、彼がヒンドゥ教とイスラム
との融和を唱えたことに反対したヒンドゥ原理主義者でしたね。
暴力が暴力を誘発するように、一神教一神教を誘発するのです。
とにかく、一神教原理主義は危険です。・・・・
 ~~
モーセユダヤ人に伝えたイクオトンの太陽崇拝は、太陽が唯一神
あるというにしても、まだ一神教の前段階じゃないでしょうか。
近代天皇制も、天皇という具体的な人間存在が崇拝の対象である
以上は純粋な一神教ではありません。ましてや国民は天皇陛下の赤子
だなんて言っているんですから、イスラム教のように偶像崇拝を完全
に排除した一神教の場合は人間と隔絶しています。
隔絶しているというのは血のつながりがないということです、
神と信者とのあいだにはまだ血のつながりがあるわけです。
そのように厳密に一神教を考えると、天照大神がいくら神々の
中心であるからといっても、神道一神教ではないですね。
ーー
以上だが、封建的、閉鎖的で、国家といえない国を国家へと
変えようとするとき、擬似一神教として「神」の存在を創りあげる
必要があったのである。それが、明治天皇、そして昭和天皇だった。
その意味で、あの時期に近代天皇制を創りあげた政治家達は、
やはり卓越していたといえる。現在の日本は米国に属国化しているが、
米国はキリスト教という一神教を背景に持った国。日本は多神教
国であるから、それが一神教に支配されているということになる。
   
・・・・・・・・・・・
2007年03月27日(火)
2184, 聖地と台所
      オッ(*^○^*)ハ~ヨウサン!
                       ー 読書日記
「ファンタジーの魔法空間」 -2
           著者・井辻朱美  岩波書店
 前回、「いい場所」とは、台所と屋根裏部屋]という部分を抜粋して考えてみた。
今回は台所と聖地を同定しながら、聖地とは何かを台所とは何か考えてみよう。
まずは、その部分を抜粋してみる。
ー P-41
ある場所に置かれる神像はその[場所]の指標なのである。
どこに置いてあって良いというのではない。
日本なら吉の方向が定められており、マルタの台所では
「一日じゅうそれが見える」場所がそれである。
神像が置かれる場所が[いい場所]ではなく、
[いい場所]に神像を置くことが正しい。

神像的[いい場所]をさらにグローバル的にいったのが聖地であろう。
植島啓司氏は『聖地の想像力』の中で、その9つの条件をあげている。
01:聖地は一?たりとも移動しない。。
02:聖地は極めてシンプルな石組みをメルクマールとする。
03:聖地は「この世に存在しない場所」である。
04:聖地は光の記憶をたどる場所である。
05:聖地は「もう一つのネットワーク」を形成する。
06:聖地は世界軸で貫通しており、一種の記憶装置である。
07:聖地は母胎回帰願望と結びつく。
08:聖地とは夢見の場所である。
09:聖地では感覚の再編成が行われる。

 例えばエルサレムは01・02の条件によって、3つの聖地になっている。
トルコのイスタンブールにあるアヤソフィア回教徒寺院はかっての
キリスト教会を転用したものである。逆にスペインのゴルドバは
回教徒寺院をキリスト教会に転用したものである。それをパワースポット
と呼ぶにせよ何にせよ、古代人はそこが聖地であることがわかっていた。
この聖地の条件は、台所という空間の中での、マルタでいう
「いい場所」にあてはまる。

台所は大地の炎の力に結びつき(04)、
ウクライナでは、そこでは大家族が一同に会し、「座ったり、料理をしたり、
食べたり、洗濯をしたり、寝たり、何でもする」(06,07)
ウクライナの台所とはそれ自体が聖地であるという以上に、家そのものであり、
家族にとっての全世界であった。
ウクライナにとって、そこはさらに、「いい場所」という中心点が必要になる。

マルタの「いい場所」もまた、それはこの世ならぬ世界の道しるべであり、
みあかしに照らされた光の記憶は夢見の衝動を誘い(08)、
聖母子像は母胎回帰の夢想と他の信者とのネットワークを示し(05)、
そこに家族の思い出を結びつけるメモリーバンク(06)でもある。
それがなければ台所は「からっぽ」なのである。

--
私の聖地は、何処だったのだろうか?自分が生まれ育った町が聖地
(生地)ということか。それにしても、エレサレムは素晴らしい
聖地であった。 生生しいが!       (o ・д・)ツ  バイ!
・・・・・・・・
2006年03月27日(月)
1819, あちら側の世界 -2  
    才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
ウェブ進化論 」-2  ウェブ社会の現状は?
  
ー「あちら側」のウェブ社会と「こちら側」のリアル社会は、あまり
 融合しないのではないかー 若い人が当たり前だと思っていることでも、
 リアル社会の大人たちは何にも知らない。ネットの「あちら側」の
 興奮はリアルの「こちら側」には全然伝わらない。
 ウェブ社会とリアル社会の本質的融合はイメージできない。
 ウェブ社会では特殊で不思議なことが起き、影響力が大きくなっても、
 普通に暮らしているリアル社会の人には全然見えない。
 
 家庭で言えば、お父さんとお母さんはリアルの社会で暮らしている
 一方、15歳と13歳の子どもはアフィリエイトとグーグルの
 アドセンスで小遣い稼ぎしている。昼間、学校に行ってる間に、
 子どもたちの分身のウェブサイトがパートの母親より稼ぎだす。
 でも、親にはよくわからない。子どもは相変わらず「勉強していい
 大学行きなさい」と言われ続けている。若い人たちは「説明しても
 しょうがないからいいや」となってしまう。「ウェブ」と「リアル」
 の隔絶は時間がかかる。

 生まれた時にはウェブがあった子供たちが、リアル社会の主役に
 なると変わってくる。だから長い時間がかかる。世代交代によって
 しかリアル社会への変化は起きないように思う。

シリコンバレーから、日本のIT産業をどう見えているか?    
 現在の日本のベンチャー企業のあり様は、20年から25年ぐらい前
 のシリコンバレーに近い。90年代後半にシリコンバレー型の起業家
 経済の種が日本にも輸出された。日本社会でも芽が出てきている。
 普通の経済ルールとは違うから、鬼っ子みたいな企業も生まれるだろう。
 でも、種は植えつけられた。だから20年ぐらいかかると、
 そういう起業家経済圏が広がってくる。

 例えば、ビル・ゲイツは50歳、スティーブ・ジョブズも50歳。
 PC産業が誕生した70年代半ばに20歳ぐらいだった人が、
 成功したのが80年代前半。ゲイツら有名人だけではなく、
 そういう企業の成長期に会計士や弁護士で入った人がいる。
 ベンチャーキャピタル(VC)でも、グーグル、アマゾンなど
 への投資で知られる大手クライナー・パーキンスのジョン・ドーア
 とかも同じ世代だ。

 彼らは、まず親しい仲間と会社を立ち上げた。
 その後、違う会社で失敗したり成功したりして、ある人に引っ張ら
 れてこっちにきた、というようなことを繰り返している。
 彼らは30年間、同じような経験を積み重ねてきた。一緒に仕事した
 経験の蓄積が、あの土地で見えないネットワークになっている。
 シリコンバレー活性化の理由は、このコミュニティの存在だ。

 日本の30歳前後の起業家にも、5年ぐらい前から同じような
 ことが起きている。現在の若手のソフトハウスの社長も20年も
 すれば、50歳ぐらいになる。このコミュニティに広がりがでてくる。
 何かやろう、となっても電話一本で、さっとチームができる。
     
シリコンバレー型のベンチャー企業には誤解もある。
 起業家経済圏というのは「無」から「有」を生み出す世界だ。
 起業家は新しい技術やビジネスモデルで社会に大きな貢献を果たす。
 それに対して、例えばライブドアの事件は、報道によれば
 「生み出していない」のに「生み出した」とウソをついた、
 ということになる。「売り上げは全然ありません、でもその会社
 には高い時価総額がつきました」という話と、ライブドア事件
 混同してはいけない。つまり「すごい技術を開発しました。
 でも売り上げはありません」と正直に言える会社には種がある

その種をどう評価するかはマーケットの問題。 マーケットが、評価するか、
しないか、ということは、起業家経済につきものの「ゆらぎ」なんですよ。

大企業になると客観的な評価基準がある。
「無」から「有」を生み出す最初の過程には、ものさしがない。
売り上げがなくても、「この会社の価値はすごく高い」とか
「才能のある人が10人、20人いるから何かを生み出してくれそうだ」
といった期待値をお金の額で評価しなければならない。
この見極めが難しい。だが、その過程がないと、起業家経済圏は
育たない。そこで重要なのは、ベンチャー企業が正直に自らの
情報を開示しているかどうかだ。                          
             ー  つづく   βyёε('c_,'`)з゛ 

・・・・・・・・・・
2004年03月27日(土)
1089, その一言が運命を!

私の最大の欠点は一言多いことである。
それも親譲りの胸を深く切り裂く言葉を言ってしまう。
子供の頃、父親の言葉の鋭さが一番恐ろしかった。
そして、その部分を引き継いでしまったようだ。

昨夜もスナックのママから以前、「グサリと、一言で刺してしまった」
状況をリアルに聞かされてしまった。ついついジョークで言ったつもり
が心の一番深いところをついていたからだ。本当に困ったものだ。

さらに、学生時代のゼミで現象分析の訓練をしたためか、
一瞬で言葉が脳に出てしまう。当時の日記を読んでいると、
その当時言ってしまった「その一言」の多くが思い出される。

家内も私に負けず言葉が鋭い。言い違いや甘さに対して、即座に
強烈な皮肉で帰ってくる。言葉に対しては家庭内でも真剣勝負である。
結婚当初になるが、泥酔している私の顔を見て「白ナス!」と
言われたことがあった。鏡を見たら、本当に白ナスのような顔であった。
「言葉の持つ恐ろしさ」をいっている格言が幾つかある。
   自戒を込めて列記してみる。
・「神は言葉が持つ破壊的な力から私たちを守っていてくださる!
  鋭い刃物よりも胸を深く切り裂く言葉がある。
  一生胸に突き刺さったまま忘れられない言葉がある」
・「賢者の口は心にあり、愚者の心は口にある」
・「ガチョウのわめき声は、ライオンの爪よりも痛みを感じさせる
  ことがある」というスペインの諺がある。
・「黙れ、さもなくば沈黙にまさる言葉を口にせよ」ーピタゴラス
・「ふさわしいことを話すのだ。それができなくては黙ることだ」
  ジョージ・ハーバード
・「気難しい口調で真実を述べるくらいなら、沈黙を守っていないほう
  がましだ。それは美味しい料理にまずいソースをかけるようなものだ」
  ーー
 言葉は人を生かしも殺しもする。
 一度発した言葉は元に戻すことはできない。
 これで人生の幅をいかに狭くしてきたことか。
 
 特に酒の入った時の言葉の鋭さは「気違いに刃物」である。
 酒を飲むときは「一期一会」という気持ちで飲んでいるのが
 逆に悪いのだ。酒は脳に敵を入れ込むようなものだ!
 
 悪口や陰口は言わないようにしているが、逆に目の前では
 抑えることができない。今更、陰口に切り替えるわけにもいかない。
 陰口をいくら言われても、目の前でグサリとやられるより傷は少ない。
 あまり懇意な集会以外は行かないことにしている。
 特に殿様蛙のあつまるところには。

 ・・・・・・・・  
 2003年03月27日(木)
 722, 「日本酒について」

新潟といえば「酒と魚と米」と美人?である。
新潟の酒に対して書いてみる。
朝日山の「久保田」とか「越の寒梅」などの全国的に知られている酒がある。
全国的でないが、ほぼ匹敵する酒として「麒麟山」や「雪中梅」や「〆張鶴
「八海山」「マスカガミ」など数え切れないほど美味しい酒が多い。

私レベルの評価なので、かなりの先入観が入るが
「ごく普通の新潟の酒飲み」の実感を書く。
・「越の寒梅」は確かに美味しい、といって「麒麟山」や「〆張鶴
 などの酒と比べてほとんど味のランクは変わらない。
 ブランドという自己満足という事だろう。
・「麒麟山」と「〆張鶴」と「越の寒梅」を並べて飲んでも、
 銘柄を当てる事が難しい。
・私の好きな酒は朝日山の「吟醸古酒」である。ただ一時期
 飲んだが、今は飲んでない。ワインを飲んでいる感覚になる。
 あとは「〆張鶴」と「辛口菊水」である。」
・地味だが、長岡の老舗の酒の「吉乃川」も美味しい。

あるレベルを超えると酒は同じ味に感じるのも事実だ。
ところで次元の低い話だが、日本酒の場合、二種類の酒を混ぜると
美味しいほうの酒に味が移行する。自分のブレンドをつくるのもよい。
以上のことは新潟の酒好きの人は大体同じことをいうはずだ。
新潟はこと酒と米と魚は間違いなく美味しい! あとは美人か?
 http://www.sakesake.com/kurabetu/12.html

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2002年03月27日(水) 358,縞模様

縞模様は、中世では囚人やらい病や魔女とレッテルを
貼られた人に着せられていた。悪魔の象徴の模様が由来という。
それがパジャマの模様で着ているのは、どういう理由なのであろうか。
囚人服や病院服と似ているのは?

悪魔の模様であったのが、いつの間にか日常に使われているのが面白い。
よこしま(邪ま)な野郎だ、という語源がここから来ているとは
思えないが。明治や慶応のラグビー部が確かこの模様であったが、
知っているいるのだろうか。いや相手がこの模様のために、少し臆して
しまうのを狙う効果もあるか。シマウマは悪魔の馬と聞いた事がない。

そういえば葬式の時、バックに張る布も縞である。
いやあれは縦縞か。