つれづれに

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 今朝の我が家の庭に昨日に続いて鶯がきて鳴いていた。
口笛で真似ると、必死に鳴き返してきた。
 栖吉川の桜は、三分咲。 福島江と、悠久山は、今週末から
来週にかけて満開か?





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4405, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ -5
2013年04月08日(月)
    四時限 宇宙人を目指そう  『隠居大学』 天野祐吉
 * 隠居をすると自由になれるー宇宙人を目指そうーお相手 谷川俊太郎
 ここで、「人生はカマボコ形グラフ」とあるが、そうかもしれない。
右下がりは以前、還暦だったのだろうが、今は古希か。体力からみると、
私は古希が目安。リタイアーをした後、スポーツジムに連日通いだしてから
足腰は寧ろ、強くなってきた。知能も、バイアスが取れてきた分、
これも良くなった?ようだ。とに角、面白い。 
≪ 谷川:うん、それもあるし、ぼくは幼児に戻れるというふうに思って
 います。われわれ世代は高度成長の時期と重なっているからか、人生に
ついても右肩上がりのグラフで考えるくせがついていたんですよね。
けれど、やはり母の介護を経て、「老い」ということを身近に考えるよう
になって、鶴見俊輔さんらがいうような「人生はカマボコ形グラフ」なんて
ことが、実感としてすごくよくわかるようになった。ある程度上がったら、
下がっていくのが自然なんですよ。それはさっき言ったように自由になったり、
解放されたりすることも含めて。
 天野:下降ということは、嘆くばかりのことではない。
 谷川:そう、人間の加齢を考えるとき、樹木の年輪にたとえて考えるのが
わかりやすいと思っています。中心に0歳の自分がいて、一歳、五歳……と
だんだん経験とともに年輪が増えていき、いちぽん外側に現在の自分がいる。
だから、どんな年齢の老人のなかにも、0歳や三歳の幼児がいる。
これは心理学でもそういう考えがあると思うんです。そして、働き盛りの
中年期を経ったら、今度は積み重ねてきた年輪が一枚一枚、はがれていく。
つまり年をとればとるほど、中にもともといた自分、幼児の自分に戻れる
のではないかというのが、持論です。
 天野: なるほど。年輪となる厚い木の皮は、たんに経験ではなく、
社会的な制約というようなものでもあるんだ。
 谷川: 中年期のひとだって、本当は幼児の自分を持っているわけです。
そしてその部分は、本当はもっと自由になりたいといつも思っているはず
なんですよ。われわれのように詩を書くような人間は比較的自由に幼児の
部分を出せますが、会社組織のなかにいると、そうもいかないでしょう。
だから会社が終わって飲み屋さんに行って、ママさんに甘えるという
かたちで幼児性を解放しているんじゃないかと、そうにらんでいます。
 天野: なるほど(笑)。つまり幼児化、宇宙人化は、もともとできたこと
が下降したり変質したりするわけではなく、むしろ、 自然な姿に戻って
いるということですね。≫
▼ 「加齢を樹木の年輪にたとえて考えるのがわかりやすい」というのが
 言いえて妙。一番外の厚い皮が社会的制約、も面白い。その樹皮を外し
てやるのが御隠居の第一歩。一度外すと「遠き日は 年とるごとに 近くなり」
になっていく。振りかえると、してしまった後悔と、しなかった後悔がある。
後悔あとに立たず、だが・・ 解放され自由になるのは良いが、それを
楽しめないと重荷になってくる。 私の知る限り3分の2。
何故解る?顔に出ているもの。せめて楽しいふりをしたら。

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5502,一切は君の自由だ ―池田晶子の言葉 ~?
2016年04月08日(金)
       『幸福に死ぬための哲学 ―池田晶子の言葉 』池田 晶子(著),
   * 一切は君の自由だ
《 もしも私が教育者の立場なら、子供や生徒に、「好きにしろ」と教える
 だろう。世の中には善いことも悪いこともないのだから、自身が善いと感じ、
自身が悪いと感じる、そのことにのみ従って行為せよ。一切は君の自由だ、と。
「売春がなぜ悪い。私の自由だ」と言う女子高生に、大人が反論できなくて
困っているのだそうだ。
「なぜ悪い」と問われれば、こう答えてやればいい。
善悪を知らないというそのことが悪い。知らないということが悪いことだと
知らないことが悪い。それは誰にとっても悪くないが、お前にとってだけは
大いに悪い。                 『残酷人生論』
☆ 人生を振返り、様ざまな過去の記憶がフラッシュのように湧き出る。
 その中で、マイナスの記憶をみると、無知が起因することが多い。
ここで、「一切は自由だ。世の中で善いも悪いもない。自分が何も知らない
ことを知らないことが悪い」と、ソクラテスの「無知の知」を引合いに出す。
哲学の第一歩が、何も知らない自分を前提に、他者との対話、そして書籍を
通した触媒から知識を積み重ねることである。「一切は君の自由だ」とは、
恐ろしい言葉でもある。何故なら、何も知らないことが解ってないからだ。 
――
   * 金では手に入らないもの
 人は、金によってよいものが手に入ることに慣れてくると、金それ自体
をよいものと思うようになる。手段と目的とが同一になったのだね。
困ったことはだね、このとき人々は、よいものは金で手に入るものという
考え方に慣れすぎていて、金では手に入らないよいもの、すなわち、「善」
という価植の欲し方がわからないということなのだ。いくらた金を積んでも、
金を貯めても、善だけは手に入らないのだ。なぜなら、いいかね、善は、
タダだからだ。                『無敵のソクラテス
☆ タダなら、限りなく善行をすればよいが、金で手に入らない善こそ、
価値があることを知らない。 「金で手に入らない善とは何か?」を、
考えたことがあっただろうか。まずは、「迷惑をかけないよう己を律する」
「目先のことを後回しにしない」「困った人に手助けをする」など、自分の
規範の中で実行をしているつもりだが・・ 「金では手に入らぬ善行」を
改めて考えると、「無心な心」「純粋な愛情」「感謝の心」「感激できる魂」
「感動できる心の張り」「毎日の最善の習慣」。 それでは、金で手に入る
「もの、こと」とは何だろう。 想像しただけでもゾクゾクしてくる。
たかが金、されど金だが、感謝、感激、感動する魂が分母あればこそ。
とはいえ、何があればこそ、魂の振動に近づける機会が多くなる。
振動しないで錆付いている自分に気づいていないで、最期の最期に・・


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3300, 平山郁夫の教養世界
2010年04月08日(木)
 先日、何気なくTVをまわすと平山郁夫の絵と、彼の原爆体験などの逸話などを取上げていた。
原爆後遺症で一時は死も覚悟したなかで玄奘三蔵をテーマとした『仏教伝来』を描きあげ院展に入選した
平山郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多く、それがインドに発生した仏教をアジアの果ての島国
にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへとつながっていった。彼は東京芸大教授、
そして学長になるが、何ともいえない風貌に教養の深さを感じ取ることができる。 
 この番組で、彼の逸話が印象に残った。
「ある先生に、人の真似をしないこと、と教わった。そのためには独自の世界を創り、それを表現する
こと。独自の世界を創るには、はば広い教養が必要である」と教えられ、痛感。それから宗教、哲学、歴史
など幅広い分野にわたり猛勉強をした。その裏づけがあるから、あのような絵が描けるのである。 
この齢になって幅広い教養のベースが、その人なりであると、つくづくと感じ入っているため、尚のこと納得。 
先日、TVを通して400年前の画家・長谷川等伯の絵を見たが、その中にある幽玄な世界に、等伯の魂を
数百年の時空を超えて感じとれた。 絵の中に彼の独自の精神世界が全て込められている。
 独自の世界をつくり、その世界を表現することが最も重要なこと。
そのために幅広い知性と教養が必要といわれると納得できる。その結果、真・善・美という価値が自然に
現れ出ることになる。 経験、そして知性を裏づけとした教養を考えると、何か心寂しい己に寒気がする此の
頃である。良い学校に行き、良い師に出会い、良い友人と語らう中で、教養のベースができるということか。

 ・・・・・・・・
2925, 中沢新一の『三位一体モデル』 -4
2009年04月08日(水)
 *「三位一体モデル」と「カ・タ・チ・モデル」の相似と違い三位一体のモデルを肯きながら読んでいて、
 似ている思考モデルを思い出した。創造工学の故中山正和の創造思考法である。
・カ= 神の閃き(神のカ)・タ= 田んぼのタで、カタチ取りをする・チ= 道のチ、血のチ、力のチで、
  エネルギーを注ぐ カタ=カ+タで、型をつくることになる。
  カタ+チ=カタにエネルギーを入れて、カタチ(創造)にすること。
 何かそっくりだが、彼がこの三位一体モデルから、このヒントを得たかどうかは分からない。
「三位一体モデル」は、父、子、精霊のうち、まずは子の設定をした後に父たる普遍と、増殖する精霊を
考えるのが自然である。しかし、それに対して「カ・タ・チ・モデル」は、カの閃きから、カタ、カタチ、
へ発展していく考え方である。そうすると三位一体の父たる「閃き」を纏めるに、「カ・タ・チ・モデルを
使えば良い。二つの思考法の合体である。いや、ややこしくなるので類似した思考法があるというだけで良い。
 カ=頭、タ=身体、チ=血液(循環器)・エネルギーということか?
思考法として、『起承転結』『カ・タ・チ・モデル』『正反合モデル』『曼荼羅思考法』
『雑記ノート書き散らし法』などをメインにしているが、『三位一体モデル』が一つ加わった。次回は、
この本の最後にあった、各職業の『三位一体モデル』の実例を書き出してみる。 
 その一つだけを、まずは紹介してみる。
  ー書籍の出版社ー
 私たちの場合は、一冊の本ごとに「三位一体」があるといえます。
作家、作者が「子」であることは分かります。その作家に本を書かせた「動機」が、これが「神」なんです。
書いた人がいて、彼が書いたものがある。それを書かせたものがあるとしたら、それは「父」です。何しろ、
初めに「子」ありきで、一冊ずつ、みんなそうだとしたら、出版社は八百万の神々の集会所のようなもの。
・・・・・・・
2561, ウォルト・ディズニーがくれた夢と勇気の言葉  ー2
2008年04月08日(火)
 創業のノウハウの全てが、ディズニーの全てに入っている。それが遊びという世界で万人が解りやすいから、
尚のこと心を打つのである。感動、そして共感が一つずつのイベントに入っている。その原点が、チャップリン
の凝縮されたミッキーマウスから出発している。ディズニーのの世界は参加型バーチャルであり、夢の世界で
幻想を楽しませる。明るく、光にみちた世界に一時を過ごすのである。
 ーーー
ひとつ踏み出す、つまり、新しいことをやってみるということは勇気がいるけど、自分を信じて、思いきって
やってみよう。ひとつ踏み出さなくちゃ、何にもはじまらない。解)その一歩の勇気、それが大きく人生を
左右する。その一歩も裏づけを十二分に持ってないと、逆の結果になってしまう。
 ーー
「人生の素晴らしい瞬間というのは、自分ひとりのためよりも、愛する者たちのために行ったことに
 結びついている。」
 解)押し付けにならない程度のことだが。
 ーー
実は人々はお互い相違する点よりも共通する点が多いということを、伝えていく。
 解)自分の中に、その共通点を見出していくのが教養?
 ーー
ただ、絶対に忘れてならない。すべてのはじまりが一匹のネズミだったということを。
 解)ミッキーマウスが、チャップリンの漫画化ということも?
 ーー
我々は何か人をひきつけるものが欲しくて、チャップリンのような切なげな様子を持つ小さなネズミを思い
ついた。とにかく精1杯生きているちっちゃなやつ、というような、どこにいても人々がミッキーを見て笑い、
共に笑い続けてくれることだけを求めた。 特に社会的象徴のような重荷を課したりしなかったし、社会の
欲求不満を代弁したり、痛烈な皮肉をしゃべらせたりしなかった。 ミッキーは人を笑わせる使命を
与えられた小さな人格なのだ。
 ーー
どこにいても人々がミッキーを見て笑い、共に笑い続けてくれることだけを求めた。
特に社会的象徴のような重荷を課したりしなかったし、社会の欲求不満を代弁したり、痛烈な皮肉を
しゃべらせたりしなかった。ミッキーは人を笑わせる使命を与えられた小さな人格なのだ。
 解)笑わす使命を与えられた人格=チャップリン か?  気の毒じゃないか、そういうのは? 
いや、人に微笑を浮かばせることこそ、人間としての使命ではないだろうか。
・・・・・・・・
2007年04月08日(日)
2196, ファンタジー文学の世界へ ?2
              オッ(*^○^*)ハ?ヨウ! 
「 ファンタジー文学の世界へ」 ー読書日記
 ーP57~58
「シーズ・リーヴィング・ホーム」はビートルズの画期的アルバム
『サージャント・ペーパーズ・ロンリーハーツクラブ・バンド』の挿入歌である。イギリスの教育界では
粋なことに、この詩について二年にわたる論争があったという。一方は「この詩は家出を推奨しているので
青少年に与えるべきではない」 もう一方は「この詩こそ、現代家庭内の人間関係の疎外感を象徴している」
という肯定的なものである。教育界でこのような論争が起こるということは大変好ましいことである。
ここには誰も悪人はいない。ただ、人間の持つ自立願望(依存対象からの脱皮)に伴う絆(家族以外への
愛情転換)にかけようとする一種の成長願望があり、そこに向かおうとするパッションが、世代間における
微妙な心の差異、そこから生じる疎外感の蓄積となっていく。以下は、その挿入歌の詩を訳したものである。
 ーー
「彼女は家を出て行く」(シーズ・リーヴィング・ホーム)ービートルズ

水曜日の午前5時 夜が白み始める頃 そっと寝室のドアを閉める書き切れない思いの残る手紙を残して 
階段を下りてキッチンへ向う手にはハンカチを握りしめながら 裏口のドアの鍵を静かに回してみる
外へ出る とうとう自由だ

 彼女は (あの子のために何でもやってきたのに)
 出て行く(夫婦の生活などは犠牲にしてきたのに)
 家を  (欲しがるものは何でも買ってあげたのに)
 彼女は家を出て行く  一人ぼっちで寂しかった
 何年も何年も   (さようなら)

父はいびきをかいている 母はガウンに袖を通す
そこにあった置手紙を見つけて拾い上げる 階段の上で呆然と立ちつくし
泣き崩れて夫のもとへ駆け込む お父さん、あの子が家を出て行ってしまったのよ
なぜ私たちがこんな目に会わなくてはならないの あの子は一体どうしたっていうの

彼女は       (私たち夫婦のことなんかどうでも良かったのに)
出て行く      (自分たちのことなんか二の次でやってきたのに)
家を        (頑張って頑張りぬいて何とかここまできたのに)
彼女は家を出て行く  一人ぼっちで寂しかった
何年も何年も    (さようなら)

金曜日の午前9時 遠く離れた場所にいた
きちんと約束の時間に待ち合わせ
自動車の仕事をしている彼氏がやってく

彼女は       (私たちは間違っていたのだろうか)
楽しい時を     (間違いだとは思いもよらなかった)
過ごしている    (楽しみをお金で買うことは出来ない)
彼女の心の中の何かが否定され続けてきた
何年も何年も    (さようなら)

彼女は家を出て行く (さようなら)
ーーー
解)
これも、親離れへの情操の心理であり、誰もが通過しなくてはならない通過儀礼でもある。
もし何らかのカタチで、このアップ・スケール(自立)をしないと、親という山姥に一生をとって食われて
しまうことになる。しかし、親の愛ほど純粋なものはない。特にお腹を痛めた母親は、「子供は分身」という
思いは強いだろう。親離れ、子離れの問題は、嫁・姑の問題と同じく、人類の永遠の問題である。私の場合、
八人兄姉の末っ子で、両親の(特に父親の)深い愛情の元で育った。試行錯誤の後のため、いや大家族のため
束縛は殆んど感じなかった。しかし両親が死ぬまで、盆と正月は、就職をした年を除けば、全て両親と
過ごした。そういうものと信じて疑わなかった。少子化の時代。両親と子供の関係は強くなり、親離れの
問題は大きくなる。 気の毒といえば、気の毒である。
                                  ー続く
・・・・・・・・
2006年04月08日(土)
 1831, ブログの話
     は(* ̄(エ) ̄)ノろぉ(* ̄(エ) ̄)ノ
世界に80億のサイトが存在しており、日本のブログは、500万。アメリカでは2000万もあるという。
この中で、いかに面白い自分にあったブログを探し出すのがポイントになる。先日NHK・BSで、
「ブログおもしろ大賞」を特集していた。おもしろいブログを紹介する番組。エントリーされた中から
2つのブログが大賞に選ばれた。それぞれの個性がはっきりしていた。いろんな要素を加え、角度を変える
ことで特徴が出ていた。大賞は、「世にも奇妙なグルメリポート」と「夢を追う男」面白そうなので、メモを
して幾つか見てみたが、ナカナカ味がある。「しまふく寮日記」「クリックブログ」
「サブ・カルチャーの達人」「ガラクタイチ」「うちの三姉妹」「月刊男心」「ゆめおう男」「私がみた事実」
「ニコニコルソン」「東京テッシュ」「元プロ野球選手のセカンドキャリア奮闘記」その中で一番面白かった
のが、これである。このブログの一部をコピーしてみた。
 ~~                          (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが?
「夫の不倫観察日記?阿修羅のごとく?」
夫がまた不倫をしている。
・・・また・・・そう、これが初犯ではない。この際、もうネタにするしかないか。
夫の浮気の一度や二度や三度・・・見て見ぬフリをしてきた。しかしながら、今回はとうとう寛大な妻の
『地雷』を踏んだぞ! 夫の不倫、観察します。 妻の皆さん、一緒に笑ってください。夫の皆さん、
妻の恐ろしさに震えてください。 =これだけで、もう引き込まれてしまう=
                         ΒΥΕ.._〆('Д'*⊂⌒`つ
・・・・・・・・
2005年04月08日(金)
 1466, 閑話小題
  ーロシア人の大立ち回りのその後ー
拘留されて三週間、あと一週間で国外退去になるという。領事館が中に入って、警察の提案で告訴を取り
下げることになった。本人は日本の留置場に入るために来たようなものであった。頭がおかしいとか、薬中
とは警察も言わなかったが、国外退去が妥当というところであろう。損害は20万弱でほぼ保険が下りる
ことで実損は無かった。「何で?」という疑問が残ったが。
  ー不景気風ー
このところ、4月になるとピタッと客が遠のく。毎年のことだが、
連休までは気持ちが悪いほど街そのものも閑古鳥が鳴く。
  ー音楽の世界ー
私にとって高価なコンポを買った為に、知らなかった音楽の世界を飛躍的に知ることになった。
これが10万以下ならそうはいかなかっただろう。そろそろボーズのコンポの熱が冷めてよいころだが、
それでも最低2?3時間は聴いている。元々CDのソフトが揃っていたこともあるが。
読書日記で書くつもりだが、「知りたいことがなんでもわかる・音楽の本」がクラシックから、
ジャズ、ロックから、日本のポピュラーや伝統音楽まで、地図のような案内書になっている。
何回か読んでいるうちに、それまで断片的にしか知らなかった音楽の世界を少しは鳥瞰できるようになった。
他にも楽器の成り立ちや、種類や、音響マニアの存在、そしてCDよりすぐれた
SACDスーパーオーディオCD)が5?6年前より市販され、最近になってドンドンソフトが
出されているということも知った。あの会場で聴い音が良かったのは、コンポそのものの性能だけでなく、
録音技術も、CDそのものも飛躍的に進化していたためだ。本屋で立ち読みをした音楽雑誌の音響広告に、
サッカーボールのようなものに、多くのスピーカが何面(8?12面?)も付いていたものがあった。
其々にアンプがついていて、室内の空間の壁に向かって反響させるためだ。
・・・・・・・
2004年04月08日(木)  
 1101, 春がきた
新学期が始まった。春は誰にとっても心躍る時期だ。幼稚園生、小学生、中学生、高校生、専門学校生、大学生
と街に初々しい姿が見え始めた。そして春といえば桜、その桜の花も咲き始めた。自然と春の歌が口に出てくる。
「春がきた、春がきた、何処にきた、山にきた・・・」「春のうららの隅田川・・・」何か魂の故郷に里帰りを
しているような気持ちになってしまう。近くの川には鴨が浮かび、雀がさえずり、小さな花があちこちに見える。
春は皆にとって、心がときめく。全ての始りのような気持ちにさせてくれる。新鮮な希望の時なのだ。長い冬は、
春にとっての母でもある。そこで大きな愛を充分与えられるのだ。春は長い冬の眠りの中で過去を蓄積をして
未来を膨らます。
・・・・・・・・・
2003年04月08日(火)
 734, またまたお金の話ー銀座のママの・・
銀座ママが明かすーお金に好かれる人 嫌われる人のちょっとした違い 」の題名につれてて図書館で借りて
きた本だ。日本のトップの財界人や政治家や役者などのお客の色いろな人生の浮き沈みを見てきているはず。
軽く読むにはなるほど面白い内容だ。 私は高級クラブなど、殆ど行かない主義。バカバカしいと思うのだが、
といって数回行った銀座の店の気分の好さは今でもはっきり憶えている。5万10万出しても、価値を感じ
させる何かを常に店に演出しているのだろう。なるほどというのが所々納得できる。 このママの店のホーム
ページをみてキーワードは、「明朗会計」と「銀座としての安さ」である。以下はある書評からのコピーである。
 ーーーー
 数々のベストセラーを生み出した作家「ますいさくら」の双子の姉、ふたご屋のオーナーママ、「ますい志保
が「銀座」から学んだ成功法則を元に、お金をつかむコツを知ったいわゆる出来る男と出来ない男の違いを語って
くれます。不況こそチャンスと考える「出来る男」の成功法則やノウハウもぎっしり! やはり彼女は男を見る
眼が違います!「ふたご屋」のWebサイトはこちら http://www009.upp.so-net.ne.jp/futagoya/ 
人の世の摂理、富、名声、愛、信頼と裏切り。
人生の「旬」、成功と挫折、欲にまみれた人間模様。濃密な時間が流れる街「銀座」。巷には、不況や不景気を
言い訳にする人は多く、夜ごと、愚痴や不満を口にしていませんか?語った「夢」に今でも責任を持っていますか?
能力だけではつかめない「お金と成功」。では、成功者たちは日頃からどんなことを実践しているのでしょうか?
「どなたも特別なことをされているわけではありません。誰にでもできる、ちょっとした工夫で成功と大金を
つかんだのです。」
ますい志保?
その「ちょっとした違い」の一部をご紹介しましょう。
【目次から】
ー感想ー
この本から感じたことは、著者に上手くいく人の典型をそのままに観たことだ。学ぶ姿勢、不景気の時代の
合わせた廉価の追及、好きのことの追及などなどである。一番印象的だったのは、たたき上げの居酒屋チェーン
の社長が言ったという「銀座ママが明かすーお金に好かれる人 嫌われる人のちょっとした違い 」  
           ◇著者:ますい志保
               (字数の関係で中略2008年4月8日)
・・・・・・・・・
2002年04月08日(月)  
 370,なりきる
散歩のときはウオーカーに、旅行の時はツーリストに、会社に行けば会社の立場に、家に帰れば父親に
なりきる。そしてなりきった立場で色々な自分を見てみる。散歩の時、会社のことを考えたりして景色が
見えなかったりする。海外旅行でのケース。今まで会社の役員をしていた人が、その役員の状態で来ていた。
奥さんがその人を、社会へのリハビリでこの旅行にきたといっていた。かたっぱなしに同行者を皮肉っていた。
上から見下ろしている視線を引きずってきていたのである。考えてみたら、なりきってない方が多いのではない
だろか。学生時代に学生になりきっていなかった自分。必至で働いていたあの時期、その時はなりきっていた。
実際なりきれないで、失敗を重ねていくのが人生かもしれない。同級会などで久々に会うと、時間を超え昔の
自分にいつの間になっている。花が「今花やってんねん」と主張していると、考え見ている自分。その時は
見ている人になりきっている?いやなりきってないか?名優は端役をやっても光ると云うが、名優の名優たる
所以はなりきることだ。 ところで自分は今、書き手になりきっているだろうか