つれづれに

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 サバンナ(リタイア後)の世界になり、こちら側の住人に落ち着くと、
森林の中の自分の世界をフラッシュバックなどえ思い返すと、
つくづく赤面をすることの多きに心の傷が疼く日々である。
 現在読んでいる、「エリック・ホッファー自伝」を読み返すにつけ、
私は何をしてきたのか?と・・・ 
 まず、普通であることが、大事のことだが、この普通であることが、
大嫌いと生きてきた。しかし、サバンナは、普通であることで、
外敵?から、身を隠さねばならない。 どの道、すぐに死ぬにしても。

 以下の文章の将来の不安など、その将来が限られてくると。
そんなもの、どうでも良くなる。今日一日、無事平安なら。



・・・・・・
1550, 将来の不安-2
2005年07月01日(金)

  ー不安を哲学するとー

我われは、過去に対しては悔恨があり、未来に対しては、不安が付きまとう。
といって、まだ来ぬ未来を不安がっていても仕方がないし、
反対にノンビリ過ぎるのも問題である。
最悪を想定しておくことも必要であり、
「大丈夫!」という言葉を口ぐせにしておくことも、
一つの解消方法である。
不安の対象に対して考えつくしたあとで、
「その時は、その時だ」と放念することも時に必要である。

青年期の日記を読み返してみても、その時点時点で不安感が大きく口を開けていた。
不安は一生我々を悩ますものだ。
我われを脅かす「特定の対象」に向けられたものが「恐れ」であり、
「不安」は漠然とした恐れの感情をいう。
その恐れに対して、打ち勝つ克己心が勇敢、勇気ということになる。

前にも、「将来の不安」という題目で書いた。
不安は目先の変化に対する不適応から生じる心理の揺れと書いたが、
目的意識の希薄さも不安心理の一つである。

その不安感に対して、哲学者がどのように考えてきたのだろか?

ーある本からの抜粋をしてみるー

・先ずは、キリスト教の初期に神に対する畏敬や罪に対する恐れを不安とみた。
 その不安を克服することが永遠の生を得るための前提であるとした。
・次には、19世紀になって、キルケゴールが不安の心理分析をおこなった。
 その後、ハイデッガーサルトルなどの実存主義者やフロイトなどの
 精神分析で中心概念になった。
 キルケゴールは不安感を罪の問題に結びつけて考察する。
 アダムとイブの原罪から,人間は皆罪を持って生まれてきたとして、
 罪の状態に陥る可能性の中で罪あるものとなると。
 不安とは、悪魔的なものが持つ妖しい魅力に堕落できるという
 「自由のめまい」であり、それは堕落の深遠を覗き込む時の感覚に たとえられる。
 サルトルは、これを「めまいが不安であるのは、私が断崖に落ちはしないか
 という恐れだけでなく、私みずからが断崖に身を投げはしないかと
 恐れるかぎりにおいてである」と考えた。
 ひとは天使や動物と違って、可能性に対してたえず不安を覚える。
 それは人間がこころと身体との総合としての精神という特殊のあり方を
 しているからだ。つまり人間はその本性上、不安になりざるをえないのだ。
 不安の中でおのれの罪を自覚して、はじめて目覚めた精神となる。
 その絶望的な不安にかかわらず、なおも自分自身に真剣であり続け、
 ひとりの単独者として信仰へと飛躍することによって、不安から解消され、
 真に自由になることができる。 キルケゴールは不安の心理を分析する
 ことを通して、人間のあるべき姿を探求した。

ハイデッガーは、不安とは現存在として最も根本的な気分であるとした。
 彼によると、現存在は世界内存在として理由もなくこの世界に投げ出され、
 そのつど、何らかの気分に規定されている。
 日常性の中に埋没されて生きている非本来的あり方から、 本来的自己を
 呼び覚ますきっかけとなるのが不安である。 とりわけ「死」の可能性の前に
 しての不安において、現存在としての根源的開示がはじめて生起する。
 我われはいつか死ななくてはならない。 「この私」の死を誰も変わってはくれない。
 その死を痛感する時、人は日常から引き離され、単純化し、 自分自身と
 対面せざるを得ない。その死を見つめることによって、その可能性に「先駆」
 することによって、本来の自分を取り戻すことができる。おのれの実存を
 たえず知覚させてくれる気分として「不安」を考察した。

・精神医学において、フロイト神経症と不安の関係を探求した。
 はじめは、不安を性的不満足にたいする生理学的な反応とみなしていた。
 しかし後半は不安とは自我に対する危険を知らせるシグナルであり、
 それを回避するための防衛機制を作用させる感情であるとした。

ーー
不安感は誰にもあるが、その度合いであろう。不安感のないのもおかしな
ものであるし、強すぎて何もしないのも問題である。我々の究極の不安は、
やはり「死」である。といって、死ぬまでは生きているのも間違いのない事実である。

キリスト教的な神への原罪意識
・精神を持ったためにあらゆる可能性を持つ不安
・死への恐れ
・自我に対する危険のシグナル
等々、を不安の根本原因とみている。

これらの不安を抱えて生きていくからこそ、人生は面白いのだろう。
所詮、不安感からの解放はないのだ。
それならば、精神の属性として仲良くしていかなくてはならないのか。

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・・・・・・・

2004年07月01日(木)
1185, 異境・秘境ツアーレッスンー4

秘境ツアー先の現地の日本人ガイドを見てみると、多様な人生が垣間みえる。
それぞれの色いろな事情を聞いているとドラマそのものである。

・日本でたまたま、その国の人と知り合って結婚、移り住んでいるケース。
・その国の留学滞在や、連れ添いが仕事で駐在しているケース。
・旅行をしていて気に入り、一度帰ったが忘れられないで、何とか手続きをとって
 住み着いたケース。
・世界中を数年単位で渡り住むことを、自分の生き方にしている人。
 等々さまざまである。
日本人がほとんど行かない現地の人ほど、日本人に会うと、そして日本語が話せることが
嬉しいようである。

・最近の変わった人といえば,
去年行ったアラスカのマッキンレーの伊藤さんという人だ。
60過ぎの、見た目はエスキモー人そのものであった。
若いときにアラスカに渡って、そのまま現地人に同化してしまった。
観光シーズンはガイド、それ以外が猟師をしているという。
「アラスカのエスキモーが、たまたま間違えて日本人に生まれたきた」といっていた。
この人の存在は私も本で何回か出てきていたので知っていたが、まさか会えるとは
思ってもいなかった。
狼などの猟の話が、リアルで原始的で非常に面白い。
30数年前の「3億円強奪事件」の犯人ではないかと先年、週刊誌に騒がれた人物でもある。
嬉しそうに、その逸話を話していた。

・やはり去年の、アイスランド若い女性ガイドは、「旅行先のパリで知り合った
白人男とたまたまアイスランドに来て数年滞在している」
といっていた。結婚をするかどうかは解らないとか。
今風の若い人は、こうなんだと驚いたが、日本人と思わなければ如何ということはない。

イスラエルのガイドは、以前にも書いたことがあるが、ヘブライ大学出で
神学者くずれの60歳位の人。
癌で何時死ぬかわからないといっていた。
日本にいまさら帰っても、友人もいないし、現地で死ぬかもしれない寂しさを10日間、
切々と話していた。自己証明をしておきたかったのだろう。
日本人はイスラエルに来ることは殆どないという。
そのためか、マイクを離さず「自分の過去」をこと細かく話しまくっていた。
イスラエルの地で、自分が消滅する不安がたまらない」という叫びが心の底から
響いていた。旧約・新約聖書の地を巡りながら、ガイドの心の十字架を背負って
生きている姿が印象的であった。

・人間的と思ったのは、ニュージーランドの70歳ぐらいの女性である。
若い時にニュージーランドの豊かさに憧れ、移住した。
ところが、その直後から日本が高度成長になり、この国より豊かになってしまった。
そのまま日本に住んでいた方がよほど豊かな生活ができた、無念であるという言葉が
何か微笑ましく、しかし悲痛な叫びに聞こえてきた。

南アフリカの50歳位の女性はもっと切実であった。
日本の商社でイギリスの男性と知り合い結婚、イギリスに行ったが、仕事の関係で
ケープタウンまできて生活をしている。
日本人の墓は一つしかなく、彫られていた年号は明治末期という。
その女性に何があったのだろう、推理するだけでも面白いが。
みていて寂しさが墓から伝わってきたという。
若い時の海外生活はよいが、歳を重ねたそれは厳しいという。
自分の子供の名前を日本名前にするか、イギリス名にするかで夫婦で争うという。
死んだ後、自分の存在が子供の名前しか残らないからだという。

ツアーはよい、絶対に個人では行けないところまで、行けるからだ。
それも安く、安全に。
[皆で行けば怖くない]ということか。

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2003年07月01日(火)
818, 12の宮

ある本に面白いことが書いてあったので抜粋する。
  ーーー
昔読んだ本の中に、こんなことを書いたものがありました。
うろ覚えなのですが、こんな内容でした。
私たちには「12の宮」があり、その宮には必ず一つの黒丸がある、というものです。
「12の宮」というものを私なりに作ってみました。
・家族・家系的な6つの宮に対して
・自分にかかわる6つの宮があるような気がします。

ー家族・家系にかかわる宮として
一番目として家系運
2番目として親運
3番目として子供運
4番目として兄弟運
5番目として親戚運
6番目として配偶者運ー結婚運ー結婚できるかどうかも含む

ー自分運として
7番目として金銭運ー出入れする金ー短期スパンの金
8番目として財産運ー蓄積された長期スパンの金
9番目として仕事運
10番目として健康運
11番目として友人・先輩運
12番目として異性運
以上は私が考えたものです。その本の著者が考えたものと違うと思います。

この「12の宮」に必ず1つの黒丸がある。つまり瑕疵(キズ)があるという考え方です。
その黒丸は「12の宮」のどこかにあって、どこかが良くなると必ず移動して、
この「12の宮」をぐるぐる回っているという考え方でした。
実際こういう構造になっているかどうかは別として、この考え方で、いくつかの問題や悩みや
苦しみを解決したことを覚えています。
つまり人間は、どこかで悩み苦しんでいる、という考え方です。・・・・・・・・
・・逆にいうと一つの黒丸によって、他の11の宮が守られているという考え方ができた
わけです。私の場合、障害を持った子供がいます。その子供が私の家に生まれてきてくれた為に、
他の11が守られているという考え方です。その障害を持つ子供がいるお陰で、他の11の宮が
穏やか和やかなもので推移していることが解った瞬間、子供に心底手を合わせることができました。
この黒丸に本心から手を合わせることができた瞬間に、黒丸が何一つなくなってしまう、
カニズムを発見したのです。
 ー「幸せの宇宙構造」ーより
 ーーーーーーーーーーーー
 以上である。
すぐに論理を発展したくなるのが私の癖だ。
これを読んでいて、黒丸があるなら白丸が有って良いのではないだろかと考えてみた。
「白丸と黒丸が12の宮を循環している」というほうが面白い?!と。
それと、運となると、何かいいたくなる。
「白丸に気がいっている時は運が良いと思っている時、黒丸に気がいっている時は
運が悪いと思っている時」と考えればよい。
白丸・黒丸のルーレットとして自分を冷静に見ていれば良い。
運とはある決断・判断に対する結果である。
それを総称して運が良い悪いと思うことである。
また運は、親や兄弟や子供や配偶者や友人異性などの「人間観」に由来するのではないだろうか。

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2002年07月01日(月)
454,面白かった!!

ワールドサッカーが終わった。
やはり世界のトップが集まる試合は面白い。
サポーターと一体になった選手が段段燃えていくのがよい。

その時の勝負のアヤが左右するのが特に面白い。
優勝候補のフランスとアルゼンチンが早々に敗れるという
のも、勝負のアヤであった。

ワールドカップというのがこういうものだという事が、
理解できたように思った。
実際のところサッカーの面白みがいま一つピンとこなかったのが、
これを契機に好きになれそうだ。

勝戦が終わったときの,勝者と敗者の差の大きさもそのまま
画面に出ていた。やはり一国でやるべきというのも確かであった。
終戦で会場の勝者に対する会場のシラケぶりには世界に対して、
この国のセンスの低さを曝け出してしまった。

韓国の熱狂と比べ、途中で負けてしまった事を差し引いても
盛り上がりが少なかった事は否めない。

ブラジルが勝ちあがっていくプロセスでやはり強かったようだ。
南米の予選ではやっと勝ちあがってきたという。
彼らも実際優勝できると思ってなかったことも含め、喜びは最大級だろう。

TVの前でこれだけ熱狂するとは思っていなった。

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2001年07月01日(日)
[70] 夢についてー2

何か欲しい!とか、どこかに行きたいという夢と
夜見る夢と共通点が非常に多いという。
トイレにいきたいと探している夢は目を覚ますと殆どトイレにいきたい状況である。

次の夢は不思議な不思議な夢だ。
‘母とか父が死んだ後自分のなかに生きている!’とかいうが、
少なくとも私の中で事実の世界だ!夢で事実生きている。

痴呆症になり幼児に退行した幼児に変身した母が出てくる。
それは正しく母が私の中で事実生きているのだ。

次にまた以前書いた文章をコピーしておく。

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H0511妙な夢―(?)

 ある夜半、自宅のどこかで音が聞こえた。
泥棒ではないかと起きようとするが半睡眠状態で身体が動かない!

起きよう起きようとしているうちにスーッと身体が起きて廊下に出て、
居間に行き、台所を通り、寝ていた部屋へ一周してもどってきて布団に入る。

ところが、ところがである。自分の肉体は反対側の向きでねている。
まずいと思い反対側にねがいって自身の肉体と一緒になるという夢(?)である。
これが単なる夢か幽体離脱七日まだわからない。
 
 また、こんな夢(?)もみた、明け方、自分の身体が1.8m位浮いて
(そのまま水平にいて)下をみると自分の肉体が下にみえる!
 直観的にまずいと思い下にもどろうとするがもどれない。かなりうなされていた
と思うが?何年か後に誰かにきいたが、霊現象の一つで、よくある事だそうだ。

こんな事もあった、これは夢ではないが部屋の天井や床の下四ケ所で
次々と音がする。しかし夢ではなかった。
ところで当社の税務事務所の応接間でも同じ現象があるそうです。