つれづれに

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下にコピーした内容を読んでみて、、いつも感じる奇妙な感覚。
たしかに8年前の私が、その時の思いをそのまま書いた痕跡が
残っている。そして、それが現在そのまま、考えている私と、大して
変わっていない。そして、何年後に、この文章を読んで、感じる、
この気持ちも同じだろう。 これを、先日に読んだ本に、<私>
<人格><セルフ>として、解明している。これを現在、書いている
<私>。そして、8年前の私こと、人格を、読み返しているセルフ。
この3つを見つめている<ハイパーセルフ> も、どこかにいる。
 それがビュアーだったり・・・ 



・・・・・・・・
2008年02月08日(金)
2501, 無くてはならぬもの -8
  おはよ~(>ω<。)!!
人生を振り返ると全く、恥ずかしきことのみ多かりき!である。自分の輪郭が
ハッキリして、その卑小性に独り嫌悪感に陥る瞬間が多くなる。これが人生の
秋口の心の風景。 早くいえば基礎教養は足りなかったのである。
俄然と読み始めたのが20歳位だったのが遅かったためだろうか。40年以上は、
一日2~4時間は読み続けてきた。しかし思春期の読書量が足りなかった。
それも、家庭文化のレベルということもあるが。しかし子供のころから葬式など
法話を聞き続けてきたし、書画骨董の一流品を見続けてきたし、それでも両親や
兄姉から色々な教えを受けてきたし、生き様を見てきて、このレベルである。 
独り溜息をつく日々である。 後は、どう自分と折り合いをつけるしかない!
ただ面白かったが・・・この一点が救いである!若き時の自分の声のように当時
の沁みた言葉が、本を通して語りかけてくる。
 P-37 アンドレ・ジイドの『狭き門』という小説は諸君のなかにも読んだ
人が多いだろうと思うが、狭き門という題は聖書の有名な言葉からとったもの。
エスの言葉。「狭き門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。
そして、それを見いだす者が少ない」(マタイによる福音書七の13-14)
この「命にいたる門」ということも、ほんとうの自己を見いだす門という意味。
私たちはすぐにあの夏目漱石の『門』という小説を思い起こすであろう。
あの漱石の『門』の主人公は、友人の妻を奪って自分の妻にするのであるが、
そのエゴイズムのなかで苦しんだあげく、鎌倉の円覚寺に行って坐禅をして
悟りをひらこうとするが、どうしても救われないでまた門をあとにして舞い
もどってしまう。諸君は、ほんとうの自己を見いだすために、どのような門
からはいろうとされるだろうか門はたくさんあるようだけれども、他に道は
ないのかもしれない。「求めよ、されば、与えられるであろう。
捜せ、されば、見いだすであろう。門をたたけ、さればあけてもらえるであろう」
(マタイにょる福音書七の七)とまたイエスはいうのであるが、道を求めるという
心を起こすことが先決問題であるだろう。
 P-38 「何事も人からしてほしいと望むことを、人々にもそのとおりにせよ」
多くの人が、この黄金律を人生のモットーにして生きてきたことを告白している。
自分が幸福になるために、人から多くのことをしてほしいという思いである。
それなら、人々に対してもそのことをしてやるべきである。人から親切にして
もらって嬉しかったら、人にも親切にしてあげるべきである。
 (字数制限のためカット 2012年2月日)