つれづれに

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    今日のYoutube

 昨夜は、中学校の同級会が、蓬平温泉の「よまやま館」であった。
出席40名、17時半、開会。20時に一次会終了。21時半に二次会終了。
日帰りの4名と、マイクロバスで帰ってきた。二日酔いなし、早朝6時の
ミニ・チャリは予定どおり輪行。 やはり70歳代は、ふけてしまっている。



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3030、卒業40年周年か~ -2
2009年07月22日(水) 
  * 卒業40周年記念に参加してみた人間模様。
 1~2年次の教養課程の同級生では、TVでよく見かける服部学園
 服部幸應と、大阪学院大学の白井総長が面白い存在。
服部幸應は実名が染谷で、当時は存在感が殆どなかったが、常に財布に
 10万円を入れているという話はあった。一年留年をしてアメリカに行って
 いたのか、留年をしたためアメリカに行っていたのかはファジーである。 
 二次会のクラス会が彼のために開かれているかどうかは定かではない。 
・私が学生時代で一番親しくして、卒業まじかで大喧嘩をした○○譲○。
 ハッタリ屋だったが20年前のバブルの崩壊で倒産。借入金が280億で、
 ビルが17棟だったという。 前回は身を隠している状態で不参加だった。
 三次会の最後は彼と飲んだが、二棟だけビルを隠して持っていて現在は、
 それが生活のベースになっているとか。更に、この恐慌で、経験を買われて
 コンサルタントもしているという。 バブル時の倒産劇は、人生の大きく
 覆いかぶさっているというが、そうだろう。
・クラブ関係では、神田周辺の菓子問屋に養子に行った男が土産として、
 仰々しい包みのお菓子をくれたが、家内が言うに、「これって、前週に買おう
 と東京駅の地下の店のカリントウ。すごく有名だけど、わざわざ並んで買って
 くれたのかしら」と言っていた。「まさか、そこの社長じゃないと思うけど、
 少しは有りえるかも」と答えていた。お返しで、新潟の酒を送ったところ、
 自宅に電話があり家内が出て「そこの社長なんですか」と聞いたら、そうだと。
「先週、買おうと店まで行ったら行列で買えなかった。奇遇です・・・」
 家内は、本当か嘘か?その辺は調子が良いが、相手も悪い気がしないだろう。
・卒業してから数年後に、先ほどの石○譲○と、私の自宅に遊びに来た伊香保
 温泉の「村松屋」に婿養子に入った友人の根岸君。十数年前に脳溢血になって、
 九死に一生を得たとかで、半身不随になっていた。それでも朝一の高速バスで
 來京し、最終のバスで帰ると言う。以前に一族の「いとこの会」を、
 その旅館で開いたことがあった。
・亡くなっている人はクラスの約一割である。還暦を越えると、社会的に
 如何こうは、三番目か四番目。10年後には出席できる?


2665, 人生は儚いのか?

2008年07月22日(火)


知人の墓に、亡くなってから隔月にお参りをしている。
たまたま、散歩をする土手の折り返しの近くに墓がある因縁のためだが。
習慣とは面白いものである。両親の墓には年に三度ほどしか参らないのに。

その都度思うことだが、「人生は儚い」ということだ。
必ず、心の中で話しをするが、故人が語りかけてくる言葉は
「生きているうち、こっち(あの世)は、ただ空」そしてダメ押しに
「もっと墓参りに来てくれ!」
勝手に沸いてくる言葉でしかないが、それでも何かがあるのだろう。

故人と話しをしながら、思うことが、娑婆のことなど全て儚い夢でしかない
ということ。そこで「儚いとは、如何いうことか?」を考えてみよう。
それは生まれる前の無限の時間と、死んだ後にも続く無限の時間を、死ぬと
覚悟をした時に「あまりに小さな時間」を思い浮かんだ実感である。
だから、「幸福の4Fは克服できない苦難と悲しみ」というのも、言い得ている。
故人から学ぶことは、そのことである。達成した幸福の喜びなど、酒を飲んで
盛り上がれば、出来ること。そこには、生きているうちに感じる儚さしかない。
しかし、それを言えるのは達成をした経験のある人間しかない。
それも、これも、如何でもいいことだが! 
儚さと感じるのは、4Fの克服できない苦難と悲しみの意味を知らないからだ。

儚いというのは、「わたしの儚さ」である。「わたし」という有限の自分の、
小ささをシミジミ知ることである。その小ささの一番の意味は時間の小ささである。
それも、他人と比べるのではなく、生前、生後にある何処までも広がる時間に
対してである。自分を取り巻く永遠の広がりの時間である。
そう感じる「わたし」は、実は過ぎ去った時間を振り返った時に「これ」から
「わたし」になった言葉。そうすると、「わたしの人生は儚い」は、その言葉に
縛られた感情でしかないということになる。
人生を振りかえって長かったような、一瞬だったような気がするが、それは現在、
そう思っている「わたし」の言葉ということだ。 
一年前の日記に「わたしの人生は儚い」と書いてあったのを読み返したとして、
あの日に、そう思っていた「わたし」がいた、というだけのこと。
知人の墓参りに感じる「儚い」は、故人からの教訓で、実は直面するだろう
自分の死に対する、予行演習を勝手にしているということでしかない。
儚いと思ったら、現在直面している苦難と悲しみをジックリ味わえ!ということ。

故人の墓参りをして「儚い」などとは、自分の心が、都合のよいことしか
考えていない、解りやすい事例でしかない。
 まあ、そういうこと! みも蓋もない話になったが。

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2007年07月22日(日)
2301, また地震!どうなっている?まったく! -5

    まず今回は原発に絞って、これまでの問題をまとめてみる。

・世界最大規模の刈羽原発の真下に、実は活断層が直下に走っていて震度6強、
 マグネチュード6・8の地震が発生した。それは、日本の国家として最も恐れて
いた非常事態である。
・海岸線のため、それは普通の地震とは違い、一般住宅が1000世帯、半壊は
その倍の2000? 被害家屋が10000世帯にのぼった。それは直下型地震の上、
地盤が弱いことが原因である。 それからみて、原発の施設は想像を遥かに
超える損傷を負ったと考えるのは妥当である。
原発は最大マグネチュード6・5を想定して設計されており、6・8とすると2,5倍
の衝撃がかかっている。もし、中越地震並みに震度7だったら、マグネチュード
7,2だったら、と想定すると、日本はチェルノブイユのような事故になっていた、
と考えられる。日本壊滅?は、決して小説・映画の世界ではない!ということになる。
・マスコミで「この事件の結果、過去に原発反対運動の住民が言っていたことが、
 ほぼ正しかったことが改めて検証できた」と報じていた。
 ということは、利権で推進した連中は、国家をあわや滅ぼそうとした輩として
 断罪に値する、ということになる。想定外でしたとは、言いのがれはできない!
 そのトップだったのは誰かは周知の事実である。その利権に屯したマフィアは誰か!
・3日前に私の知人が海水浴に行ったら、殆ど泳いでいる人が居なかったという。
・最も不運だったのが、外部の火災である。それがトップニュースとして
 世界中のマスコミに流れてしまった。このイメージダウンは最悪といってよい。
 彼らは、ことの真実を見抜く力がある。報道規制は彼らには効かないのである。
 それだけではない、インターネットで原発で働いている人から内部の生々しい状況が
 瞬時流されてしまった。さらに、消火が二時間も放置されていた事実も映像であるから、
 リアルである。消火が遅れたのは、被爆と火力を恐れて誰も近づけなかったというが・・
・おまけに、さらに震度6弱の余震がある可能性があるのに、
 それが原発施設に及ぼす影響、危険に対して住民避難を検討した形跡が、どうもない。
 そういう私も、もう起きないだろうと実はタカをくくっている。
 これは自己責任のレベルの問題であるが。
新潟市に近い‘巻’という村で原発計画があった。 一度決まりかけた計画が、
 住民運動のため中止になった。かなり激しい住民同士の対立があった。しかし、
 この結果からみると反対住民が正しかったことになる。 柏崎と長岡の関係と、
 巻と新潟は同じような立場にある。柏崎は経済波及を選択したのだ。
 決して政治家や建設マフィアだけが悪いのではない。
 
これで、全国の原発周辺の住民は大きな不安を倍加したことになる。
特に、福井周辺には幾つかの原発がある。新潟北から神戸にかけての地震危険地帯
の上にある。これら全ての廃棄を、真剣に検討すべきである! もちろん、
柏崎・刈羽原発の再開は、検討する以前の話である。『廃棄!』である。 
再開など世界が許すわけがない。
 
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 2006年07月22日(土)
1936, ローマから日本が見えるー14
        (≧∇≦)オハヨウ~ゴザイマス!
第6章 勝者ゆえの混迷-3
  ー同盟者戦役ー

マリウスの改革は、特に志願兵の導入は『誰の既得権をも損なわない』という
意味で利点があったが、思わない副作用をローマにもたらすことになった。
志願兵の導入は元老院の力を最終的に削ぐ作用を働かせていく。

ローマ連合に属している同盟国や地方自治体の市民にとって、
兵役はいまだに義務のままだった。彼ら非ローマ市民たちは、
直接税を納めた上に『血の税』としての兵役に就く義務が課せられていた。

これに対してローマ市民は兵役が免除され、しかも直接税はもともと存在しない。
これではあまりの不平等である。こうして起こったのが「同盟者戦役」である。
イタリア半島の比較的貧しい8つの部族が一斉蜂起したこの戦争は、
    さすがに苦戦を強いられてしまった。

結局この戦いは、戦闘に勝ったローマが大幅な譲歩をしたことで完全に収拾する。
戦役の二年目にあたるBC90年の冬、ローマは「ユリウス市民権法」を制定、
同盟国に暮らす市民がローマ市民権を自由に取得できるようにした。

かってガイウス・グラックスが市民権改革を提案したのは、30年前のこと。
人間とは、厳しい現実を目の前に突きつけられてしか改革はできない。
しかし、この市民権を開放をしたのは大英断であったと言うべきである。

ースッラの登場と改革ー

マリウスはもともとローマ市民権さえ持たない出自で、軍団畑をたたき上げで
のし上がってきた。そして40歳でユリウス一門のカエサル家の娘と結婚する。
カエサル家はローマでは2流の家柄だったが、これで名門につながることになる。
マリウスが48歳のとき、北アフリカで問題が起こし、ハンニバル戦役時代に
ハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスと同盟して戦った騎馬民族
ヌミディア王国がローマに敵対する。この戦闘に副官として参加し、功を上げた
マリウスは執政官に当選する。

マリウスが職業軍人を生んだことによって、ローマ軍団の私兵化が問題になる。
その後のポンペイウスカエサルが軍団を自由に動かせ土壌を作ったことになる。
その後暫くは平穏な時代を過ごしたローマだが、市民権問題にことを発した
同盟者戦役がおこる。これは、内乱というにふさわしい戦役であった。

しかしこの間に小アジアの勢力であるポントスがローマに反旗を翻し、ローマ領に
侵攻。同盟者戦役を和解で切り抜けたローマは、この戦役で功のあったスッラに
オリエント戦線を担当させようとしたが、マリウスがこれに抵抗した。
スッラはイタリアを抜け出し編成中であった軍団を擁してローマに進軍。
これを制圧。武装クーデターによってローマを制したスッラだが、
彼は私利におぼれることなくオリエント戦線の重要さからギリシャに入る。

しかしローマの後をたくしたキンナがまたもや反旗を翻しマリウスは復権し、
ローマに戻った彼はスッラ派の人々を片っ端から処刑をする。その直後に
マリウスは病死。あとをついだキンナは小アジアにローマ正規軍を送る。
一方スッラはギリシャで侵攻してくるポントス軍を数度に渡って破り、
陸路小アジアに進撃し、ローマ正規軍を打ち破る。

このようにしてスッラは小アジアの安定とギリシャの制圧を完成。キンナは
スッラとの決戦をギリシャで臨み、2年の戦いの後にスッラの勝利に終わる。

そして今度はスッラがマリウス派勢力を処刑していく。
当然マリウスの甥でありキンナの娘の夫であったカエサルも目標にされます。
当時カエサル18歳。しかし若年で何ひとつ政治活動をしていなかったことを
理由に度重なる助命嘆願にスッラも仕方なく承知する。この時、スッラは 
”君達にはわからないのかね。 あの若者の中には100人ものマリウスが
いることを”といったという。

スッラの条件はキンナの娘との離婚だったが、カエサルはこれを拒否。
カエサルはイタリア中を逃げまわり、ついには小アジアにまで落ち延びる。
スッラは様々な改革をしたが、元老院の強化こそがローマを栄えさせると
考えて、それに沿った政策をとる。

後年2流の家系であったカエサルが、妻の血筋の庶民派として地位を
確保していったのは当然のこと。

名門貴族の出身ならば元老院への道は開かれていたが、
平民貴族や平民出身者にとっては護民官から元老院に出馬が道であった。
ローマの重職は元元老院議員であることが暗黙の了解であった。
しかし次第に大きくなる護民官の力がローマの弱体化を招いたと考える
スッラは、これを押さえ込んだ。

スッラは私利私欲の少ない人で、
58歳で引退後は別荘で暮らしながら死んでいく。
           i (ω・`) bai  
・・・・・・・
2005年07月22日(金)
1571, 五稜郭

幕末の混乱期、軍艦・開陽丸を駆って官軍と戦い蝦夷地に共和国を樹立
しようとした男たちがいた。この時期、オランダに派遣されていた榎本は帰国、
同じ幕臣として勝海舟の幕引きに反発。新政府に不満を持つ幕臣新撰組
土方と合流して未開の地・函館の五稜郭に共和国を樹立する。

そこで、官軍の参謀に就任した薩摩の黒田了介(後の内閣総理大臣黒田清隆
率いる軍と熾烈な戦いを繰り広げる。その戦いの中で、榎本の人柄を知った黒
田は全面降伏を勧め彼の命を救う。しかし土方など幕府方の残党は殆んどここで
最期を遂げる。やがて刑期を終えた榎本は新政府のロシア交渉特使として活躍する。

阿部公房が「五稜郭」という小説で、榎本武楊が政治的に江戸幕府の残党を
纏めて整理する役割になってしまった矛盾を書いている。 学生時代に読んで、
その複雑多層の立場を初めて知った。

攘夷か開国か、尊王か佐幕か倒幕か、公武合体か。それらの混沌とした中で
維新の歴史は作られていった