つれづれに

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 以下に、8年前の、藤沢周一の中年の心象風景をテーマに書いていた。
時は、61歳。 今では、古希ー老年の心象風景になる!が、やはり、
枯れた心境から、遥かに遠い。 TV、パソコン、シネマから、刺激的情報が
フンダンに入ってくることと、スポーツジムでエアロを毎日、しているので、
気持ちだけは老いることはない。 とにかく、自分の老いを容認しないこと。
一日を貪欲に楽しむこと。 好奇心を持つこと。場を変えることを心がけている。
 年寄りくさい人に近寄らないこともある。

 ところで、新幹線が、ここで大幅値上げという告知があって吃驚。
明日の随想日記のテーマにするが、あまりに露骨。

 そろそろ、場所によって、梅の便りがチラホラ!
http://blogs.yahoo.co.jp/fuu0912/11651458.html



・・・・・・
2141, 中年の心象風景 -2
2007年02月12日(月)

          (~Q~;) おはよう~~ ファ~ サム
 藤沢周一の『海鳴り』を4~5年前に読んだとき、
中年から晩年にかけてのある初老の男の心情が切々と語られている世界に
ドップリと引き込まれてしまった。
そこには、この時期に忍び寄る老いと死の影が最後の輝きの背後に描き出されていた。
そこで感じ取ったのはピカピカではなく、人生の落雷のズッシとした閃光の光である。
   
 ーまずは、その中の一節を幾つか書き出してみる。

{40の坂を越えたころから、新兵衛の胸にある不思議な感覚が生まれた。
ある時期を境にして、自分が老いの方に身を置いてしまったような感覚である。
これまでも考えもしなった、老いとその先にある死が、いやに明瞭にみえた。
その見えて来た老いと死に、いくらかうろたえていた。まだ、し残してことがある、
と思った。その漠然とした焦りと、ひとの一生を見てしまった空しさに取り付かれ、
酒と女をもとめてしきりに夜の町に駕籠を走らせた。新兵衛は47歳である。}

さらに次の一節
{汚いことけがらわしいことは避けては、生きていけない世界に、大人は住んでいる。
商い、女、世間との付き合い・・。そういうものの間を大人は時に人を出し抜いたり、
だましたり、本心を偽ったりして辛うじて泳ぎぬくんだ。
そこには大人の喜びがないとは言わないが、その喜びは時には罪の意識にいろどられ、
大方は正視に耐えない姿で現れてくるのである。
そういう不純の部分を抱え込むことで、大人の世界は成り立っているのである。}

{一家を背負うというものは、家の中に多少の不満があってもじっとこらえ、
こわれればとりあえず繕って、何度でもそうして辛抱強く家を保ちつづける
ものなのだろう。}
ーー
    
 中年期から晩年期かけては、色いろな決別、絶望、諦め、挫折、喪失が
怒涛の如く襲ってくる、その中で肉体としての衰えが一日一日と実感し、
気持ちも大きく揺れ動く時期である。
ハッピーリタイヤなど、奇麗事であり、どちらかというと石もて追われる
運命は誰もが遭遇しなければならない運命である。
 その時、自分の人生の大きな問題に直面せざるを得なくなる。
そして60歳の頃、大きな初老性の鬱病を向かえるのである。

 結局は人はそれまで自分が生きてきたようにしか生きていけないものだ。
それが家系として子孫に受け継がれるから、好い加減な行動はできない。
そのジレンマの中で多くの問題を引きずりながら生きているのが中年期。

しかし人生で一番よい時期が中年期である。
仕事は面白いし、頭も冴えており、心も充実している時期である。
世界は大きくドンドン開けていき、それまで蓄積してきたエネルギーが
外に向かい開放される時期で、何もかもが面白いのである。
季節としては秋、人生の収穫期で、秋祭りの時期である。
老い?、そんなもの!という気持ちで楽しむ時期でもある。
藤沢周一の中年の心象風景も、私の主観が入るとめちゃめちゃになるが、
やはり奥さんとの絶妙な関係が背景にあるのだろう。しかし、少し暗いが
主人公の豊かな立場の設定が中年男の欝気分を上手く描き出している。
    
 ー出版社のこの本の解説がよい!ー
はじめて白髪を見つけたのは、いくつのときだったろう。
骨身をけずり、果てにむかえた四十の坂。
残された日々は、ただ老い朽ちてゆくばかりなのか。
…家は闇のように冷えている。
心通じぬ妻と、放蕩息子の跡取りと。
紙商・小野屋新兵衛は、やがて、薄幸の人妻丸子屋のおかみおこうに、
果せぬ想いをよせてゆく。世話物の名品。
  
 いずれにしても、人生は甘塩っぱいものである。
一度だけの人生じゃけん、味わなくっちゃ骨まで!
ただし家庭が基本である。 
特に連れ添いとの関係は!   クサンチッペか~~
                ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪
・・・・・・・・

2006年02月12日(日)
1776, わたしの「夢ノート」 -1
       (o゚▽゚)o オハョ~   読書日記

週に一度はいく書店の文庫本のコーナーで、
前より気になっていた本であったが、
「今さら夢でもないだろう!」と思い、買わなかった。
しかし最近年齢のためか、過去回顧に重点が行き過ぎているので
「あと10~20年間の夢づくりー予定づくりのためにも」
と思い買ってみた。(値段が350円ということもあったが)

買ったと同時に利用価値が多様にあることと、
この本の奥行きの深い価値に気づいた。
夢を書くことは前向きの言語の構成をすることである。
それは未来から現在への視点の逆転になる。
また、このノートを書き足すということは、
夢の純化と目標に姿を変えていくプロセスになる。
                     (´、丶) ホゥ
   夢に限らず、
      遺言に書き換えたり、
      自分の葬式の希望を書いたり、
      子供達へのメッセージを書き込んだり、
      今年の予定表のコーナーなど、
      「書き込み式の自分本」ということになる。              
女子供向きだが、万人に充分つかえる構成になっている。
特に若い人にお勧めだ。
もし貴方が年配なら、子供か若い人のプレゼントに良いだろう。

自分の人生を航海にたとえると、
行き先を羅針盤で確認できる航海予定表と行動計画書になる。
この本を若いときに利用するかしないかで、
十年経った時に大きな人生の質が左右するだろう。               
                      ε-(ーдー)ハァ ソ~
      自分で創る自分の為の本である。
      「書きこみ式」で空欄へ書き込むレイアウトがよい。
       また「夢」ー「枝」の分類がよい。
      「夢ノート」は「夢がかなうノート」を略したもの。
  自分が
「ほしいもの」
「したいこと」
「こうありたい気持ちやこころ」
「休日の過ごし方」
など思いついた順に1 冊のノートに書き出していけるようになっている。
      文庫本サイズでコンパクトになっており、
      手帳感覚で思いついた時に書き込め、
      効果的結果を得れるだろう。
      自分の夢を書きとめるだけでなく、
      本や雑誌の気になる言葉を書きとめたり、
      印象の深い映画などを書き込むのにもよい。

自分の夢を文章化することは、行動へレベルアップするのに効果的だ。
                            つづく
     王様文庫
     著者:中山庸子
     出版社:三笠書房
      350円
           ヾ(*'-'*)ヾ(*'-'*)ヾ(*'-'*)バイバイ!!
 ・・・・・ 
2005年02月12日(土)
1411, LOVE&FREEー世界の路上に落ちていた言葉-2

「求めよ、さらば与えられん!」が、人生である。
この著者の生き方の中に、それがはっきりと見て取れる。
「何故、人は求めないのか?」、
それは一般常識とやらに囚われているからだ。
この題名のFREEは、
一般常識からの自由と、
自らに由るという意味である。

この本の中に以下の文章がある。
  オマエハ ナニガ ホシインダ?
 それに答えられない人は、 旅は続けられないぜ。

これはズバリ、それを言っている。
何が欲しいのか、何を求めてよいのか解らない人は旅を続けられない。
そのナニガ ホシインダという根本的問いかけを曖昧にしているのだ。

  次の言葉もよい、
~あるハワイアンの言葉より~

「自分の魂が本当に満たされるというっていうのは、
 どういうことなのでしょうか?」
「それはね、自分が本当に何をしたいのか、
何をするためにこの世に生を受けたのかを知ることです。
いくらお金を持っていても、いい仕事を持っていても、
自分の魂を満足させられないと、病気になったり、
悪いことを引き起こしたりしてしまいます。
いろいろな辛い体験を踏み、苦しい体験を経てこそ、
その中から自分にとっての本当の幸せを学びとることなのです。」

「だから、本当に必要なものを見つけるまで、魂は旅を続けます。
ただじっと待っていても幸せになれません。
また不必要なものを捨て去ることができなくては、
新しく得ることができません。
変化をする時はいつも大変ですが、不必要なものを捨て去る決断を
下せない人の魂は決して満たされることはないでしょう。」

ナニガホシイか解らないと、
魂がたださまよい続けて一生を終えてしまうのだ。
ーー
  必要なのは、勇気でなくて、覚悟。
 決めてしまえば、すべては動き始める。

この言葉も意味深である。
この覚悟こそ、魂の根本である。
 ーー
  すべては自分が選んでいる。
 ーー

~シンプル~

 世界を放浪を続けているうちに、
 大事なことがどんどんシンプルになってきた。

 大きなもの、広いもの、多種多様なものに触れれば触れるほど、
 大事なことは小さく小さく絞られていく気がする。

 おやじ、おふくろ、弟、妹、彼女、仲間・・・
「大切な誰か」のために始めた小さなことが、
 結果として大きな世界をHAPPYにしていくことになる。
 --

ーこの著者の本から受けた感想は
はっきりと自分の欲しいものを見つめ、覚悟を持って始めれば、
何ごとの中にも一番重要なことが見えてきて、
それを選んでいけば、シンプルになっていく。
それが、自分の生き方のできる人だ。

・・・・・・・
2004年02月12日(木)
1044, 職業性格形成論-2

「職業性格論は一理あるかもしれないが矛盾も多い」と考えられる。
確かに大雑把な論である。
警官を例にとっても、彼等にも色いろな性格もある。
それはどの職業の人にもいえることだ。
といって職業の性格形成に対する影響は大きい。

「職業の特性」と「本人の特性」とが、掛け合わさレて
「職業性格」ができあがると考えると納得ができる。
その意味で、会社を選ぶのではなくまずは職業を選ぶべきである。
その掛あわせがポイントになる。
それが悪いと、自分の特性が引き出されない。

人間の性格は、両親や地域や兄弟の順位などが複雑に絡み合って形成されている。
したがって一概に一括りにはできないが、両親・兄弟姉妹・連れ添いと、
選んだ職業は大きな要素になる。

ある町の飲食店の開店で、家内と待合で待たされた。そこで、
見るからにクラブのママさん風の人が、予約で入っていくお客に挨拶をしていた。
その姿が今でも目に焼きついている。
「あの人はどこどこの頭取、あの人はどこどこの社長様」と仰ぎ見るような眼で
小さな声でいっている。
「何じゃ、このボケ!」と、ヤッカミ半分でママ様を軽蔑の目で見ていたが、
家内が
「あの人、うちの子供の同級のお母さんで、長岡の一番高い店のママさんだって!」
とのたもうた。
「ああ、これではあのお馬鹿さん達、喜んでくるわけだ!」と思った。
このケースなど職業性挌形成論の典型である。
職業性挌形成論にしては程度の低い話になったが、こんなものだ。
威張りたい奴と、おだてを仕事にしている奴が出会う場所も有ってよいが。
でも、あのような純粋に仰ぎ見られたら、その店に行きたがるだろう。
なるほど一番の高級店のママ様である。

逆に、「職業性挌とは何か」を徹底的に考えてみることが必要ではないか。
早く割り切って、その性格や生活に慣れてしまうことだ。
そして身につけることだ。
落語や将棋に「内弟子制度」があるが、職業性挌(生活)を24時間、
師匠と生活をすることによって、身につけるためである。
「いまの職業性格とは何か」じっくり考えてみよう!

「有能な営業」は太鼓持ちの「どっこいしょ」と、もち上げるノウハウを
身に付けている。
20年前から、この営業はいつ誉めるか、それぞれの人を観察をしてきた。
自然と身に付いているが面白い。
それと「内幕情報屋」の媒体も骨身についている。
危ない相手でもある!

こんどは、営業屋性格論でも書いてみようか!
悪口になる可能性が大であるからやめておこう?

・・・・・・・・・
2003年02月12日(水)
679, イヤなやつー2

ー良い人と偽善ー
先日書いた河盛好蔵の文章をから
「イヤなやつ」の要素は以下である

・他人の幸福より不幸を喜ぶ感情の悪さがある。
・自分ではできるだけ怠けて、人をはたらかせ、その功を自分だけで独り占め
 をしたいというズルさと、欲の深さがある。
・権力者にはなるべく逆らわないで、
 進んでその権力に媚びようとする卑しさがある。
・自分に寛大で、他人には厳しくって、エゴイストの部分が非常に多い。
・ケチで、感情高くって、他人の不幸にそ知らぬ顔をする。

 反対に「良い人とは如何いう人か」を考えると

・他人の不幸を悲しみ、幸福を共に喜び
・自分に厳しく、他の人より多く働き、その功を他の人に与え
・感情は常に冷静である

十数年前に経営セミナーで聞いた、香港の財閥と結婚後死別してオーナーになった
日本人の女経営者の心訓を思い出した。
「人には優しく自分に厳しく、いつもニコニコと、人に良かれと思って生活する事」
であったが、相通じるところがある。
ほうっておけば「イヤなやつ」になるのを、この言葉を繰り返す事で
自省する言葉である。
それを意識して生活をすれば、初めは偽善?だとしても、真善の人間に
近づけるのではないだろうか。
その意味で「偽善を次善としてなせ」も一理ある。

目先に都合のよい人が「良い人」も確かに間違いがない。
所詮、「よい人、悪い人」というのは、このレベルのでしかない。
でも「良い人」の方が、お互いに良い。

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2002年02月12日(火)

329、夢日記ー13 
 自己喪失感

こういう経験ー夢をみたことがありますか?
「全く無能で白痴の何の取っ掛りのない自分」に呆然としている夢。
夢から覚めても、しばし呆然としている。

自己喪失感というか、虚空の自分を実感した感覚である。
それこそ「自己中心絶対無」でなく、
・自己中心絶対無能、
・自己中心絶対虚空
・自己中心絶対自信喪失

何か聞こえてきそうだ!
「実をいうと、自分はその塊だ!」
あの恐ろしさ!
独り社会から引き離され、虚空をさ迷っている魂。

ある人に話したら「 自己喪失感というやつでないか」といった。
永年連れ添った人を失った人が経験するのが、あの夢の感覚かもしれない。

・・・・・・・・
2月12日 1969年

武澤先生に会ってもらって話を聞いてもらう。
もしかしてと思い、自主留年の可能性も言ってみた。

しかし、あくまでも学生時代の郷愁に浸っているだけではないかとのこと。
自己納得だけで、客観的ではないと言われた。
むしろ社会に出て、自分をぶつけたほうがズット良いというのも理解した。
食事をご馳走になりながら何か説得されているようであった。

このところ、周囲にあまりに影響されすぎたようだ。
迷惑をかけたにしても、先生と一対一で直接話すことは初めてだった。
何か一人芝居をしているだけなのか。
しかし真剣な一瞬であった。
「いい歳をして」という思いが残った!