つれづれに

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今日も暑いが、オリンピックの女子レスリング、終了間じかの
大逆転で、3つの金メダルをとった。 これが明日につながるかどうか?



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3797, 知的余生の方法
2011年08月18日(木)
4月から、これまで30年の新潟の事業の終焉で、新しい生活に変わった。
サンデー毎日(毎日が日曜日)の生活も思いの他、抵抗なく馴染んでいる。 
定時に家を出て、新幹線で新潟に行き、事務所で時間を過ごし、帰ってくる
生活を「外的時間」とすると、家を中心に気ままに過ごす時間を「内的時間」
というのか? 早朝に、この随想日記を書き上げたり、独り自転車で信濃川
川辺をサイクリングをしたり、スポーツジムで運動をする時間が私にとっての
「内的時間」。社会に出てからは、ひたすら未来へ進むことに関心が向いていた。
それは世界の動向と変化を察知することであった。そこに気持ちが集中している
時は、「外的時間」を過ごしている時である。その中で、ふとした瞬間、
過去の思い出や経験がフラッシュバックし、過去から呼び出される事がある。
良いことだけでなく悪いこともである。過去は自分を形作った日々であり、
これからの人生のベースでもある。 これからは、外的時間から内的時間
の絶対量が逆転する。 渡辺昇一著「知的余生の方法」に次のような一節がある。
【カレルは、時間には2つあるという。1つは物理的な時間。例えば、地球の
 自転を24時間と決めたりするといったようなことだ。
もう1つは「内なる時間」。これを彼は、抜群の比喩で説明している。物理的
時間は世界中同じだが、彼はこの時間を川の流れに例えるとどうなるかと問う。
そして、同じ速さで流れる川に沿って歩く人間を考える。朝早く起きて元気に
満ちて川沿いを歩くと、川の流れが遅いのに気づく。ところが、どんどん歩いて
いって夕方になって疲れてくると、川の流れが速くなっていると感ずる、
というのだ。川の流れは同じ速さなのに、人間が元気な時は遅く見え、疲れて
くると速く感じる。どうしてなのか。「内なる時間」のせいと、カレルは言う。
 若い頃の時間はゆっくり流れる。しかし、年を重ねるとだんだん速く流れる
ようになる。だから老化というのは、実は、時間の流れを速く感じるようになる
ことなのだ。年とともに時間の質が変わってくる、そして、シニアはこの質の
変化に戸惑う。比喩でいえば、20歳の時は時速20キロで流れ、60歳時は
時速60キロ流れると考えればよい。あまりの速さについて行けず、結局は
無為に時間を過ごしてしまうことにもなりかねない。】
▼ ここで、これまでの人生の価値観を大転換し、未来中心に向けていた目を、
 過去にも向け、過去を修正する作業が人生の仕上げになる。人生を逆照射し、
前向きで時どき見ていた過去を、しっかりと後ろに向き直し、見つめ直す時間も
「内なる時間」ということ。これまで読んだ本や、読みかけの本に再チャレンジ
したり、やり残したことなど幾らでもある。それを坦々とこなすことも
内なる時間といえる。そうこう考えると「人生が自分に余白を埋めて欲しい
ことは何かを聞き出すこと」が必要である。私の場合、この随想日記がある。
 毎朝、これを書き上げた後に、字数制限のため、書いた分だけ過去分の一部を
カットする作業がある。これは、過去のエネルギーのカットのように思えて
辛いが、しかし、その時にしっかりと読み返し、再考することになる。
これこそ私の内なる時間になる。

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3432, 再び、死について考えてみる ー1
2010年08月18日(水)
 数日前に近所の家内の友人が急逝した。 最近、「60歳過ぎれば今日明日
亡くなっても不思議でない。今年しか人生が残されていないと一日一生の思いで
生きなければ。だからチャンスがあれば、何ごとも可能な限りやらなくては。」
と話したばかり。 哲学でも、死について多く考えられている。 以下は、
「現代哲学の冒険シリーズ」の【「死」細川亮「恐れと驚きー死と生の問い」】
を参考にして書き上げた。
≪ そこで「死の人称性」は、死を語る上で分かりやすい説明になる。
・まず三人称の死は、「彼らが死んだという過去形」か、
「彼は死ぬだろうという未来形」で語られる。
・一人称の死(私の死)は、過去でも現在ではない。
 将来自分は死ぬだろう、死ぬ運命にある未来形である。
・二人称の死は、「あなたが死んだ」と過去形ではいえない。
「あなたは死ぬかもしれない」とはいいえるが、あまり馴染まない。
弔辞でいう「あなたは死んだ」というのは過ぎ去った過去のことでなく、
葬儀の現在のこと。したがって、あくまで現在の範疇。人の死の人称性の、
一人称、二人称、三人称が、過去・現在・未来の時間性を有している。≫
 ー以上だが、今回のような亡くなる前日に電話をしたが不在といわれた
友人が、翌日、そ連れ添いから「実は死に病で最近になり入院していたが、
朝方亡くなった」と電話があり、家内がショックを受けた、という死に話は、
間接にしか知らない二人称の死であり、もっとも死について考えさせるケース。
そこから逆に、死から生への逆照射をすると、【生きるとは何か】のヒントが、
みえてくる。【私は生まれた】と、逆に私の誕生を過去形でしかいい得ない。
未来の死と、過去の誕生、「現在、生きている私こそ、この世の存在」
ということになる。だから、現在、四苦八苦としても、それを生きる証として
受け止めるのが自然。私の死と誕生の、死の時点は、私にとって特異点。 
この2つの特異点の間が「私が生きている」現在形として語ってよい。
自分の過去も、現在、そして未来を思い浮かべている現在も含め、全てが現在
と言いうるのではないか。そこにベルクソンの時間論の意味が、ある。
時間など人間の主観?の捉え方でしかないと。 で、二人称の死から考え
られるのが、自分の死と生のイメージの絵の書き加え、修正作用となる。
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3057,逆説思考
 2009年08月18日(火)
(字数制限のためカット 2,015年8月18日)
 
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2692、「誠実であるということ」とは、どういうことか?
2008年08月18日(月)

私の好きな哲学者の中島義道が『哲学者というならず者がいる』の中の
カント哲学「実践理性批判」で、誠実性について次のように述べている。
 「誠実性が実現されてない限り、いかに外形的な善が実現されても厳密な意味で
『善』は実現されていない。」 誠実性とは何か?とは、「善い行為」を実現する
さいに、僅かでも自己利益が混入してはならないということ。
 (取引を求めない、という仮言命法、ということか)
 中島はカントが実際言ってないとしても、言いそうなこととして
次の4つをあげている。
・自分をわずかでも実際より善く見せようとしないこと。
・自分が不利益を蒙るとわかっていても、それが真実だから「そうだ」と語ること。
・他人が不利益を蒙るとわかっていても、それが真実だから「そうだ」と語ること。
・いかに優位に立っていようと、たとえそれがいかに理由のあるものであろうと、
 いささかも放漫であってはならない。-誠実な人は決して放漫ではない。
 いささかも誠実を誇ることはない、ということである。
 
以上のことを実際に実行すると社会は成立しないだろうから、ある程度は不誠実
でなければ生きていけない。そういえば以前に、誠実であるとは如何いうことか? 
考えたことがある。「誠心誠意、無心に対象にエネルギーを注ぎ込むこと」が、
結論であった。それと、「自分を騙さない。それが人を騙さないことになる。」
「約束を守る」ことである。

「あの人は誠実な人」というと、それからどんなイメージが連想されるだろうか?
・自分の言った言葉に対して責任を持てる人。
・自分を信じてくれる人である。
・「良心」を大切にして、人を利用しない人である。(心の綺麗な人)
   
 誠実そうな人はいても、誠実な人は、ナカナカいないものだ。
 「論語の会」にでも入って、鼻声で斉唱しようか?
 私の姉の名前は、正子、恭子、優子、そして礼子。
  正しく、恭しく、やさしく、礼儀か~
   誠実そのもなじゃないかい! 
 父親の名前は誠作だから、潜在意識が、そうさせたのか? 
 それとも、親しくしてもらっていた野本互尊翁から命名して貰ったか?
  
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2007年08月18日(土)
2328, 近視矯正手術
                 'Good☆Morning 。っω-)..。

私の周辺で最近「近視矯正手術」をする人が目だってきた。先日の葬式時に、
幼馴染みの同級生が眼鏡を外していたので「コンタクト?」と聞いてみた。
しかし彼の答えは「白内障の手術時に眼球の中に近視レンズを入れた」であった。
さらに彼の三人の娘も手術をしたという。(三人のうち二人が片眼だけの手術)
本人の話だと「とにかく楽になった、眼の重さがかなり軽減した。
それで娘も決意した」という。

ところで私も、この春に手術をしようと決意をしたところ、ある知人が
「15年前に白内障の手術と一緒にレンズを入れた経験からみて、やらない方がよい。
それでもどうしてもしたいなら、片眼をやってから様子をみたほうがよい。
白内障など已むを得ない場合を除いたら、やるべきでない!」と強く諭された。
その瞬間、あれだけ強い決意も、一年間時間を置いてから判断することにした。
「出来ることなら眼球にメスを入れるのは避けるべき」というのも道理であるし、
15年間の経験の言葉は貴重である。

それにしても、ここにきて急激に手術をする人が増えているようだ。眼球にメス
をいれる矯正も、日が経ってないのに大丈夫なのだろうか?今から十年前に
アメリカで近視矯正手術が爆発的に普及した時は、毎年2~3倍の確率で伸びた
とインターネットに出あった。今の日本と同じだったのだろう。近視矯正手術
にはレンズを眼球に入れるケースと、角膜を削るケースがあるようだが。
眼は最も重要な器官であるから、慎重に慎重を重ねないと!
でも、あれだけ楽になった爽やかな顔をみるにつけ、少し迷いが出てきた。
                 ヾ(・д・。)バイバイ