つれづれに

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  今日のYoutube

 今朝は例年とおりに、因縁のある3つの寺に花をあげに。
近くのスーパーに墓用の蝋燭を買って、都合90分かけての墓参り。
これも、あと何回になるのか? 

 

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・・・・・・
 
3792, つれづれに ー 今日は御盆
2011年08月13日(土)
 今年の御盆は格別の思いである。姉、兄に続いて、私もこの三月末で会社を
倒産させてしまった。「亡き両親と兄たちに、どう報告すべきか?」という
気持ちは、何処かにある。急激な悪化は、あと数年は大丈夫という見通しも、
数ヶ月もしないうちに、少し前倒しの決断をせざるを得なかった。この事態の
中でも事業を継続発展させるのが私の務めだったはず。経営は結果責任
言い訳は一切無用である。20年前のバブル崩壊、10年前の9・11テロ、
そしてトドメが三年前のリーマンショック、その上に更に東北大震災。 
この20年と、これから10年の異変は、明治維新第二次世界大戦に匹敵するか
上回る規模になる。問題は、それが今だ進行中であること。父親が、第二次世界
大戦の敗戦時には42歳であった。私は現在、65歳で、年齢からみて
再チャレンジ出来る年齢ではない。また情報化とグローバル化の時代背景がある。 
特に、情報のネット化が数千年、いや数十万年に一度の人類にとって想像を絶する
ツールで、人類のあり方そのものを根底から変え始めてきている。
 情報化、デジタル化は、多くのものを無料化させる力が働く。これはプラスにも
マイナスにも働く。携帯電話にパソコン機能が入り、個々人の間の情報が瞬時に
やり取りが可能になった。そのため世界中の既存体制が、そのコントロール不能
になっている。この中での事業経営は、非常に難しくなってしまった。 
日本も世界も、この混沌とした中にあって、大きな岐路にたたされている。
この時期、リーマンショックで疲弊した日本に千年に一度の東北大震災が襲った。
この布置は、世界規模では戦争か災害が起こる可能性がある。それが我々の前に
どのような事態で現れ出るのだろうか。幸いといって良いのか、世界に先立って、
日本は20年前にバブル崩壊を経験し、国家も、会社も、個人もダウンサイズ
をしてきた。その点では、体質が既に変わってしまっている。 第二次世界大戦
の半年後に、日本で生を得て、そして、それに匹敵する変動を、ここで経験して
いる自分が、そして日本がある。その三分の二が右上がり、三分の一が右下がり
であった。人生の丁度良い時節が、歴史的繁栄の右上がりだったことを感謝している。
日本の浮き沈みに自分の人生が、ほぼ同じように重ねっていた。 所詮は国家と
盛衰のウネリの中で、浮き沈みをするしかない人生か! 目出度し目出度し!
より、この方が、よほど良い人生かもしれない。 そう思うしかないが! 
でも、やはり恵まれていたことになる。

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3427, iPad 対 キンドル ー4
2010年08月13日(金)
『iPad対キンドルー日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏』西田宗千佳著
   * タブレット式パソコンのブレイクの意味することは
 日進月歩にパソコンが形を七変化をして便利な道具として提示されてきている。
その一番ホットなのがモバイル携帯電話。代表的なのがiPhone。それが今や
iPadにとって代わろうとしている。早くいえば4倍の大きさのiPhoneである。
これをキッカケに多くが参入を始めてきた。 その競争が激しくなればなるほど、
消費者は使い勝手が良くなる。その結果、マスコミと出版業者の大部分が淘汰
される。これにツイッターのようなミニ・ブログを個々人が持って、情報の
受発信を始める。 空間を越えて、それぞれがキーワードで繋がるのだから、
これまでとは全く違った社会になっていく。これからの社会の変容は誰も予測は
つかないし、これまでとは違った価値観が出てくる。 考えてみればパソコンが
卓上と、ノート型パソコンしかなかった方がオカシイ、ということになる。
最近になって携帯にパソコンが付いたばかり。 これが板状の平面のパソコン
になった。 とすると、次の何かが出てくるはず。ヘルメット式とか、メガネ
に画面が映し出されるものとか、投射式とか、想像を遥かに超えたものが、
早晩に出てくる。(字数の関係でカット 12年08月13日))

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3052,都会暮らしが良いか、それとも田舎が良い?
2009年08月13日(木)

 生きていくに都会が良いのか、地方が良いのか。 その人によって違うし、その判断は出来ない。
私自身は、成行きで人生の大部分を地方で過ごすことになった。 それに対して、良かったとも、
悪かったとも思っていない。 どっちにしても同じでしかないのは分かっている。
それぞれの性格もあるし、体質もある。 また歩んできた道もある。
ところで、地方で自然に囲まれた老荘的な生き方を自慢げにいう人はいるが、
逆に都会の方が良いと声高に主張する人は少ない。 が、あったのである。
渡辺淳一著『反常識講座』のー第三章 住むなら猥雑な都会ーの中に、堂々と書いてある。
 反常識の御題目だから、堂々と書けるのである。  
  その概要といえば
【 齢をとって田舎住まいというなら解らないでもないが、若いうちは都会の方が良い。
田舎は社会的制約が多すぎる。東京に多くの人が住み、離れたがらないのは、都会が周囲に対して
無関心で余計な干渉をしないからだ。それだけ自由になれるからである。具体的に言えば、未婚でも、
ホモでも、レズでも、どんなカタチでもそれなりに容認してくれる寛容さがある。地方なら白い目で見られ
逃げ出しざるを得ない雰囲気がある。それと圧倒的な刺激に満ちていて面白い。むろんその裏には悪が満ちている、
その分面白いのである。そのチョッとやばいのが若者にとって魅力なのである。若者にとって、緑や空気が
美味いなど二の次である。生臭いのが地方では露出できないのである。だから齢をとってからなら、地方は良い。
若者は、表の顔とは別に、我がまま勝手に利己的で、性的欲望を満たし暴力もある、それを誰も咎めようしない
緊迫した都会で刺激を受けた方が良いに決まっている。 また、都会の良いところは、人材の上限と下限の
幅が広いことだ。上も下も果てが無い。】   まったく、その通りである。
 私の場合は三十年近く、新潟と長岡を住と職が分かれていた。 だから地元で我慢?出来たと思っている。
どちらにも属しているようで実は、何処も属していないで済む環境が良かった。 その通勤で感じたことは、
地方の若者の緊張感の希薄性である。 希薄だから都会に出て行かなかったとも言えるが、都会のあの猥雑な
緊迫感が全く感じられない。 それはそれで、良い部分もあるが。 しかし・・・
 先日、大学の同級生と四十年ぶりに一期一会の対話をしたことを書いた。 彼は資生堂のキャリアとして、
大都市の転勤暮らしを34年間してきた。そして、奥さんが病で倒れ、最後の住まいを二度目の赴任の地の仙台
の郊外の河口の漁村に決めた。 そこは大好きな釣りの魚場。その彼に都会派?、田舎派?など問う方が野暮。 
この問いの対象は、何も分かってない若者向きの問いである。 才能と金があって、もっと若ければ、都会の
猥雑の雰囲気の新宿の近くに住んで、川口湖あたりにセカンドハウスを持った生活も良いだろう。
そう一度、【新幹線を新潟駅から飛行場まで延ばそう会】で、太鼓を叩かれて踊らされかかった松下さんは、
当にそれじゃないかい! と言って、取って代りたいとは全く思わないのは、どうしてか。
 それぞれ! ということを知っているから。

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2687, 閑話小題 
2008年08月13日(水)

 *お盆か~
お盆は、早朝に因縁ある3つの墓参りをし、夕方に実家の墓を参りをして、坊様に顔出しをするぐらいである。
もちろん休むことなく、誰も居ない事務所で本とパソコンいじりをしている。これも普段と変わらないが。
盆・暮・ゴールデンウィークのような民族大移動の時期はジッとしているのが習慣になっている。
娑婆の隠れレジャーを同調することも無い。大多数は集団休暇しかまとめて休みを取れないのだから。
去年の13日は、スナックをワザワザ開けてもらって兄夫婦と、姉夫婦とドンチャン騒ぎをしたが、今年は?
これを書き上げ墓参りに出発である。 盆が終われば、アッという間に正月だ。一年は本当に早い。
 そうそう9月か10月の旅行先を決めないと!昨夜半に、不思議な夢をみた。何処かで小さな祠を見つけ
中をみたら、仏像があった。その後ろにダイヤが埋め込まれ、不思議な雰囲気を漂わせている。
誰か死者の霊を収めた像である。持ち帰るかどうか迷った上に持ち帰った。
この夢、タイミング的にみて何かを示唆しているのだろうか?
 ~~
 *北京オリンピック
チベット騒乱や、四川省の大地震、ウィグル地区のテロなど、大荒れの中に北京オリンピックが開催された。
北朝鮮マスゲーム的な開会式など華やかであったが、何か一人ひとりの個性が消しさられた内容で、
中国共産党のための開会式という印象が強すぎて、何かシコリがのこった開会式だった。
恐らく多くの金メダルを中国が取るだろう。で、それがどうした?というだけのことだが。
テロという面で、最後まで目が離せない日々が続きそうである。 日本は、今のところ成績は良くない。
金メダル候補の大部分が前のオリンピックの金メダル取得者というのは如何いうこと?
 ~~
 *最近の車事情
Uターンをしてきた長男が通勤で使いたい車を買うということで、最終の助言を求めてきた。
「買い」に対して助言を求められれば、エネルギーが湧き出てくる。
「買い」は、情報量を広く、多く、そして質を高めること。それしかない。
そこで長岡だけでなく、新潟市の情報を取らなければと思ったが、デーラーは一斉に盆休みに入った。
「長男の車の買い」の視点で車を見ると、これまた面白いのである。予算の関係上、小型車になる。 
そういえば、走っている車は殆どが小型車と軽自動車である。少し前までは普通車が大部分だったが、
この十年で様かわりをしてしまったようだ。 それで、このガソリン高。
知り合いの自動車修理工場の人に助言を求めたら「新中古車」を探したら!という。

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2007年08月13日(月)
2323, 面構え
                 ゜+.(ノ*・ω・)ノ*.オハヨオォォ☆
つらだましい『面魂』 ーとは、強くはげしい性格や精神が表れている顔つきをいう。先日の葬式で
同級生の何人かに会って、それぞれの顔をみると昔の面影をのこしているが、やはり人生の風雪に鍛え
られた経験が顔ににじみ出ていた。私が見るところ、その人の顔が出来てくるのは50代に入ってからである。
『面魂』に似た言葉に「面構え」がある。「面構え」とは、むしろ長い年月をかけて出来上がった顔のこと。
片岡球子という画家が「面構」をテーマとして、色んな人の肖像画を書き続けている大作シリーズがある。
その中の第1作「足利尊氏」など、あまりにも味のある漫画的顔で、頭に描いていたイメージとはまるで違う。
画伯が京都の等持院を訪れたとき,足利尊氏の像を見て,今までの感じてきた尊氏とはまったく異なるものに、
あるめぐり合わせを感じたという。尊氏の中に人間を愛する度量の深さを感じ取り、そこで、歴史上の人物を、
自分の印象を通して書いてみようと決心。
「面構」シリーズでは足利尊氏足利義満足利義政を始め戦国武将や,葛飾北斎安藤広重,平賀源内,
滝沢馬琴雪舟,一休などがある。人間的な味のある面魂が溢れている顔が何ともいえない! これは
片岡球子のライフワークとなっている。面構という視点で改めて現代の日本人をみると面白い。役者では
三国連太郎、政治家では佐藤栄作、力士では双葉山の面構えがよい。大女優では、往年の京マチ子がいい
面魂をしていた。最近の歴代の首相で面魂のよい人は一人もいない。どういうことなのだろうか? 
そういえば、悪党面を見かけなくなった。あえていえば、共産党宮本顕治か、ヤクザ上がりのハマコー
こと浜田幸一か? スターリンも、数千万人も虐殺しただけ、顔に面魂が溢れている。善人には面構が無い
のは、如何いうことなのか? 羅漢の像には、なかなか味のある面構えのある顔が、揃っている。
その辺の百姓こそ、飢饉や水害など自然の風雪に鍛え抜かれるのだろう。
          (((o(´・з・`)グッ。・:*:☆w(´・з・`)バァイ
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2006年08月13日(日)
1958, 今日はお盆ー2
                \(^▽^*)おはよう
「今日はお盆」というテーマで書こうと思ったが、この日に、そのテーマで書いてないわけがないと振り
返ってみたら、4年前にチャンと書いてあった。(あとにコピーしてあります)気がついてないで書いて
いたら、80?は同じ内容だったろう。4年も経って、大して成長していない?自分の脳が見えてくる。
まあ、後退しないだけでも有難いと思わなくてはならないか?                   
レジャーの無かった時代の盆・暮れという里帰りのシステム、当時の長期?休暇だったのだろう。
考えてみれば良い文化である。一年に1~2度、田舎に帰り家族や幼馴染に会ったりするのも良い。
先日、学生時代のゼミの後輩と酒を飲んで聞いた話だが・・ 
ーM氏は東京の中野に住んでいるが、小学校の同級会を開こうと思い立って同級生と三人と
名簿を調べたら、63人の同級生が他に一人しか見つからなかったという。
都会は、それだから良い!と思うのか? いや寂しいと思うのか?やはり後者だろう。              
  オバケダョ〃∋(`∇´∋〃 ~(m ̄ ̄m) ~~(m´ρ`)m ~(m~ー~)m
                  ヘ(^ヘ^)(^ノ^)ノ (/_ _ )/♪へ(-。-へ)♪(/_ _ )/
田舎は、スローライフという意味では住みやすいが、刺激が少ない。
そこでセカンドハウスを出身地に持とう!という運動が起きている。
生家をセカンドハウスにして、地方で働き時々都会生活をするパターンだ。
しかし、それだけの余裕が持てる人が何人いるのだろうか?
さっき、デジタル・カメラの写真を整理していたら、高校の同級生の個人の墓の写真が偶然出てきた。
今年になって三度、散歩の途中に立ち寄っていたが、今日の特別のコースで行って見るか? 
今年は、その故人の会社も潰れたし・・・  お盆の「懐かしのメロディー」を聴きながら下書きの、
この文章を書いているが、まあお盆!に良い番組である。これを見ていると、年々歳をとっている
自分に気づかされる。 さてと、墓参りに行こうか!
                       ( -」)φ~~  バイ! ヾ( ̄ー ̄ヾ))))      
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2005年08月13日(土)
1593, ひらがな思考術 -1  -読書日記
        
図書館から借りてきた本だが、目から鱗の本である。著者はコピーライター、シンクタンク社長、
コミュニケーション学部教授、という三つの経歴を持つから言葉に説得力がある。
ひらがなでわざわざ文章を書いてみたら、なるほどドンドンかけるのだ。
いままで何をしていたのだろうと、驚いてしまった。 とくに ひらがな三語 日記は面白い。
 ー今日の三語日記というと
たかしかえる おぼん おおあめがたたきつけている これで今日の大方がわかる。
ーこの本の概要というとー
「ひらがなで考えてみないか」それが、この本のメッセージで、
「ひらがなで表す言葉が、骨太で人の心を掴むのに適している」というのが大筋である。
漢字や英語が多用される専門語に寄りかからないで、手持ちのことばをかみしめ、ゆっくりと味わっていくと、
いま抱えている問題を考える方向性がうっすらと見えてくる。そうすれば受身ではなく、こちらから打って
でることができる。ひらがなで考えることは、「現状打破」 「情報収集」「創造的発想」「効果的表現」
「自己変革」に役立つ。
 (字数の関係でカット 09年08月13日))
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2004年08月13日(金)
1228, 広松渉(3) 哲学についてー27

ー人生舞台の役・割について

「実践するとはどういうことか」の(「行為の存立構造」の人生劇場))の概略を前回書いたが、
行為の存立構造をなしている「役・割」について、私の説を書いてみる。
「役・割」が一番鮮明で解りやすいのが嫁姑の関係である。永遠の人生の課題といってよい。
結婚は二人だけの関係と思っていたのが、その取り巻く複雑な人間関係がついてくる。
それに舅・小姑が絡んでくるから、その役・割をこなす事は並大抵ではない。離婚は互いの相性もあるが、
この複雑に入り組んだ関係もある。演技者も「外面・内面」を使い分けなくては、下手な役者になってしまう。
長い年月かけて育て上げた息子が、バカ嫁に結婚を機会に取られてしまうのだから、コトは複雑である。
嫁の立場からすれば亭主の母子関係も、べたべたしたマザコンにみえてしまう。
その母親は、いつまでも子離れをしない嫌な存在になる。 家という制度が強い時代ならまだしも、
今のように個人が主体という時代では、嫁姑の関係はこじれるケースが多い。
正に人生劇場における集約された「役・割」で、お互いにぶつかる場面になる。
地方のような固定社会では、なおさら役・割が固定化するから、行為の存立構造は露わになるケースが多い。
・小さな世界が全世界と信じて疑わない「子狐」のミニ・テリトリーの因習の世界で因果関係の芝居
 が演じられる
・「おれは田舎のプレスリー」的存在の地方(?呆)名士役
・必死になって小さな世界で肩肘を張って自己宣伝に終始している「チンドン屋」役と、
 それについて回っている「茶坊主」や「芸者」役
・ドブの中に発生する「ぼうふら」の群れー噂世界に浮く幼虫?役
人生舞台も、このようにしてみると面白いものである。といって突き詰めれば、どの役も大同小異の存在。
石が個性個性といったところで、所詮は砂利でしかないが。 石ころそれぞれが、自分の正義を持ち、
それに従って価値観を持って自分の舞台で役・割を演じることが、人生を生きること。ところで、いま書い
てきた役は、私の勝手に創りあげた主観の世界?「あまりにも偏見でしかないだろうか?」と疑問を自分で
投げかけてみる。社会、世間としても、それぞれの汗と涙で出来上がっている。面白おかしく創りあげた私の
心象風景でしかないのではないか。蛇には蛇(その地に縛られている象徴)の生き方、存在理由があるはず。
そんなものは対比の問題でしかないのでは、と。その通りである。それぞれの役を、面白おかしく演じて
いればよいのである。イタリアのベニスのカーニバルで、仮面を被って練り歩く。自分とは違った仮面の人
を演じていると、面白い心理状況になる。また逆に、イスラム教徒の女性がベールを被ると、自分という
存在が消えてしまった空気のような、透明人間になったような妙な気分になるという。面白いものだ。

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2003年08月13日(水)
861, プライドー2

 プライドは失意のどん底の時とかマイナスの状態の時に出てくる膿でもある。
その状態が逆にエネルギーになる場合もある。その為には、常に本を読み続けなくてはならない。
心の膿がたまっている状態が「子狐」にしてしまうのだ。したがって子狐は本を読まない人ともいえる。
「プライドを捨てるだけのプライドを持て!」と、ある飲食チェーンの創業オーナーが言っていた。
「表面的な面子などのプライドを捨て、心の奥の芯ー真ーの自己尊厳としてのプライドを持て」
「捨てて捨てて捨てて、最後に残るプライドを持て」という意味だ。
自信のない人、失敗ばかりしている人ほどプライドが高いのは、捨てられるだけの実績と自信がないからだ。
 捨てられない典型としては二代目とか、中途半端なインテリに多い。
何でプライド?と考えたら、彼等は表面的繕いとしてのそれしかないからである。
といって表面的繕いのプライドを捨てられないのが人間の人間たる由縁であるが。
表面的繕いとしてのプライドと真のプライドとの隔離が若い頃の特徴である。それを一生続けて
死ぬときに「自分の人生は何だったのだろうか!」と悔やむ人がいる。それが失敗の人生である。
 「そういうお前こそ、その歪んだプライドが尻尾に出ているぞ!」と誰かに看破されている
のかもしれない。自分の姿は見えないし、私も相対で言っているだけだからだ。
「最後の拠りどころのプライドを持つのがどこが悪いのか、それを否定したら人間は生きていけない
のではないか?」という声が聞こえてくる。 最後の最後、表面的繕いのそれしかないのだから、
それで仕方がないともいえるが! 「夢」「志」を持てなかった人は、それでもよいのだろう。
 「おいプライド!  たかがプライド! されどプライド! あ~あプライド!」
 
・・・・・・・・ 
2002年08月13日(火)
486, 今日はお盆

13日のお盆の朝の夢は面白い夢を見る。両親の夢が多いが、祖先の霊の夢を見ることもある。
祖先の霊が、仏壇から居間の仏像のほうに数人浮いて流れていく夢とかだ。
毎年、早朝お参りにいつも行くから、その緊張感が夢を誘発するのだろう。
今朝も少し見たがあまり印象に残ってない。明日の朝あたりが面白そうな夢が出てきそうだが。
13日の朝はいつも3箇所のお寺にお参りに行く。両親の墓と母親の実家の墓だ。
その中である墓参りの話しをしてみる。幼児のときから、父が叔父叔母だけで毎年お盆近くに
法事をしていた。父が言うには、「戦前ある土地を買った時その地主から、父が生きている間に、
自分たちの墓参りする約束をした」とのこと。全く親戚縁者がいなかったのだ。どういう訳か解らないが、
いつも姉兄の間でいつも私だけが出席していた。その時のご馳走が楽しみであった。 当時は法事とか
葬式はお祭りでもあった。母が元気なうちは、母といつもお参りをしていた。 母が言うに
「永代経のお金を払ってあるから、私が死んだらお参りをしなくてもよい」とのことであった。
しかしお盆の時になると、どうしてもお参りに立ち寄ってしまう。この世では私以外誰もお参りに
来ないのだ。やはりその人の念が60年~70年たっても通っていることになる。
長岡の千住の浄福寺で、名前は福原兵?さん、明治25年と墓に書いてあった。
 今日のサロンでその墓の写真を貼り付けておく。

・・・・・・・・・
 2001年08月13日(月)
[107] 「私の死亡記事

図書館で何気なく借りてきた本だが、これが面白い! 各分野の有名人に「物故者の解説を、
当の本人執筆という点である」 そのお願いの文章が、前書きになっているところがまた面白い。
よくこれだけの有名人が真面目に、あるいはふざけて書いているのがいい。まず自分の死亡時期の設定、
そして死亡原因、生前の業績を当の本人が書くのだから。どちらにしても真剣に書いてあることは文面
よりわかる。特に生前の業績に対して意外と自己正当化しているのが可笑しい。 
 -私も書き始めたが侘しくなってきた。
 死亡時期‐父と同じ71歳(そうすると後16年の時間)
・死亡原因‐酒の飲みすぎによるショック死。
・生前の業績ー書くに値せず。
・葬式方法は葬式坊主に一円の金も払わないようにとの 遺言の為に音楽葬、ただし身内のみで。
  近じか真面目に書いてみよう。