インドの民

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 異質という点では、インドは一番である。
三千年前にアーリア人が、インドに進出してきたとき、
その支配を明確にするため、肌の色別で階級を作った。
その裏付けに、ヒンズー教を作り、カースト制度をつくり、
現在に至っているが、それが露骨に現れ出ている。


・・・・・
2001/12/21
[139] カースト制度-1  

インドに行ったときそのカースト制の現状かいま見た。
4つの階級、その中に500以上の更なる階級があるという。
白、赤、黄色、黒色とみれば、直ぐ階級がそのままわかる。
3000年前、侵略してきたアーリア人(白)がその維持のため、
宗教を創った。そして人種が混ざらないカースト制度をつくり、
その階級を3000年維持してきた。彼らはその理屈はわかっている。
ただ3000年かかった、その積み重ねからくる体質はどうにもならない、
人種の差を作ったしまった。
日本にもそのカースト制があるという。
今崩壊しつつある、体制がカースト制そのもの。
学生の時、すぐそれを感じ取った。そのカースト制だ。但し学生は大学の
優劣だけで済んだ。都会ではそれが露骨だった。1、どこの大学を出て、2、家柄はどの程度で、
3、収入はいくらか、4、地方出か都会か。
大体これで決まる。それでまずその連中が友達友人になっていく。
ガールフレンドももちろんその範囲。
金持ちの友人がいた。かなりのカースト制度者であった。
こういう考えがこの世にあると初めて知った。
学校でまず露骨の差別、次に家柄、そして能力、地方かどうか、女性なら容姿と、
その一つでも80以下は眼中にない。そう勝手にきめっていた。






1788, 愛のアフォリズム-3
2006年02月24日(金)

                  -読書日記
ー情熱
情熱はさめると氷より冷たくなります。 (ジャ・シャガール
     ー     !
情熱を癒すことができるのは分別ではない。別の情熱だけである。
                 (ルートヴィッヒ・ベルネ)
     ー多情女か?・・・
私たちが情熱から解放されるのは、その情熱をとことん
               味わいつくした場合だけである。
                  (マルセル・ブルースト)
     ーそりゃそうだ!でも、そうでもない場合もあるが!

火が欲しかったら、煙ぐらい我慢しなくては。(ドイツの格言)
     -その煙がむせぶからね~?  (〃 ̄ω ̄〃ゞ
                    
カップルが幸せになるケースはごく少ない。
情熱が荒々しい炎が燃えつきる前に、愛着というおだやかな火を
なんとか焚きつけることが出来た場合だけだ。
                  (ジェローム・ジェローム
      -そうか・・  性格もあるけど!
愛は生理的欲求であり、不可避の身体機能である。(エルベシェス)
      ― 一升瓶?
愛とは、心に感じられるものとなった空間・時間だ。(マルセル・ブルスト)
      -牢獄にもなり、宇宙空間にもなるということ?
          (●ゝω・)ノ【 love = 時・ 空間 ☆】
頭は真理によって輝き、心は愛情によって輝く。(ロシアの格言)

愛情によってのみ、人間は自分自身から解放される。 
                  (フィリードリヒ・ベッヘル)
      ー相手からも解放される!
恋人を棄てるのは、空想力が衰えたことを証明する。
                  (ホーフマンスタール)
      ーその反対もあるからね~
              たくもう~!
          (*・ω・)(・ω・*)ずっと一緒にいようね!
              な~んてのは一年まで!ー

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2005年02月24日(木)
1423, 名画200選 -読書日記
購入して数ヶ月、時々読んでいるが味わい深く飽きない。
その半分は観たことがあった。思ったより多く観ていたのには自分でも驚いた。
そのうちTVで観たのが、半分だろうか。
この本を読んで初めて「成る程!」と、今になって感心をしているものが多い。
ラブストーリーとか、ウエスタンとか、サスペンスなどのジャンルに
分かれているので読みやすい。
映画は日々つくられ、無数の映画のなかで見れる映画は限られる。
その中で、よほど良い映画でないと残らない。
そのため、名画200選の一つ一つの内容の説明・解説に説得力がある。
名画は古典の書と同じで、良いものは何時まで経っても残る。
黒澤明の「7人の侍」など何回観ても感慨が残る。
私が時々に感動したと、いま現在いえるのは
ベンハー、アラビアのロレンス駅馬車、荒野の7人、ウエストサイド物語、
モダン・タイムス、ゴッドファザー、ダンス・ウィズ・ウルブス、
そして、太陽がいっぱい、などなどである。
しかし、最近の映画があまりにも面白く心に残るものが多い。
 ーー

ビデオで観たい名画200選
 淀川 長治 (著),佐藤 有一 (著) 知恵の森文庫
生涯を映画にささげた「映画の伝道師」淀川長治は、
1998年11月11日この世を去った。本書の原稿を書き終えたのは同年の春。
それを弟子であり、共著者である佐藤有一が丹念にまとめ上げ、
淀川の死後から2年の歳月を経て完成させた。本書は「もっと映画を観なさい」
と言い続けた淀川長治の遺言書であり人生の集大成といえよう。
本書のつくりは、
「ラヴ・ストーリー」
「サスペンス&アクション」
「SF&スペクタクル」
「ウエスタン」
「ミュージカル」
「ヒューマンドラマ・アメリカ編」
「ヒューマンドラマ・ヨーロッパ編」
という7つのジャンルに分かれており、
見やすい見開き1ページで1作品を紹介するかたちをとっている。
各ページは、
映画のあらすじ、
見どころ、
名場面の写真、
厳選キャスト1名の経歴紹介、
映画の基本的な情報ガイド、
そして淀川独特のやさしい語り口による解説
淀川長治のONE POINT」という構成から成る。
淀川長治のONE POINT」以外は佐藤が執筆している。
読んでみると2人の解説が作品によってまったく違う視点で
とらえられていることがわかり、味わい深い映画評となっている。
また、映画ごとのビデオ・DVDリリース情報と、読者が観終わった
映画を評価する塗りつぶし用5つ星が付いているのも本書の特徴だ。
2人の選んだ200作品に片っ端から星を塗りつぶし、
自分なりの名画選をしてみるのもおもしろい。(中西リエ)

・・・・・・
2004年02月24日(火)
1056, 千回の力
「何事も千回続けると、何かが見てくるか、何かを感じるようになる」という。
散歩時に「ありがとう」を言い続けて、千回を越えたあたりから何かが変わる。
心から「ありがとう」の言葉が出てくるのだ。
そういえば、この随想日記も千回を去年の暮れに達成をした。
千回を達成した安堵感の為か、その後何も考えたことがなかった。
そこで改めて「何か変わった事や感じることがあっただろうか」
を内省をしてみることにする。
・ものを見る眼が全く変わった。
 ー記者の目、書き手の目で現象を見る習慣がついた。
・テーマ探しを無意識にするようになった。
・そして、そのテーマに対し内省をするようになった。
・脳内サテライトの面白さを実感できるようになった。
・自分が知らない読者や、子孫を意識をして書くようになった。
「何かが見えたか」と問われれば、別に何も見えないし、
「何か感じたか」と問われても、何も感じない。
しかし、書き始めた以前と、それ以降という感がする。
脳内を公開することが想像する以上のインパクトを自分に与えていることになっている。
書いている内容に対してコンプレックスも自信も、全くない。
ただ考え、感じた全てを、書き込んでいるだけだ。
その集積が、基地としてのネット上にあることは異様な感じである。
「石の上にも三年」も大よそ千日である。
一つの言葉を気持ちを込めて千回いえば、大よそのことが達成可能になるという。
「駄目だ駄目だ!」と自然に流されれば、繰りかえしてしまうものだ。
言葉は、意識して使わなくてはならないと解っているが・・・

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2003年02月24日(月)
691, 「わたしを認めよ!」-2 「読書日記」
 ー 気になったところを書きうつしてしてみた。
「ふつう」の意味とは・・
 普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれない。当然である。
 だれも知らないからだ。
 わたしが考えるふつうとはこういうものである(普通」と区別する)。
 奴隷みたいな退屈な生き方が上と下の中間(中流)に落ち込んだ普通だとするなら、
 目指されるべきふつうとは、みずから選びとった〈中間〉のことだ。
 普通が惰性なら、ふつうは意思である。
 すなわち、その場その時に可能な限り最善の判断をしようとすること、それがふつうである。
 たしかに、普通に生きていくのは簡単ではない。けれどもふつうとは困難にして容易である。
 できるかぎり認識と思考の元手をかけて、どう考えてみても自分にとっては
 これが最善であり 最も正しいとおもうことを、覚悟してやるしかないのである。
 むろん判断は一回かぎりではない。 覚悟もまた一回かぎりではない。
 ・・・「断念」について・・
 いうまでもなく、自己承認は挫折の連続である
 (それゆえくりかえし打ち立てられなければ ならない)。
 自分はよくやっている、だれが認めなくても自分が自分を認めるという
 弧絶した 自己承認には限界がある。
 すくなくとも、わたしが承認する一人の他者から、
 わたしは根本的に承認されているという 自己確信は不可欠である
 (たとえ錯覚であれ、この確信がなければ、そもそも 〈少しだけ大きな他者〉
 などただの戯言にすぎない。そこまで個人は強くない)。
 世界のなかで、わたしはすくなくともひとりの人間から承認されているという
 確信さえない ところには、ほんとうの勇気や元気は出てこない。
 ところが、ここには根本的な逆説がある。だれも認めてくれなくても、
 自分はあくまでもふつうを一生懸命生きるという覚悟のない者には、
 他人からの信頼に値する承認はもたらされないという逆説である。
 承認は循環するのだ。 その場その時に、最善の判断と選択を求めつづけたあとに
なにが残るか。信頼するに足る承認が わたしに残る、とわたしは信じるが、
それと同時に、ある種の断念が残るとおもう。 家族、性、社会も、金も、セックスも、
有名であることも、そしてあくまでも自分らしく ありたいという欲求さえもが断念されるとおもう。
 人事をつくしたあとの行方さえ、断念しなければならない。
 わが はからいには あらずという言葉が、私の頭の奥にいつも響いて消えません。
 「なるようにしかならない」と思い、さらに、しかし、
 おのずと必ずなるべきようになるのだ と心の中でうなずきます。
 そうすると、不思議な安心感がどこからともなく訪れてくるのを感じる。
  (五木寛之『他力』講談社
 この安心感のなかには、人事をつくしたあとに、
 もしそれでも承認がもたらされないのなら、それはしかたがないという断念がある。
  もう、それでいいではないか、という断念の強さがあるとおもう。
・・・・・・・
 ちなみに著者は1947年生まれの団塊ではあるが「平凡パンチ」にも「朝日ジャーナル
 にもかすらず生まれてこのかたドライヤーをただの一回も使ったことがなく、
 麻雀牌を握ったこともなく、クラブ・バー・キャバレーの類の店には
 一歩も足を踏み入れた こともなく、競馬場競艇場競輪にも無縁で、
 車の免許持たずカラオケも基本的には好まず、 赤提灯にも無縁ゴルフもやらず、
 どんなサークルにも属していない洋書輸入会社の勤め人という。
ー感想
 地方にいると「部落」的噂社会に呆れかえる。
 もっとも都会は内幕情報社会だが。
 この三層の元-下層は「魂」で、その次は「社会」そして「世間」になる。
 子供時代は「世間」レベルしか見えない。
 成人になるにつれて「社会」レベルに生きる比重が大きくなり。
 成人の後半になるにつれて、魂の世界比重が更に大きくなる。
 前に書いた「厭なことはなるべくやらない!」の世界である。
 三層の世界をきっちり意識していれば、
 特に世間の現象をクールに対処する事が できそうなのだが。ーつづく
                        
 ・・・・・・
 2002年02月24日(日)
 341,遊びについて-1

人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。
そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。
まずその達人を事例で考えてみる。一番身近では母がそのプロ?であった。
戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、父とともに
苦労の連続であった。そして長男、次男の連続の不幸な死で今の重症の
ノイローゼーになった。心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。
亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。
それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。
約40年近く遊びきって亡くなった。日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。
毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。子供ながらに、そのエネルギーに
感心をしていた。遊びの重要さもそのため学んだ。
重点としてだが父は「働く人」、母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。
ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。「遊び」を儒教的影響の為か
キリスト教的倫理観の為か、罪悪と教えられてなかったか。
子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。ただただ無心に遊んでいた。
あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。
人間は生きていかなくてはならない。その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。その為に勉強もしなくてはならない。
しかしそれだけでは、それだけの人生だ。それがクロなら、その対象の白が必要。
どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。
それを特に母の生き様から学んだ。
一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。
どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。その為に、お金をセッセと
溜め込まなくてはならない、「馬鹿な?生き物」である。
遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。
そうすると、仕事も遊びになりうる。天才はその典型であろう。
あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。
何でも遊びの対象にした「遊び心」を。純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。
「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」と暗示をかけられてないか?
私の趣味の一つにウオーキングある。
初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。
純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。
その中に純真な遊び心が躍動を始める。何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。
それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。パソコンもそうだ、
このホームページもそうだ。そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。
「遊びになるまで集中する」という事か。
これから散歩だ!

・・・・・・
お笑いコーナー
ー下ネタ

弁護士が奥さんとパリの酒場で飲んでいると、
いわくありそうな(娼婦ふう)女性が
にやりと笑いウインクをしてきた。
 弁護士、心中しまったと思いながらも平然と、
‘イヤ-ちょっとした仕事の知り合いで’としらばくれて言った。
 奥さんもすかさず‘どっちらの方(かた)の、 ビジネス?’