インドの民 ー3

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 日本人のような、建前と本音を使い分けている民からみたら、
この世界は異様で、本音だけで生きている世界に嫌悪感をおぼえるだろう。
 地方の人が、東京に出てしばらくすると、そこに露骨な階級社会に
気づくことになるが、それは、察知するだけで表立ってない。
 しかし、インドは皮膚の色や、骨格、服装からして、三千年の積上げで、
違っている。まあ、これもありなのか? と・・



2007年09月09日
ベナレス-6
2,ヒンドゥー教とは
ヒンドゥー教は紀元前一五〇〇年頃に西方からインド亜大陸に移住してきたアーリヤ人
信仰していた祭祀中心の宗教を核にして、先住民のもつさまざまな民間信仰を融合して
発展してきた。それ故・この宗教には開祖が存在しないが、
そのかわり『バガヴァッド・ギーター』(神の歌)など、人びとを宗教的な道に導く
数多くの聖典が編纂された。
ヒンドゥー教は基本的には多神教であるが、それらのうち主要な神のどれもが
最高神と考えられるという独特な神観念を持っている。
ブラフマー神(梵天)・ヴィ・ンユヌ神、シヴァ神がそれぞれ世界の創造・維持・破壊を
司るという三神嫡体の概念も生み出されたが、ブラフマーは相対的に地位が下がり、
現在ではシヴァとヴイシュヌ・それに宇宙の根源的力を象徴する女神信仰が盛んである。
根本的な教義としては・暴人にもなじみが深い驚と輪廻、解脱の思想が説かれるが、
宗教的な営み(ダルマ・法)とともに、実利(アルタ)と性愛(カーマ)も人生の目的と
されている。ヒンドゥー教は禁欲的な審や修薯たちだけのための宗教ではない。
一般の人びとが幸福に暮していくための必要な欲望は認めているのである。

5、ヒンドゥー教聖典
ヒンドウー教の聖典は、天啓聖典と伝承聖典に大別される。
天啓聖典とは人間以外の存在によつて示されたことを聖仙たちが霊感で
受け取ったものである。もつとも古いのは『リグ・ヴェーダ』(紀元前一二〇〇年前後)
をはじめとする四つのヴェーダ聖典で、インドラ神(帝釈天)などの神々への讃歌を中心に、
世界創造の神話などが説かれている。
前五〇〇年を中心に前後数百年のあいだには、『チャーンドーギヤ.ウパニシヤッド』
など数々のウパニシヤッド聖典(奥義書)が編纂された。
これらの中には、世界の最高神の背後に最高原理を追究する思考が顕著にうかがわれ、
また輪廻と解脱の思想もここに最初に現れた。
一方、聖仙によつて説かれたものは伝承聖典といわれ、その代表に『マヌ法典』
(前二〇〇~後二〇〇年)がある。法典と訳されるが、その場合の法とは人間の行動の規範、
社会的.宗教的義務を意味し、法律の規定も含まれるが、全体的な内容はヒンドゥー教
百科全書的なものである。
また、パラタ族の領土をめぐる親族間の抗争を雄大に語る『マハーバーラタ
(後五世紀頃に現形成立)と、ラーマ王子の英雄流離葬『ラーマーヤナ

2007年09月08日
ベナレス-5

ー多様なるインド世界ー
インドは日本のおよそ九倍にあたる三二九万平方キロメートルの面積を持つ。
これは西ヨーロッパの面積にほぽ等しい広さである。
そこに現在十億を超す人びとが暮らしている。
多言藷・多民族の国家であることは言うを待たないが、宗教もまた多様である。
古代から育まれてきたヒンドウー教のほかに、仏教やジャイナ教が紀元前五世紀頃に
相次いで生まれた。紀元後ほどなくしてキリスト教が伝わり、ハ世紀には唯神アッラー
信仰するイスラーム教が本格的に到来した。
またヒンドウー教とイスラーム教双方の教義を批判的に融合したスィク教も
十五世紀に興起する。
ヒンドゥー教と仏教は輪廻や解脱の思想を共有する、いわば兄弟のようなものである。
兄たるヒンドゥー教は古来からの儀礼やしきたりを守つてきたが、そのためさまざまな
迷信や俗信をも抱え込むことになった。一方、弟の仏教はそういう兄を理詰めで批判し、
外の世界に広がっていったが、インドでは十三世紀にイスラーム教徒の仏教僧院破壊を
機に、すたれてしまった。仏教がインドで復活するのは二十世紀半ばのことである。
インド亜大陸では現在でも宗教問の争いが絶えないが、それは主として政治的不安定に
起因する。庶民は心の底から平和を祈っているのである。
ーー
解)
それにしても、3千年前にアーリア人がインドを征服した時に、
地元民との混血が、自分達の存在を脅かすと考え創った物語が
三千年の時間をかけて白・赤・黄色・黒の人種の垣根をつくり、
それぞれが交わることなく現在に至っている。
そして、今でも露骨な人種差別ーカースト制度ーが社会を支配している。
人間は平等です? そんなことは有りえない! それはあくまで奇麗事というを、
インドの社会が正直に露出している。考えてみれば平等などあるわけがない。
それを実現しようとした社会主義こそ、そのウソ、建前を知らなかったのである。
優勝劣敗は哀しいことに、世の習いである。
(後三世紀頃に現形成立)は、インドの国民的叙事詩ともいわれている。
とくに『マハーバーラタ』に含まれる『バガヴァッド・ギーター』(神の歌)は、
ヴイシュヌ神が行為の結果を考えることなく自分の担うべき義務を遂行することを
説くもので、現在ビンドウー教徒にもっとも愛されている宗教書といえる。

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解)
むげに否定することは出来ないが、それにしても酷いものである。
当時のアーリア人の何とも嫌らしい意図が露骨といえば露骨である。
支配のための宗教などが、このように露骨なカタチで残っている不思議。
それが地球上にあるのだから、何とも言いようがないのである。
明治憲法も、似たようなものだが。それと、葬式で食べている現在の坊主!