つれづれに

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 さて、月曜日。 もう御隠居の身。 月曜も、金曜日も関係ないが、
やはりリズムが週単位のためか、少し新鮮な感じがする。
 ところで、夜半、半睡タイムに、ウトウトしながら、淡い金色の球体を
イメージをして、その中に入って横たわるイメージを持ったいた。
しばらくすると、20歳代半ばの金沢時代にスリップをしていた。
 ・・・ 後は、明日の<随想日記>

  節分に ある小話を一つ  ー本日「いいかげん」日和ーより
≪ 豆瓶きの際のことばは、「福は内、鬼は外」が一般であるが、
仏教の寺院の多くが、「福は内、鬼も内」と唱えている。
わたしは、「鬼は外」よりも「鬼も内」のほうが好きだ。そのほうが
仏教精神にかなっている。仏教経典には、こんな話が出てくる。
ある家に、美しい女神がやって来る。吉翔天であり、幸福の女神である。
家の主人は喜んで彼女を迎え入れた。
そのあとから、ものすごい醜女がついて入ろうとする。
主人が誰何すれば、「わたしは黒闇天、不幸の女神よ」と答える。
主人は彼女を拒んだ。する女が言った。「あんたは馬鹿ね。さっきの吉祥天は
わの姉よ。わたしを追い払えば、姉も出てわ。わたしたちは一緒に行動しているよ。」
しかし主人は、黒闇天とともに吉祥天の退散をも願った。
幸福と不幸は、ある意味で一つだ。こは、われわれにそう教えてくれている。≫
 

・・・・・・
2860, 若者たちは今
2009年02月02日(月)

*若者の○○離れ、というが

ある雑誌の中に「若者の○○離れ」という現象のレポートがあった。
若者は明らかに旧世代とは違った消費行動をとっている。
まずは○○とは《・クルマ離れ ・酒離れ ・活字離れ ・新聞離れ ・洋画離れ 
       ・海外旅行離れ ・ギャンブル離れ(マージャン、パチンコ、競馬) etc》
その背景には、『パラダイス化ー仲間内だけで寄り添う』と『リスク回避志向』と『携帯電話・コンビニ』と
『堅実消費』の傾向がある、という。 これは旧世代にもあるが、若者に極端に出ているということ。
(自分を考えてみたら、海外ツアーと活字と新聞を除くと同じ傾向だが、少し違うか?)
バブル崩壊とデジタル社会に若者がイチ早く反応したのである。(私の場合は、それに加えて加齢があるか) 

時代が右上がりで潤沢の資金があれば、クルマを持って、酒を飲んで、ギャンブルでもして遊ぶだろう。 
収入が減って内向きに時代、その一番弱い立場の若者が時代に従っているだけ。 
それに加えて情報化社会が、敏感な若者たちの価値観を大きく変えてしまった。
情報化のために、周辺だけの世界に価値が見出せなくなったのである。
イチロウが活躍している姿を見ていると、市とか県レベルの野球のヒーローなどに誰も憧れはしない。
それだけではない、国内のトップレベルの野球選手も憧れの対象にはならない。
昔はクラスの一番の美人で優しそうな女性が理想像に見えたが、今では、そのような憧れも少なくなっている?。
大きな幻想も、小さな幻想も、情報化で破れてしまったのである。それなら手っ取りはやい身近な友人と
携帯でつながり、コンビニか街で屯するしかないのである。

それらを考えてみて、やはり日本の若者の大部分の劣化の激しさは目を覆う。
 「ゆとり教育」の大失敗だったのである。
何時の間にか、近くの韓国、中国、ベトナムのボトムに大きな差がついてしまった。
皮肉なことに、若者の末端を「派遣社員」というシステムが社会に組み込んでしまった。

・・・・・・・・・
2008年02月02日(土)
2495, ー自宅にも iMac

 昨日、会社の事務所に引き続いて、自宅にiMacを導入した。
これで一年以内に熱狂的とはいわないが、圧倒的なファンになるような気がしている。
とにかく画面の明るさと、WindowsVistaとMac両方が使えるのが良い。
これまでノートパソコンに何故拘っていたのか? 居間の座卓の上のスペースの問題と、
Macをよく知らなかったことである。WindowsXPとノートパソコンの束縛から、やっと解放された感覚がよい!。
Macには熱狂的なファンがいて、使っているだけで優越感を持っているという。
ここ三年位は、出遅れて損をした感覚である。いや、今が時節ということか。
パソコンン、インターネット世界への知識経験の浅さを、そのまま書いているようだが。
導入を手伝ってもらったHさんの話だと「Windowsより音楽などの音質が良く、映像も数段良い」という。
デジタル・ラジオをBGMとして聞けるのもよい。(Windowsも聞けるが)
とにかくパソコンに向かっているだけで楽しい!という、気持ちになるだけで充分である。
ワンセグを外付けで入れて、地上波のTVを見れるようにした。
イヤホーンをつけたので、チャンネル争いのときに、敗者は?これを見ればよい。
一人で地上波の番組を見る場合は、パソコンを見れば電気代が節約できる。
 もともとWindows Xpの機能の数分の一しか使ってなかったのが、
より使いやすくなったため、もう一歩踏み込んで使う気になったということである。
これが国内のメーカーより安く買えるのに、あまりシェアが伸びないのは、
やはり既存のソフトが転用できないからである。私のように元々持ってないものは、それが強みになる。
ただ、なれるまでは戸惑うことを我慢しないと!
ところで、値段は20インチiMacで、山田デンキでポイント割引で1290000円、他に色々入れると+2~5万円は必要である。

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2007年02月02日(金)
 2131, 葬式よもやま話 -2   オッ(*^○^*)ハ~ヨウサン!
 
 故・内山由蔵さんの長男の喪主の挨拶の中の一節に興味をひかれた。
ー 危篤になったが持ち直し、‘しばらくは大丈夫だろう’と、住居のある仙台に帰ろうと新潟あたりに来たとき、
今まで見たことのないような奇麗な虹が出た。「父に急変が起きたのでは」と思ったとき携帯電話が鳴り
再び危険状態になったという連絡が入った。そして急遽Uターンをして長岡に近づいた時、
燃えるような夕陽が輝いていた。この時、「ああもう駄目だ」と思った。
そして着くのを待つようにして、間もなく亡くなってしまった。という内容であった。
 私自身も何度も親戚の葬式の後に、奇麗な虹と遭遇している。
とくに義父の亡くなった時のこと、葬式帰りの峠で7回も虹が次から次へと出て、
その下を車で通り抜けた経験がある。何か異次元の不思議な感覚であった。
涙雨とか、雷鳴とか、その人により色々な自然現象がおこるようだ。
霊魂が死後35日から49日の間に、次の世に通じる六本の道路の内の一本を選ぶ最も大切な
宗教的儀式の日を「七七日」という。よく、葬式の読経のあと「七七日法要」を引き続きやります
と言って、さらに有難そうな読経をあげるが・・。
死者は七色に輝く一番まぶしい光の出ている道路が極楽に通じていて、そこを通って浄土にいく。
虹が人の死後によく現れる現象は、「故人がこの道路の近くにいますよ、というサインを
身近の人に見せようとしているのではないか?」と、思えば、ファンタジーな気持ちになる。
ところで十年位前のことになるが、会社に勤めていた人の両親が一日違いでたて続きに亡くなり、
二人一緒の葬式に参列したことがあった。事故とか心中ではなく、母親が夫の死を待つようにして亡くなった。
正視できない!とは、こういうこと。 葬式にまつわるドラマは色いろある。
「お葬式」という映画もあった。伊丹十三が妻・宮本信子の父親の葬式で喪主となった実体験をもとに、
わずか一週間でシナリオを書き上げ、日本アカデミー賞をとったもので、赤裸々な人間関係を面白おかしく表現していた。
葬式という一見暗いタイトルにもかかわらず作中には笑いが溢れており、そのギャップが何とも印象に残っている。
それと、どぎつい性描写も。
                                (o ・д・)ツ  バイ!
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2006年02月02日(木)
1766, こころの羅針盤(コンパス) -1
         才ノヽヨーφ(・ω・`)  -読書日記

三十篇の文章を、どれを読んでも深い心の世界に引き込まれる。
「私たちは羅針盤の針にしたがって航海しているわけではない。行くべき場所へむかうために羅針盤を用いるだけだ。」
という言葉一つ捉えても、ハッとする内容が次から次へと出てくる。その幾つかを抜粋してみる。 
                                    (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが?
まずは「こころの震えを感じるとき ─まえがきに代えて─   五木寛之
 ・・
「人生いろいろ」という歌があったが、こころ模様もいろいろである。
「こころの羅針盤」というタイトルヘの感想もまた、各人各様だろう。
「こころ」という言い方がなあ、と苦笑する人もいるだろうし、「こころ」に羅針盤なんていらねえよ、と、
 そっぽを向く人もいるにちがいない。 しかし、本のタイトルなど、本当はどうでもいい事なのだ。
「題名いろいろ」と、歌いとばしてもらっても一向にかまわない。とりあえずここにギュウギュウづめになっている
 三十篇の文章を、どこからでもいい、パッとぺージを開いたところから読みはじめてごらんなさい。
「人間いろいろ」「文章もいろいろ」、こんなに各人各様でいいのかしら、と、あっけにとられる位に個性的な
 書き手のオンパレードである。 声に出して笑ったり、ため息をついたり、なるほどなあとうなづいたりと、
 私自身、人生を三十回生きたような感じがした。 才気あり、含蓄あり、厭味あり、教養あり、風格ありと、
 活字を読む楽しみこの一冊につきると言えば、いささか香具師の口上めいてくる。
 羅針盤の針は必ずしも一点を指すわけではない。実際に磁石を使ってトレッキングしたかたなら経験がおありだろう。
 震える針は揺れ動きながらも、最後は落ち着くところに収まる。
 この三十篇の文章は、右へ左へと跳びはねながら、最後は或る一点に読む人を導く。
 それは「こころ」という実体など、じつはどこにもない、という乾いた真実である。
 私たちが「こころ」と信じているものは、存在する人間の影にすぎない。
 ひとりひとりの性格や体型が異なるように、その影も異なったかたちをしている。
 私たちは羅針盤の針にしたがって航海しているわけではない。行くべき場所へむかうために羅針盤を用いるだけだ。
 ここに集められた文章のすべてに、その確かな意志がひそんでいる。
 そのことが感じられたとき、震える私たちの「こころ」は、それぞれの一点にむけて収斂するにちがいない。
 ここにあるのは、そのような力を秘めた見事な文章ばかりなのである。                                      
 作家は、どうしてこのような上手い文章を書けるのか、その博識に驚かされ、ただ感じ入るだけだ!
                               (σД≦)ネムゥ~
               -つづく
・・・・・・
2005年02月02日(水)
1401, 危ない格言ー4   -読書日記ー
ー愚者と賢者についてー

・最も贅沢で、最も洗練された社交ーできる限り一人で過ごすこと。
(my感想)ーどうでもよい人となら、一人の方がズットよい。そのために本があるのだ。 
   但し、よい本である。どうでもよい人でもよいから、一人でいたくない時があるのが‘にんげん’だろうが。
・人々が社交の中に求めているのが孤独からの逃避としても、そこで手にするのは、せいぜい孤立からの休暇だ。
 (my感想)-そのバカンスが楽しいのだ、と!バカンスと割り切ればよいのか、バカンスと?
・ひとは、他者のなかに褒めるに値する特質を目にしても、十中八,九は見逃すが、
 馬鹿にしえる欠点や不足に気がつくと、十のものに二,三を足すような見方をするものだ。
 (my感想)-だから、生きていけるじゃないか人間は!但し、下等な人間に、その傾向が大であるが。
・その場にいない他人の悪口は、話題に詰まった会話の下剤としてよく効く。
 (my感想)-あちこち、下剤を飲んでいるようだ。たく、もう!、腐った女のような男は下剤が好きのようだ!
   あの男!下剤瓶を幾つもカバンに入れている。腐った女は下痢症か!いや、便秘か。
・利害で結びついた人間は、感情によって引き離され、感情によって結び付けられた人間たちは、利害で分かれる。
 (my感想)-感情でなく、勘定じゃない?
・巧みな皮肉の弱点は、それが向けられた相手が、まさにその皮肉を感受し、
 理解するだけの感受性や知性を持っていることが、滅多にないというところにある。
 (my感想)-ジョークに、それが更にいえる。ワザワザ、説明しなくては解らない人に
   説明しながら言っているが情けないというより、・・・・?!
・分別あるものは、分別を説かない。説教によって人間に分別ができるなんてありはしない
ーそんなことも解らない者は、分別をわきまえているとはとてもいえない。
 (my感想)-この事で、変なことはいわないがよい。分別の無い人もみている可能性がある?
   何よりも、分別のない自分が言っているのだから間違いがない。親に分別の無いのが、その子供に何言っても駄目。
・生まれてこなければよかった ーそれも生まれてこなければ、わからなかったことだけど。
 (my感想) -結婚と同じだ!「生まれてこなければよかった!」
   「環境に馴染めない!」「何か毎日が面白くない!」とかいっている人、世の中に多いんだってさ。
  こういう人、したい事があると言葉で何時も潰している!今度にしようとか、面倒くさいとか、
  それで何にもしないで「毎日が面白くない!」とのたまっている。
  その内なる言葉を引っぱり出して、潰さないで。面白くないのは、自分自身で面白くなくしているのに!
  現実に溺れてアップアップしているだけで精いっぱいなのさ! せめて、犬掻きぐらいすれば!
  犬掻きの名人が言っているのだら、間違いはありません!

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2004年02月02日(月)
1034, ダヴィンチが知的障害?

ある本を読んでいて、目が釘付けになった。天才といわれている、レオナルド・ダヴィンチとアインシュタイン
エジソンが知的障害だったという。天才の90?が梅毒という話は知っていたが、この3人が知的障害だった?
エジソンが3ヶ月しか学校に通わなかったことは有名な話。典型的な注意欠陥障害のハンデキャップを負っていたという。
注意欠陥障害といえば注意散漫と思われがちだが、反対に注意が一点に釘付けをされて、
他に移動できない障害も含まれるという。これは日常生活には不便であるが、
その障害を反転させて強みとして活用した事例と捉えることができる。
彼の異常な集中心は、その欠点を逆転して強みに変えたと解釈できる。彼は暗算が全くできなかったという。
アインシュタインも、何と暗算が殆どできなかったという。心の中で言葉で考えることができず、
ひたすらビジュアルでしか考えることができなかった。そのためにビジュアルで思い描く能力が異常に発達した。
ダヴィンチもアインシュタインと同じ障害を持っていたといわれる。
だからこそ、ビジュアルの視覚に頼る能力が発達したのだ。語学能力は全く駄目で、そのかわり、
せっせととスケッチに励んだ。読字能力の障害を、視覚能力を活用することで矯正したのだ。
知的障害を持って克服をした人は枚挙がない。左脳が働かないからこそ、右脳を異常に発達させていった。
そして、その後に左脳を修正をしていった。 特に、こういう時代は右脳が重要になる。
といって左とのバランスがより求められるのだ。彼らの凄いのは、左脳をうまくカバーできたことだ。
戦後の日本の教育は左脳が駄目なら、そこで全てを否定して切り捨ててきた。そう考えると、学校教育そのもの自体の
誤りがよく理解できる。TVタレントの黒柳徹子も、エジソンの注意欠陥障害に近い状態だった。
大問題児で、学校では手に負えなかったという。しかし注意が一点に集中する能力は、タレントとして一番要求される。
彼女はその能力を伸ばしていったのだ。美空ひばりも楽譜が読めなかったが、一度、音あわせで憶えてしまったという。
それにしても、あらゆる分野に能力を発揮をしたダヴィンチが知的障害とは驚きであった。
あらゆる分野の積み重ねの上に特性ができあがるものと思っていたが「変形を逆に利用して個性にまで持ち上げていた」とは!
長島茂雄は馬鹿かどうか」という議論があるが、以上の理屈からいえば彼は天才ということ。
あの野球に対する異常なほどの取り組みは、この三人に共通するものと同じである。
知的障害ーいや痴的障害?の自分として、非常に励まされた。
ただ能力が発揮できなかったのが違うが。それはただ馬鹿ということか!

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2003年02月02日(日)
669, ぶざまな人生

本屋で見かけた本のタイトルである。「ぶざまな人生」というタイトルにハッとさせられる。
軽く1分程度立ち読みした程度だったので概要は主観的になる。
「人生を捉えてみると誰もが皆ぶざまな人生だ。それを初めから割り切って自分のやりたいよう、
生きたいように生きるべきだ」という内容だ。シビアなタイトルだが、皆「ぶざま」という言葉に呪文をかけられている。
誰もが本当はぶざま人生じゃないか、見っともないという他人への思惑など捨て切って、自分のやりたいことを、
やりたいように生きるのが本当だ。 政界のプリンスと、この前まで言われていた鳩山由紀夫だって、
最後は見っともない醜態を曝け出してしまったではないか? でもこれからが本人の真の力が湧き出てくるか
どうか試されるのだろう!凡人が「ぶざまな人生」と初めから割り切れるかというとなかなか難しい。
よほど哲学的に裏づけか信念が必要だ。それがその本の主旨だったようだ。
「ぶざま」という言葉を使う人は「教養のない中年のオバサン」だろうが。
心の奥に誰もが「ぶざまな人生だけはおくりたくない!」あるいは「みっともない最後だけは人に見せたくない」
というのがある。分の人生を顧みて、ぶざまとも格好よかったとも思ってない。
それではやりたいこと出来たか?というと、こんなものかという感がする。
ただ専攻が人間関係学であった為、人生のトータルデザインを考えて生きてきた。
自分の真にやりたい事を一生通して追求するのは自明の事であった。
「ぶざま」という言葉自体が「世間様」という虚構の言葉である。
それでは「ぶざまな人生とは、どういう人生だろうか?」その言葉にやはりこだわって何も出来ないで
終わってしまった人生のことだ。それなら「初めから人生はぶざまなものと割り切ってしまえば、
開き直った生き方が出来る」。「悟りということは、如何なる場合では平気で死ぬ事かと思っていた事は間違いで、
如何なる時でも平気で生きていることであった」正岡子規の病床六尺の言葉である。
これは「ぶざまな人生を平気で生きることが悟りである」と言える! 完全な人生を求めるな!
そんなものは元々ある訳がない。しかし知らないうちに社会的動物として完全を人生に求めてしまう。
完全でなく充分な人生しか存在しない、それが人生というものだと割り切ってしまえばよい。
充分の人生を初めから求めるべきだ。それを脇で見たらぶざまに見えることもあろうが。
親戚・姉兄や知人を見ていてカッコウいい人生の人など殆どいない。
遠くから見ていて例外の人がいたら、ただそう見えるだけだ。
 ー書いていたら気分が楽になった!!

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 2002年02月02日(土)
319、我が内なる無能性ー具体的内容

我が内なる無能性を具体的話に書いてみる。
周辺にいる特にいる「だめな奴ーあれ」ーなんか虐め!
ーこの特性をあげてみると
1、一回も脱皮したことがない。一生をただ何も考えず、そのまま流れている。
2、「他人の目」が全ての価値観ーしたがって[自分の本心]が何かわからない。価値という言葉も全く理解できない。
3、その前提として、本を読んだことがない。ーこういう人が本トウにいる。
  ー思考能力ゼロ!!!!!!ーそれだけならいいが、毒ガスを撒き散らす。
   (字数の関係でカット2009・2・02)

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2月2日 日曜日 1969年 

13時まで就寝。 それから夕方まで勉強をする。夜、市川さんが部屋に来る。有神論、無神論を議論する。
その系統は、彼の得意分野でコテンパンにやられる。 中途半端な知識が露呈してしまった。
新約をギリギリのところで読んだ経験があるが、科学的・哲学的の系統にとらえた本は皆無。
これからの人生では、避けて通ることのできない心の奥底の問題である。
その系統の本を読んで、からかって仕掛けただけだろう。勤めると、こういう小手先が効くのだ。
翌朝の3時過ぎまで勉強、ラーメンを食べて就寝。まだ集中が足りない。もっと身を入れなくては。