つれづれに

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 何やら、イラン情勢がキナ臭くなってきた。
北朝鮮の攻撃は、ヤバすぎるし、ホルムズ海峡だと、丁度良い塩梅。 
トランプも、次の大統領選で勝つためには何かド派手なディスプレーが必要。






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4864,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー32
2014年07月09日(水)
   * ホテルと学生ショップのオープン
 ホテル一角の学生ショップは、メーカー社長と新潟市内の販売権の移動も話が
ついていた。更にペガサスの立地セミナーで確実に値上するはずのバイパスと
生活道路のクロスしたポイント箇所を把握、長岡郊外の二つの更地を購入していた。
それが数年で倍近くに値上がりをしていた(税制の関係で5年後売却)。 
千葉・千城台ビルの売却資金が、次期計画の基礎資金を予定。 
後で気づいたが、この二ヶ所こそが、郊外型ビジネスホテルの立地。それを薄々
気づきながら売却したのが、私の限界。当時、郊外型ホテルに取り組んでいたら、
数十棟のホテルチェーン展開が可能だった。しかし、リーマンショックで、
これも間違いなく壊滅の道を歩んでいたから同じ! 
現に郊外型ホテルのルートインとαー1が、現在、苦境に陥っている。
 振り返ると、節目の時々こそ、アップスケール(脱皮)の機会があった。
予定挫折で節目を自ら作り、転進した時にチャンスが生まれていた。
 そこで、孤独、孤立に自らを置いた第一歩からから、創業が始まる!
決断をして、大風呂敷を広げ、行動を起こしてしまえば、もう後には引けない。
しかし今度こそ、白紙である。目先の問題は、経営計画書の作成と、ホテルの設計と、
千葉・千城台ビルの売却。それと、有り余った手持時間を使った「宅建資格試験」の
セミナー通い、から出発。
 フロントやベッドメイクなどホテル業務など何も知らないため、ただ呆然自失。
そこで考えたのが、ホテルの一括の運営委託。その場に立てばこそ、知りえたこと。
最終的には、ビルメンテと、ベッドメイクだけにして見積もりを4社に取ったところ、
開けてビックリ玉手箱! 47万、140万、240万、320万である。詳細を見ても同じ。
何で、これだけの差が? とんでもない世界に自分が飛び込んでしまったことを
改めて実感した一現象である。最終的に、これにフロントの夜間委託を加えた。
 そして片腕の人材だが、これが、帯に短し、襷に長しで、見つからない。 
最後の最後に、リクルート本社の中途採用部門を通して、マネジャーを採用することになった。
 その他の学生服ショップとフロント要員は、中途採用と新卒を6人を採用した。 
オープン前に、何日か研修したが、寄せ集めのため、バラバラで手ごわい相手。
その上に学生ショップのオープンでは、学生服メーカーの思うまま、なすがまま。 
相手は、既成の組織がある上、内装費の一千万円近くを出させてのだから、耐えるしかない。 
 次は、付属のレストランである。そこで、コーヒー卸「Sコーヒー」の営業担当に相談すると
『任せてください!そんな難しくはないですよ。一人、面白い男を紹介するので、任せれば良いですよ!』
で、開業直前に本人が乗込んできて無事にオープン。 そこで飲食業界の一種独特の世界を知る!
ホテルなど、よくぞやったもの! 全てが綱渡りで、赤裸々の自分が露出するが、それこそが
己を導いてくれる。 咽喉過ぎれば熱さ忘れるから人は生きていける!
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4497, 怒らないって本当は恐い! ー12
2013年07月09日(火)                      
   * 怒らない作法        『怒りの作法』小川仁志
 矛盾しているようだが、ここで「怒らないという方法」について言及している。
≪ 怒らなくても問題が解決する時に、あえて怒る必要がない。その場合、静観する勇気も必要で、
 淡々と処理をする。相手が怒っている場合、特に注意すべき。ネガティブの人、卑小な人を相手にすると、
同じレベルまで落ちる危険がある。ニーチェは、他人の成功を妬んだり、自身の弱さを他人への復讐心に
変えていくような人間を「ハエ」と表現、そこで「そんなハエを叩いて人生を過ごしてはいけない」と警鐘
をならす。もう一つ、人間が一人考え行動できることに限界がある。そういう限界に謙虚になるのも必要なこと。
怒って解決できる物事ばかりでない、気が熟するの待つことも必要である。その間に、知恵を増やすか、
仲間を増やし、力を増やしてから、改めて怒れば良い。その意味で、信長型ではいけません。
待つという意味では秀吉型でも足りない、家康型でなければいけません。・・・≫
▼ 一連の事業撤退のプロセスで、地方経済の惨状認識の実感と周囲の段差に驚き、怒りさえ感じた。
 商売柄、津波の到来が早い立ち位置にあっただけだが。ニーチェは「ハエ」と表現したが、私は「シラミ」。
そういう私もシラミだが、ただシラミを自覚している。いや自覚できないのがシラミだから? 私は?・・ 
だから、そろそろ気持ちに余裕が出来て、改めて見渡すと、危険度が増しているのが分かる。民主党も酷いが、
自民党も酷い。あの戦犯の二人が首相と副首相になり、更に悪い間違いをしようとしている。その付けを
支払うのは国民である。その自民党に国民が多く支持いているのだから。確かに政治的にみて憲法改革は必要。 
甘い餌で釣ることもありだが。怒るには覚悟がいるが、怒らないことにも覚悟がいる。 その場をともかく
遣り過し、タイムラグを置く。そのため「シラミ」と頭の中で繰り返す。これが一番、効果があるが、
「三ヶ月に一度は、嫌なことはあるもの」と覚悟。まあ、面白いもので慣れ。シラミ、ハエは事実は事実である
と確信すると割り切れる。「娑婆娑婆」である。その意味で、この経験は私の人生の物語にとって必然だった
ことになる。 受け止め方の問題でしかないが・・・
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4123, 予言の書「日本の自殺」 ー11
2012年07月09日(月)
   * 戦後民主主義の弊害
 アメリカに与えられた擬似民主主義を、現在でも大事に守っている府ぬけた日本も、ここまでくると呆れ
果ててしまう。まずは憲法改正と、原爆所持は最低条件である。そして海洋国家として空母を7~8艘の配備
をすべきである。決して極右的発想でない。中国と北朝鮮が隣接して隙を伺っている現実が、その必要性を
求めている。この国民では無理だろうが・・・
ー 次の箇所が正しく疑似民主主義の徴候を書き出している。所詮は、アメリカに充てがわれた民主主義国家。
【 平等主義のイデオロギーに限らず、「戦後民主主義」という名の疑似民主主義のイデオロギーは、すべて
 現代1975年時の日本の「自殺のイデオロギー」として機能している。それをわれわれが疑似民主主義と
呼ぶ理由は、それが民主主義本来のあり方とは似て非なるものだからである。それは混沌とした意識にとって
は確かに民主主義と大変類似したものに見えるかも知れないが、決定的に重要ないくつかの本質点において、
本来の民主主義とは明確に異質のものだからである。
 ~疑似民主主義は次のような幾つかの特徴を持っている。
病理診断の言葉を使うならば、これを疑似民主主義の徴候群と呼んでもよい。
* 疑似民主主義の第一徴候群は、その非科学的性格である。疑似民主主義は、イデオロギー上の独断的命題
の無批判的受容から出発する。そのドグマに従って行動するなら、必ずや全人類の解放が実現され、一切の
社会問題が完全な解決をみるであろうと、そのイデオロギーは主張する。その命題は唯一、絶対的なもので
あり、完全で、誤りなきものである。問題の鍵は、どれだけ多くの大衆が、どれだけ強く、また熱烈にこの
福音を信ずるかにかかっている。 「信ぜよ。さらば救われん」なのである。
* 疑似民主主義の第二徴候群は、その画一的、一元的、全体主義的性向である。多数決原理の誤った認識の
  仕方に端的に示されている。疑似民主主義は本来、多元主義のための一時的、かつ極めて限定された調整
  のための手段、便法として工夫された多数決を、一元主義、画一主義、全体主義のための武器に巧妙に
  転用するのである。 多様なものの見方の存在を否認する方向で作用することになる。
* 疑似民主主義の第三徴候群とは、権利の一面的強調の仕方にある。 疑似民主主義にとっては、義務も
  責任もどうでもよいことである。できるだけ権利、権利と主張し、取れるだけのものは取り、しかも義
  務と責任はできる限り拒絶する。
* 疑似民主主義の第四徴候群とは、批判と反対のみで、建設的な提案能力に著しく欠けるということである。
  個人や社会のアラ捜しをすることは、易しいが、問題解決の提案は骨の折れることであり、責任も生じる。
* 疑似民主主義の第五徴候群とは、エリート否定、大衆迎合的な性格である。真の民主主義はエリートや
  リーダーシップを否定するものでないばかりか、それに重い責任を課するものである。専門家を否定し、
  リーダーシップを否定するなら、その結果として、どうしようもない衆愚政治の泥沼に落ち込んでいく
  ほかない。
* 疑似民主主義の第六徴候群とは、コスト的観点の欠如である。 疑似民主主義は、その権利主張の一面的
  性格、提案能力の欠如、大衆迎合主義などから、大衆の気に入りそうなことを並べたてるだけで、その
  制約条件を覆いかくそうとする。こうした偽善的なポーズで、大衆の人気取りをしている限り、国家は
  破産し、社会は滅亡するしかないのである。 】
▼ 以上の懸念のとおり、これらの症候に冒された隠れ社会主義政党が与党になった結果、収入の二倍の
 国家予算を組み、動きが取れない事態をつくっても平然としている。それも国民が擬似民主主義の徴候群
 におかされた結果だが、それにしても酷い。
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3757, 下流の宴
2011年07月09日(土)
 NHKで「下流の宴」という面白そうな連続ドラマをあったが、見るほどでないと見過ごしていた。しかし、
先日の夕方に二回分の再放送を見て、そのシビアの内容に苦笑してしまった。エリート・サラリーマンの母親
(医者の娘)の息子が中卒でフリーター。 何とか受験校に心を入れ替えてチャレンジさせたいのに、その
彼女が、母親の目には下流家庭の娘。その娘に、「私は医者の娘、旦那も一流会社勤め。貴女のような家庭
とは身分が違うのです」と言い放つ。しかし、その旦那は、リストラ対象で自分たちも下流に?なろうと
している、で・・・侮辱を受けた娘は、「私が医大に入学すれば、結婚を許してくれますか?」
というところで、終わった。しかし、これはあくまでドラマでしかない。小中学校の基礎が出来てない人が、
猛勉強で今さら! が現実。 私の一番上の姉が、その母親に考え方がそっくり。婿取り娘で、長岡社交界
彼女の庭。彼女が意識している庭の住人は、上流だとは当時も、現在も私には思えないから喜劇にしか
みえない。もちろん、その人たちは上・中流など全く意識にはない。自分のことを一番知っている? 
しかし学歴と学力のない姉は付き合いを、その庭の人たちに絞り、見栄に全てを入れていた。
(字数の関係上カット、2012年07月09日)
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3392, 911・考えない・日本人  ー8
2010年07月09日(金)
             「911・考えない・日本人 」林 秀彦 (著)
 著者の哲学についての解釈が書いてある。自身の言葉だからこそ、納得する。特に
「哲学することの要点は、驚異と認識、懐疑と確実性、自己喪失と自己発見。」は分かりやすい。
  = 哲学とは =    (P-217)
* 科学のように進歩発展があるものではなく、その確実性を求めるものでもなく、人間が共に語り
 合って確認しあう過程のこと。
* 哲学とは、人間が「目覚める」ための試みである。
* どんな人間でも、自分が人間であることを意識し、自分の運命や経験を意識すれば、誰でも
 参加できるものが哲学。
* 哲学は、誰でも、人間である限り手にすることができるものである。
 ただし、他人に教えてもらって覚えるものではなく、自分自身でトライするものである。
* 哲学は真理を自分のものにすることが目的ではなく、それを求める過程のことである。
* 哲学は人間同士の交わりである。
* 哲学は自分が人間となるために現実と関係を持ち、その現実に集中することである。
* 哲学の根源は、人間が森羅万象に持つ驚きと疑いから発するものである。徹底的な疑いが心の中
 に起きていない限り、哲学することは不可能である。
* 哲学の起源はそれぞれの人間が、自分自身の弱さと無力さを認めることであった。その自分のカ
 の及ばないことを無関係だと思い、無関心になるならば、人間は哲学を失い、非人間化する。
* 世界の存在は頼りないものであり、信じられないことに満ちている。それらに疑問を持ち、考えない
 限り人間は人間の価値を失う。
* 人間が人間同士助け合う動物だという考え方は欺瞞であり、常に人間は孤独であり、平和には常に
 限界がある。故にどんな場合でも人間は自分独りで自分にとって確実なことを見出さなければならない。
 それが哲学することである。
* 人間が自分の挫折をどのように経験するかということが、その人間を決定する要点
* その個人的な困難と困惑の中から、目標を探り出すことが哲学である。
* 哲学することの要点は、次のようものである。すなわち、驚異と認識、懐疑と確実性、
 自己喪失と自己発見。
  ~~
独りで血の滲むように考えてきたことが、上記のことから読み取れることが出来る。多彩な経験と
挫折が豊富?にあるからだ。人間は考えるからこそ、人間の人間たる所以である。より多く世界を
見て、より多く考え、感動すること!それが哲学につながる。
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3017, 閑話小題
2009年07月09日(木)
 * 中国のウィグル地区の暴動について
    (字数の関係上カット、2008年07月09日)
 ・・・・・・・・・
2652, 人間、互いに理解不可能なのは、如何して?
 2008年07月09日(水)
ある哲学書(*ー参照)の中に、何故人は互いに理解不可能なのかを分解していた。長男がUターンで
帰ってきて、再就職のことなど、節目ということもあり、話を始めるが全く互いに通じない。
それでいて、居酒屋などに誘うと親子三人が仲の良い家族になる。そのことを、知人に話したところ、
・一人は、「親子で対話など有り得ないこと、会話さえないのが実情だろう。親子であるのは、ただ説得だけ」。 
・そしていま一人は、「私の息子は三十半ばになるが、今まで会話さえ殆どしたことがない、最近になって
上京した時に ご馳走をしてくれと、電話がきだした。会話さえ、していること自体で充分」。
そういうものか?と、思いつつ、それでも何とか成らないものかと思っていた矢先、わかりやすい道理に
出くわした。       <*?(哲学ワンダーランド・貫成人著)第一章の?「話せばわかる」1?3)>
ーまずは、その部分を書き出してみる。
  ーひとは誰でも、自分の「地平」に束縛されているー
二十世紀ドイッの哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマー(1900?2002年)は、‘理解しえないものをいかに理解
可能にするか’をきわめる「解釈学」を構想した。 かれによれば、人々がお互い理解不可能なのは各自が
持っている「地平」が異なるからである。たとえば、物置から古い掛け軸がでてきたとしよう。その値打ち
を判断するには相当の経験と知識を必要とする。それに、そもそもそのようなものに価値があると考えて
いなければ、その価値を判定しようとも思わない。実際、古いものには価値がないと思われていた明治初年
には、貴重な文物が安値で買いたたかれて海外に流出した。およそ何かを判断するときには、一定の知識や
価値に頼らざるをえない。そのような判断や価値付けの拠り所となるものをガダマーは「地平」とよぶ。
大海原や砂漠に立ったときに三六〇度ぐるりを水平線、地平線が取り囲む。「地平」とは、地平線の内側、
自分が立っている足下とは逆に、地平があればこそ、その中にある何かを認識することができる。
もちろん、今わたしが位置する地平の外側にある対象も、わたしが移動すれば見えるようになる。しかし、
そのとき地平もわたしと一緒に移動しており、したがってその対象が地平の内部にあることには代わりはない。
物置から出てきた掛け軸の場合、この地平にあたるのは、骨董品を貴重とする価値観、その値打ちを判定する
ための経験、知識だ。一定の価値観や知識があればこそ、古びた品物をそのまま捨ててしまうのではなく、
目をとめ、値打ちを判定することができる。あらたな経験を積み、地平が移動し、拡大すれば、これまで
わからなかったものの値打ちもわかるようになるだろう。肝心なことは、自分の足下にある地平を通常、
ひとは意識しないということである。自分にどれだけの経験があるのか、どのような価値基準をもって
いるのかのリストをもっている人は誰もいない。いつの間にか身につけた価値観や経験に応じて、ひとは、
その場の諸問題に対処する。その結果、各人は、自分でも気づかないまま自分の地平に束縛されている。 
なにしろ、自分がどのような価値観や経験を持っているかを客観視する方途はないのである。しかも、
このように地平に幽閉された状態であるかぎり、それぞれは自分がそれまでに身につけた価値観や経験
から、身の回りのすべてのもの、したがって他人をも判断するしかない。もし、相手が自分とは異なる
地平に立っていれば、その相手の言うことや、やることはまるで理解の範囲外ということになる。
古物に意味を認めない人物には、物置の掛け軸を二束三文で売ってはいけないという人物の言うことは
理解できないのである。では、この状況が変わることはありえないのだろうか。自分とは異なる他者を
理解しうるためには、各人が「心を開いて」いなければならないとガダマーは言う。他人の言葉や行為を
すべて自分の地平の枠内で処理しているかぎり、そもそも【自分とは異なるものがいる】ということ
自体に気づくことはない。けれども、何かのきっかけで、自分が何らかの地平にとらわれていることに
気づくときがある。そのときはじめて、ひとは自分の地平を対象化し、相対化するだろう。そして、
それまで自分がとらわれていたのとは別の地平もありうるということに気づくことになる。
官僚出身者特有の話し方をしていた政治家も、落選が続けば、土地の人たちの言葉でしゃぺり、
かつ、自分の意見を伝えることができるようになるだろう。  
▼ 他人から理解してもらえないという嘆きほど、バカバカしいことは以上からみても解るだろう。
 一人の人間を理解するなど、到底不可能でである。自分でさえ理解できないのに。ただ馬鹿な
オッサンだけは解るが!