つれづれに

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 この三日間は、ポタリングかTV三昧。 何時ものことだが。

 大相撲はモンゴル横綱が独走? 先場所、休んだ御蔭で
エネルギー充分にある。 今場所も、そろそろ、来場所か、
その翌場所用に、そろそろ怪我の準備? 横綱が使える権限を
使わない手はない。 










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6332,閑話小題 ~つれづれにサッカー
2018年07月15日(日)

   * つれづれにサッカー
 ワールドカップも、あと決勝戦を残すのみになった。
先ほど終った3位決定戦の結果は ベルギーが2―0でイングランドに勝利した。
国際連盟(FIFA)ランキング20位のクロアチアと、5位のフランスの戦い。
フランスはさておき、クロアチアが、ここまで勝ち残るとは…。クロアチア選手
疲労度を考えると、フランスがわずかに有利。 ~ネット検索によると…
《 両国は過去5回対戦しているが、クロアチアは一度もフランスに勝ったことが
 ない。これまでの両国のW杯での対戦は1998年、フランス大会の準決勝があった。
このときも2-1でフランスが勝利。公式戦ではEURO2004で顔を合わせ2-2の引き分け。
通算対戦成績はフランスの3勝2分。フランスの強みは完成された技術と組織力
攻撃にはグリエーズマン、エムバペ、ポグバ選手ら、守備ではGKロリス選手を
中心に、最終ラインのヴァランヌ、ウンティティ、中盤のカンテの各選手と、
世界トップレベルの陣容。しかしクロアチアは「満身創痍」な中でも、司令塔の
モドリッチ選手を中心にラキティッチマンジュキッチペリシッチ選手らによる
攻めは依然効果的。守護神スバシッチ選手らを中心としたDFラインも大奮闘を
見せています。両国のここまでの歩みは対照的。フランスが決勝トーナメントの
3試合全てで90分間決着だったのに対し、クロアチアデンマーク、ロシアをPK戦
で下し、準決勝でもイングランドと延長戦にもつれ込む激闘。
クロアチアは1試合分以上多くプレーしているわけで、過去のW杯の事例を
見ても体力面では明らかに不利です。》

▼ 勝負事、とりわけワールドカップは、何が起こるか分からない。判官贔屓
 クロアチアに全世界の応援があるから… 30年前、スペイン旅行の乗継でパリに
一日滞在した時の前年にフランスが優勝した時に、シャンゼリゼ通りが歓喜
パリ市民の行進でわき返ったと日本人ガイドが説明していたのを憶えている。
毎年、今頃、行われる自転車レースのツールド・フランスの最終日の凱旋も何とも
良いが、ワールドカップの優勝は別物で、TV画面としてもライブで見たいもの。

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5600,恋愛心理学 ~② 超美人は意外と持てない
2016年07月15日(金)
              『美人の正体』~越智啓太著 
  * 外見的魅力がある人が「意外とモテない」という理由
 恋愛には3つの場面があるという。
・一つは出会いの瞬間。その場合は、美男美女は有利だが、そこまで。
・そして、2つ目の恋愛の場面。この場面で、趣味と、実際の相性、
 育った家庭環境などが複雑に絡むため、頓挫をするケースが多い。
 ここで外見の要素は大きく下がる。誤解をした後、理解して離別する。
 この段階で早々熱がさめるのが成田離婚。だから、幾つか恋愛経験後
 の結婚が望まれる。
・三番目は、互いの役割。長期の恋愛とか、結婚生活。学校で言えば、
 東大の偏差値に例えられる学年1~2の美男美女が、そのまま結れて、
 添え遂げることはほぼ無い。互いのプライドが高過ぎて、実態との
 違いで仲たがえをする。  
残念なことに男女とも上位2割に8割以上の異性が集まるため、恵まれた人
には、異性経験が多くなる分、魅力が蓄積される。恋愛心理学からすると、
男女とも、多くのチョイ?人に声をかけ、「やり逃げ」を重ねた分、魅力が
蓄積され濃厚な人生経験を得ることが出来る。 何ごとも、世の中、不平等に
出来ている。世の中、男女とも、「ちょい乗り」「やり逃げ」が満ている?  
 ~その辺りから~
≪ 美人・ハンサムの人が、さほど持てないと口を揃えてる発言は誤りなので
しょうか。じつは一概にそうとはいえません。確かに、彼ら彼女らは注目の的。
クラスの多くの異性がその相手に引きつけられ、おそらく心理学の実験で彼ら
彼女らの写真を呈示されれば「とても魅力的である」とか「ぜひつきあって
みたい」とかの選択肢に○をつけるでしょう。しかし、本当にアプローチ
されるかは別問題です。第9章で述べたように、長期的な交際を考えれば、
やはり自分と釣り合った魅力度の人と交際するのが、コスト的に一番安くすむ。
相手が浮気するのを防ぐための余計なコストがかかってしまうからです。
そして現実的に、心ではその美人やハンサムにあこがれを持っていても、
実際にアプローチしに行かないということは十分考えられます。このように
考えると、じつは美人・ハンサムは恋愛において大変不利な状況に置かれます。
容姿が普通であれば、自分と釣り合う人はクラスにも会社にも日常生活にも
たくさんいますが、美人やハンサムであると釣り合う人の数は激減してしまう
からです。ちなみに美人度・ハンサム度も測定すると正規分布になることが
わかっていますが、あなたが偏差値70~71クラスの美人(学力でいえば東大に
入れるレベル)だった場合、クラスの美人(平均よりもほんのちょっと美人)に
比べて、理論上釣り合う人の数は8分の1以下になってしまいます。
これが意外とアプローチされないという感覚の原因と思われます。≫
▼ 学年1~2の美女は、(ちょい美人)に比べ、釣り合う人の数は8分1以下
 とは驚き。あまりの美人に、もと駄目と軽く声をかけたら、以外と好反応を
示されたことがあったが。短期的には釣合いの取れた相手と機会があっても、
一定期間が経過した後、熱が冷め辟易し、別かれてしまっていたのだろうが…
 このカラクリが理解できず、なかなか良縁に恵まれない実態が現実。
なら口からデマカシ、あたりかまわず、すき家の牛丼のコマーシャルソングの
ように「好きです、好きです(すき家の牛丼!)」と言えば、数ウチャ当たる?
 念のため、その前に三度褒めておいて… 
 
 ~で、勘違いをして… 以下の文脈に丁度よく、繋がっていく。
・・・・・・
4503, 実録・ゴールデンブリッジからの身投げ
2013年07月15日(月)
 先日、蔦屋で本を一冊買ったところ、レジの人がいうに、「今なら、シニア様
なら無料でDVDが借りられます」という。そこで借りてきたのが、『ブリッジ』。
軽い気持ちで、身投げ自殺のドキュメントのタイトルにひかれ借りてきたが、
初めから終わりまでシリアスで見入ってしまった。次次とサンフランシスコの
ゴールデン・ブリッジから身投げをしていくのが映し出され、遺族や友人が、
インタビューに答えている。このところ『大往生したけりゃ医療とかかわるな』や
『どうせ死ぬなら「がん」がいい』の読書録と、その下書きを書いているので、
死にゆく者の心模様がシリアスに伝わる。橋の手前で、死のうか迷って考え込み、
決断する悲痛な姿が痛ましく映し出されている。 バンジージャンプのように、
飛び込んでいく。身近の人の証言では、ほぼウツ病で、それが高じ自殺に到る。
生きているのが辛く、死にたいのである。 反面、誰かに助けて欲しい気持ちが
迷いを生み出す。その中で、一人、助かった人がいた。足から落ち、上手く靴が
水面に突き刺さって衝撃を和らげた上に、水中でサメかアザラシ?が踏み台に
なり、押し上げられたという。普段なら40Mの落差の衝撃で亡くなるが、
このブリッジは66M。内容は暗く恐しいが、心の闇が、身投げを通して
浮かび上がってくる。  ーウィキペディアによるとー
≪『ブリッジ』(原題:The Bridge)は、2006年に公開されたアメリカの
ドキュメンタリー映画。社会の禁忌としている『自殺』をテーマにしている。
観光の名所のゴールデンブリッジに1年間カメラを設置し、自殺者の様子をカメラ
に収めた。後に遺族にインタビューをし、そこから自殺を図る人々の様子を映し
だそうとしている。映画では24人が、橋から66Mの高さから海面に向かって飛び
降りている。監督のエリック・スティールはこの映画を取る際、映画の宣伝効果で
自殺者が増加しないように極秘に行っていた。また、橋の柵に足をかけたら管理局
に通報することをルールとして定めていた。映画は主に橋とその周囲の日常を撮影
した風景、自殺者の飛び降りるシーン、遺族や友人、目撃者へのインタビュー、
遺書などから構成されている。中でもインタビューの映像が多く、自殺者の情報は
インタビューの情報でしか語られない。自殺者の多くが精神的な病やトラブルを
抱えていることがその中で分かる。≫
▼ 2006年の時点で、この橋からの自殺者は年に24人もいるというから、
 全員撮ったことになる。次から次へとブリッジから飛び降りるが、躊躇して
いるうちに警官や近くの人に、取り押さえられた人が数人いた。生死の問題も
あり、それぞれの人生が浮かび上がる。ゴールデンブリッジという名所が、
ロマンチックな気持ちを駆り立て、志願者が国内から集まってくる。県内なら
新潟の万代橋が河口に近いため海に流され、死体が上がりにくいとか。
人知れず消えている人がいるのだろう?テーマがテーマだが、決して後味が悪く
ないのは、シリアスすぎて、実感がわかない為? 死ぬには死ぬ理由があるはず!
   
・・・・・・
5965,人生楽しいかい? -4
2017年07月15日(土)
        <「人生楽しいかい?」ゲオルギー・システマスキー著>
【指令7】 視点を動かす
【指令8】 限界に触れる
【指令9】 最悪を想定する
 ―
   * 【指令7】視点を動かす
  ~ 「視点を変えれば、姿勢が変わる」
< 良い姿勢というのは、自然体で立って、身体を前後左右に揺らす。
 そうやって全身の筋肉が緊張せず、楽に呼吸できるポイントを自分の感覚で
見つけること >
「視点を変えれば、姿勢が変わる」ということ。「視点」と「姿勢」は深く関係
している。視点を変えるだけで、身体の強ばりがほぐれ、呼吸が楽になることが
ある。相手と対峙するとき、眼だけを見るのではない。 少しずつ鼻とか口元、
頭とかをずらしてみる。 中学生の授業中に、『相手の眼だけを見ないで、額と、
口元、喉を見て話しなさい』といわれたことがあった。動物は、見られることに
異常なくらい緊張する。捕獲される者の立場の本能のなせる業である。
―   
   * 【指令8】限界に触れる
<人生は超長距離走。意味なく全力を出しとる奴は、必ず途中で倒れて走り
きれなくなる。日本人に「全力教」の信者が多い。全力を出してないと不安なんだ> 
 パニックから、挫折から、回復した体験の積み重ねこそが、その人間にとって
「本当の自信」になる。ダメージを受けたとき、回復するスキルを持ってない奴は、
本当の修羅場を迎えたとき、平常心を保てなくなる。自分の弱さを知っている人は、
回復を忘れない。20歳半ばの金沢時代の研修での言葉、<自己能力の限界の設定>。
そこをクリアーにしておくと、何が、どのくらい足りないか見えてくる。
 道理として、3割の余力を残すことと、ここで宣う。

   * 【指令9】 最悪を想定する
 ~人間としてできることは、万が一の事態が起こったとき、最善の対応が
  できる自分でいること~
 準備期間を含めた45年の事業経験で得たことは、中長期には、想定を遥かに
超えたブラック・スワンが、舞い降りてきて、根こそぎ環境を変えてしまうこと。
想定外の出来事を想定をしておくのは無理としても、長時間かけたセフティネット
の準備は可能。それが可能なのは、創業の事業設計段階からの組入れ。
「逃げるべき時は、逃げる!」こんな当り前のことが、あたり前でないのが娑婆。
攻撃前に、最悪の想定と、対処の熟慮と、瞑想が必要になる。基本、誰も助けて
くれはしない。実情は逆である。

▼ いずれにしても、「知ること、なすべきこと、望むこと」には限界がある。
 だから「好きになり、徹して、楽しむこと」の術を会得しておくべきである。
痛みや苦しみ、しんどい娑婆と向き合い、回復することの繰返しの中で、人間
は成長するのである。楽しむには、それなりの原理原則が必要ということ!

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5235,NHKスペシャル「腰痛」治療革命  ー①
2015年07月15日(水)
  一昨日、NHKスペシャルで、ー「腰痛」治療革命ーを放送した。
< 腰痛は、「腰」ではなく「脳」に原因があり、劇的に改善する可能性が!>
 が、その要点。偶然だが、6年前の一昨日の同月同日(7月13日)に、
私にとって最後の重症?の腰痛について書いてあった。「最悪を覚悟した上で、
上京する!」と決めたと同時に痛さが何故か半減、無事、学校行事に参加して
きたが、決心が痛みを半減させたとは知らなかった。 ~その日の内容から~
【  3021,卒業40年周年か~
   2009年07月13日(月)
 「大学卒業40周年記念の集い」に参加してきた。
これまで、20周年、30周年記念の集いにも参加をしたが、良いメルクマール
になってきた。(10周年は、20数年前から企画されたので、『集い』そのもの
が無かった) 今回は、数日前から腰痛が出て、上京など無理の事態だったが、
「這ってでも行く」と決めた瞬間から、痛みが少なくなった。
 まず「前日の金曜日に銀座でクラブの仲間が集まろうよ」の誘いを断り、
当日の土曜日だけを出席すれば何とかなるのではと考えた。出席するとしたら、
前日に東京に行って、クラブ仲間の会の出席は一度ホテルで休んだ後で、
腰と相談すればよいと。「当日に上京するよりも、前日に行き、翌日ギリギリ
までホテルで待機して集いに参加すれば何とかなるはず」ということで決行、
クラブの会にも出席。二日間を乗り切ることができた。最後は覚悟である。】
その時には気づかなかったが、不安と迷いが、腰痛を拗らせていたようだ。
 NHK・HPの  ー腰痛」革命ー の案内より~
≪ その腰痛、「腰」ではなく「脳」に原因があり、劇的に改善する可能性が!
 治療しても効果がなく、一度治ってもぶり返すなど長引く「慢性腰痛」。
最先端の治療現場では、「脳」の働きを改善し、慢性腰痛を克服する対策が、
大きな成果をあげています。たとえば腰痛 の不安を解消する映像を見たり、
恐怖心を克服する運動をするだけで、改善する人たちがいます。専門的な
心理療法で、極めて重い症状の患者の腰痛が改善するケースも出始めている。
3か月以上痛みが続く「慢性腰痛」の方へ。世界が認めた最新対策を伝える。
厚労省研究班の調査によると、いま腰痛にお悩みの方は2800万人、
 実に日本人の4人に1人に及ぶと言われています。中でも問題なのは、
3か月以上続く「慢性腰痛」の人が半数以上を占めると考えられていること。
通常なら、腰痛の原因となる腰の骨や筋肉の異常は3か月たたずに改善
するはずです。痛みの大元は改善しているはずなのに、なぜか痛みが
長引く人がたくさんいるというのは、一体どういうことなのでしょうか?
最近の研究で、痛みの長期化(慢性化)に「脳」が大きく関わっている
ことがわかってきました。脳にはもともと、痛みを抑える鎮痛の仕組みが
備わっているのですが、慢性腰痛の人ではその仕組みが衰えていることが
わかってきたのです。 ≫
▼ 現在、3年前からスポーツジムで、週2~3回のヨガ・エアロに参加。
 これが、セルフ・腰痛治療のかわりになる。これが腰痛の身にとって、
決して楽でなく、数時間は痛みが残る。それでも徐々に良くなっている
から続いている。不安、恐れが、腰痛だけでなく、人生のあらゆる問題に
なっている。大方が、これに潰され、人生を小さくさせてしまう。
この私の対策が、不安・恐怖を凝視し、「正中心一点無」の言葉。
これは極限の場面で前向きになるために絶大な効果がある。後ろ向きは、
最大の内なる敵。腰痛も、「何とかなる。ガタガタするな!」ということ。

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4870,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー38
2014年07月15日(火)
   * 設計と、建設と、ゼネコン・シンジケート
 ビル設計の私の方法は、各階の平面図を設計士と話合い何度か書換えながら
穴があくほど凝視する。その過程で他の戦術などを考える。そうこうすると、
夢の中で、その場に立つまでになる。今では3DやCGがあるが・・問題は設計
担当者と自分レベル。それが、そのまま出る上、後になって隠れた問題が出てくる。
 千葉・千城台と、実家の商業ビルの基本設計担当者が事務所を辞め独立していた。 
その担当者とは呼吸が合い、創造(想像)力が引き出されていた。が、彼は私を
全くの素人と見ていた。私の場合、創造工学などの本を何冊か読み込んでいた。
また学生時代のゼミなどで、ものを考え出したり、作り上げるに、何も捉われの
ないピエロ役「X」を仮想し、暗黙のうちに誰かが演じ、飛躍した案を正・反・合
を繰り返しながら練り上げていた。 千葉、長岡の手掛けた二つのビル設計も、
私がピエロ役(暗黙)をしていたが、それを未熟?にしか思えなかったのか、
一度会った後、居留守を使ってきた。それより、千葉と長岡の露わな姿を身近で
見ていたこともあったか。 この人物、一棟目のホテルの成功をみた後、改めて
組みたいと言ってきたが、許せないのが私の限界。既に故人だが、設計担当として
神がかり的であった。 長期投資は、時代の変遷を乗越えなければならないため、
長期的視点(神的視線)が必要になるが、ところが分かってないのが多い! 
創業は、その都度、会計事務所も、設計事務所も、何もかも変えるのが筋だが・・ 
その甘さが、贅肉として、付いていた。 当初のビル建設から薄々気づいたのが、
建設業界そのものがゼネコン・シンジケートの存在。当時のビル建設の99%は、
その談合で決定されていた。あとの一%は、関係者の熟知した中で、何とか?・・ 
 その網の中で、私は小虫レベル。その都度、何とか努力をしたが、長年かけた
膨大かつ緻密の網目で、雁字搦め。10数年前に社会的大問題になって、大きく
変わったというが? 今でも巧妙に、マフィア化し、巧妙に現存? 相手を
パターン化し、シンジケートが談合で決めた粗筋どおりに、施主を躍らせる集団
詐欺的要素が強い世界。装置産業は、これと、税制のカラクリで、長期的に存続
するのは至難の業である。軌道に乗ったころには、時代遅れの産物になる。
だから、長期の装置投資をする時に、当初からシェルターを組込むしかない! 
創業は上手くいけば天国、失敗すれば地獄。その中間にあるのが煉獄。
そこは <キリスト教の教義において、小罪を犯し地獄に行くまでに至らないが
すぐには天国へ行けない霊魂が、苦しみを受けながら浄化 され最後の審判
待つ場所、その状態> 老後は、誰しも煉獄状態? 創業は、地獄、天国、煉獄
が直に味わえる。で、シェルター内は、煉獄? 建設業界は、生き馬の目を抜く
修羅世界でもある。偶然だが、以下の文章に続く!
https://horii888888.hatenablog.com/

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4058, B層の暴走と価値の錯乱
2012年05月05日(土)

 二年前の5月2日に ー3324, 「B層」という「IQ]が低い人々ー という文章を書いていた。(3日前の、ここにある)
ところが昨日の産経新聞の一面の【賢者に学ぶ】「素人の暴走と価値の錯乱」で、このB層の人たちを取り上げていた。
選挙対策として、この層を的にして狙い打つには問題がない。しかし、彼らB層の価値観を押し付けようとする機運が、
全体を導き始めたため、社会が混乱を始めてきている。その危険な状況を理路整然と論じた問題提起が以下である。
   【賢者に学ぶ】ー素人の暴走と価値の錯乱ー(哲学者・適菜収)  産経新聞 5月4日
 ≪ ・・・19世紀ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言った。その意味は、西欧において 価値の根拠とされてきた
《神の視点=普遍的真理》を設定することが理論上不可能になったということだ。にもかかわらず、《神》は平等主義や民主主義といった
近代イデオロギーに姿を変えて私たちを支配している。その根底にあるのは「神との距離において人間は等価である」という信仰だ。 
近代大衆社会はこうしたキリスト教本能をもつがゆえに、あらゆる格差、階層的なものを破壊する。 また、《本当に価値があるもの》
《偉大なもの》《美しいもの》は貶められ、《つまらないもの》《新奇なもの》《卑小なもの》が評価されるようになる。
その結果、芸術家気取りのゲテモノ、半可通、あらゆる領域における素人が権力をもつようになってしまった。
テレビの音楽番組では、芸術の対極にあるジャリタレが「アーティスト」と呼ばれ、ワイドショーでは有象無象の評論家が
専門外のトピックについて無責任なコメントを垂れ流している。 こうした価値の錯乱の上に成立するのが《B層文化》だ。
前回も述べたように《B層》とは平成17年の郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で「マスメディアに
踊らされやすい知的弱者、ひいては「近代的諸価値を妄信する層」を指す。 この《B層》が現在消費者の主流になっている。
そこでは大企業のエリートがマーケティングを駆使し、大量の資本を投入することで《B層》の琴線に触れるコンテンツを量産している。
 ・・・ ニーチェは言う。「畜群人間は、例外人間や超人がいだくのとは異なった事物のところで美の価値感情をいだくであろう」  
畜群はまさに《B層》である。真っ当な価値判断ができない人々だ。彼ら《B層》は、圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を
社会に押し付けようとする。そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ。ありとあらゆるプロの領域、
職人の領域が侵食され、しまいには素人が社会を導こうと決心する。これこそがニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的な姿だ。 
与党政府も素人に陥落されつつある。前防衛相の一川保夫は「(自分は)安全保障の素人」と誇らしげに語り、続いて防衛相になった
田中直紀は素人以前の「ド素人」だった。 閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に進んだ背景には、
《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という問題が潜んでいる。
 ▼ 恐ろしい末期現象に日本は置かれている。その一つにマスコミが流す世論調査がある。世論の大方を占めているのが
 B層の人たち。彼らは質問の内容で、どのようにも誘導可能。 政治のトップ判断の重要事案に、それを使い権力を駆使する。
 その背後に、アメリカの巧妙な誘導が見え隠れする。B層が「近代的諸価値を妄信する層」なら、過っての?私も当然、その層。
この10年、哲学に目覚め少しは盲信から抜けてはきた・・ しかし森林は面白かったが・・で、サバンナでは?この蓄群が屯している。
 ・・・・・・・
3692, 自己を見つめる -14
2011年05月05日(木)
               「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
   * 幸福について ー1
【 私たちは、幸福であるとき、その幸福をあまり感じない。不幸になったとき、私たちは、初めて、自分に幸福が失われていることを
痛感し、深く傷つく。 幸福は、たいていの場合、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる失われた桃源郷である。
幸福は、不幸という現実のなかで、初めて見つめられる幻影、そして追い求められる夢、切なく慕われる理想である。
ダンテが歌ったように、「幸なくて 幸ありし日をしのぶより なほ大いなる 苦患なし」(山川丙三郎訳)である。
否定的な状況のなかで、肯定的な状況に憧れ、それでいてその達せられない悩みをかこつというのが、人間における幸福と
不幸の相貌である。 幸福と不幸は、離れ難く結びついている。 人間は、不幸の現実を直視しながら、嘆きと悲しみのなかで、
幸福を思うのである。 望みをもたない人間というものは、存在しない。 人間であるということは、何らかの願いを胸に抱き、
その実現を希求し、その願望の達成を欣求し、そのために励むということである。何らかの目的を定め、それに向けた自己拡充において、
その可能性から現実性への転換と具現を冀い、そのために熱い胸を躍らせるというのが、人間であることの根底を形作っている。
してみれば、現在の欠如状態から、いつの日にか将来の充実状態へと、恋いこがれる熱情は、人間にとって本質的である。
そうだとすれば、欠如状態としての不幸と、充実状態としての幸福の二つは、人間を構成する基本要因だということになる。】
 ー「幸福は、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる桃源郷」は、言いえてる。
「幸福は不幸という現実を通して見つめられる幻影」である。 時代背景があるが、若い時には「自分は間違いなく幸福になるだろう」
という変な確信があった。 大かたの青春時代は決して幸せとは言えない四苦八苦を過ごしている時期である。
その頃の幸せの願望は祈りに近い感がした。 ところが人生の終盤に差し掛かってくると、幸せの願望も失せてしまい、死の不安が
立ち現れてくる。 精一杯生きてきたのに、あの桃源郷の正体も見え隠れする。 先に逝った人たちの最期は、不幸に見えてしまう。
 老いが進み、死が現実問題として迫ってきて、漠然とした不安が心を覆ってくる。その時に、過去の充実していた時の思い出に
逃避するしかなくなる。 その時、人生を生きてきた通りの老いと死が、自分を覆いつつむ。 これが自分の人生だったのかと!
・・・・・・・
3327, 偏差値導入が日本人を劇的に変えた
2010年05月05日(水)
「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ー3
  * 偏差値導入が日本人を劇的に変えた
 大前健一は、改憲論者であると同時に新自由主義者である。また「安保闘争以降の偏差値による選別教育が日本人の愚民を
押しすすめる結果になった」と主張。 偏差値による選別教育の年代とは 現在の40歳代前半から20歳後半である。
   ーまずは、その部分を抜粋してみるー
 日本で、詰め込み教育、受験一辺倒教育、偏差値による選別教育が始ったのは1960年代後半の安保・大学紛争以後である。
今から考えると、あそこが分岐点であった。 あの紛争で、政府は、過激な学生運動に非常に強い危機感を持った。
ここで、国民教育を民化政策に転換した。その象徴が「偏差値教育」である。・・・・
 本来、人間の能力は自分で判断すべきである。自分のやりたいことは、その判断に基づいて自分で決めること。
ところが、日本の子供たちは、自分の能力の判断をする大切な時期を偏差値に支配された世界で過ごすため、
自分で自分を判断する力をなくし、やりたいことも自分ではなく、偏差値で決めることになってしまったのである。
こうなると本人も偏差値による数字を先生に言われることで‘予定調和’して、「自分はこの程度」と簡単に思ってしまう。
学校や塾で「この数値では、この学校は無理だ]と、繰り返し言われれば、目標を上にあげることなぞ無理になる。 
これが、偏差値教育の持つ最大の弊害である。
 これは工業化社会の確立を目指す政府には非常に都合のよい政策である。それぞれが、能力に見合った位置で仲良く
協力しあってやっていくことが必要とされるからだ。 こういう飼いならされたロボット人間が、大量に必要なのが、
工業化社会であって、そのために、偏差値による選別有効に働いた。これは、個人個人から意欲というもの、
アンビションを奪ってしまったのである。現在の40代前後の偏差値世代の人たちは、非常に従順なのが多い。
彼らは共通の思い込み「偏差値が高い=頭がよい」と子供の頃から植えつけられていて、そこから抜け出さないのである。
クラスメート、同級生といった狭い範囲で考えてみると、自分たちより数値の高い人が、マスコミに行ったり、
役所に行っているのを見て、彼らは偏差値が高いから頭がよい。だから、彼らの言うことは正しいと、勝手に思い込んでいる。
 ▼ この年代が社会の中心になってきたのが、この日本の不況の隠れた真実である。 この年代の人たちと、この十年来、
 ツアーなどで一緒になる機会が多かったが、前頭葉がゼロというほど思いざるを得ないと感じていた。 
 勝手に自分たちの階級を決め付け、それ以外には一切を無視をする。 無視なら、まだマシだが、否定をしてくる。
 その後の年代を大前は、「少年ジャンプ世代」、「ゲームキッズ世代」と分けているが、それは次回。
・・・・・・・・
2952,スリルな瀬戸際だった日々 ―2
 2009年05月05日(火)
前回の凍りついた二日間で思い出したことがある。 《まずは、以前書いた文章を御覧あれ!》
  (字数制限のためカット2011年5月5日)
・・・・・・・・・
2588, 閑話小題
2008年05月05日(月)
   * パペット
パペットとは、手や指を入れて遊ぶことができるぬいぐるみのことをいう。
他には影の人物や国に操られる人間や国を指す。日本などは、ある意味でアメリカのパペットとである。
以前に「新潟県を活性化する会」を何度かやらされたことがあった。いい様に操られる猿回しのエテと気づいて、
さっさと役割を降りたが・・。3?4回まで!と始める前に約束をしたが、それを了解をしておいても、
「縛り付けをして役割から抜けられなくなるのが世の常」チャンと、そういう役割の英語「パペット」という
専門単語があったのである。それが仕事ならパペットとして納得するが。
地元のために発展を考える中小企業の社長という役の振り付けで、ボランティアだとか。
それを知っていて巧妙に役割に収めようというのも、その人の仕事なのだろうが、私は何の価値もない。
乗りかかる私も甘いが、いや三回ぐらいなら面白いと割り切っていたから、甘くはないか?
それ以上は絶対にやらないこと位見抜けなかったのか? いや、見抜けないか?
 (字数制限のためカット2012年5月5日)
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2007年05月05日(土)
2223, HP開設、6周年         [○´・ω・]ノオハヨウ!
毎年のように、開設記念日に感想を書いていた。今年も二日遅れになるが書くことにした。
実のところ、全エネルギーを入れて書き続ていて複雑な気持ちがある。ネタ(テーマ)を選ぶだけで神経を
集中せざるを得ない。それと、ネタ切れになるので、何処かからネタを探してこなけかればならない。
しかし良寛の発句「焚くほどは風が持てくる落葉かな」の、落ち葉と同じように何時の間にか湧いてくる。
その感覚とスリルを楽しまないと続かない。考えつく全てを吐き出して何も書くことが無くなれば、
その境界の外に出ざるをえない。それが、この随想日記を書き続ける一番のプラスニなる。
書くために読む、書くために考える、書くために本を買う、そして借りる、そしてウソも吐き出す。 
 (字数制限の関係でカット2,010年05・05)
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2006年05月05日(金)
1858, ローマから日本が見える ー10        ォ'`ョ━━(。・∀・)ノ゙━━ゥ★
この本を読んでいると史実を読んでいるというより、壮大な歴史小説を読んでいるようだ。
一人一人がそれぞれの立場をわきまえて役割をこなしている。当然、ローマに敵対する英雄もいる。
カルタゴの英雄ハンニバルである。まずは第5章のハンニバルの挑戦 の概略を抜粋する。
 ー第5章 ハンニバルの挑戦 ー1
  (字数の関係でカット2,008年0505)
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2005年05月05日(木)
1493, いま・現在についてー1
 「人生の贈り物」ー読書日記
「ゾクゾクするような生き方ができないのはなぜだろう。」「一日一日が何かが足りない。」
「なんだか面白くない。」 多くの人が、そう思っているようだ。そのような人に、大きな「ヒント」をあたえて
くれる本である。
 ー大筋を書いてみるとー
少年がいました。ある日、老人から不思議なプレゼントの事を聞きました。「かけがえのないプレゼントだよ」
「それは、贈り物なんだ」と老人はおだやかに言いました。少年は若者となりかけがえのない贈り物を捜しつづけて、
かけがえのないプレゼントとは、プレゼント=現在のことだとわかったのです。過去でもなく、未来でもなく、
かけがえのない現在ということです。 現在の瞬間というのは、常にかけがえのないものです。それがまったく完全なもの
だからではありません。完全に思えないことの方が多いくらいです。現在がかけがえのないのは、その時点では、それが
すべてだからです。あるのままの状態が。現在とは、ありのままということで、それがかけがいのないことなのだ。
なぜそうなのかわからなくても。現在は、そうなるべくしてなったものなのだ。その現在を知り、現在を受け入れ、 現在を
生きるなら、満ち足りて、幸せになれる。苦しみとは、ありのままのことと、望むことがくいちがっているということだ。
  思いどおりにいかなかった過去を悔やみどうなるか わからない未来を おもいわずらうのは、現在を生きてないと
  いうことだ。それは、みじめで、不幸なことだ。
過去もその時は現在であった。そして、未来も現在になる。現在の瞬間こそが、経験できる唯一の現実なのだ。
現在にとどまっているかぎり、永遠に幸せでいられる。永遠も、常に現在なのだから。 私がさがしていた、
  かけがえのないプレゼントとは、ただ、いま現在あるがままの自分のことだ。それはかけがえのないものだ。
かけがえのないプレゼントは、自分から、自分に与える、かけがえのない贈り物なのだ。
自分というのはかけがえのないものだから。自分こそ、かけがえのないプレゼントなんだ。
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以上が、大筋で結論である。
(字数制限のためカット 2010年5月5日)
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2004年05月05日(水)
 1128, 「ライフ・レッスン」ー10
ー忍耐のレッスン
「耐えることは信じることー信仰をもつことーに似ている」という著者キュープラ・ロスの言葉がよい。
耐えることによって、その信仰は深く強く根を地中深く入っていく。『石の上にも三年』も、
耐えることの重要性をいっている。耐えることによって、はじめてレッスンにまで高めることができる。
『耐えがたきを耐える』のが忍耐になる、いずれは、うまくはいくのだからという信念をもって。
忍耐にも、じっとしているべき時にじっとしている忍耐と、積極的に立ち向かいながら耐える忍耐がある。
また絶望に中で、その絶望を受けいれる忍耐がある。それぞれの忍耐を経験するのも人生では必要なことだ。
 ー以下は抜粋である
・忍耐の要諦は、すべてはいずれはうまくいくものだと悟るところにある。宇宙の計画を信じる力を養うことだと
いってもよい。でも、その悟りはすぐに忘れられる。だからこそ自分が思うとおりのタイミングで進行させるべく、
状況をコントロールしようとする人が多いのだ。
・忍耐はある意味で、筋肉のようなものである。普段からつかってないと、いざという時に役に立たないものだ。
日常の生活の中でささやかな忍耐の筋肉を使ってなくては。・「結果でなくてプロセスを大事にすること、
自分の感情とつきあうこと、起こっている事態が送ってくるメッセージに耳を傾けることを学んだみたい。
宇宙の力と自分自身の力を信じることもね。自分の中にこんなにつよい力があり、必要なときにそれを使う
  ことができるなんて、考えてもなかったもの。何を変え、何を受け入れるかも学ぶことができたみたい。」
・人生は経験の連続だ。たとえそのときの自分がわからなくても、すべての経験には理由がある。
何らかのメッセージがある。だが、いらいらして「これはまずいぞ!この事態を変えなくては!」
と思っているうちは、そこからレッスンを学ぶことはできない。現におこっている事態を否定したり、
泣言をいったり、変えようとしたりするのでなく、黙然とそれを経験すればよい。
・時間は楽しむためにあるって思えるようになったんだ。そう考えれば、楽しいことはいくらでもある。
この世界には力がある。みえなくても、気づかなくても、すべてのものごとは善の方向に向かっている
ことを信じてほしい。それが信仰というものである。耐えることは信仰を持つことと同じことなのだ。
いかなる状況、いかなるときにあっても、宇宙があなたの人生にもたらすものは、あなたがそうなることに
なっているような人になるために必要な経験である。 真実の鍵は信じること・・・耐えることにある。
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  【 忍耐について 】
・忍耐は仕事を支えるところの、一種の資本である。 ?エドマンド・バーク
・天才とは強烈な忍耐者である。          ?トルストイ
・艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず。  ?「新約聖書-ロマ書5章」
 (字数制限のためカット2012年5月5日)
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2003年05月05日(月)
 761, 歌は過去に向かって歌うもの
「歌は過去に向かって歌うもの !」先日Tvで歌手の「さだまさし」が何気なくトークでいった言葉だ。
  なるほど言いえて妙である。すべての歌は思い出のメロデーになるのか?心を込めて歌うとは、その過去に
  タイムスリップをして歌うことである。それは過去の喜怒哀楽に対して歌うということだ。それぞれの歌には
  その時代の背景と、それぞれ人の人生がある。また情念を瞬間冷凍をする。その意味でいろいろな歌を振り
  返ってみると、過去が地の底から浮き上がってくる。特に幼児の頃に聞いた童謡や流行歌は魂の故郷と
  いってもよい。その時の光景を思い出して歌ってみると、その時の記憶がどんどん湧き上がってくる。
  (字数制限のためカット 2010年5月5日)
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2002年05月05日(日)
397, たとえ話ー人間の姿を犬に例えるとシビアなわけ?
 以前も書いたが、たとえ話はより深い真実をあらわす。犬のたとえがシビアである。
犬は狼を数千年かけて、人間の都合のよいように作り上げた動物である。(人間に絶対服従の性格に)
社会もしかり、権力者が自分に都合のよいように作り上げた制約社会である。イスラム教のアラーの神は
  その発明の典型といってよい。砂漠の中で規範が必要であった、それだけだ。宗教は一番権力者に利用される。
キリスト教は未開発国に放たれた尖兵ー細菌であった。論語もしかり孔子が権力者に自分を売り込むため
  の教えである。
 (字数制限のためカット2011年5月5日)
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2001年05月05日(土)
 連休はパソコン・ウオーキング・TV・外食三昧
(字数制限のためカット2011年5月5日)