つれづれに

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 今朝のポタリングで、耳宛てを落としたと勘違い。
そのまま、来た道を戻ったがない。そして、自宅に到着を
した後になって、帽子の上に付いていたことに気づく。
諦めていたので、何かホッとした気持ちが先にたつ。









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4782,大不況には本を読む
2014年04月18日(金)
  * 「本書のまとめ」      「大不況には本を読む」橋本治
 今さらだが、時代を鳥瞰するにクリアーで解りやすい。 ー(P183)
《【十八世紀の後半に起こった産業革命は、それまでの世界のあり方を変えて しまった。
その新しくなった"世界秩序"が日本にやって来て、日本は150年前に 開国した。開国した日本は、
その時の世界秩序にのっかって、見事に成功した。 成功して行き過ぎて、第二次世界大戦
バブル経済という二度の破綻を経験した。
成績トップになった優等生の日本は、それゆえに"見事な破綻"を経験するが、その他の国はまだ
そこまで行っていないので、相変わらず"産業革命以後の体制"は健在だったが、今度はアメリカが
新たな破綻にぶつかった。産業革命以降の体制は、アクセル全開の自由貿易主義だったが、そのこと
自体にブレーキが かかってしまった以上、改め"ブレーキをかけることの意味"を理解した方がいい。
 そんな世界的なあり方は、″会社の仕事に追い回されて、自分及び自分の家族やその周辺の
あり方を省みない゜という日本人のあり方にシンクロする。自分の あり方を省みるために、
もう一度‘本を読む’というところに立ち戻ったらいい】この考え方をエコノミスト的に裁断
すると、私は「保護主義のイデオローグ」ということにもなるが、私はエコノミストではない
「人間のあり方に立脚する」
文芸関係者なので、「そりゃお門違いだろう」ということにしかなりません。
 バブル経済へ向かって進行する中で、いくつもの誤解は生まれましたが、
「経済が分からないのはバカだ。物事は経済的見地’にのっとって見なければ ならない」
ということになってしまったのも、その一つです。 経済の方で「保護主義的」と言われるものは、
「人間のあり方に立脚する」立場からすれば 「人が生きて行くために押さえておかなければならない
基本」でもあって、だからこそ私は、経済の方では「保護主義的」と言われるものを「自立」と
関連づけるのです。「金儲け」のことをあまり考えない、その能力があるとも思えない文学や思想、
哲学といったもの ーつまり「文学」「その他」は、 「働いて金を稼ぐ」に代表される現実生活
のことを、ともすれば忘却しがちです。
 ・・・ 2008年秋以降の・金融危機・経済危機はそれで、「破綻してよかった」でもあります。
しかし、でありながらも「世界」の方は「豊かさの達成は進行中」という前提に立って、相変わらずの
「富の均質化」を求めます。だから、輸出量や輸入量の調整は求められるのですが、この「調整」の向う
方向は、一つです。 「豊かである国の、既に達成された豊かさを目標にして、世界中を均す」です。
既に経済危機で「豊かな国の豊かさの基準」はぐらついているのですが、世界が「豊かさの達成は
なおも進行中のはず」という前提に立っている以上、目標と される基準値は「豊かな国の豊かさ」です。
そしてこれは、「工業に追い抜かれ、
工業にすがりついて追いつこうとする農業の哀れさ」と同じ質のものなのです。》
▼ 大きな節目時に、読書をして行間を読むしかない、ということ。 特に、アメリカの露ばらいを
させられた日本こそ、新たな解決をしなければならない。「経済の自立=保護主義的になりざるをえない、
という基本を押さえておくこと」には、考えさせられる。日本は明らかに衰退の道を歩き始めた。
しかし、現実をみると、誰も直視しない。そのツケは、株価と国債の暴落という突然の崩壊で生じる
ことになる。日本は近い将来、豊かさとは、かけ離れた国の悲哀を味わうことになる。150年の間の
政治経済のマクロの流れを振り返り、 今後の方向性を見つけることは至難の業だが、それでも見つけ
出すしかない。 「普通の国」が、キーポイントだが、地政学的に見て、日本は中国とアメリカの間に
ある海洋国家。その辺りが鍵になる。今後10年間は、これまでの10年間より遥かに厳しい事態になる。
この20年間の変化が、10年間に圧縮して襲いかかるとしたら、考えただけでも身震いがするが、
興味もそそられる。 気の毒なのは、若い人たちである。


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3310, 笑われ力  -2
2010年04月18日(日)
        「 笑われ力 」 太田 敏正 (著) 石原 壮一郎 (監修)
  笑われることができたら、会話も人生もラクになる!
  笑われ力: 飾らず、威張らず、強がらず、素の自分をさらけ出せる力。
 
 「笑われ力」では、まずは「恥ずかしいこと」を全面的に認める。そうしてしまえば、まわりもそれ以上
バカにできない。恥ずかしいという感情そのものを曝け出すのである。私は平気でサエゼリアに行くし、
その話をする。サエゼリアが値段からみて価値がある思うからである。 世界中の郷土料理を食べてきて
味に対する自信があるから、言えること。気楽に入る安いイタメシ屋を小ばかにする方が野暮というもの。
SC内の隣にあるスーパーより安いのだから。あれはファーストフードとみた方が分かりやすい。
その辺の出来損ない?のイタメシ屋と比べる方が無知といういうもの。美味くなくていい、不味くなければ。 
日本料理も、居酒屋料理も、フランス料理も、中華料理も食べつくきたので言えるのだろうが。
 週末などの外食は2千から5千円の店で充分。もちろん二人で! 「笑われ力」も、実は、それと似て
いるのではないか。笑いで周囲に安らぎを与えることが出来れば、それが73パーセントの「おとな力」の
要素として、当人にプラスになる。「笑わせ力」を身につけるより「笑われ力」を伸ばす方が簡単。 
笑われる欠点を自分がよく知っているからだ。人間の本能が「笑い」を求めている。もし「笑い」が
なければ場は息苦しい空気に包まれる。「笑い」が醸し出す「心地良さ」が、その場を良くする。 
注意しなければならないのが「笑わせ力」である。ひとつ間違うと笑いの強要になり、シラケを生む。 
無理をすると、タチの悪い「笑い」になることが多い。 特に第三者の失敗の話題で笑いを誘う
「邪悪な笑い」は特に注意。 著者は、 笑われ力をつけるには、準備が必要という。 まず、
・ダメな自分を集めてみる
  *過去:失敗談    *現在:無知、悩み、コンプレックス、苦手    *未来:妄想
・そのネタを次の公式(ネタ*表現)に当てはめて話をする
 失敗話、 コンプレックス、 悩み、 勘違い、 なら幾らでもある。ただ、ヒタスラ隠してきただけ。
 まあ、あまり辛らつにならないように、サラリというまでには時間がかかる。 馬鹿?の餌食になること
 など恐れてはならない。
≪ そういえば、昨夜、近くにできたSCの地元チェーンのステーキハウスで、赤ワインの注文時に、
デカンタにしてください」と言ったつもりが、何と「デカタンにしてして下さい」と言ってしまった。 
 家内は噴出したが、店の人は我慢していたようだ。》
  味は値段の割りに美味しい。サエゼリアとは違うが、300グラムのサービス・ステーキセットが1980円。
 二人で食べたが、これで充分。タコのカルパッチョとワインで3000円強の値段なら、駅周辺の居酒屋より
安い。サエゼリアなら半額だが! これも「笑われ」か! ステーキは、数ヶ月、いや半年に一度でよい。 
ところで、ステーキハウスに入ったのは10年ぶりか?   ー つづく
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2935,わが人生最良の瞬間 ー2
2009年04月18日(土)
 一番、具体的に納得した「人生最良の瞬間」は小野田寛郎の「29年後の終戦記念日」である。 
彼にとっての終戦日は、昭和20年8月15日でなく、その29年後であった。その間に死亡した二人と共に、
ジャングルの中で命令に従い戦い続けたのである。終戦直後から「降伏命令」のビラがまかれていたが、
彼等は信用しなかった。そして29年後に彼を捜しに来た冒険家の鈴木と遭遇した時も、フィリッピン
掃討兵と思い殺害しようと接近したが、思いとどまり、話をしているうちに、「命令解除の命令書を
持ってくれば投降すると」と、ボールを投げた。それを持ち帰った元上官がやってきて残留命令と任務解除
と投降命令を受けた。その瞬間「なぁんだ」と思ったという。・・・ 投降ということは、それは死を覚悟
したもの。・・・ところが、フィリッピン軍のレーダー基地に着くと、捧げ銃の敬礼で迎えられた。
捕虜にそんな礼を尽すわけがありません。さらに面会したランクード司令官も、投降の意味で差し出した
軍刀の受け取りを拒否しました。そして翌日、マラカニアン宮殿
会見したマルコス大統領がこう話したのです。「我われは、それぞれの目的で戦った。しかし戦いは
もう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為すべてを赦します」 もう疑う余地は
ありません。昭和49年3月11日のその瞬間に私の身柄と生命は保証され、「私の戦争」は終わりました。
帰国のためにマニラ空港を出発する私に、フィリッピン空軍の軍楽隊が日比両国の国歌と
「ハッピーバースデー」を吹奏してくれました。死を覚悟した戦闘の日々から解放されたのだと、
心から生きる喜びを噛みしめました。
 ーー
 以上が概略だが、この人の人生最良の日は、まさに昭和49年3月11日であった。これほどの最良に日は、
過酷の日々が兵隊生活の三十数年があればこそである。こういう体験記を読むと、迂闊に「わが人生最良
の瞬間」など言ったり書いたりは出来ないと思い知らされる。彼の一言一言が、過酷な経験の裏づけを
もって光り輝いてくる。そういえば、人生最良の瞬間より、人生最悪の瞬間が心に残るのは如何いうこと
なのだろうか?「良いことが多くあったが、嫌なことも多くあったな?!」と、「嫌なことも多くあったが、
良いことも多くあったな?!」と、言葉を言い換えるだけで全く違ってくる。私は、後者を口癖にしているが、
悲観と楽観の差だろう。喜怒哀楽を、それぞれに「わが人生で一番嬉しかった瞬間」「わが人生で一番
怒りを感じた瞬間」「わが人生で一番哀しかった瞬間」「わが人生で一番楽しかった瞬間」を、思い尽きる
まで書き出した時にその人の人生が浮き出ることになる。怒り、哀しみ、喜び、楽しみ、どれもこれも、
あまりに多い。やはり人生をタップリと生きてきたということか。
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2571, ドル覇権の崩壊 ー4
 2008年04月18日(金)
                  ー読書日記
2001年の9月11日のテロは、ことアメリカのドル政策、石油にとって理想的な事件であった。
そのため、当初はアメリカの国家としての陰謀か、意識的に見逃した事件ではないかと疑われた。
アラブ民族、イスラム諸国にとって有利の事件だったのだろうか?と考えると、疑問は増す。
価値のない紙切れは、ドルだけではない、円もしかりである。 私は、少し落ちついた40歳を過ぎた頃から、
意識的にお金を使うことにしていた。といって、子供二人を大学に入れて毎年、1000万は使うこと!である。
貯めたところで、それが通帳の数字以外の何ものでもないことを父親の死に様から、学んだ。
この程度は使ったうちではないが、普段の生活は節約をしていたから、年2?3回の海外旅行など、
割り切って使うべきことができた。この本、読めば読むほど心が寒々としてくる。
   ーー
第三章 かくしてドル覇権は崩壊していく
  P-155
今や処刑されたサダム・フセインは、2000年11月にイラクの石油輸出をユーロ建てにすることを要求。
彼の公然たるアメリカへの挑戦とその傲慢さは、ドルへの直接の脅威であった。彼がもっていたイラク
軍事力は既に相当に疲弊して欠乏しており、アメリカにとってはたいした脅威ではなかった。当時の
ポール・オニール財務長官(任期2001?2002)の発言で後にわかったことは「2001年の1月のブッシュ新政権
の初回の閣僚会議の主要な議題は、どの様にしてサダム.フセインを国際社会から追放するか」であった。
サダムフセインが米国に脅威を与えた直接の証拠は何も無かった。
(字数制限のためカット、2010年4月18日)
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2007年04月18日(水)
2206, 反時代的毒虫 ?3
       b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
「反時代的毒虫」ー中村うさぎとの対談「覚悟の文学、命がけの浪費」ーより
浪費癖で借金してでもブランド品を買いまくりを売りにしている「ショッピングの女王」こと、
あの中村うさぎ、との対談である。彼女は自らを「自分を売る職業・・・それが風俗や水商売なら、
私の仕事だって同じことだ。私には、『自分を切り売りしている』という意識が常にある。」
「そんなふうに自分を切り売りしている人々は、必ずそのことに復讐される。魂が壊れていくのだ。」
と語っている本を書くため身を削り、シリアスなキャラが売りで、まさに「覚悟の文学」である。
最初の結婚は、大失敗に終わり、2度目の結婚相手の現在の夫はゲイ。「毎日一緒のベッドで寝ているが、
互いの裸を見たことがない」という。彼女の両親はゲイの夫に大きなショックを受ける。一人のホスト
にいれあげて、出版社には前借りの借金を繰り返し、時には税金未納で銀行口座を差し押さえられ
ながらも、1本100万円のヘネシーをオーダーするまで「命がけの浪費」をする。
 (字数の関係でカット2,008年4月18日)               バイ! UvU/?
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2006年04月18日(火)
1841, 理解する技術ー情報の本質がわかる?2
     +.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨ  ー 読書日記             
□第3章ー文章から情報を読み取る基本テクニック
  (字数の関係でカット2,008年04月18日)
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2005年04月18日
(月) 1476, 24歳の日記
 ここで22歳・23歳の日記に続いて「24歳に日記」が始まる。 数回だが。あまり書きたくないのが
本音であるが、自分を見つめ返すためには、目をそむけてはいけない足跡である。途中から、日記をカード式
に切り替えたが、そのカード式の日記帳は全て捨てた。今から考えてみたら残しておけばよかった。
残っている日記帳には十数日分は書いてあるが、大まかにしか書いてない。まず、生活信条が書いてあった。 
真面目に書いたものである。それが若さであろう。35年経っても、ほとんど変わってない自分がそこにいる。
それでは24歳の日記ー十数日分だが、開始である。直視したくないので、数回で終えるが。
中原中也の詩の中に、当時の私の気持ちがそのまま書いてあった。当時、ある姉に勤めたら薄れ汚れて
しまった感じといわれたが、当時の悲しみが直に伝わってくるものだ。それと中原中也の心も。それと当時の
両親の温もりと愛情もそのまま自分の中に残っている。人は愛情の中で生かされていることを実感する。
全ての人に感謝をしなくては。特に両親に対して。昨夜、独身時代の自分の夢をみた。
 ーーー
1970年3月
ー私の生活信条
誠実であることー動機においても結果においても常に清潔であること、愛情を基本とすること
   ー常に相手の意思・立場を理解をして、それを持って自己の満足とする毅然たる態度で
    ー何があっても自分を見失わないで、
自分の善に従うこと、善悪を明確にしておくこと
   ー他人(自分以外の人)に対して、自分と等しく愛するように勤める善悪の基準は他人に対して、
    いかに自分と同様に満足せしめるかにおく打算においても、同じ扱いをする動機において不純は
    さけることとする    (最後に拠るべきは純粋な動機のみである)
人間関係ー常に相手側と同じ立場におく
    ただし、能力レベルが同等に対してであるが
不言実行(無言実行)ー
    有言不実行の矛盾に陥らないこと 経験を振り返ると無言実行が一番実効があった
    言葉が先に立ったときは、自信のないときと自覚すること
自己投資をすること
    人生とは、投資である。 自分に対して、そして創造行為もである
    与えられた時間、物、金、チャンスを投資に向けること
克己ー 自立性と自主性を持って,他人志向的個人主義を目指す
    そのために己に打ち勝つこと
 ーー
 1970年3月21日
現在、自分を見直すために会社を辞めた。そして、現在は長岡の自宅にいる。 会社には丁度1年在社した
ことになるが、いざ辞めてみて解ったいたことだが、動揺があまりにも大きい。今も夢の中にいるようだ。
辞表を出して、2~3週間大きな揺れがあった。色いろのことがあったこともあるが、自分も人間だったのだ。
これからは決心をしてしまったからには1年ジックリ勉強のやりなおしである。コンピューター関連は、
技能職でしかないので私には向いていない。マーケッテングのほうも面白そうだ。義兄に西村さんに聞いて
みようと思っているが。この一年間どうすれば一番効果のある時間を過ごせるか考えてみなくてはならない。
それより、この一年で一生の自己設計をつくるのがポイントになるだろう。そのために如何するかを考えるべき。
日記を考えると、即自と対自の会話である。また自分自身である時間。 反省と焦りが交差するところである。
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2004年04月18日(日)
 1111, 「今時の若いものは!」
エジプトの遺跡にも「今時の若いものは・・・」と書いてあったという。数年前から、数人の知人が会社の
後輩に対して「今時の若いものは!」と、批判的にいっている言葉が気になった。年寄り臭い嫌な響きが
あった。若い人にも個々それぞれある。この言葉は自分の価値観が若い人の変化を受け入れられない心理から
出ている。「それにしても、今の若いものは!」という言葉が出てきそうだが。一年前、アメリカがイラク
への侵攻から、若ものの間でイラクが究極の旅行先としてのターゲットになっているという。今回のイラク
の人質騒ぎも、その類の範疇でしかない。ボラティアの女性だけが救いであったはずが、??を吸いにいく
丁度よい名目?で、NPOを利用してだけ? という疑惑も浮かびでてきた。18歳の坊やも、共産党一家の
パフォーマンスでしかなかったのか。といって、彼らには彼らの正義があったはずである。
インターネットの検索で調べたら、私が書いた文章より、内容の濃いものでてくるから困ったものだ?
しかし、このテーマを考えたらこそ、より深く見えてきたこともあるが。
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 演題:「近頃の若者」 養老猛
この講演は平成10年6月に鎌倉芸術館小ホールにて行われました。その時の講演の録音テープをおこして原稿を
作成し、養老 孟司先生に御了解を得て、このホームページに掲載しています。「近頃の若者」という題を
いただきましたが、私ももう相当な年になったのでこの題がちょうどいいのではないかと思われたのでは
ないかと思います。「今時の若い者は…」というのは一番古くは、エジプトのパピルスに書いてあると
いいます。ですから紀元前の頃から年寄りは若者のことを「近頃の若い者は…」という習慣というか癖が
あったようです。自己紹介いたしますと、私は1年だけをのぞき、小学校からずっと学校におりまして
卒業してからは教師になり、東京大学に57歳までおり、58歳からは北里大学におります。ですから仕事では
若い方とお付き会いするというのがほとんどでございました。戦後50年を過ぎましたけれども、この半世紀で
世の中が相当変わりました。その間に若い方もずいぶん変わってきたというのは当然でございます。
私が小学校に入った時というのは戦争中でございまして、1年生の時が昭和19年でした。ちょうど東京で
空襲が始まった頃。その頃病院に入院したことがありましたが、ご存知のように病院の食事というのは
ひどいものですが、そのひどいのが戦争中でしたから一層ひどいものでした。その時代、親は食べていく
ことで精一杯。子供たちは青天井で、学校が終わると川へ行って魚を捕ったり、空き地で虫取りをしたりの
生活でしたので、学校は大変ありがたいところでした。私がまず最初に「近頃の若者」と違いを感じたのは、
団塊の世代でした。  (字数の関係でカット2,009年04月18日)
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2003年04月18日(金)
 744, まずは一日一図から ー2 
これを実行して10日が経つ。 三日坊主と思っていたが、今もしっかりと続いている。
始めたら面白いのだ。一番面倒で避けたい思考が面白いのだから、大変な習慣であり収穫である。
この歳で色いろのことが解り始めている、この鈍さも実感する。 ポイントは
・初めに漫画を中央に小さく書き込み、 ・それに、漫画の「声の噴出し」を書いてしまう。
・そして漫画の上にテーマを書きこむ。 ・「噴出し」に思いついたことを気楽に書き込んでいく。
漫画の人形を書いたケースの場合、自分の分身と思ってしまう為か、頭の中から色いろなことが浮かび
上がってくる。「半分遊び気分で問題の追及」を、結果としてしてしまう。「左手を上に挙げ、右手を
腰に当てている小さな人間の絵を中央に描いて、左右に三づつ声の噴出しを書き込む」と、どういう訳か
難しい問題でも、気楽に考えられるのだ。読書法で10?100倍の速度が可能という本が多く出版されて
いる。 私の場合、その方法を身につけて10倍以上の読書力になった。それもこの1^2年である。
しかし、「一日一図」を始めてわずか10日で、10倍の思考力が増えた?ようだ。その程度の頭脳でしか
ないのが、事実だ。以前から天才のノート法とかいう本を読んで、色いろ工夫していたが「毎日一図の習慣と、
漫画を中心に描いてから、埋める方法」がよい。随想日記を書き始めて、文章力と文章量はそれまでの十倍
に増加。そうすると、「読書力と文章力と思考力」がこの数年で10倍になったことになるが、集中力が
それだけ増えた事は間違いない。これらの方法は過去からいくらでも在ったのだから、今になってやっと
気づいたに過ぎない。この随想日記を続けてきたことが、こういうノウハウを身につかせているのだろう!
・・・・・・・
2002年04月18日(木)
380, 姉正子さん
 姉正子が亡くなって2ヶ月すこし経つ。去年の6月に来て,3時間半なにを話したか? 大体がこんな内容。
・自分の生い立ちー声楽のコンクールで、中沢桂に高校時に負けたことが一生の分岐点であった
・高校しかいけなかったハンデキャップが一生ついてまわったこと
・倒産時に私に助けてもらったのが、地獄に仏であった
・今回自分はセンガンでないが、主治医がセンガンと書いてくれた為、保険が全額降りた。
・いつもこの家に来ると、肩に重い何かが被さるが今回はないのが不思議だ
・両親の思い出、今までの思い出
・なにがあっても自分は生きぬくーEM菌を飲んでいるので順調
・病気の状態ー入院の後先の話
 彼女にとって、「もしかしたらこれが最後の実家帰り」という気持ちがあったのだろう。
 彼女にとってここは(自宅)やはり実家なのだ。 この内容から私なりの彼女の心理分析をすると
・この長岡の街で、この世界を出ることができなかった一生であった。
・やはりやってはいけない事?をしてしまった無念、後悔。
・両親に対する恨みと、反面後悔。
・病気の恐怖に対しての自分の気持ちの説得ー自己詭弁
一昨年の手術の前日の20時過ぎか電話が鳴り、「実は自分は肺がんで明日手術。最後の電話をやはり
貴方に電話をしてしまった。これからお風呂に入って身体を清め、手術に臨む。もしものことがある
かもしれない。いろいろ有難う。」
ー私「もし間違えてあの世に行ったら、両親によろしく。それとうまくやって。」
ー正子「仲良くするし、待ってるからね」 だいたいこんなものだった。
   面白い人でもあった。