つれづれに

イメージ 1

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 

今日のYoutube

 今日は、シネマの日。早いものだ。

 明日は、東京で大学の同級会。ここも、毎年、死亡や寝たきり
など。減員で、中学・高校と同じく、同期会になりつつある。
今夜は中学の同期会があるが、二日連続は肉体的に無理のため、
欠席予定。






・・・・・・
・・・・・・

3902, 精神力ーその偉大な力  ー3
2011年12月01日(木)
 この本を読み返すと、20歳代の気持ちに帰ったような心持ちになる。
カスターがいう精神とは信念である。信念は順調時より障害が立ちはだかった
時に現れ出てくる。その時に知恵と叡智が心底の信念の蓋から湧き出てくる。
信念から湧き出た知恵と叡智を力にして、それを乗り越えた時に、自然(神)
は真の喜びと生きがいを与えてくれる。
  ー 印象に残った箇所を抜粋してみる ー  ~精神論は、夢がある。
  * あなたは何か?
 魂の定義は「それ自身にめざめたあの力」というしかありません。
自分自身について、より深い、より根本的真理を知りうる人は、おのれに
めざめたポイントであって、大生命力に属し、己の意のままに採択を行う
ポイントだと知っています。・・ごく少数の人のみが意識的に心の操作が
できるのです。人間はおのれみずからに真に目覚めた知覚するポイントで
あって、自由意思の完全体としり、おのれの精神に指令し、感情を統御し、
身体を使いこなせるまでは、結局、眠れるに等しいのです。・・
 自分の体験や、自分の世界のうえに支配を及ぼすのは、彼みずからについて
の真理に目覚めることが前提です。・・ 私たちは、大生命力が人と化した
ものです。いずれも大生命力の人格化です。誰しも、自らの中に大生命力の
知恵、才知、偉大、表現の要具など全てを包み持っています。・・ 
各自の採択する力が各人を分けるので、その人は、まさしく一人の神であり、
その採択が、私たちに何が起こるか、未来が幸か不幸か、成功か失敗かを
定めるのです。
  * あなたの内の魔力的力
 必要なのは正しい考え方だけ。それを信頼することで正しい答えが来ること
になる。・・多くの人は、真理に直面したがらない。そして否定的な考え方が、
不幸の体験を引き寄せる。だから思考=信念に気をつけなければならない。
何をなすべきかについては、内心の直感にたより、最深の潜在意識に従って
行動すれば、物事は良い方向に動いていく。そこに魔力的力が生じてくる。
  * 内心に案内者を持つ
 自分の中を見ると、内心の案内者と呼ばれる能力があるのが分かる。
虫の知らせや、霊感などによって、理性を超えた予知を感じ、その方向に
行くと、そのとおりであったことが、なんべんもあったでしょう。あなたの
内部には何かがあります。それは心の水準に従い、あなたを導いて、正しい
ときに正しいところに、正しい言葉を使わせ、正しい方法で、正しいことを
させます。あなたたち自身の中には、理知と知恵があります。
この特性が、思わしいほど多いと感じる人は、誰もいませんが、その知恵と
叡智を使って体験することに限界を感じる人はいないはずです。その叡智と
知恵は、無限に、その人の内にあるのです。私たちの中には、喜びや楽しさ
の特質があります。それが少ないとしたら、それは、その人に少ないからで
なく、その道筋を知らないだけ。その能力こそ、内心の案内者といえるのです。
その人を探し出すのは、その人だけです。大生命力が、その仮身となって、
呼びかけられるのを待っているのです。「良きこと、悪きことはないのです。
ただ思いが、それをつくるのです。」


・・・・・・

3537, 上質な人生
2010年12月01日(水)

図書館で【上質な人生へようこそ】ー『セオリー』2007年vol.12 ーという特集の雑誌をみつけた。
まず人生に上質などあるのか?という平凡な反発があったが、テーマからして面白そうで読んでみた。
期待に反して? なかなか奥行きの深い言葉が次々と出てきた。下質な人生なら、周辺にいくらでも
転がっている。誰もが、自分を少しは上質と思っているから生きられるのである。
私に、「貴方にとって上質な人生とは、どのような人生か?」と問われれば、「自分のやりたいことを早く
見つけ、生涯を通して楽しむことが出来て、最後に面白くて、良かったいえる人生」と、迷わずにいう。
それぞれの人生があるから、他人が比較するものでない。そのためには努力と忍耐と勇気が必要である。
  □ この特集の中で印象に残った言葉を抜粋してみる
*「お金の使い方で分かります」イタリア人は貯蓄をゼロにして、この世をさる。 
 「家と車について考え方を変えるー家と車に日本人は金をかけすぎ。小さな家でもいいじゃないか!
  家と車のローンで一生を終えてしまう人生に疑問。 お金の準備、遊びの準備が必要」大前研一
*「他人の基準にふりまわされ、ゆたかな人生を追い求めるほど、『上質』とはかけ離れていく。
  物が溢れる今の時代だからこそ、自分の基準で(ほどほど)を知ることが必要」
 「仕事も人生も、型を極めながらも肩の力が抜けた、ある種の軽やかさを持つところに、
真の上質が宿るのです」                 「女性の品格」著者・坂東真理子
*「『将来なんてものは、どこにも存在してない。現在幸福である以外に、幸福であることはあり得ない。」
                                        池田晶子
*「『また会いたい』そう思わせる人が、上質なんだと思う」 
  ~~
 中学校にしろ、高校にしろ、やはり上質というか、品の良いのはいた。残念?なことに、それが
そのまま成績にも、その後の人生にも大きく影響をしていた。品性が良いだけでなく、バランス感覚が
違っていた。この年齢になってから、若いときに出会ってきた人などを改めて照射してみると、全く
違った基準でみることになる。品性だけは、隠しようがないもの。 やはり、家柄や、生まれ持った
本人の性質があるようだ。 なるほどカントがいう、『良心』が親から受け継がれてきた人と、
その逆の人とでは、長い人生で大きな差が出るもの。 それが端的に出るのが、酒癖、女癖である。
 私など、・・・・・

・・・・・・・・
3162,人生に関する小題
 2009年12月01日(火)
* 人生は玩具箱
「人生とは畢竟、運命の玩具箱だ。人間とはその玩具箱に投げ込まれた人形だ。」(有島武郎
言いえて妙である。 そこには、これまで乗った車、住んだ家、他の人形もある。
「玩具の喩えを他人に喩えるのは問題である」と、いうのは別の機会にする。そこで「人生は宝箱」という
言葉が思い立つ。(恐らく誰かが比喩をしているはず)行蔵の一つ一つが宝とすると、幾らでも宝はある。 
それでは「人生はゴミ箱」というと、それほど無いのは、無意識で自分の心をコントロールしているためか? 
そうでもないか?お宝は、心の底から感動したこと、全身全霊で何かに打ち込んでいた時と事をいう。
反対に、ゴミ箱は中途半端な時間を過ごしていた時? 無駄も必要だから、それは違うか。
  ~~
* わたしは地上でたった一人になってしまった
 「孤独な散歩者の夢想」は、64歳のときに書き始め2年後の死ぬ直前に終わった文章、ルソーの絶筆である。
「第一の散歩」から「第七の散歩」まであり、その後は「八、九、十」がメモのような文章が続く。 冒頭で
「こうしてわたしは地上でたった一人になってしまった。人なつっこい人間でありながら、万人一致の申合せで
人間仲間から追い出されてしまったのだ・・ わたしは、かれらから離れ、すべてのものから離れたこのわたしは、
いったい何者か」と問う。「自分に残されたことは、すべての世間から放逐された自分はいったい何者なのかを
探求することだけなのだ」と自覚する。 私の周辺で倒産時の男たちの気持ちは、まさに、このようだろう。
多くの取引先、そして部下を路頭に迷わせ、自分の存在の卑小さと、嫌らしさに自己嫌悪を一人する。 
自分は何者なのか?ただ、歩くこともままならぬ、折れてしまった、これ!である。
 ~~
*「人生は軍務のようなもの」と考えれば楽
 エピクテートスの「人生談義」の中に、以下のような言葉がある。
《 人生は軍務のようなものであるのを諸君は知らないか。 或る者は歩哨をやらねばならないし、
また或るものは戦うために出て行かなければならない。 皆が同一の処にいることもできなければ、
また善いことでもない。だが、君に何かもっと辛いことが課せられるとき、君が将軍から課せられた
任務を果たすことを怠って不平をいい・・・ それは軍隊がそういうものということを理解していない。
というのはもし皆が君のまねをするならば、人は豪を掘りもしないだろうし、また保塁をめぐらすことも、
危険を冒すこともしないだろう。 むしろ戦争に役に立たぬように思われるだろうからだ。(中略》・・・・
各人の生活は戦役、しかも長い複雑な戦役のようなものである。君は軍人の本分を守らねばならない。》
 = 最近、つくづく実感することである。「人生は不条理!と割り切るしかない」ということか?
 ・・・・・・・・・
2797.ユダヤ人成功者たちに秘かに伝わる魔法の言葉・・6
2008年12月01日(月)
 ー「学ぶ」ことは「知る」こと。「知る」ことは「変わる」こと。ダーウィンの次の言葉が好きだ。
「もっとも強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き残るわけでもなく、
 唯一生き残れるのは、変化できるものである。」だから「学び」、「知り」その結果、「変わる」こと
しか生き延びることが出来ないのだ。それにしては、あまり代りばえしないのは、如何いうことか・
  ーーー
「第5の法則】
  「学ぶ」ことは「知る」こと。 「知る」ことは「変わる」こと。「その瞬間に、わたしは自分が
本当にやりたいことを確信した。誰かのためではなく、打算的でもなく、自分の中のにある純粋な興味
から、ただただ、それを学びたいという 気持ちが芽生えたのだった」 エドワード・テーラー
「学ぶということは、これまで理解していると ずっと思い込んでいたことに対して、
 突如として まったく違った見方をすることです」          ドレス・レシング
「教育とは、学校で習ったすべてのことを 忘れてしまった後に、自分の中に残るものをいう。
 そして、そのカを社会・が直面する諸問題の解決に役立たせるべく、
 みずから考え行動できる人間をつくること。 それが教育の目的といえよう」
「学べば学ぶほど、 自分がどれだけ無知であるかを思い知らされる。
 自分の無知に 気づけば気づくほど、よりいっそう学びたくなる」  アルバートアインシュタイン
「どんな教育もつきつめていけば、独学につながる。
 その意味で、独学が唯一の教育であると、私は確信している」       アイザック・アシモフ
「知恵を獲得する過程で、 忍耐があれば、すでにその半分は 手に入れたようなものである」ユダヤの諺
・・・・・・・
2007年12月01日(土)
2432, 田淵節也 -「私の履歴書」最終日        オッ ヽ(゜∀゜)ノ ハー
11月の「私の履歴書」は野村證券の元会長の田淵節也であった。週に2日位は読んでいたが、昨日が
最終日であった。アメリカの衰退と、その隷属国家の日本の動乱?を予測。バブルが弾ける直前に、彼が
「株は長期に低落する。「時代は変わった」と言ったのを憶えている。その時、「株屋のオヤジが
こんなことを言ってよいのか?」と驚いたが、再び、ここで同じことを予言している。
「また、海の色が変わる!」という。
 ーーー
日経新聞私の履歴書」2007年11月30日ー
 =アメッポンの行く末は 世の中変わる、不変の真理=
  *再度・海の色*
バブルが弾ける直前に、僕は株式相場の潮の変り目を直感して「海の色が変わった」と発言した
ことを書いた。今、その時感じたのと同じような胸騒ぎを覚える。 「アメッポン」(アメリッポン
と言う人が多いが、僕はアメッポンを使う) と言われる日本は米国に振り回されてきた国だ。
その米国が今また大きく変わる節目にあるような気がしてならない。
 来年の大統領選挙で優勢が伝えられている民主党候補が勝てば、イラク戦争への厭世気分が一段と
高まり、中東情勢は混沌とするのではないか。中東情勢が混沌とすれば、ペーパーマネーのドルの
信認が低下し、米国は金や原油穀物などの実物資産を裏付けとする新しい通貨制度を考え出すので
はないかと思う。そうなれば、金本位制が「ドル本位制」に変わって以来の大変化だ。世界中が混乱、
アメッポンの日本は一番大きな影響を受ける。 既に、世界はざわついてきた。
僕は安倍晋三前首相のお父さん(安倍晋太郎元外相)と親しかったが、安倍さんが総理になった時、
「蒸留水しか飲んだことがない人は持たないのではないか」と思った。小沢一郎さんが天下を取る
のか小泉さんが再登場するかは分らないが、いずれにしても、日本は大揺れするのではないか。
高度成長期以来、ぬるま湯につかってきた日本は、久しぶりに大激動の時代を迎えることになる
ように思う。 僕は日本の将来を悲観も楽観もしていない。 日本は世界屈指の豊かな国だ。
「職人国家」としてそれなりのステレータスを保っていけると思うから心配していない。
最近、円高を歓迎するようになったのは進歩だと思う。もっとも、軍事力も持たずに「金融立国」の
幻想を抱いている人は幻滅するかもしれないが……。「履歴書」を書く機会を与えられ人生を振り
返っても、僕の人生なんて波欄万丈には程遠く大したことはない。改めて人生観を自問すれば、
「人間は太古の昔から同じことを繰り返している動物」ということだ。人生は思った通りにならない。
それは残念なことだが、だから人生は面白いのであり、結果的にハッピーなのではないか。
「人間三代でチャラ」とはよく言ったもので、いい事ばかりは続かないし、悪い事ばかりも続かない。
人間、何が幸せで何が不幸か、本当のところは分からない。それもまた人生の面白いところだ。
人間は変わらないが、世の中は変わる。これが実感であり、不変の真理なのだと思う。・・・・
 ----
解)今年から5~10年にかけて、歴史的にみて動乱期に入った!ということだ。
それと日本を「職人国家」という見方も面白い。今後のアメリカの没落は誰の目にも明らかなこと。
とすれば、アメリカの国債を半強制的に持たされた日本は、アルゼンチン並みへのプロセスに
入るのは当然である。
                  (σ’д゜)バイ!
  ・・・・・・
  2006年12月01日(金)
 2068, あたりまえなことばかり -19
     (+>∀<+)ノ おぁはは~ようさん!
 哲学的にみると、トラウマ「心的外傷」に対して、心は物理的に存在していないのだから、
 外傷と言えないという。しかし深い悩みを持った人は、心を肉体に喩えると大きな傷を負っている。
 大きな傷として仮定して、その傷口を消毒し、外科的な手当てが必要である。それが精神科であり、
 セラピーの役割となる。それぞれの立場・見方も必要である。以前は、癒しなどの言葉は無かった。
 精神科があってもセラピーなどあったのだろか。手相などの占いが、昔流のセラピーの役割をして
 いたのだろう。私の場合の心の危機の場合、読書、音楽、ウォーキング、酒を飲んだり、
 このHPなど、癒しそのものである。最近は、これに早朝の曼荼羅モーニング・ページである。 
 それに毎朝の仏壇の前の祈りもある。ストレスなど溜まるわけがないが、それでも少しは溜まる。  
 自分の連れ添いが自殺したり、子供が自分のミスで死んだりした時に、癒しなどという言葉は、
 あまりにも甘く聞こえてくる。自分で自分を救う以外ないだろうが、自分で自分を癒すなどできは
 しない。そう考えると、癒しとは「目先の心の傷を応急処理すること」ということになる。
 それも大事なことである。それをしなかった為、精神病になる糸口になるからである。
 まあ、この本の抜粋もなかなか面白いが・・・ 
ーーーーーーーーーーー
どうすれば癒されるのか  
ーーーーーーーーーーー
癒しは「ストレス発散」「コンプレックス解消」に比べると、具体性に欠ける。ストレス解消のため
カラオケに行く。コンプレックス解消のために化粧をするという具体性は無い。 何となくふわふわと
浮わついた「雰囲気気」、それが当の癒しであるとするならば何となく納得する。 だとしたら、
癒されるべき傷などどこにも無かったか、その程度のものである。具体的なものが見えないから、
漠然とした物欲しげなそこへ、各種のグッズやセラピーが商品として流通するという構図である。
しかし、受動態「癒される」の主語あくまでも「自分」なのだから、主語を支点にこれを能動態に
変換すれば、「自分が自分を癒す」になる。「癒し」とは、各種グッズやセラピーによって、自分で
自分を癒す能動的行為であると言うこともできる。自分で自分を癒すとは、どういうことであろうか。
癒すためには癒されるべき傷がなくてはならない。傷とは何であろうか。傷ついているのは自分である。 
そう思っているのは誰だろうか。「自己治癒」という、いっけん明瞭なようなこの概念は、日常レベルの
予測をはるかに超えた、広がりと奥行きと複雑さを持っている。それは、一般的な問いのある種の
逆転によって垣間見られる。
「私とは何か」  ->「何が私であるのか」 「心とは何であるか」->「何が心であるか」
「心はどこにあるか」ではない。「何が心であるか」である。「どこに」は、既に三次元空間内に
それがある存在していることを前提としている。脳も心もこの三次元空間内の物体である。
しかし、心の痛みは、その痛みはそのものは、物理的な存在ではない。本来、物理的な存在でない
ものを、物理的な存在であるように表象する、もしくは表象させるそのような命名が、多くの誤解を
生じさせている。トラウマ「心的外傷」、その視覚的イメージが、何がしかの塊り状のものが、
傷口を空けているという光景である。 心的外傷、すなわち心が外から受ける傷である。
物理的でないものの、「外」、その「内」とは、どのような区分であろうか。「心の外」とは、
どこを指すのであろうか。「心」に外と内があるというのは、これも長い我われの錯誤は、「私」
が身体であるという一方の強力な錯誤と手を組んで、「私の心は体の内側に存在する」、その主観
である。そしてそれは客観としての世界もしくは他者とは関係しないか対立する、という錯誤の
世界像として定着する。したがって、「私の心に傷を与えるのは、世界もしくは他者である」。
トラウマ理論とは、あるいは主客二元の世界観に典型的な、短絡的解釈ではないだろうか。幼少期に
虐めを受けたから性格はこうなった、という遠い原因から、あなたにそういわれたから私は傷ついた、
(字数制限のためカット、10年12月01日)
・・・・・・・
2005年12月01日(木)
 1703, 政府系金融機関の統合                (~O~)ふぁ
政府系金融機関が三年後に統合されることになった。郵政民営化にともなう郵貯の出口
の縮小処置である。悪く言えば、中小金融機関への貢ぎもの(中小企業の債権)である。    
思いきった人員整理も断行されるから、政府系金融機関の職員は仕事にはならない。統合は
地方の切捨てでもある。(@_@;) 戦後60年、地方への過剰投資が目にあまったことも事実。
四国への三本の大橋の建設は、この象徴である。 (=_=;) 糖尿体質の現在の地方には過激な
手術になるが、グローバルの時代に中途半端な体質変換では日本そのものが衰弱死をしてしまう。 
(字数制限のためカット、09年12月01日)
・・・・・・・
2004年12月01日(水)
1338, 「自分を活かす極意」ー 読書日記-2 
 ー自分のクセを技に変えるー
三色ペンの技法に次いで、この言葉が印象的である。 その文章を抜粋して考えてみる。
ーでは、ふつうに日常生活を営み、ある程度の年齢に達成した私たちには何を技にすればよい
のだろうか。私は究極的には「クセの技化」だと考えている。 武道や芸道ではクセを直して
技を身につける。しかし、年齢を重ねると、クセはほとんど直らないものである。それを直そう
とするよりも、それを芸にする、
 (字数制限のためカット、10年12月01日)
・・・・・・・・
2003年12月01日(月)
971, ナレッジマネジメントー2
 「マルコムボルドリッヂ国家品質賞」について
字数の関係でカット(2007年12月01日)
 ーーーーーーー
 2002年12月01日(日)
597, スーパー床屋 -2
そこで働く人たちはほぼ全員椅子貸しの契約社員。TVで見た範囲の知識だが、頭の洗いは
省略をして掃除機のようなもので吸い取ってしまう。髭そりもオプションになっているようだ。
一人当たり10~15分で仕上げてしまう。特に土曜と休日に集中するという。それなら美容院
もあってもよいのではと思ったら新潟にも全国チェーンで「クイーン&キング」という名で青山
にあるという。 これなら家族でいける。知人が最近スーパー床屋に切り替えたと言っていた。
月に一回行っていたのを2回行くようになったとか。それでも安いという。「将来殆どがスーパー
床屋にきりかわるだろう」と言っていた。自宅の近くのSCゾーンの一角にスーパー銭湯が開店
するが、その中にスーパー床屋が併設されると家内が言っていた。 500円の銭湯に1500円
の床屋で2000円である。それでも床屋の半額なら大部分がそちらを選ぶだろう。今の回転寿司と
寿司屋の使い分けの状態ににてくる。寿司屋も数年前に80?は回転寿司に取って代わると食堂
専門誌に書いてあった。現在その流れが加速している。年に1~2度寿司屋に行って、月に
1~2度回転寿司に行くパターンになってきている。学生時代の事を思いだした。池袋駅の地下に
半額に近い床屋があった。多くの若い女性の従業員がいて広い店であった。いつも満杯であった。
ただ一回で二度と行かなかった。若い女性にミニスカートに胸の開いたブラースを着せて色気を
売っていた店がある時期流行ったという。 クラシックを流している床屋もあった。 何か床屋
談義になってきた