つれづれに

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最近、やはり古希(69歳)から70歳にかけての峠は、一つの難所と
いう感がする。 65歳過ぎると一年一年、身体が弱っていくのが分かる。
だから、何事も出来るうち、したい時に、しておくべきと実感する。
老いたら家内と世界一周と思っているのは甘い。 老いる前だから
良いのである。 気力、金力、体力、知力の4つが合わさってこそ、
何事も面白いのである。まず、足腰の衰えが、気力を萎えさせる。
 とはいえ、頭だけは冴えわたり、興味だけはある。

 昨日、兄嫁の御父さんの葬式に参列したが、同じ年代の長男が
喪主として挨拶をしたが、年相応の風貌。 他人からみれば、
私も、同じ年代なら、同じか、より老化して見えるのだろう。
 老いた自分の自覚が全くないのが、困りもの。
何か、50歳半ばから、少なくとも精神だけは、そのまま。
美人をみれば心がトキメクし、美味しそうな料理を食べたくなる。
何か、遣り残してきた感は、ほぼない。「こんなものだろう人生は!」
が、いま時点の実感。
 
・・・・・・
2784, こんな経験したことありますか?
2008年11月18日(火)
 これに近いことを、私は何度も経験している。人間の五感が受けるのは、
普段動いている五感の範囲のことでしかない。犬は数万キロの彼方の
子供の泣き声を感じ取れるし、象は遠くの仲間の音波信号を感じ取れる。 
以下の内容は不思議でもなんでもない。普段は動かなかった感覚が動いた
だけのこと。絵に残った痕跡が著者の心の奥の何かに反応し、
墓に感応しただけ。でも、何ともいえない著者の心の内が顕れている。 
 ーー
*うぶだしや*         (うぶだしや=遺品買取屋)
「大正の末か昭和初年でしょうか?職業画家のものにはみえない」それらは
令壌の死をいたむものだった。ほかにもたくさんの政界の名士が弔辞をよせていた。
令嬢は長く病床にあッたという。肺を病んでいたのだろう、と、私は思った。
友達が学校に通い、結婚していくなかで、令嬢は、ずっと病床にあって、
死病に向きあっていたにちがいない。思えぱ、日本画に描かれているものは、
彼女が送ることのできなかった女の幸せな日常ばかりであった。
彼女は、死にゆくなかで、絵筆をとり、現実には、自分が送る二とのできない
憧れの生活を描きつづけていた。そのせいか彼女の残した日本面はどこか
畏様な気配がただよっていた。日本画は通信添削で習っていたのか、絵の裏に、
師匠の画評が書き込まれていた。 彼女の遺品のなかに「磨かずぱ玉も鏡も
なにかせむ学びの道もかくこそありけれ」と書かれた額があった。 
昭和皇太后の肉歌であった。私が、それをながめていると、うぶだし屋が、
そっといった。
「これ!もう売ったんですか?一枚だけでいいですから、ぼくに売ってください!」
「ようござんす。まだ商売になっちゃいない。一番、いいのをひとつ選んで
おくんなさい」うぶだし屋は、大きくうなずいた。うれしそうであった。
私は、髪をたばねた少女が着物にエプロン姿で立ち、カフェで給仕をしている
絵を一枚えらんだ。お代は二千円。このうぶだし屋は、ただ同然で品物をゆずる
ときは二千円ときめていて、だまって指を二本たてる癖がある。
私はその絵を大切にした。箱にいれて、しまっておき、ときどき取り出しては、
うっとりとながめた。画中の女は、美しいというより、どこか寂しげであった。 
だが、あるとき、ほかの骨董屋に、こんなことがあったと、右のいきさつを話
したら、その骨董屋の顔色が変わった。「先生、そういうお品はいけません。
それ死人の念のこもった御品です。 悪いことは申しません。御縁が遠くなり
ますから、ご供養のうえご処分なさい」たしかに、それからというもの、
私はいくら結婚したいと思っても、まったく、縁がなかった。
(やはり、あの女の絵のせいではなかろうか…と思ったが、どうにも絵を
捨てられない。 捨てられないと、こだわるほど、悪いことが起きそうな予感。 
ところが、しばらくして、信じられないことが起きた。ある妙齢の女性から
花見の誘いをうけた。 顔は知っていたが、それほど親しいわけではない。
なのに突然、電話がかかってきて、「青山墓地の桜が縞麗だから二人で見に
いきませんか?」という。こういうことはまるでなかったから、素直に、
誘いにのって、いくこことにした。桜は美しかった。
墓地に眠る人の命を吸っているから、美しいのだろうと思っった。
私は、はずかしいから地面をみて、女性のうしろを、とぼとぼついて歩いた。
私は女性の顔をちらりとみた。青白い気品のある横顔であった。
体が弱いのか、のどくびを覆い隠す洋服を着ている。
しばらく墓地をみてまわったところで、女性がいった。「桜、きれいね」
 そのと教私は背後になにか気配のようなものを感じた。目をあげると、
そこには、信じられないないものがあった。あの日本画をかいた乃木坂の
令嬢の墓石であった。「享年二十七歳、昭和九年没」と刻まれていた。
地の底から、女が、じっと、こちらをみているような気がした。 
気味が悪くなって、それっきり、その花見の女性とは会わなくなった。 
二十七歳で死んだ女の絵は、いまも私のもとにある。
--
私なら、花見の女性と深い因縁があると考え、一歩踏み込む。
そして、その墓の若い女性を自分の守り本尊にし、毎年、花見に来て、
墓に祈るだろう。 いや、感謝をする。 何で気持ちが悪いのだろうか? 
まあ、いいか! これも解釈の一つでしかないが。 
桜には霊気が満ちているというが!

・・・・・・・・・・
2007年11月18日(日)
2419, 『楽天主義
    *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!
  
     『楽天主義』ーヘレン・ケラー著  
                     ー読書日記
この本を図書館で見つけ、数ページ読んで、その行間から溢れ出てくる
光のようなメッセージに驚いてしまった。三重苦を乗りこえた偉大な人物
ということは周知のことだが、実際に彼女の本を手にするのは初めてであった。
それも何と彼女の処女作で、100ページ足らずの読みやすい本である。
この一冊を、20歳前に読んでいたら人生が変わっていただろう。
三重苦の中で、言葉の持つ意味を深く理解したのである。
もしかしたら、今年の最高の本といってよい本だろう。
   この本はもう廃刊になっていて、中古本で二倍の値がついていた。

ーその概要といえばー
この本は、ヘレン・ケラーが1903年、大学在学中に初めて書いた
処女作である。ヘレンは三重苦の身でありながら、88歳の生涯を障害者の
救済のために力強く生きた。彼女は生後19ヶ月の時に熱病に罹り、聴力と
視力を失い、三重苦の生活を強いられた。サリバンという女先生と出会い、
読み書きを覚え、大学を卒業後、世界各地で講演したり福祉活動を行い
「奇跡の人」と呼ばれた女性。ここで彼女は「楽天主義者とは、善を信じ、
輝かしい未来の到来を確信し、明日を今日より美しいものにするための
努力を重ねる生き方」と述べている。楽天主義者は、信じ、試み、そして
目標を成し遂げる。楽天主義こそいっさいを成功に導く信念である。 
希望がなければ何ごとも成就するものではない。

人生の目的は何か、などと堅苦しく考える必要はない。楽しく生きて、
この世を去るときに、「生まれてきてよかった。幸福な人生だった」と
振り返ることができたら、その人は人生を楽天主義者として過ごした成功者。
将来に希望をもって努力することで幸せは得られるものである。逆に、
悲観的な考え方のクセがある人は、幸せになりにくく、不幸になりやすい。
幸せになるためには、悲観的な(不幸になる)考え方をストップし、
意図的に楽観的な考え方をできるだけ心がけたほうがよいのである。

ー彼女は、ここで次にように述べている。
「幸福は心の持ち方の問題で、外見から他人が判断できるものではない。
私は、盲・聾・唖の障害者でも、世間の常識に反して自分は幸福である、
という考え方を信条としている。どんなに幸せそうに見えても、本人が
幸せと思っていなければ、その人は幸せではありません。どんなに
不幸に見えても、本人が自分は幸せと思っていれば、その人は幸せである。
『自分は幸福であるという考え方を信条としている』という強い意志と、
意図的楽観主義こそが自分である。」

ー評論家の小林秀雄は彼女を評して以下のように書いている。
「人生の深淵を覗いて、ニーチェは大声で喚めき、ランボーは静かに
引き返した」(ニーチェはドイツの哲学者、ランボーはフランスの
天才詩人。ともに人間の悪徳をのろい、生を受けたことの悲劇を説く)
 もしヘレンだったら、こう述べたであろう。
「人生の深淵を覗き、さらにその奥深く、神の善の世界があることを知り、
幸福と歓喜に打ち震えた」と。 ー

未来に用意された、光に包まれたバラ色の善の世界。
その存在を確信するゆえに、ヘレンはその人生は幸福に満たされて
精一林に生き、その希望を人々に与えて生涯を送ったのである。
 ー目次ー
第1章 私の楽天思想
 (私の幸福;思想の輝き;現実に立つ;善の世界;働く喜び;信じること)
第2章 楽天主義の世界
 (哲学との出会い;心の支え;神の世界で
         ;楽天主義の根拠;教育の進歩;寛容の精神)
第3章 楽天主義の実践
 (厭世主義者;楽天主義の力;楽天主義の文学;神からの贈り物;
  光明を招く;キリストの福音;未来への確信;私の信条)
             
             ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
・・・・・・・・
2006年11月18日(土)
2055, あたりまえなことばかり -9
                  読書日記
            (~Q~;) おはよう~~            
 自分とは何、これは考えても考えても尽きぬ問である。
孤独という実感の先にある「宇宙の真っ只中に浮いている意識」
が真我であるのか? 以前も書いたが、「禅」の字は「単を示す」と、
新井石龍禅師が語っていた。「宇宙に誰もいない、ただ一つの生命」
これを実感するのは死期を悟った時。これが苦しいのか、苦しくない
のか経験したことが無いので今のところ解らない。恐らく、あの
バンジージャンプの板の上に立った実感が近いのだろうが・・
しかし、あの落ちていく瞬間の覚醒の意識が最後の見納めとして
周囲を見渡す時のそれなのであろうか。私の場合の「私」は、
このHPそのものである。このHPの先にいる得体の知らない
「これ」である。デカルトのいう「考えている、『!』『?』」。
     たしかコギトと表現していたが・・考えている、
思っている、思い出している、想像している、これであるー> 
  ( ̄ω ̄;)!!エッ `s(・'・;)エ-トォ? .. (^┰^;)ゞ
オレ馬鹿 ?(゜_。)?(。_゜)? (>△<∥)ワカラネ~
(-◇ー;)!! ソウカ(・_・ゞ-☆ (/--)/ ドウデモ

ー孤独とは苦しいものなのか -?

 *自分とは何であろうか

たとえば、自分とは自我でなく、この肉体でもないとしたら、
同じ理由によって、他者とは誰のことであろうか。他者もまた、
その自我でもその肉体でもないとしたら、孤独の癒しとして求められる
ような他者とは、自明なものだろうか。孤独であることは、苦しい
ことと感じられるほど確かなものであり得るのだろうか。

自分とは「何であるか」、他人や社会によって知ることができないと
知ったとき、人は自我の向こうに自己をもとめて、船出することになる。
実際に、対社会的形式もしくは機能としての自我など、それ以上のもの
でも、それ以下のものでもない。「私は誰の某です」そう言って挨拶する、
そのようなもの。しかし、自分とはその姓名以上のものである、
そう感じる時、人はそれとは知らず、魂としての自己、その内実に
触れているのだ。このとき、これを観察し、探索するという「孤独な」
作業、これをきらって、安直に他者をもとめに出向かわないことだろう。

魂としての自己、不可解であるという意味において豊かな内実は、
それを知ろうという態度にしか開かれないものである。その探索を
「船出」と言いたくなるほど、なるほど魂としての自己は海に似ている。 
広い、深い、底が知れない。自我による「自分探し」の空虚さを、
玉ねぎの皮むきにたとえる言い方があるが、それとは対照的に、
出合うもの全てが自己であると言いたくなるほど、また、じじつ
言いえてしまうことの面白さがそこにはある。孤独であるということは、
隠棲して自己を見るということは、本来きわめて上等な楽しみ、
一種の甘味な悦びであるはずだ。
--
  *性格とはそれ自体何であろうか?

自分で好ましくない、そうありたくないと感じるにもかかわらず、
そのようでしかあり得ないという当の事実によって、じつは性格とは、
それ自体で自律した存在、自分からは独立した他者ではなかろうか?
自分の性格とは、自分にとっての他者なのではなかろうか。あるいは、
それぞれの性格が、それぞれの魂であるということも可能だろう。
自己は複数の魂から成ると見る視点は、自分の性格がこれこれである、
自分はこれこれの者であると自分で決めつけることから、
自分を自由にしてくれるはずだ。
--
 *「好き嫌い」とは何であろうか

誰かや何かに対する「好き嫌い」、これもこれ自体で不思議である。
「なぜ」好きなのか、「なぜ」嫌いなのか、理屈による説明は、
常にどこかしら後講釈の感じがする。好き嫌いの感情もまた、
自分から独立した他者ではあるまいか。にもかかわらず、好き嫌いの
感情ほど自分に親密で、自分を偽ることができないものはない。
すると、この感情とは、いったい自分なのだろうか、自分でないのだろうか。
感情とはそもそも自分にとってなんだろうか。          
  ーー  
勘定!エンジン、ガソリン? ホンジャ(;^_^A また!
                ーつづく          
・・・・・・・・
2005年11月18日(金)
1690, 僕が最後に言い残したかったこと
                   ー読書日記
「銭道」などのシリーズで売れっ子漫画家の青木雄二の本を手にしたら、
彼の遺書代わりの本であった。死を直前に書いた本で迫力がそのまま
伝わってくる。(二年前に死亡)
図書館で何度か、この人の本を手に取ったが借りる気はしなかった。
金に関して素人向きの内容だからだ。現に、この本もそうだが、死を
前にお金と人生の関係をシビアに表現しているところが面白い。
私は、両親からお金について幼児の頃から話を聞いていた。
耳年増であるが、特に父の死の直前に教わったことは
現在の私の金銭哲学になっている、
 § d^^b  
 ┃  ^namu           
 Э ∬∨∬                (^┰^;)ゞ
 ┃(~∞~)
 ┃( 人 ) ・お金は自分で稼いでこそ価値がある
   ノ   ハ   ・使う楽しみを知らなくては稼いだ価値がない
  ・あの世には持っていけないもの、使うべき時に使うからこそ
   金の価値がある
  ・自分で事業をみつけ、それを楽しめ。
   そのカスがお金として残ってくる。    
   ・:*:`☆、。・:*:`★   
 *この本でなるほどと感じたところを書き出してみた*
 ー最後にこれだけは言っておく。金は貯めるために存在するんじゃないで。
  時間を有意義に使うために金はあるんやで。
  そう、金は使うために存在するんや。
  死んでしまってからは使えんのやからな。それが僕の偽らざる実感や。    
 ー忘れてならないのは、お金自身に価値があるのではない。
  お金を「真に価値あるもの」と交換することが大事だということや。
                      ♪~(=^ε^= )          
 ーサラリーマンの人たちは、定年後を考えて現役のうちから人生設計
  を考えておくことや。とにかく「自分のやりたいことをやることや」
  趣味でもよいし、アルバイトでもよい。大きな器をつくるには、
  時間がかかるんや。 定年では遅すぎるんや。では、何をやるか。
  それはあなたが考えることや。特に奥さんとの仲を良好にしておきなさい。
             (o;´=ω=)o)) ドキッ!
 ーある人が一千万円の資産を持っていたとしても、厳密な意味で、
  「持っている」というわけではない。 一千万という資産が、ある
  人間を「自らの管理者」として雇っている、といっても論理的に
  矛盾はありません。実際に、その人が死ねば、その一千万円の
  資産は自分の管理者を変える。ただそれだけのことや。(◎-◎;)!       
  人間はいずれ死にますが、お金はこの世から無くなることはない。 
 ーこれから先もお金は大切であることに間違いはありませんが、
社会の主人公は、人間でなくてはならないのです。お金や物の所有が
一時のかりそめのものである以上、人間が完全に勝ち取ることが
できる所有物は知恵ということになるでしょう
                      ヾ(^-^)ゞbaibai    
・・・・・・・  
2004年11月18日(木)
1325, 小型のヒト 

以下は、10月末に一斉にマスコミに流された内容である。
「新種」のヒト化石を発見、インドネシア東部フロレス島
  2004.10.28 - CNN/REUTERS/AP
(字数の関係でカット、2008年11月18日)

・・・・・・・・・
584, ーこころのかぜをひいたら      
 - 2002年11月18日(月)
  ー宗親ー   
                   
そうかい こころのかぜをひいたのかい
こころのかぜは からだのかぜとおなじだよ
こじらせると はいえん まんびょうになってしまうんだ

そのときは おいらの いざかやにおいてよ
ぶるーの こーなーにおすわり
そこはかぜをひいたひとの せんもんこーなーなんだ

そこで たまござけ のむといいよ
そして にんにくのまるあげを ちゅうもんするのさ
かえりに もうひとつ にんにくあめを おみやげにあげるよ

そしたらすぐに へやにまっすぐおかえり へやをあっためて
そうそう ねることさ

こころのかぜは さむさに とくにゆわいんだ
ひえたこころを まずあっためてやらなくてはね
そして つかれをとることさ

こころのかぜは からだより びみょうなんだ
とくにさむさにね 

だれにも あわないほうがいいよ
ひとにうつしてしまうからね 

ひとり ふとんのなかで なんにも かんがえないで
ゆっくり ねることさ ゆっくり つかれをとることさ 
そして あせをたっぷりかくといいよ
はやく なおそうとしないのが こつなんだ

こころのかぜは こころのかぜは 
こうねつになるからね きをつけたほうがいいよ

こころのかぜは かみさまのさいん
うすぎを しているよという さいんだよ
わるいばしょに いるという さいんだよ

・・・・・・・・・
[231] ベトナム旅行記ー3
-偽100ドル事件ー    2001/11/18

今回の旅行で面白い事件に出くわした。 明らかに観光客を狙った
偽100ドル詐欺事件だ。日本では大事件だが、ベトナムでは日常に
行われているのだろう。三日目になるが、写真に載っているハロン湾
食事を終えた頃、ベトナムの刺繍を売りに来た。
私達はもちろん買うわけでなし、しかし何人かが買っていた。
4人席の目の前の同行の2人の老女がそこで買い物をしていた。
確かその場面の写真を撮っていた。現地の金とドルの交換を頼まれ、
親切心で替えてやったのだ。それも人の良さそうな老女を狙ったのだ。
そして最終日の帰る日に、その目の前の年寄りの一人がデパートで
100ドル札の引き取りを拒否された。それを添乗員が偽札と疑い銀行で
偽札と判断した。添乗員が言うにはカラーコピーの幼稚なシロモノ。
観光客の老人を狙ったのだ。日本では大事件だが、ベトナムでは単なる
日常の軽い詐欺なのだ。現地の代理店の責任で、その100ドル札は
彼女に本物と取り替えられたが。日本とベトナムの差を垣間見た。
何人かがその詐欺の女の写真を撮っていたため恐らく警察にマークが
されるだろうが、日本ではありえない事件である。