つれづれに

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   今日のYoutube

 今日の午後から台風の影響で雨になりそうな。
秋の解散風が吹き出してきた。この時節に、どうだろう。
第二次朝鮮戦争の可能性がある中、改憲も必要かもしれない。




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4192, 呪いの時代 ー9
2012年09月17日(月)
                      「呪いの時代」内田樹著 
   * 「今、付き合っている人いる?」の意味    ー 草食系男子とは何?
 最近は合コンとかいうのがあり、気楽に結婚相手を探すシステムが出来ている。それと、ネットの交流
サイトで知り合い、結婚に至るのも多い。 何気なく「今、付き合っている人いる?」と声をかけるのも、
実は巧妙な意味がある。 ーその辺を抜粋ー
 ≪ とりあえずは恋愛の局面において「傷つかないこと」があります。20年ほど前から、「ロ説く」人が
少なくなりました。 それどころか「口説く」という動詞自体がもう今の学生たちくらいの年齢では日常語彙
に含まれてないかもしれません。 じゃあ、学生諸君は、交際を求めて何というか。
「今、付き合っている人いる?」です。 これは、きわめて巧妙に構築された「口説き文句」と思います。
「今、付き合っている人いる?」という問いは、一見すると客観的な事態についての価値中立的な問いのよう
に見えます。まるで、「今、雨降ってる?」とか「今、6時過ぎた?」と訊いているように誰でも口にできるし、
誰でもイエス・ノーで即答できるように作文されている。まだ知り合ったばかりでお互いをよく知ないもの
同士が、色いろあたりさわりのないことを話しているうちに話題も尽きてしまい、ふっと訊いてみた。
そういうふうなカジュアルな問いのようにみえる。あたかもその問いに対する相手からの返答に自分は
とりわけ関心があるわでがないけど、ちょっと聞いてみただけなんだけどと言わんばかりである。
「今、付き合っている人いる?」の問いに、仮に、「うん、いるよ」と即答されても、「ああ、そうなんだ。
ふ~ん、でさ、キミ、音楽聴く?」というふうに、そんなことオレ的に関係ないけどさ」的に修羅場から
逃走できます。「いないよ」といえば、「それなら自分と付き合わない?」と、いきなり具体的性行動レベル
に一気に切り替えられる。「今、付き合っている人いる?」という問いを発する人は、その言葉が性的
アプローチであるかどうかの決定権を自分の側に留保しています。だから、「いるよ」という答られた場合は
「この問いはただの社交的問いである」と言い抜け、「いないよ」という答えが得た場合は「この答えは
私に対する性的関心の表明である」という解釈ににじり寄る。「キミが好きだ」という告白に対しては、
言われた側には無数の答え方があります。言葉で答えてもいいし、鼻で笑ってもいいし、背中を向けて
歩き去ってもいいし、何も聞えなかったふりをしてもいい(これはよくあるリアクション)。・・・ ≫
▼ スナックやキャバクラなどで日常、会話されているポピュラーな言葉だろうが、直ぐに思い浮かぶのは、
「あんた美人だね!」、「最近、シネマで何か見た?」「オーラが漂っているね」「あなたの為に、
この場があるような存在だね」とかがある。以前、女性の職場にいたときは、浅知恵で「三度褒め」を
心掛けていた。意外と異性は直接褒めないためか、三度目がポイント。 少し軽いが誰にも言っていれば
変な誤解は受けない。言葉は相手を有頂天にも激怒もさせる。最近は、褒めたことがない。 

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3827,  集団爆笑 ー木曜五限の地理公民ー
2011年09月17日(土)
 人生では思わないハプニングで爆笑の渦に巻き込まれることがある。以下は、ある随想にあったもの、
思わず噴出してしまった。【高見は一風変わった授業を進める教師だった。とにかく生徒を当てまくる。
次回までに解いてこい、と指定した範囲の問題を 徹底し当てまくる。彼は中学生の本質を、的確に
見極ていた。甘い顔をして、放っておいたらどこまでも勉強せず、授業中 昼寝するだけ、という性悪説
を信奉していた。そして、その考えはおおむね正しかった。・・・・答えが間違っていると床に正座。
 次に後ろの席の生徒が立つ。答えられない。 正座。はい、次、また、正座。こんな調子なので、
クラスの九割が床に正座させられ、正規のイスに座る者がほとんどいなかったこともある。おかげで、
高見の授業は常に異様な緊張感が漂っていた。 事件は、 この高見の授業で起こった。主役は三井。 
三井は強度のビビリ。人前で怒られることに、極端な差恥を覚える性質の正直者だった。 あの日、
高見に当てられ、問題文の朗読および解答を求められた三井は、傍目にも哀れなほどビビっていた。
斜め後ろの私の席からも、問題集を持つ手が、緊張に震えているのが、はっきり見えたほどだ。 三井は
途中しきりに噛みながら問題文を読み上げる。「アラビア半島の一角を占める、人口二百二十万人の
オマーンの首都マスカットはアラア海とオマーン…」 問題文は「首都マスカットはアラビア海
オマーン湾に面し、漁業と交易の中心地となっている」という何でもないものだった。だが、三井は
このとき緊張からくる混乱の極みに達していた。普段から冗談も言わない、根っから真面目な奴。
ただ、男なら誰もが通る、ちょっとした思春期の懊悩に、運悪く足元をすくわれてしまったのだ。
アラビア海オマーン……」で途切れ、数秒のブランクののち、三井はぽつりと、「湖……」
と続けてしまつたのである。その瞬間、大阪の片田舎の男子校に笑いの爆弾が落ちた。 教室に破裂した
笑い声で本当に床が揺れていた。いったん笑いが収まっても、誰かがふたたび笑いだすと、波となって
全員をまきこんだ。 十分経っても、男どもはひたすら笑い続け、 もはや授業どころではない。
教壇の高見も笑っていた。「誰にでも間違いはある」とフォローさえしていた。あれほど些細な間違い
を 見逃さず、なべて正座を命じていた男の言葉とは思えなかった。もちろん、三井に正座命令はなし。
三井の導いた笑いは、「鬼」と陰口された教師の心すら溶かしたのである。その日より三井の名前は
学校じゅうに轟いた。あんなに笑った経験は、後にも先にも二度とない。 とことん生真面目な男が、
私の人生最高のスマッシュ・ヒットを飛ばす。「人間には無限の可能性がある」この言葉を聞くたび、
思い出すのは、あの木曜五限の地理公民と三井のことである。 私が笑いの偉大さについて身を
もって知った、十四歳の夏の午後。】       ( 『ザ・万歩計』万城目学著 )
▼以前、ここでも書いたことがあるが、学生時代のドイツ語の授業で、誰かがドイツ語の訳をしていた。
「…  その時、遠くから犬の鳴声が聞こえてきた!」と、同時に遠くから、待っていたかのように、
「ウ~ ワンワンワン」と犬の鳴声。その瞬間、かたい授業の最中、部屋中が爆笑の嵐。
あれだけ集団で腹の底から笑った経験はなかった。 

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3462, 純粋持続 -2
2010年09月17日(金)
 * 純粋持続と自由
 ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由の源泉である。 通常、自由といえば、選択の自由を
意味する。たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに枝分かれしている。その分岐点に
おいて、どちらかの道を進むか自分の意志に基づいて選択できる。 そこに自由があるとされる。 
しかし、ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を思い浮かべること自体が、空間化された時間による
発想であり、生命の自由な持続に即したものではない。 生命にとっての未来というのは、分岐路の
ようにあらかじめ存在するものではなく、現在において不断かつ連続的に創造されるものであるからだ。
したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての純粋自我による行為である。
他方、物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。 
物質は自らを破壊するのに対して、生命は自らを形成する。つまり生命には、物質が降りていく坂を
登ろうとする努力をみることができる。 宇宙の万象は、この持続の種々の緊張による多様な創造的
進化の展開なのである。そして緊張の極にあるのが、「生の躍動」である。
▼ 以上だが、まず好きなことをして我を忘れている時間が「純粋持続」である。その時は空間時間
は消え、没頭している時、 そこに「したいことを、しているという自由」がある。 純心になって
対象に打ち込んでいる時、時間も空間も超越している。しかし我われは日常の煩わしい空間に縛られ、
日常の反復を繰り返すだけになっている。 それらをカサブタと仮定すると、その奥に隠れている真の
時間が「純粋持続」である。哲学は、固定、静止、実在するもの、定着したものを探究するのが常で
あった。しかし、ベルクソンは「流動性」つまり「流れ」に注目する。一人の人間存在について
考えても、その細胞は日々刻々と変化しており、昨日と今日は、同じでない。生命の場合、同一状態
が永遠に続くことはありえず、流れの只中に「ある」ということが保証されているに過ぎない。
ベルクソンは、この「流れがある」こと、ならびに「流れの中で生きている」こと、この両者に
「自由」を見出す。あえて言えば、生命体が生きているだけで、どのような状態であっても、死んで
いなければ「自由」である。我われは、強力な束縛はないが、小さな細かい束縛の中で生きている。
もう一つは、現在はある程度自由だが、もっと多量な、もっと高貴な、深遠な自由に到達してない
と考える場合である。どっちにしても、ある程度自由だが、自由でもない、のが多くの人たちの
現実だろう。 気の持ちようである。だが、この「気」こそ、ベルクソンの呈示したものである。

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3087,挫折を考えてみようか -2
2009年09月17日(木)
 哲学者のヤスパーの「限界状況」と「包括者」は、なかなか含蓄がある。ヤスパーは第二次世界
大戦でナチへの協力を拒否したため、大学教授を剥奪され、身の危険を感じスイスに亡命せざるを
得なくなった体験がある。そこから「限界状況」という考えが、色濃く反映している。『限界状況』
とは、突き当たり、そこで挫折するしかない壁、具体的には、死、闘争、悩み、歴史による規定など
をいう。それらの乗り越え難い厳しい壁を目の前にして、逃避するなら人間は自分を失ってしまう。
反対に、その試練を真摯に受け止めることよって初めて、我われは自分の生きる姿を知ることになる。
 しかし受け止めたところで、限界状況では挫折は避けられない。しかし、この挫折が私たちを超越者
(=包括者)の世界に導いてくれる。 もちろん、ヤスパーが考えたのは、挫折(無力感)から神の
ような超越的なものへ目が見開かれるという宗教的なことではない。 包括者を認知するとは、
この世の中に決して合理的に理解できないものがあることを知るということ、理性の限界を知ると
いうことである。 理性の限界を認識してこそ、私たちは理性的に思索できる。それをヤスパーは
包括者の認知と提示したのである。 20世紀から、このかた原爆、世界大戦、ナチ、毛沢東などが、
大量殺戮を繰り返してきた。 それは徹底した合理主義の下である。 理性そのものの疑問が生じる
のは当然である。我われの挫折も、それを逆バネにすれば自分の無力感を、超越者(作家や芸術家など)
から救ってもらう切っ掛けとなる。挫折は、それから学びプラスに出来れば、これほど効果的なことはない。 
その限界状況が芸術、思想、自然、歴史などの暗号を解いて、包括者を受け入れやすい環境として
最適な状態となるのである。 挫折は、自分の壁が破壊することでもある。その壁は、自分を守って
もくれるが、反面、殻にもなってくる。養老孟は、それを馬鹿の壁と表現した。そうこう考えると、
人間にとって(特に若いときの)挫折は必要欠くべからざる経験ということになる。 
ところで先日・・・・  ~つづき    
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2722, どうも世界恐慌に入ったようだ!
2008年09月17日(水)
 * アリコが危ない?
   (字数の関係でカット、2011年09月17日)

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2007年09月17日(月)
 2358, ギリシャエーゲ海の旅 -4
ギリシャに着いて、初めて行ったところが‘デルフィの遺跡’である。なるほど2500年前に欧州と
ペルシャ周辺から、王侯貴族が宣託を聞きに行く雰囲気が、そこにはあった。遺跡の背景には大きな
岩盤の山があり、その前に広大な平原があった。そこに神々しい巫女が御宣託を恭しく述べれば、
当時の情報過小の王様など信じて当然。今でいうと、新興宗教の洗脳演技の舞台として充分な場が
デルフィの地にあった。当時としては国家単位として、洗脳手法ー戦術を冷静に実行していたのだろう?
しかし、その手法?は、キリスト教的な思想が入ってきてから、衰退していった。現在でも越後の地元
にも、狐を神様?とした「??宗教」が岩塚という村落にある。あれが存在しえているだけ、地域民度
の低さを物語っている。イングランドの狐狩を、あそこでやればよい! 福沢諭吉の「学問のすすめ
ではないが? いや、それとも土着レベルの神様も必要である?というのか。
ーデルフィの遺跡ー
 (字数の関係でカット、2012年09月17日)
ーメテオラの修道院
 (字数の関係でカット、2008年09月17日) 
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2006年09月17日(日)
1993, 悪筆  おはよ~!(*^ワ^*)i (~O~)ふぁ・・
 { もっと「きれいな字!」が書ける本-1 }  ー読書日記
(字数の関係でカット、2008年09月17日)
 
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2005年09月17日(土)
 1628, ソウルの富士山ー日野敬三 対談集 -2
また、作家の保坂和志の対談 ーソウルの富士山ーも含蓄がある。死に直面した日野の心理が
二人の対談から、みごとに浮かび上がっている。
保坂和志
今日は日野さんが、脳の手術から回復される過程で体験されたことを、闘病記というより
旅行記のような感じでうかがいたいと思います。
ー日野ー
自分が脳を手術されて、術後に安静状態にあるんだとわりあい客観的に自覚したのは一ヶ月ほどあとでした。
なんとなく現実がわかるようになっても、まだうつらうつら夢を見ている状態がさらに一ヶ月続きました。 
そこには、どうも完全な夢とは違う。 自分がソウルにいて窓の外がソウルの街がみえる。
(実際は東京だが)
そして、富士山でなくてカイラス山がみえる。 もしかすると、この人生ではなくて、その前のいつか
巡礼に行ったことがあるのかも、と思い直しました。 だとすると、僕の中で辻褄が合うのです。
カイラス山はそれだけの格と威厳がある山ですからね。超意識の神話的空間内だったら、カイラス山も
見える。それだけのリアリティのエネルギーを持ってなかったら、何が聖山ですか。
ー日野ー
僕は実は世の中を楽しんでいる、あるいは生きていること、人間であることが好きなんじゃないかと
思い当たったんです。それを好きでないように思い込んでいきていたのが、いよいよ最後のところに
来て、その思い込みが剥がれ落ちて本当の地が出たんだと気がついた。もう一つ考えたのは、人生は
なにも正しく生きねばならいことはないと。楽しく明るければよい。正しくありたいと思ってきたが、
それは最も大切ではないとベッドの中で声に出して自分に言った覚えがあります。
(字数の関係でカット、2009年09月17日)
ーーーー
冷徹な記者あがりの作家が幽体離脱をして、チベットの霊山のカイラス山にいってきた。それも夢では
ないと言い切っている。また、ー僕らは日ごろいとも簡単に現実と夢と言います、全く別のように。
でも本当は、そう分かれる以前のところに生きているんじゃないか。「夢現のあいだ」ということを東洋
の人たちは古くから知っていたように思います。「夢現のあいだ」は「無現のあいだ」でもありましょう。 
という、クダリは、生死の狭間での極限から生じた魂の深い世界を垣間見た体験があるからこそ、
言えることだ。人間の脳には、信じられない能力が隠されている。死の瀬戸際を漂うと、その一部を
垣間見ることができるのだろう。死ぬ時の楽しみでもある。ー面白いことに、去年の今日老子荘子
ことが書いてあった。意味ある偶然の一致である。
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2004年09月17日(金)
 1263, 老子孔子
本を読んでいて、時々ハッとする文章に出会うことがある。 以下を書き写してみるが、
儒教道教を対比させることによって、それぞれの本質を、より解りやすく知ることができる。
(生き方の研究ー森本哲郎 P・302より)
ー「孔子の教え」はあくまで「厳父の思想」であり、対する「老子の思想」は「慈母の思想」と
みることができよう。老子と目される人物が生きたのはー孔子もそうだがー春秋、それにつづく戦国
時代の乱世であった。誰もが真剣に生き方、というより生き抜くための知恵を求めていた。それに、
応えて、孔子老子に代表される儒教道教が生まれたのである。対立というより、対照というべき
かもしれない。いずれが是で、いずれが非か、などという問いは愚かである。我われは、ここに二通り
の生き方を見、学べばよいのだ。考えてみれば、この世には「人間なるものは存在しない。生きつづけて
きたのは、男と女である」。人間とは、女と男の総合した抽象概念である。だとすれば、その「人間」
には、当然二通りの生き方が考えられよう。すなわち、男性原理による哲学と、女性原理につらぬかれた
思想である。中国は孔子老子という祖によって、二元的に、つまり、全人的に生きてきたといってもよい。
私たちが学ぶべきことは、そのような二つの知恵なのだろうか。中国の作家、林語同は、こう書いている。 
ー功なれば儒教孔子ーの徒になり、失意の時は道教老子の徒に奉じるようになる。
 道教自然主義は、中国人の傷ついた魂を和らげる鎮痛剤なのである。得意と失意で織りなされた人生、
それを歩む人間の生き方ーそれは何といっても「父」と「母」に従うことなのではないだろうか。
▼ 以上だが、道教儒教を対比させ中国そのものを、いや人間の生き方の知恵を提示している。
 学生時代、「諸子百家」を読んだ時に、孔子の教えは堅苦しく思い、むしろ老荘の思想に共鳴をした。
老子の言わんとする要諦は ー小さな私心を捨て去れということだ。人間存在なんぞは宇宙から見れば砂、
いやチリのような存在。それを真に理解すれば、無為自然、母なる自然の道に従うのが一番の近道という
ことが解ってくる。人間が生きていくからには、常に挫折と失意が波のように押し寄せては返して
いくもの。その時、宇宙的視点でその波を見つめる視線が道教の真髄である。
 ー老子の思想の幾つかを書いてみるとー
・道を体得した人は、何事にもとらわれず、言葉を使わず教えを行なう。
・もっとも理想的な生き方は、水のようなものである。 水は、万物に恵みを与え、
 相手と争そわず、衆人の嫌がる所へと流れていく。だから道に近いのである。
・実在が意味をなすのは、無が作用しているからである。
・道を体得した者は、行動した跡をのこさない。
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2003年09月17日(水)
896, 言いわけ読本 ー読書日記
               塩田丸男 中央図書館ー2003・09・14日
(以下、字数の関係でカットー2007年09月17日)
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522,勉強法ーノートのとりかた--3 -
 2002年09月17日(火)
(字数制限のためカット 2010年9月17日)
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 147  機動捜査隊  2001/09/17
7~8年まえになるが。当ホテルで年平均二~三人の犯罪者を逮捕している。
その協力の功績で、機動捜査隊が表彰状をやるから私に来いとのこと。「何いってるのか!
来るのはお前らの方だろう」と思ったが、「面白そう!」という誘惑に負け行くことにした。
(字数制限のためカット 2012年9月17日)