つれづれに

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   今日のYoutube
 
 今朝のポタリング、雨が降りそうだったが、いつもの通り、
強引に出発をしたが500Ⅿもしないうちに、小ぶり。
何か、空が暗いので、Uターンで帰ってきたが、その直後から
本降りになる。 そろそろ梅雨の入りですか。



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4105、私は完全な本 "日本の自殺 'ー8を作った
2012年6月21日(木)
  * 現代文明がもたらす幼稚化
 これが書かれた37年前からスーパーなどのチェーン店などが多く現れて
きて手軽に何でも手に入る、一億総中産階級社会になった。それは幼稚な愚民
の群れであり、大量生産・大量消費の結果である。 ー以下はその辺りを指摘ー
≪ 現代人にみられるこの思考力、判断力の全般的衰弱と幼稚化傾向は、
 一体なにによってもたらされたのであろうか。
◎ 第一に実に憂慮すべきことに、驚くべき技術の発達、物質的豊かさの
 増大、都市化、情報化の進展と教育の普及など高度現代文明が もたらした
恩恵それ自体が、このような精神状態を副作用として惹き起こしていたのである。 
思考力、判断力の衰弱と幼稚化傾向は、 高度現代文明それ自体の産物である。
・・・インプットとアウトプットとを結びつける複雑な仕組みについて思考や
判断を働かせるのは馬鹿げてたことだ。そんなものはブラックボックス
してしまえ、「賃金は大幅に上げろ、物価は大幅に下げろ」「税金は減らせ、
しかし 社会福祉は大幅に増やせ」こういう種類の要求を駄々っ子のように
叫びながら、この要求を実現するような便利なおもちゃを作れと言う。
そういうインプットとアウトプットとを結びつけるような調子のよいブラック
・ボックスは到底作製不能だと言っても、「そんなことを考えるのはわれわれ
の仕事ではない、われわれの仕事はとにかくボタンを押してこのおもちゃで
遊び続けることなのだ」と足をばたばたさえ、挙げ句の果てに癇癪を起こして
手当たり次第にまわりのおもちゃを放り投げ、ぶちこわし始めるという始末。
 やがてかれらは群をなして群衆心理の陶酔を楽しみ始める。思考力、判断力
の全般的衰弱と幼稚化は、第二に情報化の代償、つまり マスコミの発達と
教育の普及の代償として生じている。エンゲル係数で現代の消費生活の構造を
知ることができないのと同様、文盲率の減少や進学率の増大などで現代文化の
内容を判断はできない。「学歴ある文盲とでも呼ぶべき現代人」のあいだに
見受けられる恐るべき知力の低下、倫理能力の喪失、判断力の全般的衰弱の
秘密が、いまこそ本格的に解明されなかればならないであろう。かっての時代
の農民、漁民あるいは職人たちは完全に自分自身の生活体験を通じてテスト
した知識の枠内で図式を作り、それでもって人生や世界を測っていた。
かれらの持っている知識や情報は確かに限定されたものであったかも知れないが、
しかし少なくともかれらの生きている生活空間に関しては現代人の到底及び
得ない賢明さと生活の知恵を持っていた。それに引きかえ、現代人は自分の
直接体験をしっかりと見つめる時間を失い、自分の頭でものを考えることを
停止したまま中途半端で、皮相な知識の受け売りで世界中のできごとに
偉そうに口をはさんでいらいらと生きているのである。こうした思考力、
判断力の衰弱がもたらした品質の悪い情報は、我々の情報環境に満ちあふれ、
恐るべき情報汚染を惹き起している。 情報汚染の濃厚凝縮を受けた人間は
やがて幼稚な狂信者となり、暗殺をしたり、ハイジャックをしたりする犯罪者
と化していく。われわれはこうした現代文明にひそむ恐るべき幼稚化と野蛮化
のメカニズムを直視し、これを克服するための新しい努力を全力を挙げて
開始せねばならない。マスコミの発達と教育の普及の代償として捉えている
点が、すばらしくもある。少なくとも教育の普及があれば、思考力、判断力
の全般的衰弱と幼稚化を回避できると思ったが、そうでなかった。≫
▼ 当時書かれた、この警告は、さらに深刻な社会現象になって現れ出ている。
国家収入の二倍の国家予算を組んでも国民の要求を答えざるを得ないのが現状
の日本。国家そのものが判断も決断も出来ない幼児化をしている。
情報化の影の部分である 
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3739, 自分の居場所のみつけかた ー?
2011年06月21日(火)
  * 愛は根っこ、その愛をふくらませるのが知性 ーP・150    
             「自分の居場所のみつけかた」 ー 斉藤学著 
【 私たちは通り過ぎる人々の群の中に自分の居場所を見ることはできません。
 その中の何者かと出会い、互いに相手に飼いならされ、相手を飼いならし、
それによっで、その関係の中に居場所を見つけるのです。本来、知性という
ものは優しさを増す効用があるものだと思います。他の民族、年齢や性別の
差など、自分と違う立場というものを理解し行くのには知性が必要です。
けれど、それは根っこにちゃんと優しさがあればこそです。その優しさが、
その知性によって増していくのであって、根っこが悪すぎると知性が悪用
されてしまいます。それでは、その根っこはどこから生えてくるのかとよく
考えるのですが、やはり子ども時代にイヤというほど愛された人というのは、
 どこか人間の善意というものを当たり前と思い、その存在を信じています。
善意が当たり前だということは、感謝が足りないと見えることもあるかもしれ
ませんが、本人も他人に当たり前に善意を示して、感謝を求める気がないのです。
逆に他人からはっきりと悪意を示されると、びっくりします。けれども少々
意地悪をされていても、そんなことがあるわけないと思うから気がつかない。
なんだかいじめられていても、ちっとも感じない。そのうちに、いくら
いじめても面白くないから仲間に入れてしまえ、ということになって、人間関係
がうまくいきやすい。これと正反対に、子どもの頃からいじめられるのが当たり
前だった人は、世の中の人は当たり前に自分をいじめるものと信じています。
他人の物腰や表情の中に悪意を読み取ろう読み取ろうとしていますから、いくら
でも読み収にてしまう。 時にはニュートラルなことや、善意そのものさえ、
「私を利用されている」「最初に喜ばせておいて、後でひっくり返そうとして
いる」と勘ぐったり、誰かにほめられたら、「後でひっくり返そうとしている
のでないか」など素直に喜べない。 】
▼ 子供の頃の経験は大きい。良いにつけ悪いつけ、自分の根底が、それに左右
 されるということを意識して修正するしかない。それに役立つのが知性である。
だから自分で知性を磨くしかない。そのため、他人の話を聞き、本を読み続ける
こと。その結果、教養が培われる。 私のように多くの姉や兄の末っ子で育った
者は、善意も悪意も読み取る習性がある。常に人の間で緊張しているのは、
そのためである。ただ、何をしても最後は許されてきたため、何処か甘さが
付きまとってきた。私の場合、許される場が自分の居場所ということになる。
だから、長女系の優しそうな人に惹かれる。スナックや、行きつけの喫茶店
通うのは、母なる癒やしを心の奥に求めているケースが多い。