ー知の逆転ー  対談相手 オリバー・サックス
   * 人間特有の能力とは
 人間特有の能力とは、「文法」と「読む能力」という説。これは50年近くの
読書習慣と、一日一文章の作成から実感するが、少年期に読書週間がなかった
ことがハンデになって現在に至っている。それでも、この習慣で助けられた。
文法こそが、多くの意味をもたらすが、技量をつけるには量をこなすしかない。
≪ ・多くの動物や猿が、40もの異なる危険を知らせる音を持っていること
 が知られていますが、これらはどちらかというと記号のようなものです。
人間の言語では、チョムスキーの言うような意味での「文法」というものが
不可欠になります。文法こそが言語に限りなく多くの意味というものを生み出す
ことを可能にし、言語をクリエイティブなものにします。単に情報交換を目的と
したコミュニケーションのためだけでなく、われわれ自身そのものを表現する
手段としての言語というのは、人間に特有のものでしょう。
音楽もそうです。録音機を持って50万年前に戻れたらいいのですが。
・言語の一側面である「読む能力」というものは、強力で人間に特有なもの。
しかしこの能力は進化の直接の産物ではありません。環境の視覚認識のために
使われていた能力を利用したものです。類人猿では個々の記号を認識するところ
まではできても、テキストを読むというのは無理で、これは人類に固有の能力で
あろうと思います。この能力は、限られた知能しかない場合も含め、おしなべて
人類に共通する能力なのです。 〜p153 ≫
▼ これを人間の能力にも言えること。その力量に比例して「文法」と
「読む能力」が身についていく。「文法」は、話す能力、書く能力。
「読む能力」は、相手の、社会の発信する知識・情報を受止める能力になる。
14年間、これを続けてきたのは、この努力の効果と、その蓄積からくる醗酵の
効果が実感できるため。 ネットによる「文法」の意味とは、<広義の文法は
言語能力であると考え、音声や意味から独立した自律的 な構造を想定し、
それを特に文法と呼んでいる。> 言語能力こそ人間たる思考能力になる。
読め読め読め、聞け聞け聞け、書け書け書け、そして黙って考えろ!ですか。
・・・・・・
4786,自分の頭で考えるための哲学講義
2014年04月22日(火)
         「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜
  * 価値教育とは?
 20歳から30歳までは、変化の連続になる。社会人、結婚、早ければ父親、
と、色いろと変化をしていく。そして、年々、就職先、結婚相手の選定など、
人生を大きく左右する決断が突きつけられる。その中で、大きは危機が
体質の変化時の24歳頃にやってくる。それが人生の大きな分岐点になる。
ここで悩み、基礎を固めておかないと、長い実社会の中で、大きな落とし穴
に落ち込んでしまう。精神的には鬱病、分裂症など。社会的には突然の失業
とか大病とか・・ そこで直面するのが、人生の意味と、価値感である。
その辺りを「アメリカ道徳教育からわかること」の小項目で取り上げている。
   ーまずは、その辺りを抜粋するー
《 価値教育とは、子どもの全人的尊重と、その自主的な全人的な働きによる
 価値の明確化を援助する方式をとる。従って確定した知識を権威として教師
中心に教え込む指導方式とは根本的に違う。・・ アメリカの教育学には、
二つの大きな流れとして本質主義進歩主義がある。
・前者は、歴史の試練に耐えてきた文化遺産の教育的価値を重視し、学校には
それを次世代に伝達するという、社会から依託された任務があることを強調
するのに対して、
・後者は、子どもの興味・関心・成長欲求を受けとめ、自発性・主体性を尊重
して活動意欲を引き出すことを重視する」と。 そして、本質主義に基づき
価値の伝達に主眼を置く教育が、価値の押しつけにすぎないとして批判される
につれ、進歩主義に基づいて子どもの価値表現や価値判断を重視する教育が
主張されるようになったといいます。そして現在では、両者の統合が課題に
なっているそうです。私が注目したいのは、もちろん後者です。
つまり、子どもたちの価値判断を重視する進歩主義的な教育です。たとえば、
ラス、ハーミン、サイモンらが『道徳教育の革新』のなかで主張した
「価値の明確化」という概念があります。彼らは、すべての人が同じ価値観
をもつことはないという前提のもと、それぞれの人が自分なりの価値観を
確立する手法を明確化しようとしました。 それが次の7つのステップです。
選択すること:①自由に選択する ②複数の選択肢の中から選択する、
     ③各々の選択肢の結果についての十分な考慮の後で選択すること
尊重すること:④尊重し、大切にする、⑤肯定すること、
行為すること:⑥選択に基づいて行為すること、⑦繰り返すこと。
 これらの七つを満たしたものを「価値」と呼ぶそうです。 》
▼ アメリカ的価値観が、そのまま現れ出ている。「神の前で、それぞれが
 経典に従い、自主独立で、前向きに生きなさい」という事だが、更にマトメル
と、【自由に、複数の選択肢の中で、充分考慮した上に、大切に、肯定的に、
選択した行為を、繰り返すこと、を満たしたのが『価値』】ということになる。 
価値観は、それぞれの年齢で変転していくため、人生は、何時も学び続け
なければならないことになる。まずは両親など家族からの価値観から脱皮する
には、この7つのステップは有効にはたらくだろう! そのためには、教養が
必要条件になる!三年前の【3679, 自己を見つめる−6 2011年04月22日
「自己を見つめる 」渡邊二郎 (著) 】が、続きになる!
・・・・・・
4419, この結果に感謝している!
2013年04月22日(月)
 一昨年の倒産劇から数ヶ月あたりから、
「この結末が私の人生にとってベスト?」という思いが心の片隅に生じていた。
他人に言うべきことでもないし、失業させてしまった社員や役員に対しても、
こんなことは口が裂けてもいえないこと。2001年の9・11テロ以来、10年間、
右下がり傾向が続き、リーマンショックで売上げが三分の一まで落ち込んでいた。
経営は死に体に近づき、真剣に止め時を探っていた矢先の東北大震災。もう駄目!
と早めの決断をした。その事業物件の買手が直ぐに見つかり、同じホテル名で
新経営者の下で現在、営業が続いている。一般債権もほぼゼロで、金融債権以外
は思惑通りの清算ができた。会社借り入れの個人保証もあって普通なら個人破産
しかないが、物件の処分が順調だったこともあり、何とか破産なしの無傷で
済ますつもり。担保に入っていた自宅も、家内が買い取ることで確保。 何とか
今までとおり生活をしている。 順調に誰かに経営を渡すのと、この結果の
どちらが良かったか、勿論、前者と思うが、こと私の人生という面からみると、
この方が良かったとも考えられる。 全てがベストに動いてきたから、人類も、
自分もいる。 先日の高校の同級会で、半年前に老舗の会社を倒産させた人が
隣でシミジミと、「この結果で終わったことに感謝している。こんな気持ちに
なるとは思ってなかった」と、現在の私の心情と同じことを、そのまま語り
かけてきた。 これは実際に経験した者でしか言えない言葉。無念で、情けない
自分と、周囲の好奇の視線の中、独りで日々、悶えた結果、この現実をそのまま
受け入れるしかない中で、実はこれがベストの結果だと気づく。「この苦しみを
与えているのは、神(自然)が、何かの意味を気づかせようとしているのでは
ないか」という、フランクルの問いかけである。その時に自然に出てきたのは、
「この経験で私は、やっと半人前になったが、貴方は以前の不幸分を加えると、
半人前から一人前になった」で、ある。互いの心奥の葛藤と、その思いは同じ。
過去を振り返ると、何度かのどん底の青春期の日々にこそ、人生の味があった。
思い出すのは絶頂の浮かれていた日々でなく、瀬戸際で呆然と過ごしていた
日々である。あの時、何かが変わろうとしていた。それと同じ心情が、
「この結果(状況)に感謝!」の言葉に集約されている。底に下りてしまえば、
不安感など消滅。結果を素直に受け入れれば、そのまま安心立命の境地に到達
できるのが人生。実際に倒れ、孤立し、そこで人生を俯瞰すると、全く違う
目線を得ることが出来る。その視線から、これまでの人生を振り返ると、
何とつまらない自分が見えてくる。だから、「この結果に感謝している!」
の言葉になる。なかなか人生は味があり、面白い。
それを味わうのが、これからの人生。 
・・・・・・
4045, 末っ子はつらい ー3
2012年04月22日(日)
 私は10人家族の末っ子。 家が商家だったので誰も自分のことで手一杯、
互いのプライベートを見せないのが暗黙のルール。4〜10歳までは1Fが店舗、
2Fが倉庫と事務所、3Fが住居、4Fには住込みの女子従業員7〜8人が住む。 
食事は、何時も従業員と一緒。 小学校5年になって、7〜8分離れたところに
住居部分が移動した。雑然とした商家では独りで遊ぶしかなかった。末っ子は
親の目が行き届かない分、姉や兄の虐めから自らを守らなければならなく、常に
周囲の顔色を窺がう性格になっていた。特に父親が店と家族と親戚を束ねていた
絶対的存在で、父に媚びるのが効果的であるのを知っていた。そのため?末っ子
の私に甘かった。数年前、新幹線の乗客の会話で、「私は多人数兄弟の末っ子で、
常に親や兄弟から許されてきた。それが今でも直らず、失敗をしても許される
だろうという思い込みの性格が身について、大きな壁になっている」というのを
聞いて、「まさに自分そのもの!」と、驚いたことがあった。家族間では絶対に
互いの陰口はタブーで、兄や姉が他人の噂話をしたのを殆んど聞いたことがない。 
児童心理学では、家族は5人以上が必要という。一人っ子は同年代の心の内を知る
機会が少なく、孤独になりがちになる。 さらに親のかまい過ぎと、兄弟がいない
ため自己中心になってしまう。 家族の立ち位置で、性格が形成されるのは自然
の摂理。数年先が、それぞれの姉、兄の姿から見え、学ぶことが多い。
7歳年上の姉が勉強の仕方とか、自分の夢をイメージ化する重要性などを、
節目ごとに教えてくれた。ある意味で、一番、世話になった人である。末っ子は、
末っ子の欠点と利点がある。冷静にみて、やはり大家族は利点が多い。  
両親の要素もあるが。
  * 末っ子はつらい ー2 2002/05/08
 末っ子は辛いと、姉が聞いたら、「なにをいっているか!」と怒鳴られそうだ。
「両親に、兄姉にみんなに可愛がられて!」と。確かにそうだ。特に両親にとって、
ペットみたいな存在で、亡くなる時もしかり、傍にいた。そして遺言も財産に
関しても、不利にならないようにして亡くなった。 家は両親が死ぬまで常に
お手伝いがいて何時もチヤホヤされてきた。末っ子の特権を充分享受した。 
それと大家族は逆に孤独に強くなる。一人でいつも遊んでいた。後年になって
長姉がいうには、いつも一人で三輪車で遊んでいたとか。今も一人遊びが好きだ。
ノイローゼになる人は一人遊びの出来ない人。 幼児期・少年期は事業の立ち
上げ時で非常に刺激的な環境。 そういう意味で「三つ子の魂百までも」である。
それぞれの性格はその時代の背景と、血液型と家族関係と両親の年齢などによって、
微妙に変わってくる。 長男には長男の立場、末娘ならその立場で決まってくる。 
すぐ上の兄は、私の影的存在で?大人しい性格。「積み木崩し」というタレント
手記があった。長女、次女の次に男が生まれると、その次女がひねて非行に走る
ケースが多いという。  兄妹の立ち位置で、性格が決められる。
  * 末っ子はつらい ー1 2002/05/07
 8人兄弟の末っ子である立場の自分を書いてみる。少年期まで、末っ子は
上からの虐めがきつい。特にすぐ上の兄のそれがきつい。常に気を張って
いなくてはならないのがその宿命。食事も早く食べないと食べ分がなくなる為、
早食いが癖になっていた。多くの兄弟で育った末っ子は社長に向いているそうだ。 
他人の気持ちを読む習性が、それに向くのだろう。それと結婚の相手は長女が
いいとも最近聞いた。たまたま家内がそうだった。そういえば過去に惹かれた
女性は長女で、A 型で、おっとりタイプが多かった。また末っ子は口が堅くなく
てはならない。立場上、それぞれの兄姉の秘密を知る機会が多い。しかし万一
告げ口をしたら、袋たたきにあってしまう。家族はまず出会う初めての社会。
・・・・・
3679, 自己を見つめる −6
2011年04月22日(金)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
自己を見つめる、その自己とは? そもそも何だろうか? その自己は、
「少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って輝いた」のである。 
この世に表れでたのは、その存在理由があったのである。
  ー 第五章 自己 ー
【 およそ、あらゆる芸術家、学者、政治家、実業家などの、人類社会に
 貢献した人々はみな、その生涯において、自己決定の稀な瞬間を生きとおして、
 それぞれ個性ある一生を築いて、この世を去った。もちろん、際立った、選り
抜きの人々以外でも、考え直してみれば、あらゆる人間がみな、それぞれなりに、
自己の人生と運命を生き抜き、そのかけがえのない人生の軌跡を描いて、
自己の人生を全うしようとして、一生を走りとおしたと見なければならない。
 むろん、この世の人生においては、不運や事故、挫折や失敗が付き物であり、
多くの人々は、志半ばで、不幸のうちで倒れ、意に満たない、悲運のなかで
一生を終えた。けれども、人間はすべて、最後には、自分らしい生き方を、
運命として肯定しながら、この世に別れを告る覚悟で人生を生きるものである。
そこに、ほかならぬ、掛け替えない当の自己自身の人生が一回限りの形で生起し、
代りの不可能な、それなりの個性と必然性をもったものとして刻まれ、こうして、
永遠の闇から闇へかき消え、あるいは不減の魂のなかに久遠の記憶として残され、
少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って輝いたのである。 】
【 大切なのは、人間の存在の必要条件と十分条件とを峻別することにある、と。 
 人間が生物としての機能を果たして生きるということは、人間の存在の必要
条件を満たして生きるということにほかならない。また、人間が社会的存在と
して、なんらかの環境や境遇のなかに置かれて生存を営むということも、人間
の存在の必要条件を満たして生きるということのうちに入る。けれども、それだけ
では、真に人間的な自己自身として生きるということの十分条件が 満たされた
ということにはならない。衣食住の欲求を満たし、胃腸や呼吸が正常に機能し、
なんらかの社会的環境のなかに置かれて生きるということならば、誰もがやって
いることである。むろん、そこに、胃腸の丈夫な人とそうでない人、あるいは
比較的恵まれた環境に生きる人とそうでない人との差異はあるであろう。
けれども、そうした所与の心身の資質や社会的環境のなかにただ置き入れられて、
それにまったく受動的となり、なんら奮起することがないのならば、その人は、
ほんとうには、まだ自己自身に目覚めてはいないと言わなければならない。 】
 ― 自己の存在の十分条件を満たしたかどうか、それも充分かどうか、
   それぞれあろう。それは個性を発揮できたか、どうか。
・・・・・・・
3314, 聞きしに勝る3D/TV
2010年04月22日(木)
 最近、昼飯は外食を週一にして、サンドイッチを通勤途中に買ってきて
食べているが、昨日は、新潟駅の中華店でランチ。その後、ジュンク堂書店
向かう途中、ビックカメラの前を歩いていると、話題の3DTVが店頭にあった。 
昨日の新聞で一部の店舗でデモ展示を始めた記事を読んだ直後だった。
ところで、現在のTVは7年半になるパイオニアの50インチのプラズマ。
当たり外れの、当たり。しかし、地デジには特殊のマシーンを入れなければ
ならないので、替えときにきている。 先週の土・日に家電を見て周り、一度
頭を冷やした今週末に、シャープの60インチのLED・TVを発注と決めたが、
「3D/TVが700万台の新規需要の創造」とかいう週刊誌の広告が気に
なっていた。そこで早速、見たところ、その決心を覆すほどの画面。
映画のアバターを3Dでみて驚いたが、TVは大したことはないと思っていた。 
ところが実際は映画より良い。映画もそうだが、画面と自分の間に空間ができ、
更に画面の奥行きができたイメージで立体感を出している。デモ用の3D/
TVはメガネが固定してあるので、メガネをした時と、しないで見たときの
差が比べることが容易。そこで、比べた結果は格段の違いである。これで
大相撲や野球を見たら、迫力は数倍は違ってくる。デモ用のソフトは石川遼
ゴルフだった。なるほど週刊誌の見出しの「新規700万台の市場の創造」
の意味が分かった。十数年前に初めてハイビジョンが店頭に出たとき、ソニー
の画像を見たときの驚きと同じである。その時は、暗い舞台にバレリーナーが
白鳥の湖を踊っていたが、立体的な画面に感動したことを憶えている。
それまでのTVとハイビジョンTVの格差と、3Dの映像の差は同じ位はある。
数年後には多くの3D番組が出るだろう。急遽、買い替えは数ヶ月待ってから、
3D/TVにすることにした。 ますます、お宅か! 21世紀とは、
ツイッター、3D/TVにしろ、iPadにしろ、こういう時代だったのか! 
驚きの連続である。「明治は遠くなりにけり」から「昭和は遠くなりにけり」。
  ・・・・・・・・・
2939,マネー資本主義“暴走
2009年04月22日(水)
 4月19日(日)の 午後9時00分から 総合テレビで
「マネー資本主義 第1回“暴走”はなぜ止められなかったのか
           ーアメリ投資銀行の興亡ー」が面白い。
  *まずはーNHKのHPの番組紹介からー
金融危機はなぜ起きたのか。巨大マネーはどのように膨張していったのか。
 マネー資本主義の主役として批判の的となっているのが、リーマンショック
 を起こした当事者でもある「投資銀行」。
     (中間カット 字数の関係で 2011年4月22日)

2015年の桜 -桜絨毯とモヤ ~5

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 今日のYoutube

 毎年、散る桜をみるのも、桜に対する礼儀と
見るようにしているが、時どきは、欠かすことがある。
今朝も、信濃川の自転車散歩(ポタリング)にしようかと
迷ったが、花見の打ち止めとして行くことにした。
 モヤがたちこめ、幻想的な中の散ってしまった
桜の花見もおつなもの。 ほとんど誰もいない公園も
味わいがある。


・・・・・・
2575, フロー体験 ー1
2008年04月22日(火)

 先日、「好き」という言葉を取り上げた。好きな状態、好きなことをしていると、
時間を忘れ、あっという間に時間が過ぎ去ってしまう。最適経験をしている状態を
チクセントミハイは「フロー」と呼んだ。好きなことをしていれば創造的になる。
だから一流の人は「好き」になるまで、対象に集中する。
その為には、成功体験の味を知らなければならない。
当たり前のことといえば当たり前のことだが。
一流の人の持っている雰囲気は、フローが滲み出ている空気をいう。
~~
面白そうなところを、まずは抜粋してみる。
      「フロー体験 ー喜びの現象学」 
               ハイ.チクセントミハイ

「なぜ幸福になるのはこんなに難しいのか?」
「人生の意味は?」 
人はみなこの大問題に思いを巡らす。
あえて答えを示す者は多くはないし、それだけの素養のある者はさらに少ない。
著者のミハイ.チクセントミハイは、最初の問いに答えることに全力で挑んだ結果、
それが第二の問いと切り離して考えることはできないことを見出した。
 
この二つの問いをつなぐものこそ、「フロー」理論の本質である。
一般的な次元での、第一の問いに対するチクセントミハイの答えは、
「幸福になるのが難しいのは、宇宙は人間の幸福のためだけにある
わけではないからだ」これに対する防御手段としで、宗教や神話が
つくられはしたものの、私たちは厳しい現実を残酷にもくり返し身を
もっで知らされる。宇宙は、秩序とカオス(エントロピー)という観点から
考えるのがいちばんよい、と論じる。「幸福を得るためには、意識に
秩序をもち込む=心をコントロールする」ことが不可欠。
しかし、このコントロールはどうすれば可能になるのだろう?

チクセントミハイの研究は、幸福の本質を検討することからでなく
「人間はどんなときがいちばん幸福かと問うことから始まった。
 楽しさや達成感を感じるのは何をしているときか?」の問いから
出発している。これを見つけるために、一週間の中で無作為の時間を
被験者のポケットベルを嶋らす、という調査も行われた。
そのとき何をしていたか、その行動によってどんな気持ちになっていた
かを厳密に書き留めてもらうのである。その結果、最高に幸福な瞬間は、
予測のつかない外的な出来事によって偶然に起こるのではなく、
特定行動を行っているときに、起こりやすいことがわかった。
その特定の行動は本人にとってきわめて価値があるもので、
それを行うと不安や雑念は消えうせる。
その状態を「最適経験」あるいは単純に「フロー」と呼ぶ。
フロー状態の人は、何かより大きく創造的に発展させていると感じる。
・運動選手はこれを「ゾーンに達する」
神秘主義者は「法悦」
・芸術家は「恍惚」という。
時間が止まっているように感じることである。
 ~~
「特定行動」 =これがミソである。
自分のライフワークを見つけ、それに没頭すればよいのである。
それを早く見つけ、やり続けることなら誰もしていることだが。
いや、してないか??

・・・・・
2007年04月22日(日)
2210, 帰ってきたソクラテス -1
        (*^_^*)I おはよう!

 あのソクラテスを甦し、政治家、学者、評論家、老人福祉係、元左翼、
人権擁護団体、イエスに釈迦まで登場。プラトンの『ソクラテスの弁明』
の問答形式で、彼らと対話をしながら、尊厳死から性教育まで身近な
難問に大哲人が挑み、知の広場へと誘っている。哲学とは自分の頭で
考えることだが、それを具体的に示してくれた内容である。
池田晶子の本は、もう10数冊以上は読んでいるが、読めば読むほど面白い。
初めは面白くない本を買ってしまったと後悔をしたが、じっくり
読むほどに間違いだと気がついた。面白い順にランダムに取り上げてみる。

まずは、イエスと釈迦とソクラテスの対話が面白い。
三人の対話の架空の対話の中から、一神教と仏教と哲学の
考えの違いを面白く浮き立たせているところが良い。
ーー
 =死後にも差別があるなら救いだ=
       ー登場人物ーソクラテス、イエス、釈迦ー
 ーP・215ー
ソクラテス:「彼と我々」って気持ちの持ち方が、
この世の差別の始まりであって、けしからんことなのだそうだから。
エス: 全然違う話だぜ。
ソクラテス: 付き合いのよさこそが、君らの身上ってもんだろう。
ここは一つ、有難い御法話と御説教といこうじゃないか。
釈迦:付き合いということなら、あなたは我々の比じゃないでしょう。
 あなたは実によく付き合う。ものぐさなんて、何をおっしゃる。
 教祖というものは決して付き合わないものなのです。
 付き合わないからこそ教祖は教祖になるのでございます。
 差別はすなわちシャベツとは、本来仏教の言葉なのです。
 たまたま厳しい身分社会の制度が人人を苦しめていた世の中に、
万物平等、一切衆生悉有仏性を私が説いた。そして、たまたま王子で
あった私が、その位を捨ててそうした。それで、私は画期的に偉い
ということになっているのでございますよ。
エス:メクラを治し、いざりを癒し、売春婦を赦したから
はえらいことになっている。馬鹿やろうだな!

釈迦:私が申しましたのは、そういうたまたまの現われでしかない
この世の肉体や身分やらの差別相に拘泥する心のあり方こそが、
 ない差別をあることにしてしまっているのだということでしたのに。
 こんな当たり前のことに気づかない無知蒙昧なる衆生たちは、
 差別相を実相と信じ込んでは、性懲りもなくすったもんだを繰り返し、
 初めからないものを、ますますすることにしてしまっている。
 ああ色即是空、かくも簡単な真理が何故わからないのでしょう。
エス:いや君ね、いちばん困るものがそれだってこと。
釈迦: あるものをない、ないものをあると言うから易しいが、
 ないものをないという、そしてそれをわからせる、これが実に難しい。
ソクラテス: うふふ。
エス: 何がうふふですか。ほんとうにズルイんだから。
 確かに、執拗な問答という君の戦略こそ、先手必勝だったのかもしれない。
 十字架か毒人参かは対した違いじゃない。
 いずれにしても世間というものは、わからないものが怖いものだよ。
 しかし、君、言い出したものの仕方がない。もはや断言あるのみだ。
 然り、然り、否、否、であるべきだ。私が言った
「神の御心を行う者は、誰も私の兄弟である。」
釈迦:それ言ったのが悪かったようですな。
エス: おや、それなら君だってかなりなものだぜ。
 「一切衆生悉有仏性」、言わずもがなだ。しかしね、それを聞いた弟子たちが、
 すかさず付け足すんだ、「一部除く」と。お陰で後世、あれは何を指すんだ、
 女人か、はたまた賎民とかの詮索が絶えないじゃないか。知ってるかい、
 部落の中でも女が差別されているとか、女の中でも部落を差別するのが
おるとか、互いにせめぎあっているとか。
釈迦: あ~あ、やだやだ。
ソクラテス: しかし、その点なら、君だって一言多かったんじゃないの。
 「ただし、この言葉を受ける力のある者のみ受けよ」だろ。
 受けられるのは俺だけだ、異教徒他宗派にはわかるまいって、
連ちゅうやってるぜ。「汝の敵を愛せよ」って言われりゃさ、
ない敵もあることになっちゃうことだしね。
エス: 言わなきゃよかったよ。

--
解)まだまだ、面白会話が続くので、次回に回すとして、
 三人の会話を通して、宗教の好い加減さを鋭く突いている。
 道理からすれば、神は大自然の計らいを抽象化した呼び名でしかない。
 知識を持ってしまった人間が、その知識ゆえに苦しまなければならなくなった、
 その対処として発明した?の呼び名が神である。
 それぞれの解釈があろうが、毒とも薬にもなる神?という発明なるものに、
 人類は多くのエネルギーを注いできた。そして多くが救われ、反対に
多くの犠牲を払ってきた。どうしようもない人間の業を、どこかで
統制しなければならないのだから、必要善、かつ必要悪、
としての共通の価値観、規範が必要なのである。   
  確かに差別という大問題が、我われ一人一人の前に突きつけられる。
 聖書はマタイの創作のオトギ話である。しかし、そのオトギ話が真実の
道理なら、奇跡などが事実かどうかは問題にしなくてよいだろう。
38歳で亡くなったといわれる、キリストが果たして何処まで人の苦しみを
分かっていたかは疑問であるが、救い主は疑問の対象にしないものである。
 人間たる所以は「言葉」と「道具」を持っているためだ。
 そして「言葉」がつくり上げた最たる精神の「道具」が神なら、
 それも人間の遺伝子として、認めることも必要かもしれない。
 「神よ!罪ある子羊を救いたまえ」と。 (~▽~*)/ グッバイ!
ーーーーーーーー
2006年04月22日(土)
1845, あちら側の世界 -10
             おっ w(゚Д゚)w ハァョ~
ー狭い世界,6次の隔たり
 「ウェブ進化論」の中に「6次の隔たり」について書いてあった。
 「地球上の任意の二人を選んだとき、その二人は、6人以内の
人間関係に結ばれている」というもの。早速、グーグルの検索で調べた。
ー以下は、その中の一つのコピーであるー
 
6人の知人の連鎖を介せば世界中のどんな人にもたどり着けるという理論。
もとは,心理学者 Stanley Milgram 博士が唱えた,"米国民全員は,
6人程度の知人の連鎖を介してつながっているという"説。
これから,ネットワーク効果という科学分野が生まれた。
 
イェール大学の故 Stanley Milgram 博士(社会学者)が1967年に行なった
実験から生まれた。博士は全米から無作為に選んだ300人に対し,彼らが
直接知らない受取人に重要な手紙を送るよう指示。送り主に人々には,
受取人のおおまかな居場所や職業といった手がかりが与えられ,彼らは
そをもとに,目当ての受取人に「より近い」かもしれないと思われる
誰かに手紙を転送するよう指示され,最終的な受取人に手紙が届くまで,
これが繰り返された。

この結果を Milgram 博士はサイコロジー・トゥデイ誌に発表,
(以下字数の関係でカット2008・40・22)

・・・・・・
2005年04月22日(金)
1480, 桜咲くーつれづれに

昨日か今日あたりが長岡の平地では満開であり、もう散りかけても
きている所もある。近くの山は大よそ一週間おくれになる。
何でも咲きがけか蕾のころがよいものだ。
満開で散りかけも良いが、何か心さびしいものがある。
近くに福島江という桜の名所があり、この時期の楽しみになっている。
車で10分ほどの悠久山の桜も良い。 特に豪雪の年は良い桜が咲く。

家内は如何いうわけか桜が好きでない。「どうして?」と聞いても解らない
と言う。「すぐ散るからじゃないか」と言ったら「恐らくそうじゃない」
と答えた。私は、すぐ散るから気にいっているのだが。

10年に一度位は大当たりになる。悠久山などで早朝に見ると、
思わず息を呑むような神秘的な光景を目にすることが何度かあった。 
一瞬の艶めかしい雰囲気が漂っている。全国的にみたら、無数に名所が
あるのだろう。サロンに、時々訪ねてくれる井上さんの桜の写真も楽しみだ。
現場で見る桜は、写真では表現できない濃艶な妖精が無数に漂っているのだろう。

先日の日経新聞の最後のページの「文化欄」に作家の山本一力氏が、
吹かずともと言う文章を書いていた。桜の花と、人の引退時を重ねて書いていた。
 ー引き時に迷ったら、桜に教わればよいー
今週の長岡は、桜の週である。 庭の梅の花も散り始めてきた。近くの川に
鴨の姿がチラホラ見えてきた。本格的な散歩が、この時期から始まる。

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2004年04月22日(木)
1115, 中年期の「八つの危機」

思春期妄想症、青年期神経症をやっと乗り越えて、中年期から老年期になると
一番恐ろしい中年期の危機が大きく口を開いて待っている。中年から老年に
向かっている身にとって一つ間違えれば、とんでもない危機に陥ってしまう
年齢になってきた。アルフォンス・デーケンは、この中年期の危機を
「八つの危機」にまとめている。
バランスを崩せば、何時でもこの鬱の世界に転げ落ちてしまう。
この「危機」に対して、上手に対応することが必要になってくる。

以下は、アルフォンス・デーケンの本に書いてあった内容である。
いくつかは誰もが心の奥で感じたことであろう。どういうわけか
私の場合、ほとんどない?? 常にコントロールしてきた為だろうが。
今まではそうであったが、今後は解らないのが人生というものだ。

このすべてを背負って、万年鬱になり自殺未遂を繰り返している人がいるが、
ある日突然、こころの芯棒が折れてしまって、この幾つかの穴にはまり
込まないとは限らないことばかりである。

ーその一部をまとめて抜粋をしてみるー
「気がついたら人生の折り返し地点を過ぎてしまった・・・」
「仕事がサッパリ面白くない」
「同僚と付き合うのが億劫だし、妻や子供との時間が楽しくない」
「何の為に生きているかわからない」
「ちょっとしたことでも、くよくよ考え込んでしまう」
「若い頃のように、やる気が出てこない」
「上司や同期の葬式に出ることが多くなったな・・・」
「コメディ映画をみても、素直に笑えないよ」

よく聞くぼやきであるし、身に覚えのあることである。
以上のことは中年期に忍び寄ってくる特有な「八つの危機」の典型的な
現れである。それぞれを説明してみると
--以下は字数の関係上カットしました。
後は、HPの同日分を開いて見てください。(2008年04・22)

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2003年04月22日(火)
748, 思い込み

中学の頃、血液検査でB型といわれて30年経った10数年前に、
自分が実はA型ということが解った。その時の驚きは天地が引っくり
返る位であった。「自分はB型で、その性格は努力型で、独創型の
マイウエータイプ!部下や友人にはO型が適正、女性はA型が大好き!
男の相性の悪いタイプはAとAB型と信じて生きてきたのに!」
そのA型が自分自身だと!!「今まで信じてきたことは何じゃい、
これは!」が、その時の実感である。

 逆に考えてみると、条件を設定をして、
その中でパーツをたてればいろいろな自分を創れるということだ!
暗示をかければ、その通りになってしまう実例でもある。
それにしても、こんなバカみたいな事が実際にあるのだ。
実の親と思っていたが、実は違っていたという感じである。
面白いものでBの対極のA型といわれてみると、自分は本来はA型タイプ
に思えてくるから面白く、かつ単純なものである。
それからはA型類型の性格の自己暗示にいつの間にかかかっている?

 金沢の会社にいたころ、誰かの手術で緊急に寮生のA型が集められた。
全く自分とは正反対な性格の連中であった。その時やはり血液型は性格
形成の基礎になっているのだと実感したのに、あれは何だったのだ?

 人間なんてものは全て言葉による刷り込みを、言葉によって剥がしていく
動物でしかないのだろう。そこに不条理が発生してくるのだ。
イスラム教とキリスト教の対立も、その思い込み?が起因している!
宗教ー経典は刷り込みの典型である。地方にいれば地方の、都会に
いれば都会の思い込みがそれにあたる。思い込んでるのが愚か者、
それを冷笑しているのがバカ、というのが何かに書いてあった。

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2002年04月22日(月)
384, 我が内なる無能性-2

以前も「我が内なる無能性-後まわし」という題で書いたが、その続編。
そういう人が反面教師として多くいる。といってそれを云うだけの資格
があるのかといわれれば、ない。それでも書き出してみる。

・自己責任がない ーーー人のせいにする。全て人が悪い、
よく言うよという位人のせいにする。その点で狡猾そのものだ、
その芸術家だ。誰もがその要素を持っているから書いては駄目なことだが。
 人間それほど強いものでない。
・過去の記憶だけは、よーく憶えている、特にマイナスの記憶を。
 その壁を自分の周りに作り上げ、その中から出れない状態。
 芥川龍之介の「山椒魚」はこれを揶揄したのだろう。
・本を読まない、人の話しを聞かない、変化を嫌う、
 議論をしないーいや出来ない。
・長期的視点ーグランドデザインが全くない。
 ー人生でも、家族の事でも、仕事でも。したがって準備という
 意味が解らない。
・人の付きあいが小さい枠。 両親の呪縛から抜け出る事が出来ない
  ーとっくに死んでしまっていても。
・人の欠点を探す事で、凝視する事で自分の影をカバーしようとする。

考えてみたら、大部分の人がほぼこれに当たる。もちろん私もである。
少し濃いか薄いかの差でしかない。それを「子狐」という象徴で
その無能性を書いている。時々「子狐」とあったら、上記の象徴と
思ってほしい。ただそっくりなモデルはいる。

2015年の桜 -桜絨毯とモヤ ~6

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  ひょうたん池から見る桜も良い。 最後は散った桜の花が
池の端にトグロを巻いて、浮かんでいるのも風情があるが、
今年は、さほどではなかった。 次は柳桜が見ものだが、
すでに満開に近い。 そして次は菖蒲の開花が待っている。