つれづれに

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昨日のシネマは、『キング・オブ・エジプト』を観てきた。
評価が低いので、違うのを観るか迷ったが、何か面白そう。
で、結果として面白い。 エジプトの神々が次々と出てきて、
争う活劇が、ストレスをフっ飛ばしてくれる。 評価90点
 



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4192, 呪いの時代 ー9
2012年09月17日(月)                        
 *「今、付き合っている人いる?」の意味 ー草食系男子とは何?  
                    「呪いの時代」内田樹著  
最近は合コンとかいうのがあり、気楽に結婚相手を探すシステムが出来ている。
それと、ネットの交流サイトで知り合い結婚に至るのも多い。何気なく
「今、付き合っている人いる?」と声をかけるのも、実は巧妙な意味がある。 
  ーその辺を抜粋ー
≪とりあえずは恋愛の局面において「傷つかないこと」があります。
 20年ほど前から「ロ説く」人が少なくなりました。それどころか「口説く」
という動詞自体がもう今の学生たちくらいの年齢では日常彙に含まれてない
かもしれません。じゃあ、学生諸君は、交際を求めて何というか。
「今、付き合っている人いる?」です。これは、きわめて巧妙に構築された
口説き文句」と思います。「今、付き合っている人いる?」という問いは、
一見すると客観的な事態についての価値中立的な問いのように見えます。
まるで、「今、雨降ってる?」とか「今、6時過ぎた?」と訊いているように
誰でも口にできるし、誰でもイエス・ノーで即答できるように作文されている。
まだ知り合ったばかりでお互いをよく知ないもの同士が、色いろあたりさわり
のないことを話しているうちに話題も尽きてしまい、ふっと訊いてみた。
そういうふうなカジュアルな問いのようにみえる。あたかもその問いに対する
相手からの返答に自分はとりわけ関心があるわでがないけど、ちょっと聞いて
みただけなんだけどと言わんばかりである。「今、付き合っている人いる?」
の問いに、仮に、「うん、いるよ」と即答されても、「ああ、そうなんだ。
ふ~ん、でさ、キミ、音楽聴く?」というふうに、そんなことオレ的に関係
ないけどさ」的に修羅場から逃走できます。「いないよ」といえば、
「それなら自分と付き合わない?」と、いきなり具体的性行動レベルに切り
替えられる。「今、付き合っている人いる?」という問いを発する人は、
その言葉が性的アプローチであるかどうかの決定権を自分の側に留保している。
だから、「いるよ」という答られた場合は「この問いはただの社交的問いである」
と言い抜け、「いないよ」という答えが得た場合は「この答えは私に対する
性的関心の表明である」という解釈ににじり寄る。「キミが好きだ」という
告白に対しては、言われた側には無数の答え方があります。言葉で答えても
いいし、鼻で笑ってもいいし、背中を向けて歩き去ってもいいし、何も聞え
なかったふりをしてもいい(これはよくあるリアクション)。・・・ ≫
▼ スナックやキャバクラなどで日常、会話されているポピュラーな言葉だが、
 直ぐに思い浮かぶのは、「あんた美人だね!」「最近、シネマで何か見た?」
「オーラが漂っているね」「あなたの為に、この場があるような存在だね」とか
がある。以前、女性の職場にいたときは、浅知恵で「三度褒め」を心掛けていた。
意外と異性は直接褒めないためか、三度目がポイント。少し軽いが誰にも
言っていれば変な誤解は受けない。言葉は相手を有頂天にも激怒もさせる。
最近は、褒めたことがない。 

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3827,  集団爆笑 ー木曜五限の地理公民ー
2011年09月17日(土)          (『ザ・万歩計』万城目学著)
 人生では思わないハプニングで爆笑の渦に巻き込まれることがある。
   以下は、ある随想にあったもの、思わず噴出した。
【 高見は一風変わった授業を進める教師だった。とにかく生徒を当てまくる。
 次回までに解いてこい、と指定した範囲の問題を徹底し当てまくる。
彼は中学生の本質を、的確に見極めていた。甘い顔をして、放っておいたら
どこまでも勉強せず、授業中、昼寝するだけ、という性悪説を信奉していた。
そして、その考えはおおむね正しかった。・・答えが間違っていると床に正座。
次に後ろの席の生徒が立つ。答えられない。正座。はい、次、また、正座。
こんな調子なので、クラスの九割が床に正座させられ、正規のイスに座る者が
 ほとんどいなかったこともある。おかげで、高見の授業は常に異様な緊張感
が漂っていた。事件は、この高見の授業で起こった。主役は三井。三井は強度
のビビリ。人前で怒られることに、極端な差恥を覚える性質の正直者。
 あの日、高見に当てられ、問題文の朗読および解答を求められた三井は、傍目
にも哀れなほどビビっていた。斜め後ろの私の席からも、問題集を持つ手が、
緊張に震えているのが、はっきり見えたほどだ。三井は途中しきりに噛みながら
問題文を読み上げる。「アラビア半島の一角を占める、人口二百二十万人の
オマーンの首都マスカットはアラア海とオマーン…」問題文は「首都マスカット
アラビア海オマーン湾に面し、漁業と交易の中心地となっている」という
何でもないものだった。だが、三井はこのとき緊張からくる混乱の極み。
普段から冗談も言わない、根っから真面目な奴。ただ、男なら誰もが通る、
ちょっとした思春期の懊悩に、運悪く足元をすくわれてしまったのだ。
アラビア海オマーン……」で途切れ、数秒のブランクののち、三井は
ぽつりと、「湖……」と続けてしまつたのである。その瞬間、大阪の片田舎の
男子校に笑いの爆弾が落ちた。教室に破裂した笑い声で本当に床が揺れていた。
いったん笑いが収まっても、誰かがふたたび笑いだすと、波となって全員を
まきこんだ。 十分経っても、男どもはひたすら笑い続け、もはや授業どころ
ではない。教壇の高見も笑っていた。「誰にでも間違いはある」とフォロー
さえしていた。あれほど些細な間違いを見逃さず、なべて正座を命じていた男
の言葉とは思えなかった。もちろん、三井に正座命令はなし。三井の導いた
笑いは「鬼」と陰口された教師の心すら溶かしたのである。その日より三井の
名前は学校中に轟いた。あんなに笑った経験は、二度とない。とことん生真面目
な男が、私の人生最高のスマッシュ・ヒットを飛ばす。「人間には無限の
可能性がある」この言葉を聞くたび、思い出すのは、あの木曜五限の地理公民と
三井のこと。私が笑いの偉大さについて身をもって知った、十四歳の夏の午後。】
▼ 以前に、ここでも書いたことがあるが、学生時代のドイツ語の授業で、誰か
がドイツ語の訳をしていた。「・・その時、遠くから犬の鳴声が聞こえてきた!」
と、同時に遠くから、それを待っていたかのように、「ウ~ ワンワンワン」
と犬の鳴声。その瞬間、かたい授業の最中、部屋中が爆笑の嵐。
 あれだけ集団で腹の底から笑った経験はなかった。
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3462, 純粋持続 -2
2010年09月17日(金)
 * 純粋持続と自由
ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由の源泉である。 通常、自由といえば、
選択の自由を意味する。たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに
枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか自分の意志に
基づいて選択できる。そこに自由があるとされる。しかし、ベルクソンにいわせれば、
そのような分岐路を思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想で
あり、生命の自由な持続に即したものではない。 生命にとっての未来というのは、
分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、現在において不断かつ連続的
に創造されるものであるからだ。したがって、自由とはこの純粋持続への帰一
であり、その発現としての純粋自我による行為。他方、物質界は一瞬前の過去を
惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。 
物質は自らを破壊するのに対して、生命は自らを形成する。つまり生命には、
物質が降りていく坂を登ろうとする努力をみることができる。 宇宙の万象は、
この持続の種々の緊張による多様な創造的進化の展開である。
そして緊張の極にあるのが、「生の躍動」である。
▼ 以上だが、まず好きなことをして我を忘れている時間が「純粋持続」。
 その時は空間時間は消え、没頭している時、そこに「したいことを、
しているという自由」がある。純心になって対象に打ち込んでいる時、時間も
空間も超越する。   (字数制限のためカット 2015年9月17日)


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3087,挫折を考えてみようか -2
2009年09月17日(木)
 哲学者のヤスパーの「限界状況」と「包括者」は、なかなか含蓄がある。
ヤスパーは第二次世界大戦でナチへの協力を拒否したため、大学教授を剥奪され、
身の危険を感じスイスに亡命せざるを得なくなった体験がある。そこから「限界状況」
という考えが、色濃く反映している。『限界状況』とは、突き当たり、そこで挫折
するしかない壁、具体的には、死、闘争、悩み、歴史による規定などをいう。
それらの乗り越え難い厳しい壁を目の前にして、逃避するなら人間は自分を失ってしまう。
反対に、その試練を真摯に受け止めることよって初めて、我われは自分の生きる姿を
知ることになる。
 しかし受け止めたところで、限界状況では挫折は避けられない。
しかし、この挫折が私たちを超越者(=包括者)の世界に導いてくれる。 
もちろん、ヤスパーが考えたのは、挫折(無力感)から神のような超越的なものへ
目が見開かれるという宗教的なことではない。 包括者を認知するとは、この世の中
に決して合理的に理解できないものがあることを知るということ、理性の限界を
知るということである。 理性の限界を認識してこそ、私たちは理性的に思索できる。
それをヤスパーは包括者の認知と提示したのである。20世紀から、このかた原爆、
世界大戦、ナチ、毛沢東などが、大量殺戮を繰り返してきた。 それは徹底した合理
主義の下である。 理性そのものの疑問が生じるのは当然である。 
 我われの挫折も、それを逆バネにすれば自分の無力感を超越者(作家や芸術家など)
から救ってもらう切っ掛けとなる。挫折は、それから学びプラスに出来れば、これほど
効果的なことはない。 その限界状況が芸術、思想、自然、歴史などの暗号を解いて、
包括者を受け入れやすい環境として最適な状態となるのである。
 挫折は、自分の壁が破壊することでもある。 その壁は、自分を守ってもくれるが、
反面、殻にもなってくる。養老孟は、それを馬鹿の壁と表現した。そうこう考えると、
人間にとって(特に若いときの)挫折は必要欠くべからざる経験ということになる。 
ところで先日・・・・    ~つづき    

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2722, どうも世界恐慌に入ったようだ!
2008年09月17日(水)
*アリコが危ない?
昨日の午後に初めて世界最大の保険会社のアリコが、倒産の危機に瀕して
いるのを知った。一月の株価が59ドルが、今週に入って5ドルを割ったというから、
倒産一歩手前と見てよいだろう。ところが、他人事ではないのである。会社の節税の為
に私に毎年保険をかけて経費で一度落とした後、ある程度のボリュウムができた後に、
それが返ってくるという保険に入っている。それがアリコジャパンなのである。
そのアリコが、こともあろうに住宅債権の保険をつくっていたのである。
サブプライム・ローンの不良債権の保障をしていたというから、結果は知れたもの。
世界一の保険会社であっても、倒産ということになる。アリコといえば、現在日本でも、
国内の保険会社を食い荒し、多くの資金を集めている。それが全てパーになる可能性がある。
当社も1200万を入れてある。(四割は節税になっているので700万は、最悪ロスに!) 
たくもうである! まだ間に合うと言うから、今週中に、売却かどうかの判断はしないと
ならない。ということは、最悪の事態になったときに世界は大パニックになるということ。
アリコに入っている人は世界中にいるし、多くの金融機関もアリコの債権を持っている。
それが不良債権化して、戻ってくるはずの保険金は戻らないとしたら、恐慌である。
私のように世界中の人も金融機関も同じ行動をとるだろう。そうこう考えると、恐慌の
パニックは果てしない広がりを示していく。煽り立てているのではない!、
100年に一度のスケールの恐慌が始ったようだ。今回、払い下げの毒入りの米を、
業者がそ知らぬ顔をして販売した事件が発覚。これとサブプライム・ローンの事件と
似ている。不良債権という少しの毒が入っただけで、幾つかの組み合わされた健全の
債権全体が毒入り債権になってしまうのである。それが世界の辻の裏まで行き届いている?
から、ことは深刻である。まさか、住宅バブルが弾けようとは思ってもいなかったのだろう。
ブッシュ政権が好景気を維持するため、考え出したというから、ブッシュという男、
歴代最低の大統領の烙印を間違いなく押される。哀れな末路だが、本人にはピッタリ。
奇数月の月半ばが、そういう決済日ということで、注目されていたが、案の定、
リーマンの倒産である。次の11月はAIG(アリコ)と言われてい