つれづれに

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 まあ、毎日のように、生々しい殺戮のニュースが飛び込んでくる。
情報化のためか、それに大して驚かなくなっている自分に違和感を
感じることがある。6人を殺戮した一人は首を叩き切られていたと
いうから… そして、犯人は、近くの橋から投身自殺? 




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4640, 閑話小題 ~都知事の狼狽
2013年11月29日(金)
  * 「徳洲会」資金提供問題で、都知事の狼狽
ーまずネット記事よりー《 猪瀬直樹知事が大手医療法人「徳洲会」から
5,000万円を受け取っていた問題で、猪瀬知事は、会見でも、個人的な借金だと
する点を強調している。さらに現金受け取りの前の和食店での面会についても
明かした。猪瀬知事は「借用証 徳田 毅殿 (去年)11月20日5千万円也、僕の
住所とサインです」(その借用書は最近作ったものでは?)の質問に「それは誤解。
これは、間違いなく原本」と述べた。》 
 この一連の会見の内容からして、明らかに逮捕に準じる資金提供。
検察も逮捕をするしかない?だろう。政治家としての叩き上げではないため、
都知事の場合と違ったトップの立場の身の処し方が出来なかった。マスコミ
上がりの正直さが、そのまま表立ってかシドロモドロ。言い訳するほど、
自分の立場を悪くする。政治世界は一寸先は闇。これで逃げ切ることは難しい! 
2020年まで安泰と思っていただろうに。
それとも、石原慎太郎の知恵で難局を何とか乗りるか? 
   * ストーブリーグが面白い
 落合の中日のGMの就任で、ストーブリーグが俄然、面白くなってきた。
巨人の小笠原が中日に、逆に中日の井端が巨人に移籍。他に、広島からFA
宣言した大竹寛投手(30)が、巨人への移籍を表明した。更に、有力選手
2~3人が移籍してくるだろうから、これで来年の巨人の独走がみえてきた。
その巨人を他球団が叩き潰し、原監督を引きずり物語が面白そうだ。
 ーネットの記事からー
《 落合GMは井端は「戦力外の選手には金額提示はしない」と、来季の構想外
 ではなかったことを強調。そのうえで「彼に対してはそれなりのものを例年
払ってきた。故障でメスも入れたし、億以上を出すリスクを球団が背負えるか、
という判断」と、年俸大幅ダウンの提示を説明した。球団は井端に対し、野球
協約に定める年俸の減額制限を大幅に上回る今季年俸1億9000万円から
1億6000万円減の3000万円を提示したとみられる。
▼ 小笠原が3000万、井端は4500万と大幅ダウンという。厳しいものだが、
 それでも井端の方が、お買い得? 原監督は、優勝をしていれば今期で辞め時
だった。早く言えば飽きてしまった!ということ。 江川監督、ヘッド兼任の
バッテリーコーチに桑田、GMに野村元監督あたりが面白そうだが! 
更に「巨人は27日、西武から国内FAを宣言した片岡治大内野手(30)と
都内のホテルで初交渉」というニュースで報じていた。

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3900, 精神力ーその偉大な力  ー1
2011年11月29日(火)

  * 「精神力ーその偉大な力」 ダン・カスター著
 学生時代の卒業間近から27歳までの修行時代から事業創業期の精神は緊張と不安の極限にあった。
あまりに突き当たった壁が厚く、自己確立が曖昧だった内面は粉々になりかけていた。しかし、それを
表立てることは許されない節目時。 傷つき荒れ狂った気持ちを自分で何とか立て直さなければ、絶壁の
谷底に転がり落ちる綱渡りの日々。 その中で、狂わないようにバランスをとらなければならない上に、
自分を奮いたっていなければならない。 その日々の中で、学生時代の終わりの頃に読んだ、このブリストル
の「精神力を活かす」と、ダン・カスター著「精神力、その偉大な力」が、心の支えになっていた。
そこには色の違った傍線が幾つも引かれていた。経験を重ねるうちに、この手の本は安物の精神主義の本
でしかないと疑問を持つようになっていた。 40年経った現在再び、読み返しているが、決して安物の
精神論の本でないことが分かり安心をした。マーフィーの成功法則の下地になっているのではと思われる。 
特に「精神力ーその偉大な力」は、先がさっぱり見えない不安感と挫折感の中で、何度も何度も読み返した
ことが懐かしい。節目時に読んだ本は、節目時の自分の心でもある。 40年の年月は長い!そこで失った
ものと得たものが私自身である。
 一月程前に、信濃川の大手大橋を歩いていたとき、地球の芯からの声が聞こえてきたことを書いた。
自分の独り言であるのは敢えて言うまでもないが、魂の芯から出ていることは違いない。時き、その声と
対話をしたり、中心点に気持ちを収集してそこの蓋を開けるイメージを持つ。そして、そこからエネルギー
が心に溢れ出てくる感覚を持つ。また、その蓋の向う側に無限の宇宙の時空をイメージする。 気持ちが
弱った時など非常に有効に働く。その下地が早朝の散歩の途中にしていた呼吸法。気持ちを地球の中心点
まで到達するイメージを持ち、中心点を擬人化して挨拶したり会話をしていた下地があった。
散歩をポタリングに変え、しばらく、その呼吸法をしてなかった。ところが、サイクリングの途中に
ウォーキングを取り入れて大手大橋を‘引きチャリ’をしていた時、脳の底から以前独り言で話していた
擬人化したイメージの声が聞こえてきたのである。一月前の随想日記に同じことが書いてある。その芯と
声が、この「精神力」と同じである。 心の底のエネルギの源泉を探し出し元気を創造しろということ。
次回から、少し書き出してみるが、過去を振り返りながら心の源泉の湯に浸かっている気分か。
 精神を哲学するのも、面白い。精神=信念=「絶対言明」+エネルギー。意志に似ているが、少し違う.
意志の哲学といえばショーペンハウアー。 その影響を受けたのがニーチェ
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3535, つれづれに ー 閑話小題
2010年11月29日(月)
  * 自分の初めの感じたことを信じなさい!
 夏の終わりごろにニューカレドニアに行った時の話。 ホテル内の土産店で若い女性二人が土産物に
迷っているところ、60歳代半ばの日本人男性が話しかけていた。「自分の初めの感覚を信じなさい!」と。
「私に、そんなことを言ったら『アフォか、御前は!』と思うが、若い女性になら良いか?」と独り言を
頭の中で呟いていた。その言葉は、正しくもあり、間違ってもいる。これは経験からいえること。経験の
浅い人になら、自分の感覚を信じて、まず決断をし、その結果をフィードバックする方が、躊躇して何も
しないより良い、ということになる。それを信じて軽い気持ちで判断をして大失敗を数限り経験してきた
私にとって、そんなことは若い女性にしか言えないこと。その人に何か怪しげなバナナ的雰囲気を漂わせて
いたが。同じ言葉でも、受止め方は年齢、知識・経験の質量で変化する。
  * 尖閣ビデオYoutubeが注目される
 もう古い話?になったが、海保のビデオ流出事件でYoutubeが更に注目を浴びてきた。Youtubeは10分間
の制限があるが、個々人が撮影したビデオを自由に投稿できるもの。僅か5年前に若い二人の米国人によって
つくらたサイトで、一年後にGoogleに2000億円で売却された。日本にも、その翌年2007年に上陸、瞬く間に
普及。一日20億回のアクセスがあり、このサイトから世界的に有名になる人が続出。 数ヶ月前から面白そう
なものを私のブログに貼り付けている。過って見たことがない面白い映像が次々と見つかる。TV番組でも、
世界の面白映像として毎週紹介する番組が既に出来ているが、その多くは見たもの。 面白いビデオの右側
に関連したビデオの写真が貼り付けられ、アクセス数が書かれているので、関連したビデオにネット
サーフィンできる。 そこで、思いもよらない世界を垣間見るケースが多くなる。
コスプレ、ラップ、ペットなど、知らなかった世界を知ることが可能である。ところで、あのビデオについて
石原慎太郎が、「売国奴の治世者が、英雄的行為をした人を国辱罪で訴えるという奇妙な現象が起きている」
と発言。言い得てるが、それが東京都知事ときている。訴えると脅され「チャンと受けてたって証言をする」
といったら、何も言わなくなったとか。 面白いと笑ってられないのが、この国の現状。
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3160, ドバイが債務不履行
2009年11月29日(日)
 アラブ首長国連邦のドバイの資金繰り悪化が表面化した。数年前にドバイの発展する様子を
NHKスペシャルで放送したが石油で得た資金で競って超高層ビルを中心とした新都市の様相には驚いた。 
世界のクレーンの3割が、そこで動いているという信じがたいことも報じていた。大金持ちの若い御婦人が
高級ショップで「もう、買うのに飽きてしまった、ツマラナイ!」と云々。
 ( 字数制限の関係でカット 2011年11月29日 )
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2795.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・4
 2008年11月29日(土)
【第三の法則】 口はひとつ 耳はふたつ
「神が人間に二つの耳と一つの舌を与えたのは、話すよりも聞くことを重視したからである」ーユダヤの諺
「口を閉じれば閉じるほど、自分の話を聞いてもらえる」
「噂はかならず三人の人を殺す。噂をばらまく人、疑問を抱かずに噂話を聞く人、そして噂の対称の人だ」
「美徳と称するものは、他人の嫉妬を刺激するものだが、控えめであることだけは例外だ」 ーユダヤの諺
「捕まえた鳥を逃しても、また捕らえることが出来るかもしれないが、一度発した言葉を 
 取り返すことはできない」ーユダヤの言葉
「知恵に近づくには、まず沈黙し、次に相手の話に耳を傾け、第三にそれを自分の中に吸収し、
 最後は人に教えてみることだ」               ソロモン・カビロール 
  (字数制限のためカット09年11月29日)
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2007年11月29日(木)
2430, <おばあちゃん> 『いのちの書』ーより
「ちくま哲学の森」シリーズの第2巻の『いのちの書』という生死の関する22人の内容が驚く内容の連続。
死刑の立ち会いの詳細、実際に拷問にあった本人の手記、臨終のこととか。死に関しては、日常の中では、
誰もが見てみないふりをする。しかし書き手が言葉として書き連ねると、それ自体が物語になるだけの深み
を持つ。この本の冒頭の金子光晴の詩がよい。
<おばあちゃん>  金子光晴
『若葉』のおばあちゃんは   もう二十年近くもねてゐる。
すべり台のやうな傾斜のベッドに  首にギプスをして上むいたまま。
はじめはふしぎそうだったが いまでは、おばあちゃんときくと すぐ<ねんね>とこたえる『若葉』。
なんにもできないおばあちゃんを どうやら赤ん坊と思ってゐるらしく サブレや飴玉を口にさしこみにゆく。
むかしは、蝶々のやふにへんぺんと 香水の匂ふそらをとびまはった おばあちゃんの追憶は涯なくひろがる
そしておばあちゃんは考える。 おもひのこりのない花の人生を 『若葉』の手をとって教へてやりたいと。
ダンディズムのおばあちゃんは 若い日身につけた宝石や毛皮を みんな、『若葉』にのこしたいと。
できるならば、老いの醜さや、病みほけたみじめなおばあちゃんを 『若葉』のおもいでにのこすまいと。
おばあちゃんのねむっている眼頭に じんわりと涙がわき枕にころがる。
願ひがみなむりとわかってゐるからだ。
 ーー
 ある伯母が晩年に「歳をとることは、無念なこと」と言っていたとを、聞いたことがある。
偶然に去年、老いを取上げていた!
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2006年11月29日(水)
 2066, あたりまえなことばかり -17        おふぁ  ファ~
 そろそろ、死に支度モードに入らなくては、と思っていたが。チョッと待てよ!死なないのだから、
そんな準備などする必要はない。が、しかし歳相応にギアを変える必要はある。還暦を過ぎたのだから・・
両親の死に際に、二人とも同居していた。そして「老いる」姿と、肉体的終末を看取って、
決して歳をとるのも悪くはないと実感した経験がある。さらに老いた色いろな人と人生を多く語り合った。
だからこそ、老いることはまんざらでもないことを知っている。一つだけ「死は存在しない」ことを、
彼らが知らなかったのを除けば。「死は観念でしかない」ことが、解るはずはないのは当然である。
母親が、痴呆になっても学ぼうとする姿勢が見えた。これである、魂は永遠の学びをしていく。
ただし、それなりの人生を活きてこそ、だが・・
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老いは個人の生を超え
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人は、老いるという存在の現象を、なかなか素直に認めることができない。それを否定的に感じてしまうのは、
若さという経験を先にしてしまうからだ。やがて人は、例外なく順番に40,50歳と年齢を重ね、老いると
いう現実を肉体の事実として知ることになる。老いることは死と違って逃れようもない現実である。生きられて
しまった事柄とは、端的にかこである。それは動かせない事実である。過去は動かせないと知るということは、
自分の人生がそのようであったと、それ以外ではあり得なかった、このとき、人は人生の一回性の秘密に
触れているのだが、多くの場合それは、それぞれの感情や感傷によって覆い隠されてしまう。記憶に苦痛の
伴わない人は幸福である。過去は動かせない、しかし動かせる未来もない。なぜ自分の人生はこのようでしか
あり得なかったという、存在への問いが、溜息に等しいような老いの時間は哀しい。生きるということを物理
的肉体の生存と定義するなら、老いていく過程として生きていくのは肉体を失っていく過程である。しかし、
我われの直感は、決してそんなふうに感じてない。老いていくことによって、得ているものはたしかにある。
何かが確実に増えていくと感じるもの、それは何か。精神というより、むしろ魂である。成熟するのは魂である。
魂は成熟する。「ソウル・メイキング」と呼ばれるもの。現代風の言い回しも、ソクラテスふうには「魂の世話」
となる。経験と時間を織り込みながら、魂であるところの人生を織り上げていくと、いった意味合いらしい。
縦糸に時間を、横糸に経験を、織り込みことで織り込まれつつ、魂が自身を織り上げていく行程は、刻々老いて
ゆく肉体の老いとは反比例して豊かである。いや、肉体の老いとは、それ自体が新たな経験の他ならない。
それすらも、織り込みつつ色はその深さを増すのではなかろうか。人生とは、生死の間に存在する時間である。
なるほど論理的には、人生には生と死、すなわち一とゼロしか存在しない。 したがって、時間もまた存在
しない。しかし、現実には、人生は一とゼロの間に存在するもの、すなわち無限である。有と無の間で生成
する質である。質は論理でない。論理が指示する、論理自身の影である。論理的には存在しない死を、しかし
現実には存在するとして生きているという、このこと自体が人生の不思議である。その存在しない死が
近づいてくる老いの時間とは、いよいよ玄妙なものになっていくはず。
   字数の関係でカット(2011年11月29日) 
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 2005年11月29日(火)  
1701, ほめ芸王 ー2
以前、一度借りてきた「ほめ芸王」を、再び借りてきた。前に読んでチャンスがあったら可能な限り褒める
ように勤めようと思っていたが、これが難しい。家内を対象に褒めるように勤めているが、馬鹿馬鹿しい。
  というわけで、いま一度借りてきてジックリ読んでみた。    funn~(。_。)q
 以前借りてきた時に印象的だったのは、
 ・褒めるのは芸・技であるから、自分流のノウハウを確立すべし、
 ・褒めれば、神の心になれるだった。褒められれば、舞い上がってしまうのに、
  人に対しては気楽に褒めようとはしない。ー必然性が無かったからだろうが。    
だいたい酒席で、酒を注ぐときは自分が注いで欲しい時だ。自分が褒めて欲しい時に、人を褒める。
-字数の関係でカット(2007年11月29日)
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2004年11月29日(月)
1336, 2000年前のポンペイー5
 一昨日のNHKスペシャルで「ポンペイ」を特集していた。落書きを切り口に番組みを構成していたのが、
新鮮であった。たまたまポンペイについて書いていたので、偶然の一致が奇妙な気分である。2000年前の
生々しい人間の心が、落書きの中に出ていた。話は少し逸れるが、エジプトのルクソール神殿の遺跡の壁に
あったレリーフに兵隊の絵があった。同じ絵が多く描かれていたが、現地の日本人女ガイドの説明が面白い。 
その兵隊うちの一人だけが、ところどころ逆向きに向いているのだ。当時の多くの職人の一人が、命を
かけて?わざっと逆向きに彫ったという。いつの時代でも、そのような遊びがあった。それよりも、
数千年の時空を超えた男の生身の人間的なジョークを伝えているのがよい。
ーその番組みで紹介していためポンペイのメモには
・〔私と貴方が一緒に踊ったことを憶えていて、訪ねてきてくれてラブレターを
 置いていってくれた〕返事が壁に書かれていた。
・隣近所のお知らせー人々は回覧板かわりに壁を使ってコミュニケーションをしていた。
・現在の通りの商店看板と殆ど同じものが、当時のポンペイの街にもあった。
ポンペイの街には400軒の店があった。 24時間営業の居酒屋があった。
 その居酒屋の奥の部屋でゲームと会話をしている絵が残されていた。
・食料品店の壁には、掛け売りのメモが書きこまれていた。家計簿的なメモもあった。
果物屋には桃が売られていたメモがあった。  等々である。
メモから、当時の変化がうかがい知ることが出来るという。
当時のローマ帝国の政策の大きなものとして、パンと、サーカス(街には必ず円形劇場がつくられていた)を
庶民に与えることであった。AD・54に17歳で皇帝になったネロが、その政策を更にエスカレートさせていった。
そのためか、贅沢の限りをつくす考えが一般にまで浸透を始めていた。その頃のメモに〔今を楽しめ〕
というのがあった。それがエスカレートしたのかタブーのメモもあった。
・下品の言葉を慎むように
字数の関係でカット(2011年11月29日)
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2003年11月29日(土)
969, 幽霊店舗
 昨日、初めて聞いた言葉である。 それが「幽霊店舗」である。一瞬何のことか解らなかったが、
次の瞬間に直ぐに理解した。 「経営者が夜逃げか破産をした店で、店舗のオーナーか銀行が、
既存の従業員にそのまま営業をさせて、間接管理をしている店」でないかと。
 (字数制限のためカット10年11月29日)
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[242] ゼネコンー2
- 2001年11月29日(木)
同じ見積もりでも、3~4割の値段が違ってくる。平気で目の前で2000万・3000万、いや数億の
値引きをする。普通の感覚の世界とはかなり違った世界である。今の不況の原因をつくったのは、ゼネコン
の存在が大きいといってよい。日本的特質がそのまま現代的に残っている。この30年近くはゼネコンの
付合いを欠かせたことがなかった。社会勉強をその世界を知る事で,たっぷりさせてもらった。悲劇、喜劇
の渦巻く世界でもある。しかし男の世界でもある。新しい創造に携わるからだ。よしやるか!という決断
から、彼等との付合いが始まる。彼らのシステムに現場主任(現場代人)と言う責任者が、殆どの権限を
与えられる。その能力次第で完成のレベルが違ってくる。
(字数制限のため、カット 09年11月29日)
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ある時間の断片
 11月29日 ー1968年  
10時前に起床。 12時に学校に向け出発。川崎の約束を破ってしまった。昼飯後、ゼミに出席。
一回も口を開かなかった。どうしても自信がもてなかった。それか、傷をつきたくない為か。17時終了。 
帰寮後、食事をする。21時から一時間、本を読む。 その後佐藤のところで酒を飲む。一年後輩の間中
のブーちゃんと議論伯仲する。かなりいい加減なことをいっていたようだ。 明方の3時過ぎに就寝。
ー「今日のゼミについて」で考えたことー 
 ゼミで、個人主義集団主義について、各自の意見を出し合って議論をした。ホワイトのいう集団主義
「個人」を決して働かせない。それは個人の創造性と個性と本質を見失う可能性が高い。グループ活動は
個人の水準を引き下げる効果が大。大勢順応を強要し、個人を否定し、創造的活動を破滅させる。一般的
にいえば人間活動を妨げる制約を持っている、という意見がある。個人主義においても、集団という環境に
合わせて目標に向かっていく条件は必ずある。反面、集団主義は集団であるがゆえに不可能を可能にする
側面を持っている。言葉の捉え方のニュアンスの差があった。集団で鍛えられたものと、そうでないもの
との差は大きいのは事実である。それは個人の能力の差もあるし、個人の分析能力や統合能力によるだろう。
私も人間関係主義?によって流されて、自分の本質を見失っていた部分が大だ。しかし今やその段階は
すぎたようだ? 利己主義ー>集団主義ー>個人主義とである。個人主義とは、帰属を決して集団に
置かないことではないか。個人に帰属を置くことである。自己の中に生きることである。その時おきる
集団との格闘により自己を獲得していくことだ。そして集団に対しては協調をすることだ。
「友人に対しても、相対する相手」に対してもだ。それは寂しく、辛いものである。その葛藤の中でこそ
個人は生長するものだ。人間関係に捉われて自己の創造性や個性を否定することだけは、やってはダメだ。 
その葛藤の中に本当の知識が現れてくるのだ。
 ーーーーーー
-2003年11月28日記ー
ーこの35年前の日記を読んでー
あくまでも「今の自分」と「過去の自分」の話しだが、いま読んでいても真っ当なことを考えていたこと?
に驚いている。いまの自分よりよほど筋が通っている。ゼミと武澤先生の影響があったためだろうか。
多くの友人と口泡を飛ばして議論を毎晩していたせいだろうか。それとも一生の分岐点に立っていたためで
あろうか。この日記がなければ全ては忘却の彼方である。「忘却の彼方にいる自分の姿」に驚いている。
現在の方が、体験と知識量が数十倍いや数百倍も多いはずなのに。決して現在の自分に劣っていない
当時の自分がそこにいるのに驚きである。当時は、経験量に対してのコンプレックスは全くなかった。
それだけの自信を全員持っていた。 裏付けもあったのだ。その後も挫折を数多く繰り返す中で、自己喪失
感の強い体験を何度もした。全くの無能感、それも痴呆症的な感覚の呆然感である。その中で、遙か彼方の
自分が、これだけの文章を書いていたことに驚いている。他人からみれば馬鹿みたいかもしれないが。