つれづれに

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今日のYoutube

 夜半は雷に雹の音が聞こえていたが、積雪は15センチほどか。
この時期には、こんなものか。

 昨日の夕方は、フェンシングの男女の「日本選手権」があった。
これもジックリとみると、見ごたえがある。これで、相撲、剣道、
空手、フェンシングの「全日本選手権」のチャンピオンが決まった。

      
・・・・・・

3913, 閑話小題
2011年12月12日(月)

   * ひとり焼肉専門店 「焼肉ひとり」
 最近、独り者が増えているためか「ひとり用の専門店」がニュースになっている。 一人カラオケ
ひとり焼肉専門店などである。店サイドは、一人で一部屋・一テーブルは効率が悪いので良い顔をしない。
が、この不景気で、そんなことは言っていられない。しかし最近の国勢調査で単身世帯が全世帯の三割を突破、
「夫婦と子供」世帯を上回っている。アメリカでは、一人客は寂しい人と、白い目で見られるという。 映画や
TVのドラマでも店の中の一人客は少ない。そこで、店の構造から一人用の席をつくる発想である。
30年間続けてきた事業も「お一人様専用ビジネスホテル」だった。 ひとりカラオケを「ヒトカラ」に対して、
二人のカラオケを「フタカラ」、多人数のカラオケを「タカラ」と呼ぶらしい。 ヒトカラは、歌の練習や
ストレスの発散に使われるが、何か侘しいか。
  * そろそろ今年の総括
 今年は、東北大震災と、30年続けてきた事業の惨事?が重なった。20%半ばの売上ダウンが三年目に
入っても止まらず落ち続ければ、この事態は当然。 恐慌の前ぶれの波に直撃されたことになる。 過去の
40年近い事業人生で資金繰りの心配をしたことが無かった。しかし、数値は数ヶ月後に資金枯渇状態になる
ことを示していた。 何度も何度もシュミレーションしても、半年後にはアウト。 その上に東北大震災が
起こってしまえば何の躊躇することなく決断をせざるを得ない。そうこうあって、心の痛手は深いが、未練とか、
後悔はない。それより現在起きつつある大恐慌の近将来の到来と、東北震災の経済に及ぼすマイナス現象である。
 今さら最悪の状態の私が何を言わんであるが・・・  今年の総括は、もう少し年末が押し迫ってからにする。

・・・・・・・
3548, 遊ぶように生きる
2010年12月12日(日)
 =横尾忠則の、ある雑誌にあった「死を想う~人生の一考察」が面白い!
    その一部を抜粋してみる=
【 一体人生とは何なんだ。お釈迦様は生老病死と言われた。確かに上手いことを言う人だ。大抵の人間は
この四文字を経験する。お釈迦様みたいなエライ人でも、このことだけはぼくと平等である。 エライから
死なないということはない。エライ人でもアカン人でも全員がこのフルコースを味わうことになっている。
だったらぼくひとりが死を恐れるのはおかしいけれど死だけは自分にとって特別のもののように思っていて、
他人の死は死でないのである。では一体何をそれほどまで恐れなければならないのか。死の到来が苦痛である
ことをわれわれは知っているが、死以上の苦痛がないのかといわれればそんなことはない。じゃ何がそんなに
怖いか。死によって愛する人や物と別れなければならないからか。それとも死によって自分が消滅してしまう
からか。消滅すれば全ての煩悩も瞬時に失くなり、身心的な苦痛から解放され、これこそ真の平和なんじゃない
のか、なのにどうして真の乎和をそんなに恐れるのか。それとも死後生を信じているあまり、もしかしたら
地獄に堕とされるのじゃないかと不安に襲われているためなのか。それはそうと、では人生の目的は何なのか
ということになる。 生きるため? 死ぬため? 感動するため? 美味い物を食べるため ?
 金持ちになるため? 美人の奥様を持つため? etc  そこでぼくは考えた。ぼくの職業のアートと
同じ生き方をすれば? と。ぼくにとってアートは仕事というより遊びだ。 目的のない遊びである。
ところで遊びって最初から目的がないものでしょう。もし目的があるとすれば遊んでいること自体が目的である。 
目的がないから自由があり、快楽があり、解放があるのではないだろうか。人間は本能的に自由を希求する。
そしたら人生全部を遊びにすればいいのではないか。つまり人生から目的をはずしてしまえばいいのでは
ないだろうか。生きることも死ぬことも目的を持つからシンドイのである。どうせ生老病死なんだ。生老病死
は別に目的ではない。 単なる現象だ。 そしてお釈迦様に言わせれば現象は夢、幻だということになる。
そんな実体のないものにいかにも実体があるかのように 思って振り廻されているのなら、それを遊びだと
思えばいいのではないか。 】
ー人生に意味などないと、五木寛之も書いているが、意味=価値とすると、そんなわけない!と言いたくなる。
身近の人の死をみると、様々の人生があるが、意味など、あまり深く考えても仕方がないような気がする。
横尾のように、目的ない人生なら遊ぶとして、割り切るのも良いだろう。「遊びをせんと生まれけり」で、
それはそれで。
・・・・・・・
3173, 閑話小題
2009年12月12日(土)
  * 腰痛
 腰痛が、この季節の変わり目にかかわらず、今のところ落ちついている。
いずれ出てくるのだろうが・・・。 今のところ考えられるのは、
・ベッドに低反発マットを敷いたことと、
・海老反りマシーンを毎朝晩使っていることである。
・それと外で酒を飲む機会が少なくなったこともある?
もちろん、20数年来の毎朝のウォーキングは欠かさず行っている。
  * 変な話
 家内が言うには、「駅裏の越後交通ビル(元ダイエー跡)の駐輪場に自転車を置いて、用を済ませて
帰ろうとしたところ、自転車の籠の中に、年代ものの女物の財布があった。気持ちが悪かったが、駅前の
警察まで行くのも面倒なので、1Fの酒売場に事情を話して置いてきた。千円札が数枚と小銭が見えたが、
それ以上は見ないようにした。
(字数制限のためカット 2010年12月12日)
・・・・・・・・
2808, 心を込めずに女を褒めよ !
2008年12月12日(金)
  作家の渡辺淳一が、ある雑誌の対談での、「心を込めずに女を褒めよ」という言葉?が面白い。
【イギリス帰りの若い女性に「レディファーストは、マダムだろうが小娘だろうが、差別をつけてはいけない。
 『女と見たらしなさい』って、向こうは子供の頃から叩き込まれるの」って、全くそのとおりだと思った。
要は、心を入れないでやりなさい、ということなんだけど、こういう思想は日本には無かった。
武士道は何でも心を込めろっていう思想。 でも、その御蔭で女を見たら直ぐに褒めるようになったよ。
顔が綺麗なら顔を、顔を褒めるのが辛いと思ったら、髪の毛を。服、ネックレス、バッグはどうか・・・
と見ていけば必ず褒めるところがある。女性はまず褒めるべきだよ。 妻とまともに話そうと構えるから、
話せなくなる。 日ごろから『ありがとう』『綺麗だね』って言う癖をつければよい。 そのレトリックは
非常に大事だと思う。
 …僕は京都のお茶屋でよく遊んでいたけど、帰るときには必ず、おかみと芸姑が門まで出てきて、大声で
『おおきに、ありがとうございました」という。僕が2~30メートル先に行っても言っている。どうして
あんなに丁寧に言えるか、その理由はたった一つ、客を何とも思っていないからだ。銀座は逆で、これは
金払いが良いかどうかで・・・】 
 成るほど、道理である。当たり前になるまで習慣化しなさい、ということだ。 私の知人は営業畑の人
が多いため、飲みにいくと、当然のように女性を褒め上げる。それが枕詞であるかのように、まず褒める、
そして褒める。『今日は、いやに綺麗だね』『へ~、今時に、こんな綺麗な人いるんだ』『新潟美人は、
東京のオナゴと肌が違うね』 まあ、よく言うよという位、平気でいう。 でも、そういう店のママや
ホステスも、言われ慣れていて、軽く流す・・・ それでもいいのである。 言えないのは心を込めようと
するから、である。何度も書いてきたが、学生時代にカーネギーの『人を動かす』という本に
「人に好かれる6原則」とかがあった。そこで黙って友人知人に、それを実行したと同時に私の周りに人が
集まりだした。 心を入れる余裕など無く、ただ、相手の関心のありかを探し、にこやかに、聞き手にまわり、
相手が話し終わるまで我慢し、最後に褒める! それを全ての人に試みたのである。 また女性の多い
職場環境に若い頃に居たころの一時期に、多くの美人? と友人になったことがある。(男女?ではない) 
私は美人が好き、そう知らせれば良いのである。次に人畜無害のサイン。それだけで、心を開いてくれる。 
姉が4人も居たから、その辺は幼児のころから鍛えられていたが・・。 (いやいや、冷静に考えてみたら、
嫌われる方が限りなく多かったが・・嫌なことは都合よく忘れてしまうから生きられる)
逆に、心を入れて女を褒めたら、誤解されることが多くなる。 さりげなく、口先で褒めること。
 これが最高の贈りものになる。 面倒とか、馬鹿馬鹿しい、という気持ちを乗り越えて素直に言うことが
基本だが、それが最近になって言えなくなってきた。 原点に戻って、心を込めずに、あたりかまわず
言うしかないか!  まずは、カミさんから・・・   辛いけど!      
・・・・・・・・・
2007年12月12日(水)
2443, 死刑直前の手紙      【GOOD MORNING】q・ω・´)
『哲学の教科書』・中島義道ー の中で見つけた、処刑前夜から処刑二時間前までに断続的に母親に
送った死刑囚の手紙である。人生の不条理が、そのまま出ている。今回は私の感想などは、何も書けない!  
何度も何度も読まなければ、その心の底には辿りはつけない。ガン末期の別れの似たような場面に何度か立ち
会ってきた。違いは、刑死かどうかの差である。 罪悪感を持って虚空へ立ち向かう心情は如何なるものか?。
 ーーー
一九六九年三月八日
ーおかあさん
あたたかい晩ですね。 きょうはひょっとしたら東京に泊まるとか言っていたけれど、とにかく、
あまり悲しまずにからだに悪いことは気をつけて、よくやすむようにしてください。ほんとに思いがけない
ことになってしまい、(むろん、そして一方ではじゅうぶんソノタの用意はしてきてはいたけれど)おかあさん
に最後の、そして最大の親不孝をしてしまい、ほんとうにすみません。おかあさんは、よくしてください
ましたね。ありがとう。
M先生のおっしゃるように、ぼくはおかあさんによって〈神の愛〉を知った、と思います。
まだまだ努力が足りなくて、それに書きたいことや、考えて深めたいことも多くあって、
そのうえなによりおかあさんはじめ皆さんと別れるのはつらいけれど、しかしこの与えられた
〈時〉は絶対的な意味をもっており、ただ、耐えつつ受け入れる以外にはありません。でも、ソレは、
ぼくひとりのことで、おかあさんに与えつつある悲しみの責めをまぬがれることは、むろんできません。
ゆるしてくださいね。おわびのしるしに、天国へ行ったら、きっとおかあさんのために山ほど祈り、
守ってあげますね。 だから、おかあさん、もう泣くのはやめなさい……
 --
ー今は八時過ぎ。
夕がた、おかあさんのハガキが、美絵君と「あけぼの」のシスターの御文とともに到着しました。
もうおかあさんのハガキを見られないのか。 会えないんだな……ということのすべて、
きょう突然あったことと、あすのことすべてが、ユメのようです。ユメならさめればいいのに……と
思うのだけれどもやはりユメではない。だからこの一瞬一瞬をだいじにしましょう。
ほんとうに長いようで短い一生でした。 四十歳と七か月とすこし。 おかあさんの半分です。
いろんなことがありましたねえ。 ほんとにいろんなことがあった。
そして今、おかあさんにとって すべてのことが喜びに満たされていたというのに、
ぼくのためにいっさいが灰色になってしまいましたね。  ごめんなさい。
きょうは、久しぶりにおかあさんの肩をたたき、髪をくしけずり、手をさすることができました。
すっかり白髪になって、シワだらけになって、小さくなって、 やっぱり幼いころに知った 
あのおかあさんと同じでした。 でもおかあさんはやはり幼い頃に知ったあのお母さんと同じでした…
(以下、字数の関係で中間カット 11年12月12日)
 --
後記)これを読んだ母親の気持ちは? やはり宗教は必要である。
  やはり、言葉を持ってしまった人間は、それゆえ苦しみが倍増する。
  その言葉で、神をつくり、そして苦しみを和らげるしかない。 あまりに辛い手紙である。
 ーーー
2006年12月12日(火)
2079, 談合列島!ー2             才ノヽ∋―_φ(^O^*)♪
この土日の大手新聞の「知事の犯罪」の特集記事や社説の中で、日本経済新聞がずば抜けて要点
をついていた。 その要旨は
  (以下、字数の関係でカット 08年12月12日)
・・・・・・・・
2005年12月12日(月)
1714, 脳梗塞について
      (*´ノД`)<<<才八∋ー゜                    
 先週の日曜日夜のNHKスペシャルで、   ( ^-^)_且~~
脳梗塞の患者となった多田富雄氏の日常を半年にわたってリアルにレポートしていた。患者になって
しまった彼がふり絞るようにいう言葉が深く心に突き刺さる。番組を見ながらパソコン内の「メモ帳」
に下書きをして数日以内に『随想日記』に取りあげようとした矢先、産経新聞の「産経抄』に名文を
書かれてしまった。プロの文章を読んでしまったら書く気がしなくなるが、それでも書くのが
文章上達の早道。 学生時代の友人や、仕事の関係などで脳梗塞や脳溢血で倒れる人が多くなってきている。 
数ヶ月前にも、会社のナイトフロントの人が定時になっても出勤して来ないので、副支配人が一人暮らしの
アパートに行ったところ玄関で倒れていた。救急車をすぐ呼んで緊急入院をしたが、少し遅れれば?脳出血
で左半身が麻痺が残り、退社をせざるを得なくなった。私など、深酒の機会が多いので気をつけなければ
ならない。脳梗塞は身体は動かなくなっても、思考だけはしっかりして「身体の監獄に閉じ込められる』
というのが実感という。 多田富雄氏も放送で『生き地獄』と言っていた。
  『地獄がこの世にあるものと実感した』という言葉が重い。   s(・・;)(/_;)
  人間、生きているうち、元気なうちに、出来ることを出来るだけしておくべきと思う。  
ーーーーー
産経抄=    ~~ ~~┗─y('~`;)
  米国のコラムニスト、ボブ・グリーンに「勇気あるアルファベット」という佳品がある。
 (以下、字数の関係でカット 08年12月12日)      ○o。―y(・ε・) フウー
・・・・・・・・・
2004年12月12日(日)
1349, 教養が試される341語
 本屋で立ち読みをしていた本だが、図書館にあったので早速借りてきて目を通した。
思ったより内容は気楽に読める本で、何気なく使っていたり、知っていたが意味まで考えたことがない内容
で面白い本である。検索で調べたら、その中の71語の意味を書き出していたのがあったので、 コピー
して貼り付けておきます。毎日、文章を書いているためか、言葉に対しする興味が全く違ってきている。
言葉は、そして文章化は人間を人間たらしめているものだ。それと数千年、いや数万年かかってつくり
あげてきた人類、そしてそれぞれの民族の蓄積された叡智である。
・冥加に余る(みょうがにあまる) :ありがたすぎて罰が当たりそうだ。
・弥栄を祈る(いやさかをいのる) :ますます栄える。
・惻隠の情(そくいんのじょう)  :人の不幸を黙視できず、その人の身を哀れみ傷む心。
・やんぬるかな:予想した通りに事態が進行して、今となってはどうしようもない。
 (以下、字数の関係でカット 09年12月12日)
ーーー
以上ですが、なるほどすごい人がいるものだ。よくぞ抜粋して書き写したものである。
・・・・・・・・・
2003年12月12日(金)
982, 目先だけを切りぬける人
 このノウハウを持って一生を切りぬける人がいる。 しかし程度の差はあっても、それは誰も持っている要素。
その「程度」が、人生で大問題になるのだろうが。 「口先だけで生きてきた」飲み屋のママさんがその典型だ。
人生の一番の欠点になるが、その人にとっては最大のノウハウである。「我がうちなる小狡さの人」である。
 目先をどう切抜けるかにポイントを置いている人は、「志ー長期視点」が無いといえる。
「7つの習慣・最重要事項」の「緊急事態病」に似ている。緊急事態に追われて、一番大事な事が全く
見えなくなっている人である。それも相対的なことでしかないが。また「愚か者」と「馬鹿者」の関係に似ている。
反対に「目先だけを切抜ける人」を肯定的にとらえて見ると面白い。これも黒光りの方法・手段までなることもある。
これで首相になった悪しき?事例がある。 この人?、この小手先だけで首相に上り詰めた?のだから。
最も角栄を引き摺り下ろしたことは、歴史的には業績になった?小手先だけで果たして首相になれるのだろうか?
という疑問も残るが。ところで「目先だけを切抜ける人」を検索をしてみたら「見当たりませんでした」と出てきた。
「目先だけで生きる人」も「見当たりませんでした」と出た。こんなテーマで文章を書く奴は、いないか。
 「目先を切り抜ける」内容でした。
・・・・・・・
2002年12月12日(木)
608,ある時間の断片-22
ー1968年 10月18日
一時間目の人事管理に出る。その後朝食も含めた食事をしていると、ゼミの田島と川村がくる。
ゼミのOB会の連絡簿の案内書の住所書きをコモンルームで12時半まで手伝う。
その後田島とウイーンにいく。そこに「鈍行」という勉強会を開いている井上と森本など5人がいる。
あまり付き合いは深くないが、30分も話さないうちに旧知の友人みたいになる。金沢に行きたいという
ので、寮の市川さんから情報を聞いてやると約束をする。森本をほめると嬉しそうな顔をしていた。
こちらのほうが気分がよかった。ほめる事に関しては石川が先生だ。帰寮後野球を見てすごす。その後、
食事へ行く。そこで先輩の永田さんと尾形君、丸谷君と会う。一時間勉強の後、佐藤のところに行き、
夜半の0時から3時まで酒を飲む。今日も田島に言い過ぎた、困ったものだ。
 ー 10月19日
10時過ぎにおきる。
夕方まで二日酔い?で夕方まで勉強をするが身が入らない。
夜9時から寮のミニコンパ。一時間本を読んで夜半の一時に寝る。 空虚な一日であった。
・・・・・・・
2001年12月12日(水)
267,一点豪華主義
 1品豪華主義(一点豪華主義)趣味でも、仕事でもー
人生でも総てにいえる事だが、これだけは特別というものに金をかける、人生の総てをかけることが重要。
反面それがアンバランスでもいいかという問題が残るが。それでもいいかどうかは、本人の問題でもある。
金も、暇も、能力もない人間でもこれは可能だ。 好きな何かを見つけ、一点集中的にエネルギーを注ぐ。
それを続けていれば、それについてプロの領域にたっする。私のそれは、ご存知のとうり秘境ツアーだ。
他人の評価など全く関係ない、それが好きでたまらないからだ。パソコンもあと2~3年経つと、それに近い
存在になるかもしれない。旅行のネタをインターネットに載せるのも、一応理にかなってる。
「絵の好きな人が旅行先で景色を書いている」のを見ると、人生の一番の奥義を見ているようだ。
一番好きな旅行で好きな絵を描ける幸せは何も変えられないだろう。ピアノも一曲だけを練習すれば、
弾けるようになるという。今度ピアノの先生について一曲おぼえてみようかと思うが、無理か?