つれづれに

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 今日のYoutube

 御嶽山の噴火、ネット上の写真を見ていて、その迫力に驚かされる。
細かい噴火灰も、現場では、鉄砲の弾丸のようだろう。 
以前、カラコルムハイウェーの落石の現場を、それぞれが現地人の
手をひかれて、駆け抜けたことがあった。 誰かが、帽子の上から
石つぶにあたって、顔が血に染まっていた。 だから、今回、助かった人は、
その現場の危険な事態を言葉で表現できなかったようだ。
 戦後最大の死者というが、これが始まりで、日常的に噴火が、
起こるとみるべきだろう。 それより、全国的に観光地が悪くなるだろう。

・・・・・・
2373, 人は60歳で何をしたか -2
2007年10月02日(火)
                         ー読書日記
  「人は60歳で何をしたか」藤原治・著

ある月刊誌が贈呈として昨日、会社に送ってきた。
そこに作家の新井満が寄稿していた文章が「60歳以降に何をすべきか」
というテーマ。よくある偶然の一致であるが、それにしても不思議である。
 ーまずは、その内容をコピーしてみようー (百楽ーケイアイ出版)
*以前、禅宗の高僧と対談をしたとき「座右の銘は何ですか」ときかれ、
お互いに色紙に書くことになった。お坊さんは、たしか「誠」だった。
で、私は「余命7日と想え 何をなして何をなさざるべきか」と書きました。
余命10年と思うと、まだ余裕があるから、死と生について真剣に考えるのは
もう少し先にしよう、となってしまうが、余命7日と想うと、本当にすべきことと、
する必要でないことを区別せざるを得なくなるでしょう。そうすると生き方も
変わってくる。「死を考えることは、生を考えること」だというのは、
このことなんです。 (中略・・・)

私は若い頃から死と隣り合わせで生きてきましたから、死から生を考えるというのは
当然のことなんです。今年の春に自由訳の『老子」という本を出しました。
60歳になったら、どう生きるべきかという内容です。老子という人物は2500年前の
伝説的な哲学者ですが、その思想は難解中の難解といわれています。
私はその思想を、無謀と知りつつ4つに分類しました。
1つ無欲、二つ目は謙虚、三つ目は不浄の徳、つまり争わないこと。
4つ目は貢献の徳、社会貢献です。 老子で有名なのは「上善如水」。
水のように生きるのが最高のライフスタイルだといっています。
水ほど自己主張しないものはない。
丸い器に入れれば丸くなり、四角い器に入れれば四角くなる。
こんな町に従順で弱々しいのに、最終的には岩をも砕いてしまう。
万物を潤し、万物に恵みを与えながら、決して威張ることなく、常に謙虚だ。
人間はこの水のように生きるべきだ、というのが老子の基本的な考え方です。
この水の生き方はとても参考になります。

それに基いづ明いて、私は人生3期説を考えました。
人生、90歳まで生きるとしましょうか。それを30年ずつで区切ってみる。
・最初の30年は、自分探しの時代。
・30歳から60歳までは探した自分を実現する自己実現の時代。
・60歳以降は、自分や家族以外の人間、あるいは人間以外の命のために
 何が出来るか考える時代。
 つまり老子の分類でいえば、人生の晩年は社会貢献の徳を実現しようという提案です。
 これは、あくまで理想論ですがね。
 ーーーーーー
以上であるが、三期説にしても、5期説にても、その説を立てる論で幾らでも理屈はつく。
5期説とするなら~20歳、40歳、60歳、80歳、80歳以上の
五期に分けることができるが、三期説の方が解りやすい。
三期説で考えると、一番大切な時期は三期目ということになる。
人生の収穫期ということになり、一番に充実した日々になる。
一番良くないのは、何も考えないことである。 何も考えないと、どうなるのか? 
あの8~9割の方の群れている老人達。 表面は楽しそうだが、心の空虚は
群れていては埋めることはできない。 
ところで、「人は60歳で何をしたか」藤原治・著で取上げている人たちは、
その後も、二期を続けた人たちである、そうすると荒井満とは少し違ってくる。
片方は世に、それなりのことを達成した人と、凡人は分けて考えるべきか?
ただ生き方を考える上では、藤原治の方が参考になるが。

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2006年10月02日(月)
2008, 「私」のための現代思想  -6
          (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ~

 ー 先に概要を説明しておくと、
 明治以降、日本人が信じてきた価値観がここにきて大きく崩壊している。
ポストモダニズムが日本にも浸透してきたのである。
「 一流大学を卒業して、一流企業に勤め、そして家を建て・・・ 」
という価値観が根こそぎ信じられなくなってきた現状の原因を、解りやすく説明してある。

現在は、自分で「小さな物語」を創作していく時代である。
「小さな物語」は「大きな物語」の裏づけがあればこそだが、
それが無くなった中で創作していくのは並大抵のことではない。

各自がそれぞれの「捨てられない物語」を受けとめて、
能動的に生きることが自分の「小さな物語」を究極的に生きることになる。
 
 ーーー      
第二章 「私」はどこで、どのように生きているのか -2
 ーリオタールの[大きな物語への不信]ー
 *人とは、[物語駆動装置]である
 
 我われは[何らかの物語]を遂行する生物体です。
 そして、物語の遂行を止めたとき、私たちは[死]という物語を遂行し始めます。
 この物語は、長い時間をかけて遂行されるものばかりではありません。
 [次の試験で、良い成績をとる]というのも物語ですし、[明日の試合に勝つ]
 というのも物語です。すなわち、生きること自体が、物語を遂行することと同義語です。
 
     少し前までの社会には、「大きな物語」が存在していた。
     それは、この時代の大多数の人間が採用していた物語のことをいいます。
     たとえば、[一生懸命勉強をして、よい大学に入り、よい会社に入って、
     高い給料をもらい、結婚して、子供を育て、家を買い、・・」ということを
     大部分の人間が望んでいた時代も過去のものになりました。
     この時代の[尻尾]は、現在でもかすかに残っています。
 
 このような大きな物語は基本的には数が限られており、それはたとえば、
 [故郷に錦を飾る]とか[立身出世をかざる]とかいう言葉でもわかるように、
 現在では滑稽なものに感じられる。
 どれを実現したところで、それが何?という程度のものになってしまった。
 
     大きな物語は、このような[個人の人生]に関わるものではありません。
     [科学の発展によって社会の幸福を増大させる]なども大きな物語です。
     しかし、それは、現在ではむやみに信じられるものではなく、
     人間の理性や知性の限界が露呈して、科学が人間を疎外しているのが現実です。
 
 同様に、政治家が国民のために働く人たちでなく、私利私欲を追及する人たちであり、
 経済学者は国民を豊かにするためでなく、特定の人たちの利益を擁護するために
 学究にいそしむ人たちにように思えます。 このように[大きな物語]への不信を
 特徴とする時代を、フランスの哲学者であるリオタールは[ポストモダン]と呼びました。
 これは、大きな物語を信じつつ、理性によって駆動されていた時代が[モダン]
 であったのに対し、その後に到来する時代を[ポストモダニズム]という。
 
     たとえば、[働いて、月に一度給料をもらい、その金銭によって生活をし、
     さらにまた働く]という[今日を生きる物語]です。
     [小さな物語」は、[大きな物語]が信じられてこそ成り立つが、
     それが無くなった時に それぞれの[正しさ]を、
     私たち自身がひねり出さなければならなくなった。
 
 その中で[逃れる物語]こそが、辛さを発生させている主たる原因です。
 [捨てられない物語]の存在を知ったとき、私たちの生が輝くのです。
 [捨てられない物語]を生きるということは、決して苦痛ではありません。
 それを捨てられないのは、その物語があなたにとっての[究極の物語]であるからです。
 
     もし、ある時点において、「これは『捨てられない物語』だ」と感じたならば、
     おそらくその人は、これ以上ない幸福の中で生きることになるでしょう。
    [捨てられない物語]に対しての悲嘆の感情は、[捨てられない物語]
     に到達しながらも、その物語に達成しながらも、その物語の達成を不可能であると
     断じつつ、「不承不詳生きる」という怠惰によって発生します。
 
 ーーーー
 評)ほんの数年前まであった誰もが信じていた[大きな物語]が
 いつの間にか消え去ってしまった。 現在の日本は正にその混乱の真っ只中にある。
 その一つにグローバル化と、情報化社会の本格的な到来がある。
 大きな物語など虚構でしかないことが情報化のために露呈してしまった。
 といって、小さな物語は自分で創作しなくてはならない厄介なもの。
 
    [ポストモダニズム]は情報化社会の結果である。
     特に数年前からのインターネットの「ブログ」が、
     ポストモダニズムをさらに加速させるだろう。
     明治以降、日本人は大きな物語を信じ生きてきたが、
     もうそんなものは小説か映画の中でしかない。
     それまでの大きな物語は、お笑いでしかない。
 
 自分自身を考えてみても、元々信じてはいなかった?が、
 さらに50歳の頃から小さな物語を大切にするようになった。
 そして、「大きな物語」の価値体系が残っている自分の構図が見えてきた。
 この本も、それに気づかせてくれる内容である。
            モーニングコーヒーでも!( ^-^)_且~~~  

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2005年10月02日(日)
1643.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・2
 ー 人間勉強 ー
 
こういう商売をしていると、社会の裏側をストレートで見せつけらる。
人間社会は複雑怪奇で難しね。
こちらからすると、カウンターの向こう側はどのお客も一緒よ。
いや基準はどれだけ気持ちよく飲んでくれるかだけさ。
しかし当人は違う。唯一の威張れる場所なんだ。

どの客も大して変わらない。ところが当人たちは違う。
それぞれが全く違う世界に生きているかね。そしてそれぞれが他の世界を知らない。
特にそれが激しいのが「先生」と名の付く人種。
よくいえば純粋、悪くいえば社会音痴。あれがよく先生と呼ばれると感心するね。

あとは社長といわれる連中。この不景気ほとんどの社長は元気が無いね。
それと教養が無いのが多いね。自分たちでさえも売り上げを上げるため、
必死に毎日知恵を絞っているのに。
彼らはただ毎日の売り上げの事しか頭がないんだよな。それは営業課長の仕事じゃないか。
営業課長の仕事だけをやっていて社長業を全くしてないと、銀行の「偉いサン」が
いつもこぼしているよ。まあ彼らのトップも似たようなもんだがね。

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2004年10月02日(土)
1278, 人生(時間)のセイムスケール-2

このHPにあった「アンソロジのコーナー」の内容が濃い。
「死の瞬間に何人も悟るだろう。
--人生の目的なるものが、いかにばかばかしいことであったかを」(山田風太郎)などは、
虚無の境に立ったときに「人生の目的とやら」が、卑小なことと直感するのだろう。
人間の本音が、あまりに辛辣に次々と書いてあるが、それでいて、何かホッとするから
不思議である。
★「人生は日常の反復である。だが、いつのまにかずれが入りこみ、
 同じ行為が変質してしまう。反復とずれ、それが人生の時間の意味だ」(吉田喜重
★「神は人間を、賢愚において不平等に生み、善悪において不公平に殺す」(山田風太郎
★「人はだれでも可能性を持っている。
 自分の中にある埋蔵資源をできるだけ発掘して、それに形を与えていく。
 それが生きるということの意味です」(鶴見和子
★「私の人生は失敗の連続だったが、その都度、全力を出して失敗してきた。
 失敗も全力を出せば満足に変わるのである」 (佐藤愛子
★ 「絶望は人生の通過点に過ぎない」 (梁石日
★「線路を走る列車のように、人生は見えないレールの上を走っていく。
そして、終着駅が近いと知ったとき、〈別の人生もありえたのでは〉と夢を見る。
しかし、列車を乗り換えることはできない」(田中 誠)
★「我が命は地球より重い。他人の命は犬より軽い」(山田風太郎
★「人は生まれ、苦しんで死ぬ。人生の要点はそれでつきている」(正宗白鳥
★「みんないう。いつか死ぬことはわかっている。
 しかし、「今」死にたくないのだ」(山田風太郎
★「幸福な人々の死だけ悼もう。つまりごく少数の人々だけを」(フロベール
★「---いろいろあったが、死んでみりゃ、なんてこった、
 はじめから居なかったのとおんなじじゃないか、みなの衆」(山田風太郎
★「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」(橋本多佳子)
★「死が生にいう。〈おれはお前がわかっている。
 しかし、お前にはおれがわかっていない〉」(山田風太郎
★「昔の死は、人が、死にゆく人物を演技する喜劇的な悲劇であった。
 今日の死は、人が、自分の死ぬのを知らない人物を演技する悲劇的な喜劇である」
                        (フィリップ・アリエス
★「死の瞬間に何人も悟るだろう。--人生の目的なるものが、
  いかにばかばかしいことであったかを」 (山田風太郎
★「死んで不幸せになった人を、ひとりでも見たことがあるかね」(モンテーニュ
★「どんな臨終でも、生きながらそれは、多少ともすでに神曲地獄篇の相を帯びている」
                    (山田風太郎
★「大多数の人間は、死なないですますわけにはゆかないので死ぬだけである」
                    (ラ・ロシェフーコー
★「いかなる人間も臨終前に臨終の心象を知ることができない。
 いかなる人間も臨終後に臨終の心象を語ることができない。何という絶対的聖域」                          (山田風太郎
★「おいとまをいただきますと戸をしめて 出ていくやうにはゆかぬなり生は」
                      (斉藤史
★「生は有限の道づれ旅 死は無限のひとり旅」(山田風太郎

・・・・・・・
2003年10月02日(木)
911, 恥ずかしい話

 誰も長く生きていれば、他人に言えない恥ずかしい話は幾つかあるものだ。
露悪趣味的なところが、この随想日記の特徴の一つでもある。
そこでまずは自分の経験談を幾つか書いてみる。

・早速、昨日の朝のJRの改札での失敗談だ。
新幹線の回数券数枚を背広の胸ポケットに入れておいて、
改札の直前にとり出すのが習慣になっている。
昨日そのチケットを出したら、改札の駅員が奇妙な顔をした。
今までなかったことだ。よく見たら名刺であった。妙な顔をするのも当然である。
前日に名刺交換をした名刺を回数券と一緒に、胸ポケットに入れていたのだ。
回数券は名刺と同じに作られている。普断は乗車券しか入れないが、それを忘れていた。
そういえば数ヶ月前、無人改札機に名刺を入れたことがあったが。

・男の人は度々経験するのが、ズボンのチャックの閉め忘れである。
特に朝、慌ただしく出てきたときなどに多い。
学生時代、都内をズボンのチャックをしめ忘れて半日、いやにすれ違う人が
自分の顔を見ていることに不自然さを感じた事があった。そして、その原因を
知った時の恥ずかしさは今でも憶えている。

・紙が顔についていた。ハンカチを忘れた時に、パッケージのチッシュで汗を拭いていた。
トイレで鏡を見たら、チッシュの紙が顔についていた。 紙を顔に付けて歩いていた!
                  ー露悪主義?ハイ!
 
・法事で靴下に大きな穴が開いていて、全員の前で姉に大声で注意されたこと。

などなど、数えればキリがない。忘れることができるから、生きていけるのだろう。
選挙に出て落選するのも、傍で見ているより本人は (;一_一)(+_+)(^^ゞ(-_-;)という。

 以前にも書いた事があるが、インドのデリーで長蛇の車のラッシュの中、
ツアー仲間の中年の女性客がお腹?を壊し、公衆の面前で上半身が見える中、
用を足したことがあった。本当にはずかしい思いだったろう。
 作家の椎名誠が週刊誌の連載で、新宿駅でトイレに間に合わなく・・・
その前後の詳しい内容を書いていたが、さすが作家だと感心した。
大好評だったそうだ。

 心の傷にならないためには笑い飛ばすしかない。
それを重ねているうち、面の皮が厚くなるのだろう。

 しかし羞恥心も人間にとって一番大事なことだ。
品位にかかわってくるからだ!
 
・・・・・・・
537, 緩慢なる自殺
- 2002年10月02日(水)

 十数年前の東京の経営セミナーで、漢方の薬局を経営している人から
 聞いた話で、今でもその忠告を守っている。

 ーその内容は
・白砂糖は毒そのもの、絶対に口にしないこと!
 ーコヒーに入れて飲むのが一番悪い。
・缶ジュースも毒そのものー冷やすと甘味が薄れる為、甘味料を異常に
 入れてある。特にコーラは要注意、どうしても仕方なく飲みたいときは
 スポーツ飲料にすること
・インスタント物も可能か限り口にしないこと、やむをえない時は
 冷凍食品にする事。
・内臓ものも口にしないことー焼き鳥とか、レバ焼き。
 ラーメンもたまに食べるのはいいが、常食にしないこと
  -中華そばの汁は骨とかでダシをとってある。
・マヨネーズも危ない。今は動物性から植物性に変わっているが、ドレッシングがよい。

今考えてみて、それを実行してつくづくよかったと思う。
今の人を土葬にしても骨が腐らないためにそのまま残るという。
防腐剤のためだ。 長岡のあるホテルの人から聞いた話だが「裁判調停の為長期で
泊っていた母と子が数ヶ月間、3食カップヌードルを食べていた」と聞いたことがある。
聞いただけでゾッとした。

農家は農薬を使っている現状を知っている為、自分達の口に入れる
作物は無農薬しか口にしないという話を聞いたことがある。
こうなるとエログロの話だが実際のところそれに近いのだろう。
今になって狂牛病が大問題になっているが、知る人ぞしる話である。

「それでも世界で一番長寿なのだから心配することはない」
というのは見当違いで、それは今のお年寄りの話。
そういう食品を若いときに口にしてない。
今の30~40歳以下の人はその保障はない。

「インスタント物」と「缶物」と「砂糖などの糖分」は口に入れないことだ。
そうしないと、緩慢なる自殺をしていることになる。

・・・・・・・
[168] 忘れられないあのお店-1
            2001/10/02

 このキーワードを聞いただけでも、
ある年齢を超えた人なら深い思いに駆られる。
初めてのデ-トで入った店とか、初めて一人で入った店とかのことだ。
これをキーワードに過去をさかのぼると、無限に近い記憶が戻ってくる。

 考えていたら予想を超えて、全く違う思いが底より湧き出してきた。
それが意外と?長岡の大手通りの‘生家の池津屋’という店だ。
要するに幼児体験の自身のアイデンデテーに立ち返るということだった。

 私が3歳の時に両親が当時ビルを建設をはじめた。
その時に仮店輔で木造の家を、今の厚生会館(前は公会堂)の前に引越した。
家の下に、丸たんぼうを入れて移動したのだ。
個人の申請として全国で初めてのビル建設だったという。

 昭和24~25年の頃で、その時のことをハッキリと覚えている。
ビルの完成、そして引越し、仮ネグラの二階の奥の記憶!

 今の緊張感の数倍あった!当時の方が圧縮された生々しさが有った。
あの白壁の匂い!そして三階への引越し。四階に従業員のねぐらと倉庫。
子供ながら色いろあった。それが(トップページの倉蔵の写真)の中にある。

 考えてみても、異常体験だった。
でも刺激的で悲しくもあり、楽しい毎日であった。
10人の家族と20人以上の従業員の戦場のような毎日!
 そのまま描写したら、面白い小説になるような日々の連続であった。

                -つづくー