つれづれに

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 今日のYoutube
https://www.youtube.com/watch?v=GwLZ8UvN4_g

以下は、6年前の文章で、当時の平均顔をネットで調べて、
ここに掲載したことがある。久々に調べると、
https://teachme.jp/contents/8987 があった。
どうでも、よい歳になったが・・・


::::::

2988、「平均」顔は美しい
2009年06月10日(水)
  「世界は感情で動く」 マッテオ・モッテルリーニ著   読書日記
  * 面白い実験 ー「平均」顔は美しいー
 世の中には面白い実験をする研究があるものだ。目・鼻・口・額などの部分を、
それぞれ平均して合成した顔が、その中の誰よりも美しい顔になったという。 
考えさせられる結果である。国民の裁判制度が始った現在、特に考えさせられる?。 
アメリカで長年にわたって取り入れられてきた裁判員制度だから、裁判長の1人の
判断より公平かつ、信頼度の結果があるからだ。それと平均顔の方が美しいと
同じと考えるのも何だが、裁判員制度も悪くはないような気がする。 
秋葉原のワシントン・ホテルで若い女性の幽霊の顔が浮かんでいるのを
見たことがあるが、これを読んでいて、あれは数千人、いや数万人の平均顔に
思えてきた。ノッペラした何の特徴もない顔だった。
 ー まず、その部分を書き写してみる ー  P-185
 テキサス大学の心理学者ラングロイスとログマンは一九九〇年、「平均的な」
男女の顔は、その「平均的な」顔をつくるのに使った個々の人びとの顔の誰よりも
美しいと判断される、という結論に達した。二人はこの実験のために、336人の
男子学生と214人の女子学生の顔写真を集めることからはじめた。
その後、男女それぞれのグループから無作為に96枚を選び、そこからさらに3
2枚から成る部分集合をつくった(男子の集合が3つと女子の集合が3つ)。
これをもとにして「平均的な」顔をつくるのは簡単だった。
リタッチのプログラムを呼び出し、いくつかの写真をクリックし、それぞれの
ピクセルに数値を与え、さまざまな写真から詳細部分の平均を引き出す。
 二人の研究者はおおよそこのようなやり方で、女性の平均的な顔を3つ、
男性のそれを3つ作りあげた。それから80人ばかりの人に、「平均的」
人相を作るのに使ったほかの写真と比較してもらった。
すると男性の「平均的な」顔も女性のそれも、合成するのに使ったほとんど
すべての本物の顔より美しいと判断されたのである。なんともうるわしい結果
であろうか。しかし、これは「合成した顔がすべて個々の顔より美しいのは、
多数の人の平均的顔には、一つ一つの表情を傷つける様々の欠点が見えて
こないからである」と結論づけている。集団の「平均的」判断としてまとめ
られるてしまうと、個々の間違いや偏見がチャラにされるからである。
  ~~
 以上だが、美はバランスである。 目や鼻や口の形もバランスー均整が
とれているのが良いということ。バランスか~、バランスでしかないのか~、 
服装、化粧は、そのバランスを直すことこと。 人間の持つ幻想は、
そのバランスに惑わされやすい、ただ、それだけのことなのか? 
クレオパトラは、大した美人ではないが、幻想を活用することを
知っていただけ!と言うが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2624, いのち楽しみ給え ー1
2008年06月10日(火)

 図書館で借りてきて、直ぐにアマゾンで注文をした本である。
長男が吉川英治の本の中から、人生の言葉を選んだもの。
なかなか、味わいのある言葉が並んでいる。
吉川英治といえば「宮本武蔵」「三国志」「新書太閤記」を読んだが、
これだけ、多くの「心に残る言葉」に再び出会えて良かったが、
当時読んでも、その深さが解らないものも多かった。
やはり人生の経験を多くしてみないと理解できないこともある。。
「いつもの時代でも、亡ぶ者が、かならず抱いている滑稽な信念は、
(おれは亡ぶ者ではない)という錯覚である」
  『新書太閤記』が、新鮮に聞こえてくる。
    『いのち楽しみ給え』 吉川英明編(講談社) ー読書日記ー
 まずは、第一章 生きるということ より

「花は、散る支度をし始めるときが、花の一生のうちでも
  いちばん美しいし、盛りも見える。」~「新・平家物語
・・
幸福とは その人の心の手のひらがそれを持つか持たないかだけの
はなしである。幸福とはじつにそんな平凡で無味ににたようなものだ 
                   ~「草思堂随筆」
・・
円(まる) 円   
いくら見ていても、円い線はどこまでも円い。 果てなく、屈折なく、
究極なく、迷いなく円い。この円を、乾坤にひろげてみると、そのまま天地。 
この円を縮めてみると、そこに自己の一点がある。
自己も円、天地も円。 ふたつの物ではあり得ない。一つである。
                   ~「宮本武蔵」円明の巻
・・
無為の苦しさは、無為を悶える者でなければ分らない。
安楽は皆 人の願うところだが、安楽安心の境地とは大いにちがう。
なさんとして、何もできないのである。 ~「宮本武蔵」円明の巻
・・
平常の取捨は、熟慮のいとまもあるが、生涯の大運は、突として来る。
(右か? 左り?)は、多くは急場に迫って来るものである。「新書太閤記
・・
 むすめに与ふ~     昭和三十六年夏軽井沢にて
                   或る雨の夜
倖せ何とひと問はば  むすめはなにと答ふらん
珠になれとはいのらねど  あくたとなるな町なかの
よしや三坪の庭とても  たのしみもてば草々に
人生植ゑるものは多かり     ~「書簡・川柳・緋句・詩歌集」
・・
朝の来ない夜はない           ~座右銘
・・
「なべて眼のあたりのことは、うこかし難い、また、変るなき鉄則に見えますが、
どんな現実というものも、じつは間断なく変っています、変るなと願っても、
推移せずにはおりませぬ。人の境遇も、入お互いの心も」 (麻鳥)
                    ~「新・平家物語』静の巻
                          ーつづく
 ・・・・・・・・・
2007年06月10日(日)
2259, 今日、ホームレスになった ?2
      (。・∀・)ノ゛おっは?よう!
 ホームレスにも二種類ある。辛うじて簡易ホテルや、深夜喫茶、
ネットカフェに泊まっている人と、ダンボールや、テントの住人である。
駅の構内のダンボールの住人は毎日のように見かけるが、暗い虚ろな表情が
何とも悲しそうだ。コスプレの可愛い動物の帽子を被った若い女性が一年以上、
新潟駅構内にいるが、服装がドンドン汚れて、今では毛布一枚を持って歩いて
いる姿が痛々しい。 若い女性というだけで気の毒なのに。   
この本の中の、ホームレスの悲鳴に似た叫びの言葉を幾つか抜粋してみよう。
言葉の中に深い響きが聞こえてくる。
――
*エリート系サラリーマンの誤算*
(字数の関係でカット2008年6月10日)

・・・・・・・・・
2006年06月10日(土)
1894, 不良のための読書術ー2
      おっ w(゚Д゚)w ハァョ?

「本は見た目だと!」という声も、心の奥から聞こえている。
 文庫本は幾多出版された中で、単行本として生き残ったではないか。
「文庫本の中にこそ良い本が残っているのに、表装が良い本がよい本を
 勧めるのはオカシイではないか?」というのも肯ける。
   この本は若者向け、初心者向けの本として割り切ってみないと・・・
   だからこそ鋭い切り口になっている。

=その面白そうなところを、筆者の方法で拾い書きをしてみた=
   
   ・ゴダール式読書法の基本とは
    本を手に入れたら、適当のページを開いて、
    20~30ページを読む。ただそれだけである。
    読むページ数は決まってない。
    小説の場合はやや長めに一章まるごととか。
    短編だと一編丸ごと読む。
    それで解らないのは著者か編集者が悪いと思う。
    ここで一番難しいのは、その本の何処を読むかである。
    どんな本も本文の一ページに力が入っているという法則がある。
    これを「ツカミの法則」という。それと、実用書などでは、
    巻末の索引から、関心のあるキーワードを探し出す。
    30~40ページも読めば良い、くれぐれも全部読もうとは
    初めから思わないこと!

・本はタッチ・アンド・バイである。良いと思ったら買いである。
 そんな時、本の値段を他のものと置き換えてみればよい。
 コーヒー一杯500円と、文庫本。
 居酒屋の突き出しとビールと、単行本。
 専門書なら、ジーパンかウィスキー。
 そう思えば、良書は安いものである。
    ・良い本は見てくれでわかる。
     良い本は見た瞬間グッとくるものなのである。
     本は見てくれでないと言うが、本は見てくれなのである。
     よくない本に見てくれを良くしようとするわけが無い。
・読書は悦楽の狩猟と宝探しと思えば良い!
    ・本は全て辞書と思えば良い。
     適当に見たいところを見ればよい。
・筆者が生み出した「擬似速読術」
 *小説やエッセイを読むときには
 「  」内の会話だけを読んで、他の文を無視する。
  これは高校や大学入試のテクニックにも応用されているらしい。
 *専門書や実用書を読むとき、
  キーワードとなるような漢字とカタカナだけを拾い読みする。
  1P全体を見ると何度も出てくる言葉である。それがキーワードである。
 *一つの行の上のほうの10文字だけとか、まんなかへんの10文字だけを
  読んでいくもの。これはどんな本にも応用できる。
   ーー
  一箇所に拘らないで、まずは鳥瞰せよ!ということ。
鷲になって獲物を探すように本をみればよい!
              i (ω・`) bai
・・・・・・・
2005年06月10日(金)
1529, 「人を動かす」?1
      ー読後38年目の読書日記

この本は思い出深い。学生時代に出会い、この原則を忠実に実行してみた。
その結果、数ヶ月もしないうちに、私の周囲に多くの人が群れだした。
丁度、都会の生活にも慣れ、脱皮の時期であった時に書店で見つけて
読みながら一つずつ実行したのだ。成る程、
・自分の言いたいことを我慢して相手の話を聞き、かつ認めてやるのは難しい。
・それも相手が自分自身を重要人物と納得するように誘導するのだから。
・人を非難するかわりに、相手を理解するように努め、
・相手の話に興味を持って聞いてやることこそ万人の求めていることなのだ。
 人は他人の親が死ぬことより、自分の歯が痛いことの方が問題である。
心がけていると、身に付くものである。その時から、一人一人と友人が増えていった。
この本の冒頭に社員を300人以上解雇した男の例をあげている。
部下に褒め言葉一つも言わない、いやな上司の典型だが、カーネギーの講義を受け
「けっして批判したり、責めたり、文句を言ったりしない」という
原則を実行すると、その男は「314人の敵を314人の友に」変え、
それまでなかった部下の忠誠心を高め、増益を出したという。それだけでなく、
家族がさらに彼を愛するようになったし、人生観ががらりと変わった」という。
「人間は誰も重要な存在になりたい」という大きな欲求がある。
この認められたいという渇望を理解している人こそ、ひとを幸福にする
方法を知っているのだ。
過去に、世界42ヶ国で2000万冊以上も売れた本である。
<あるHPに、この本の原理原則がマトメてあった>抜粋してみる。

ー人を動かす三原則ー
(字数の関係でカット2009年6月10日)

・・・・・・・・・
2004年06月10日(木)
1164, 哲学について ?1

哲学について、いつか書いてみたいと思っていた。といって、これは簡単に
書けるテーマではない。知識の浅さがそのまま露呈してしまうゴマカシが
きかないテーマであるからだ。そうとわかっていても自分のために、
まとめてみたいという誘惑にかられる。挑戦をしてみるが、知識や経験の
浅さを露呈しても今更と割りきるが、しかし恐ろしい。

今まで哲学書で、一番納得したのは末広渉の「新哲学入門」である。
「従来の物的世界像から事的世界観への転回をはかって、認識、存在、実践の
三つの側面から、私たちを捉えている近代的世界観の根底的批判を展開し、
新しい知の枠組への案内を試みている」と、説明文に書いてあったが。
 ーーー
日常におわれていて、ふと日常のおなじパターンを繰りかえしていることに
疑問を感じ、「このことに何の意味があるのだろうか」と疑念を持つこと
から哲学が始まる。この随想日記で「世間さま」を茶化して書いてきたが、
これも哲学の初歩的なものだ。「我々が住む世界の基本的な概念と原理に
疑問に持つこと」が哲学の始まりである。前提そのものを先ず把握して、
それを疑ってかかることが哲学の始まりだ。過去の歴史的な偉大な哲学者が
2千数百年にわたり,いろいろな概念を思索して根本的なことを解明しよう
としてきた。いまさら根本問題を深く考えても仕方がないが、といって
避けては通れない問題でもある。

ー哲学そのものについては
 カントの哲学の定義が分かりやすい。
 (一)私は何をすることができるか。
 (二)私は何を為すべきであるか。
 (三)私は何を希望してよいか。
 (四)人間とは何であるか。
誰もが、漠然と常に考えている問題である。
 第一の問いに答えるのは形而上学であり、
 第二の問いには道徳、
 第三の問いには宗教、
 第四の問いには人間論が答える。
  人間論に含ませてしまえば哲学も簡単であるが。
学生時代、自分というものに目覚めた時、そして社会を目の前にしたとき
まず直面するのが、この問いである。そしてわからないまま、とりあえず
社会に飛び出していく。そして晩年になって過去を振り返り、ふたたび
後悔という意味で結果論として問い直す。
 (一)私は他に何をすることができたのではないか。
 (二)私は何を為すべきであったのか。
 (三)私は何を希望すればよかったか。
 (四)人間とは何だったのか。
そして、後悔と、自己満足の間をゆれる。
哲学はなけっして難しい問題ではない、身近な問いかけでしかない。
                          ー つづく
ーーーーー
 書いていて、恐ろしくなってきた。何もわかってないのに、解ったような
気になって適当の文章を書いているのだから。目的は、それぞれの有名な
哲学者の言葉・思想を何人かまとめておきたい前段として、この恐ろしい
テーマに挑戦する。やめておいた方がよさそうだが。
「ショーペンファウアーについて」等のテーマを、何冊かの本からまとめた
内容を、冷静にみるのも面白そうだ。ダイジェストの本はいくらでもあるが、
「哲学について」のテーマで10以上書いたら、やはり世界観が変わって
くるだろう?  何処まで続くか?
 
 ・・・・・・・
2003年06月10日(火)
797, 流通業界よりみた時代の変化ー

流通業界の事は度々書いているが、
10年前の状態と今を比べると段差に驚かされる。

ー10年前は、
ダイエー中内功は、まだ他の会社の建て直しをしていた。
西武グループ堤清二もバブルの後始末に入ったところであった。
・マイカルーニチイも創業者の一人小林某が、マイカルシティーとかいう、
 アメニティーなど入れた複合の施設をつくっていた。
・長崎屋も駅前型から郊外にその重点を移そうと必死であった。
ヤオハンは香港に本部を置き中国に出店を始めていた。
・ソゴーも大型店を破竹の勢いで出店していた。
その全てが潰れてしまったか解体である!時代の変化の激しさを痛感する。
すべて多角化によるエネルギーの分散による競争力の低下で自滅したパターン。
当時チェーンストアのコンサルタント渥美俊一は現状に近くなる事を予言。
今だに元気のよいのが、イトーヨーカ堂ジャスコ、それと十数年前に一時
潰れそうになったユニー。今後10年後はどうなっているか?というと、
想像すらつかないのが流通の世界である。もっとも日本そのものがどう
なっているのかも想像を絶するが! 経済的大変動に90?以上は襲われて
いるはずだ。愚民の選んだ自民党と官僚の利権維持の為である。
それとアメリカの毒饅頭をタップリ食べさせられたことも背後にある。
若い人は本当に大変だと思う。大激動時代を生きていかなくてはならないからだ。
ビジネスの宿泊が3分に1に僅か2~3年で激減する時代である。
当面始まるのが東京周辺の百貨店の淘汰。高島屋、東急、松坂屋とか株価欄を
見ればいくらでも候補がある。まだ高島屋みたいに表面化してないところもある。

・・・・・・・・
2002年06月10日(月)
433,自由ほど不自由なものはなし!

自由ほど不自由なものはなし!誰もが経験がある事だと思うが。
 ー至近の例で、
サラリーマン生活をしてきて、待っていた定年がきた時ただ呆然。
こんな筈でなかった、何もできない自分に直面する。あれだけ求めていた自由
に躊躇してしまう。今まで束縛されていた組織からの自由を求めているだけ。
「自らに由る」という言葉の意味さえ考える余裕も無かった自分に直面する。
如何してよいか判らない。仕方がないので、それまでの行動をとるしかない。
会社の近くに同じ時間に出勤。今まで行っていた喫茶店やスナックなどの
溜まり場に行きざるをえなくなる。目の見えない首輪がそのまま付いたまま
なのだ、紐まで付いたまま。そして紐付き首輪を付けて、それまで出たことの
ない同級会に出たりする。「元・・などの肩書き」はそこでは何も通用しない
事をそこで思い知らされる。そして他の軽く軽蔑してきた人と同じレベルまで
引き摺り下ろされる。いや彼らの中味のほうがズット詰まっていることに
初めて気が付く。自らに由るとは何か?自ら判断し責任をとることだ。
ただ群れて、その群れと同じ行動をして、何も考えず判断をしてこなかった
自分に初めて直面する。自由とは本当に厳しいことだ。人に甘く自分に厳しさが
基本になくてはならない。普通、人間は逆になってしまう、自分に甘く人に厳しく。
自由、平等、博愛のフランス革命の精神。 自由に重きを置いたのが資本主義社会。
平等に重きを置いたのが社会主義である。 自由は平等ではなく公平を求められる。
それまでの平等の意識が根底から崩される。もう誰も相手にしてくれない小さな
自分にはじめて気づく。公平?社会がすぐに冷たく圧し掛かってくる。
自由はそれに適応できる人には優しく、出来ない人には厳しく反応してくる。

・・・・・・・・
2001年06月10日(日)
[48] 同じ人生を

全く同じ人生を生きたい!
私の常識的判断では、90%以上の人は‘とんでもない!’
と即座に答えそうだが。しかし生きていく上で、全く同じ人生を生きたい!
と思える人生を生きることこそ必要な事と、ある人生論の本に書いてあった。 
そういえば父がガンで死を悟ったとき、母に何回も「もう一度生まれ変わって
全く同じ人生を生きなおしたい」と言ったと聞いた。
その時はやはりとんでもない!と自問自答したことを憶えている。
最近そうおもえるようになってきた