つれづれに

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 今日のYoutube

まあ、日が過ぎることが早いこと。
そして、順番が来て、ハイさよならですか。
それも悪くないというのは、まだ直面してない為。

以下に、46年前の金沢時代の日記があるが、書き残すことは
本当に必要と思う。 書いてない日々のことは、無かったに等しいと
さえ思えてくる。




・・・・・・
4831,「事業人生を決心して45年」の語り直しー9
2014年06月06日(金)
  * ドン底の気分の最中、父親が末期癌に! 
 金沢の「いとはん」に1年3ヶ月ほど経ったある日、実家の一番上の姉から
電話が入る。「父が検査で悪性の胃ガンが発見、緊急手術のため東京女子医大
に入院することになった。手術は、ガンの権威の、中山医師が執刀するが、かなり
厳しい事態」という。その瞬間、頭は真っ白。父あればこその自分。20歳辺りから、
ほぼ私の希望を聞き入れ賛同をしてくれて、当時も、自らの育成プログラムの
一貫として金沢で学んでいた。その父が、もしものことがあれば、現在の実家の
事業の力関係は根本から崩れる。父親も、万一のことを考えて、実兄と私のため、
主だった財産の生前贈与をしてあるが、当時の自分は、経験不足。
父が亡くなれば、根本的に地盤が大きく傾いてしまう。ただ、手術が成功する
ことを祈るしかなかった。そして、手術の一週間後、東京女子医大に休暇をとって
見舞いに行くと、母は洗濯物を干すと言って私を屋上に連れ出すが、躊躇をして
何も言わない。その雰囲気からみて、長くはない事を悟る。後で知ったが、
多くの臓器を取り除いたが余命一年。 そして、一月もしないうち、
父親が退院、私も、父の指示で、実家に戻ることになる。
 色いろあったが、金沢は、あまり良い思い出はないが、それでも、綱渡りの
日々の中、面白い日々が続いていた。 何処の世界にいっても、独り、美味い
居酒屋と面白いスナックを見つけ出し遊ぶ術は学生時代から身につけていた。 
これで大いに助かったが・・ 何故か女性に関しては、縛られることが大嫌いで、
適当に漂っているのが好き。幼児の頃から実家の女子社員とか、姉たちの盛りを
過ぎた変容を多く見ているため、今は綺麗だが、その後の・・ それなら、
浅く広く、ふわふわと、適当に、を保っていた方が面白い。
しかし金沢も、あの辺りが限界。 彼氏持ちの同僚が、急に誘ってる?と、
その2ヶ月後、結婚で辞めていった。最近になって、それがマリンブルーの
なせる業というのが解ったが、当時は、女は恐ろしい!と、思っていた。 
女の職場では、同僚と浮いた話は絶対タブーのため、フワフワするしかなかった。 
一人、2~3回のお茶とか居酒屋が、少し危険だが、適当な距離があればこそ、
良かったことになる。その辺りは、誰も熟知している? 長岡藩と加賀藩とは、
歴史の深さが全く違う!それが、そのまま女性の魅力に、そのまま出ている。
派手だが、堅実で、保守的で、他所ものには親切だが、地元には、その承認を
得ると徹底的にいたわるが、細かいタブーで縛られている点は、似ているが、
より厳しい。そして、急遽実家に!父親の余命一年の事態と、私のUターンで、
静かな小さな池が大きく揺れることになる。どこにもある御家騒動の始まり。
争いの種は、それぞれの立場にとっての理不尽が、怒りと争いの発端になる。
ーこれも偶然だが9年前の同月同日に、金沢のことを書いていた。ー
  やはり、何かがあるのだろうか? 偶然とは面白いもの。 
  その前年も、同じ偶然があった。
・・・・・・
4464,余命半年 -2
2013年06月06日(木)
         
 「余命半年  満ち足りた人生の終わり方」大津 秀一著
  * 遺伝子からみれば、古い個体は新しい個体のため消え去るのが運命
 人生なら良いが、何時までも会社にへばり付き、新しい目を摘み取る人、
それを、自分で気づいてないからタチが悪い。「老兵は、ただ黙って去るのみ」
である。死も時節がある。 ただ悄然と消えていきたいもの。ーその辺りからー
≪ 科学の発展は、おそらく一つの答えを用意したと思われる。つまり人間は
 生物であり、だからこそ本能が、 正確に言えば遺伝子が、「生きるように」
「殖やすように」そして「死ぬように」命じているという考えである。
生物は遺伝子によってマッピングされて出来上がっている。遺伝子は自らが
生き残るために様々な戦略を取る。別の遺伝子と組み合わさって、さらに
優れた遺伝子となるのもその一つの戦略である。そのためには、生物に交配して
もらわねばならない。だから遺伝子によって形作られた本能に従い、生物は
交配し、子孫を残し、種を繁栄・存続するように「なっている」のである。 
要するに、生きるとは、遺伝子の命じるままに従い、結果として「その種の
繁栄のために動く」あるいは「その種の繁栄のために動かされること」である。
遺伝子を残し、遺伝子をより良いものにして、その遺伝子が長く存続できるよう
にすることが遺伝子の欲求であり、それが本能に刷り込まれている。だから皆、
相手を求め、おまけとして快楽が付いて来る交配を行い、危険を冒して子供を
産み、子供が一人で生きられるまでは惜しみない愛情を注ぐ。
それはすべて、「人類という種を生き長らえさせる(人類の遺伝子を残し続ける)」
ためなのである。 この考えによると、死が到来するのも理解できる。
まず交配が行われて新しい個体ができれば、親の遺伝子は子に受け継がれる。
しかも遺伝子の容れ物(肉体)も新しくなっているし、遺伝子の組み合わせに
よってより優秀な個体が生まれているかもしれない。そうすれば少なくとも
「自分の遺伝子を残す」という目的を、遺伝子は果たしたことになる。
つまり古い遺伝子や容れ物は要らなくなる。だから、多くの動物は生殖期後、
長い時間を生きずに死んでしまう。生殖という非常に大事な役目を終えて
しまった以上、もう他に大きな役割はないのである。次に、もし「死」が訪れ
なければ、限られた空間に、個体は限度を超えて殖えてしまうであろう。
そうすれば、結局その生物の相当数は淘汰されなければならない。 ≫
▼ 死ぬのは自然の摂理、それに従うしかない。その時になり慌てふためくが、
 諦めきれないのが知識を持った私たち。「余命半年!」と宣言された時の
衝撃は、計り知れない。昼の間は、まだよいが、独り夜半に目が覚めて、
その恐怖との 闘いは生き地獄だろう。死ぬのが怖いが、余命半年と
悟った時から死ぬまでの苦痛が恐ろしい。だから準備が必要になる。

・・・・・・
3724, 全米N0・1弁護士の勝ち抜きセオリー  ~①
2011年06月06日(月)

     『議論に絶対に負けない法』ー ゲーリー・スペンス著
 10数年ほど前に読んだ本だが強烈な印象が残っている。 軽そうな題名だが、内容は重厚で味がある。
全米�1の弁護士が書いた「議論の勝ち方というより、人生の勝ち方のセオリー」の本。
アメリカ的プラグマチズムとして割り切って読めばよい。しかし、生の法廷の中で勝ち抜いてきた
人生のセオリーの凄みも見逃せない。とにかく、面白い本である。 4~5年に一度の割りに三十数年来の
友人が、人生の大きな分岐点の決断の問題や、経営上の深刻な悩みを持ち込んでくる。 私の場合、自分
のこととなると何?だが、ひと様の事となると、冷静な答えを出すことが出来る?と自負をしている。 
 学生時代の武澤ゼミの特訓と、百数十回以上のセミナーの蓄積もある。 数年前も、「実は現在、属し
ている会社が吸収合併した会社のことで裁判沙汰になる。自分は現在、その専任になっているが、
どうしたらよいか助言して欲しい」とのこと。「2~3千万レベルか、数億レベルか、それによって私の
聞き方と答えが違ってくる?」と言うと、「もちろん後者で、前回、そこを買収するときに相談をして
もらったが、その買収後に派生した問題」とのこと。これ以上は書けないが、直ぐに、この本を思い出し
紹介をした。 内容は、ほぼ忘れていたが、残っていた記憶で「一に準備、二に準備、三、四がなくて、
五に準備。 それも戦いの構えを時間をかけて作っていく準備を説いている。それと正攻法を第一にして、
問題の中心点に全エネルギーをそそぐこと。それと自分のサイドの勝ちの物語を作ること」が書いてある等、
自然にスラスラと言葉が出てきた。 その意味では、この本を消化していたことになる。 考えてみると
、この本、孫子の兵法そのもの。
「勝つための構えを充分に備えておけば、勝利は自ずと決まってくる」のは道理である。分かりやすくい
えば勝ちの陣形をコツコツ作ること。アメリカの現代哲学的な考えの枝葉の一例とみると、法廷闘争の
中で勝ち抜いてきた弁護士の自信に満ちた論理が見えてくる。
 
・・・・・・・
3359, ギリシャ問題の深層
2010年06月06日(日)
 現在、欧州ではギリシャを発端にしてPIIGS(豚ども)といわれるラテン系を中心にした国々の
金融破綻が問題になっている。アメリカ発の金融恐慌が欧州に飛び火をし危険な状態になっている。 
ギリシャがユーロ通貨圏に入りたかった理由は、防衛面(イスラム教諸国に隣接)と、(万年金融破の)
金融面があった。 02年ユーロ通貨加盟を検討していた際、「財政赤字をGDPの3%に抑えなければならない」
というハードルがあった。 そこにゴールドマン・サックスが「とにかく財政赤字の帳尻を合わせる施策を」と、
エサを差し出した。 追い詰められたギリシャ政府はその誘いにのってしまった(当時の政権は現政権と同じ
パソック、首相はシミティス。現首相パパンドレウは当時の外務大臣)。財政赤字を3%以下に抑える“魔法”
(虚偽)と引き換えに、GSは観光国としては大きな収入源に目をつけた。ギリシャが空港税の30年分の収益と
将来の宝くじなどの収入を差し出すなどの契約を交わした。 ギリシャにとっては加盟さえすれば当時の
ギリシャの外国からの借入金利が13~4パーセントから、3~4パーセントに引き下げることが可能になる。
加盟の結果、さらにお金を低金利で借りまくった結果が深刻な財政危機である。 加盟のための粉飾決算
していたのである。そのことを国民はなんの説明も受けていない。 その上に、ある日突然の
財政破綻寸前宣言」である。
ゴールドマン・サックスはこのような誘いを他にも、複数国に持ちかけていた。 ギリシャの公務員は
4人に1人もいて、国民も納税意識が非常に低い。それをドイツ、フランスから合理化を要求されると
拒否反応を示して国家レべルのゼネストに入る。4人に1人が公務員だから、どうにも抑えようがない。
ドイツからみれば、「単独であれば1~2パーセントの金利で済むものを、まともに働かないギリシャ
同じ金利を払う必要があるのか?」と、不満が出るのは当然のこと。 ドイツ、フランスにとって、
アメリカの対抗上、欧州連合の共通通貨のユーロの価値の創造が必要である。 しかし、ギリシャ
イタリア、スペインなどの国家の存在。「何で私たちの血の滲むような苦労を、御前らの様な怠け者の
ためにしなければならないのか、まっぴらだ!」となる。ラテン系の南欧だけでない、東には、まだ
共産主義の計画経済ボケをした東欧諸国がある。彼らにも多額の借金がある。彼らは自由競争と今さら
われても!という気持ちが残っている。欧州連合が、果たして維持できるかどうかの土壇場である。
 今度の恐慌は、20世紀に残されてきた問題が一挙に噴出、その破壊であるから、20年は最低でも
かかってしまう。
 
・・・・・・・・・
2984、閑話小題
2009年06月06日(土)
 * 資産家夫婦の惨殺事件
少し前の話になるが、資産家夫婦の惨殺事件があった。 月の小遣いが300万という。ポケットに
百万単位の金を入れていて、飲み屋で他のお客に驕っていたという。世の中には、まだ、こういう人
もいるのである。その辺のヤクザ者に狙われるのは当然。銀行を信用しないで家にお金を置いておいた
というし、周囲の人もそのことを知っていたようだ。起こるべくして起きた事件である。 
 * インフルエンザの第二波、第三波は?
この10月から新インフルエンザの第二波、三波が始る。
その時の第二波は毒性が強くなり猛威をふるう可能性が大という。実際に毒性の強いのが発生した時
にはどうなるのか? 自分や家族のことだけでなく、日本中の経済が大打撃にもなる。特に客商売を
しているところは、凍りつくことになる。考えただけでも恐ろしい。新インフルエンザ用のワクチンが
年内の2千万人分を製造するという新聞が報じていた。6人に1人に行き当たるようだから、何とか
いけそうだが。

 * 昨夜は長岡で飲み会
昨夜は、恒例の長岡で飲み会。新潟駅前は不景気風が吹いていて居酒屋が少ない客の取り合いを
している。二時間で三千円で飲み放題は当たり前で、そこに値打ち感を持たせるかが大きなポイント
になっているようだ。ところで長岡は、そこそこ人は出ていたようだ。そういえば、去年の今日、
車に撥ねられた日だった。(コピー)それを思い出しのだ、早々帰ってきた。 
 * 先が思いやられる、この一週間の不入り
6月の第一週は、毎年のように青ざめるほどホテルが不入りになる。 恒例としてもあまりに悪い。
駅前で居酒屋の店員が割引のチラシを持って客引きをしているのは当たり前の景色。客の方も週に
一度は三千円?で飲み放題の店で仲間同士で憂さ晴らしをしないと、鬱憤が晴れないのだろう。
 ・・・・・・・・
2008年06月06日(金)
2620, あわや大事故!
まったく、この男、よく変な事件を起こすよ!というのが、起きざまの実感! 昨夜、長岡で飲み会。 
普通は第一金曜日だが、上さんの都合で一日早めた。長岡の飲食街、道路には人っ子一人も居ない。 
それだけでない、タクシーも一台も並んでいない。平日のためだろう。 丁度0時頃、タクシーを
拾うとして旧八号線にいっても車自体走ってない。そこで信号を超えて川沿いの道を歩いていたら、
左折をしてきた乗用車と出会いがしら撥ねられる。ガソリンスタンドの角で見通しがよい筈。 
かなりの衝撃であった。 ところが、左に担いでいた革鞄が振り向きざまで身体を防御してくれた。
右腕と左足の脛の右を痛打しただけで済んだ。運転手は若い男で、青い顔をして平謝り。大きい衝撃
の為、かなりの人身事故と勘違いをしたようだ。車に乗って病院に向かったが、触ってみたがそれ
ほどではない。しかし、後遺症が出る可能性がある。事故届けに長岡駅前交番に進路を変える。
 しかし、交番は電気が消えて誰も居ない。そこで、電話をして本署からか来てもらう。 
そして現場で事故の詳しい聴取。それも運転手のみ。駅でパトカーが来るまで、「私は、問題を
大きくするつもりはない、ただ、事実を正直に言ってください。下手に自分の都合のよいことを
言うと、貴方は不利になりますよ。私は後遺症の時に、保険の問題などで公にしておきたいだけです。」
と言い含めていた。 そのためか、処理は20分ほどで済んだ。やはり、これを書いている現在、
足の脛が痛み出した。 しかし病院にいくほどではないようだ。全く何が起きるか分からないものだ! 
九死に一生とは。 それが突然に自分にとは!やはり人生、したいことをして、悔いのないように
生きなければ、それにしても警察沙汰が二度も続けて起きるとは! (二ヶ月前に呼び込みに強引に
店に連れ込まれそうになり、大騒動になった。)これまで、個人として警察沙汰は一度もなかったが・・
(普通なら当たり前だが)その運転手に、「こんな時間に、何してるの?」と聞いたら、 
「スナックをしています!」という。
 生きているうち、健康のうち、元気なうち、そして若いうち! 人生は!
・・・・・・・・・・
2007年06月06日(水)
2255, まあ、いいか!
            ヽ(★>з<)。o○ オ?ハヨ 
この随想日記の中に数十回以上?も「まあ、いいか!」といっている。そこで、検索に「まあ、いいか」
と入れたら、その題名の本が数冊も出版されていた。自分を慰める言葉で、私の常用語「あ?あ!」
の言葉の裏に含まれている。「あ、しまった!」の「あ!」とは、仏教語で「許し」が入っているという。
それを延ばしたのが「あ?あ」か、これは屁理屈。「まあ、いいか!」は、「私は私のままで、仕方が
ないだろう」ということになる。   ゜≫q(´I`●) マアマア!
「まあ、いいか!」の前後の言葉として、「しょうがない」「なんとかなる」「こんなものか」が
出てくる。イライラしたり、落ち込むようなミスをした時、目を瞑って十回ほど心込めて
「まあ、いいか! それがどうした」と唱えれば、7割かたは気持ちが軽くなる。「あ?あ」
「で、どうした」「まあ、いいか」は、瞬間の癒しのの三言である。  
まあ、どうでもいいや! しかし、ものごとを突き詰めた後に使っている分にはよいが、最初から、
この言葉が先に立つのも問題である。「中途半端な、あの人」になってしまう。 金沢に「まあ、
いいや男」というアダナがいた。バカ?の常套語にも成りえる言葉でもある。 何でも使う人間次第
だが、この言葉は特にそうである。
  (字数制限のためカット 2010年6月6日)
・・・・・・・・
2006年06月06日(火)
1890, 村上ファンド崩壊の衝撃
                   おはよ?!(*^ワ^*)i
ライブドアの堀江の逮捕時に「最終ターゲットは村上」とスポーツ紙が報じていた。
当時はまさか村上ファンドが、そんなドジを踏むわけがないと思った。 日本的株式市場というイケスに
「食肉魚」を入れ活性化することも、株主の立場を軽くみてきた日本市場には必要だった。積極的出資者
といわれるオリックスの宮内社長、どのように言い逃れをするか見ものである。高利貸しは高利貸しで
しかないが・・時代の寵児だった堀江と村上が小菅の住人になるとは、半年前までは誰も思っては
いなかったはずである。広告料を貰っている大新聞やTVや月刊誌などは、大手銀行や証券会社の不正を
積極的に書けない関係にある。そこで少し危なげな?スポーツ新聞に隠された情報が流れやすい。
 (字数制限のためカット 2010年6月6日)
・・・・・・・
2005年06月06日(月)
1525, わたしの酒中日記ー4
  金沢編ー2      1972年2月某日
武蔵が辻の職場からバスで、20分位のところに寮がある。その中間点にある繁華街の香林坊で降りて、
老舗風の飲み屋を探す。今夜は片町の大和百貨店の裏にある飲食店のおでん屋に飛込みで入る。人品の
良い美人の母娘がいた。聞いたら、三代も続いている店。隣の客が話しかけてくる。
「言葉が違うようだが、観光客か?」「いや、勤めの関係で、一年います」地元の人からすると微妙な立場。
とにかく、金沢の人は人なつこいのが特徴だ。それと金沢べんの言葉が心を優しくする。言葉の最後に
(?じ)をつける。「?だよね~」という意味である。 それと「?しまっし」という言葉もよい。 
「~しなさい」という意味である。そのアクセントが何ともよいのだ。特に女性がいうと「あ~金沢」になる。
それとおいしい店が多い。ここの土手焼きが美味い。それと次に頼んだスジ肉の煮込みも絶品である。
おでん屋のおいしい店を彼方此方で食べたが、この店はまた格別である。立て込んできたので、その店を出る。
このまま帰るのは、惜しいので大和百貨店の隣の飲食ビルに入る。安そうなスナックに入って、カウンター
に座る。まだ8時なので、お客は誰もいない。素人っぽい20代半ばの店の女性が話しかけてきた。
まだ金沢に来て2ヶ月で、1~2年いたら、何処かに流れていくとか。若いうちに、彼方此方にいって
転々としたいという。こういう生き方もあるのか、驚いてしまった。「この仕事の接客のポイントは何か?」
と聞いたところ、「期待を持たせること」とか。 まさか「何の期待?」とも聞けないし。
「それじゃ?、何か期待してよいか?」と聞くと、「今度、兼六園を案内してくれる?」というから、
「今度ね!」と、空約束をして?店を出る。バスの定期あるが、歩いて帰ることにした。浅野川の橋を
渡って、20分ぐらいはかかったが酔いを冷ますのに丁度よい。まあ、一人で飲むのも悪くはないが、
それにしても金沢には美人が多い。それと金沢の文化と風情がよい。金沢には、3年間が目安だ。
能登半島や、金沢の街を貪欲に知っておかなくては。 もっと一人旅をしなくては。
加賀100万石の城下町の歴史が観光だけではなく、飲み屋や喫茶店などに色濃く残っている。
ここは地元の人には非常に厳しいコントロールがある。 反面、部外者には優しいのだ。
この文化的な特徴は数年住んでみなくては知りようがないが。明日は同期入社の連中との飲み会だ!
ーー
また偶然の一致か、去年の今日も金沢関連のことが書いてあった。
・・・・・・・・
2004年06月06日(日)
1160, 「武士の家計簿」ー2
いまの時代にタイミングよく出版された、時の書といってよい。現在の日本は、
第二次大戦の終戦時や、江戸末期から明治維新の時期より大きい大転換期にある。
(字数制限のためカット 2011年6月6日)
・・・・・・・・
2003年06月06日(金)
793, 起業についてー2
 起業について実感のキーワードは「発狂」である。精神の爆発といってもよい。
よし!やろうと決めた瞬間から、もう全てはプロジェクトの完遂をイメージして突き進むだけである。
よほどの粘りと信念がないと突き抜けることはできない。当然の事だが、簡単には事業を興して軌道に
乗せることは不可能。可能にするのは「的」が間違ってない事と、周到な準備と、信念だけである。
いまの事業を興した時は500?の成功確率という確信があった。失敗は許されないし、初めの一歩の
重要さを知っていたため、考えられるだけのことは考え抜いていた。それと、それまでの成功体験の
裏付けがあった。何事にもいえるが一番大事なことは、成功体験である。それが実績ということだ。 
それと育ってきた家庭環境が大事ではなかろうか。10歳位までに,両親の立ち上げをみた経験が
なければ、計画も準備も甘くなっていた。また20歳で起業をするという決心をして準備していた事もある。
その瞬間から女性に対しては、気を許さなくなった?どちらを取るかといえば、迷いない事業の立ち上げで
あった。若い時の最大の難関はまずは女性である、創業以外の事を割り切ることであった。
つまらない男になっていた!それが陰になっていた?ようだ。
 事業を始めるとき、まずは自分の心の問うたことがある。「経営資源として金を含めた資産を全て
『博打の札ー事業』に変えるが、全てを失っても後悔しないと自分に誓えるか? そして事業を本当に
したいのか???したい!!」 一人の誓いである!今更だが、それだけ勇気と覚悟が必要だった。
おそらく大小にかかわらず誰もが、その位の自問自答はしているのだろう。いろいろな危機があったが、
最後はいつもこの言葉を繰り返していた。結局は事業経営は博打でしかない!当たり続ける事はない。
最後は裸になる覚悟は出来ている?のが強みである。しかし、まだ憶えているが、事業の準備をして
いたときのことである。何か一人でTVを見ているとき急に不安になり「屋上の手すりの上に立って
いるような末恐ろしい感覚」になったのを憶えている。確か借金を初めてしたときである。
この意識下に隠れた不安が意外と経営の原動力になっているのだろう。立ち上げで判断を迫られるとき、
夜半の2時35分が一番冷静な思考になっている。しかしこの大津波ー大不況に対して、まだそこまで
意識がいってないのは、どういうことだろう?!これからか?

・・・・・・・・
2002年06月06日(木)
429,両親の死
両親が亡くなった時、一緒に住んでいた。 そしてその死に様から「生きるとはどういうことか」を
学んだ。死ぬとは如何に大変な事を知った。今ひとつ、死の視点から生を見るということを。
世間とか、娑婆の事を徹底的に割り切って見れるのも、両親の死から、それがいかに幻想である事を
学んだからだ。結局,残るのは「子供と愛情」だけ。それと‘生きてきた事’ー乗り越えてきた「行蔵」
それだけだ。意味とは最後の自己慰めかー心の印ということか? 死を自覚した瞬間の人間の
「生に対する渇望」のすざましさに、身震いした。その瞬間?死を覚悟した瞬間‘砂漠の真ん中に立た
される残酷さ’を直感した。‘心’は「主体」と「イメージ」で成立している。心を失っている状態は、
「主体をなくして何も考えられない状態」と考えれば逆に解かる? 何で‘心’が両親の死の話しから
出てくるかと言うと、両親が死と直面した時に「主体」と「イメージ」が湧き出てくる事実を見たからだ。
それは死の恐怖感からくるものである?特に「主体」が凄い。人生の全てのことは自分の戯曲でしかない。
それに満足できるか、できないかだ。死ぬ事はそう簡単のことではない。
昨日の朝、隣の主人が亡くなられた。 今夜通夜、明日葬式に出る予定!
・・・・・・・・・・
2001年06月06日(水)
[44] 何の為のホームページ
何でわざわざ個人のホームページを立ち上げ、公開するのか?
 まずはこの疑問
1・わざわざ写真を撮って入れたり、           
2.貧しい内面の公開をしたり
3.せっかくとった最重要情報?の公開をわざわざしたり  
4.とにかくエネルギーを使わなくてはならない
でもそんなこと、この巨大情報空間から見ればどうでもよい事。むしろさらす事により、
リンクの可能性が大きくなる。インターネットとは考えてみてば、ホームページ間のネットである。
基本はホームページである。その拠点を個人や会社で持つことは、情報空間に自分の基地を持つ事になる。
この時代あたりまえと言えばあたりまえである。ウエブ上に拠点を持つことにより、他のホームページと
相互関係になる。その事をホームページ持ったことで実感できた。もしホームページを持つまでもない
と考えるなら、‘お気に入り’の集積と、その分類を自分のパソコンにきっちりしておくべきだ。
そうした場合どうしても自分拠点を持ちたくなる。それは自分のパソコン内でいいのだが。
公開してもかまわない場合ホームページがよい。  巨大情報空間にさ迷い出た子羊というところか。