つれづれに

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 昨日は、長岡の奥座敷といわれる蓬平温泉で、小学校の同期会が開かれた。
私は日帰りで、帰ってみれば22時半。 大いに盛り上がり、騒いだこともあり、
二日酔いゼロ。 駅周辺のスナックに寄らずに、帰ったのが正解。
 
・・・・・
2363, 郵便配達夫シュバルの理想宮  -2
2007年09月22日(土)

シュヴァルの凄さは、理想宮が明らかに意味あるものなら解るが、
今でいうテーマ・パークを、誰の理解もされずにただ黙々と石を集め、
自分の心の命じるまま理想宮をつくり続けたことである。
ただ、そのプロセスの中で生甲斐を感じていたはず、もし感じてなければ続くわけがない。
他の人から見たら何ら意味もないことを、自分でも意味など考えてなかったのだろう。
あるのは、それに取り組んでいるときの何ともいえない喜びである。
続けているうちに、評判を聞いた外部の人が見に来て、褒めてくれたこと、
認めてくれたことなどで、意味を見つけていったのである。
それは結果として、潜在意識の具現化につながっていく事になる。
だから、そのテーマ・パークはみる人の気持ちをうつのである。
もちろん、周囲の人は、その奇異な建物をみても理解などできようがない。
むしろ外部の人は、それを冷静に客観視できるから興味も加えて評価が可能になる。
創造者は、まずは気違いにならないと新しいことは創造できない。
そして周囲は、その姿をみて、気違いという。だから面白いのである。
 ーその部分を抜粋したみるー

ー村の気違いー

シュヴァルは、村では最初から異端者であった。
農地を持たない、という一事だけでも、村において、人を異端者とするに足りたであろう。
そのうえ彼には、孤独癖、厭人癖があって、周囲の生活に決してなじむことが
できなかった。パン屋をしながらの数年間の放浪は、そのことを示している。
郵便配達という職業は、この異端を一時期蔽い隠していたけれども、
彼が宮殿を建設しはじめるに至って、この異端は露わになり、決定的なものとなる。
{近所の人たちは、私の毎日の石運びに気づきはじめました。
彼らは最初、道路管理官に売るための資材を私が集めているのだと考えました。
やがて私は、そうではないことを覚らせました。
《じゃあ、どうするんだ》と彼らは訊ねました。
《宮殿を建てるんだ》というのが私の答えでした。私がこんな風に答えると、
彼らは、当惑した様子で私をみつめました。
やがて、郵便配達シュヴァルの天井に蜘蛛の巣がかかった(この地方の言い方に従えば、
帽子に蜜蜂が入った)〔いずれも気がおかしくなった、の意〕という噂がひろがりました。

或る日、局長が私に言いました。
《シュヴァル、この辺では誰もが、君の頭がおかしいって考えてるのを知ってるかい?》
《なぜです?》と私は訊ねました。
《いいかね、皆が言うには、君は宮殿を建てるって言っているそうじゃないか。
 菜園を作るかわりに、そこに古い石を運びこんでいるそうじゃないか》
《わかりました、局長、そうしたことが気違いというなら、私はいくらかおかしい
のかもしれません。川で釣りをして楽しむ人たちがいます。村のカフェでトランプを
する人たちもいれば、ペタンクをする人たちもいます。
博覧会にあるような一種の宮殿を建てるために石を集めるのが私の楽しみなんです。
みんながみんな、同じ休みのとり方をするとは限りませんよ》
局長は笑って、こう答えました。
《わかった。多分君の言うのはもっともだ。ともかく君の病気は、無害なものだ。
だから気違い病院に送られることはあるまい。君が仕事をおろそかにしない限り、
そんなことは私には無関係だ》。}

彼はここで、宮殿の建設を魚釣りやトランプと同列に置いているけれども、
これは勿論、局長を納得させるための方便にすぎない。
彼の心の中では、それは断じて、魚釣りやトランプなとと同じ楽しみなどではなかった。
魚釣りやトランプは、日常生活の一駒であり、あとになにひとつ痕跡を残さないが、
これは、日常生活の流れに逆らい、それを食い止め、「この世界で唯一の不思議」
(北の正面の記銘)を作り上げることによって、おのれの否応ない痕跡を世界に深く
刻みつけることなのだから。それは、日常世界の中に非日常の世界を現出させる
ことであり、彼自身もいくらか自覚しているように、まさに狂気の事業なのだから。
以後彼は、周囲の人々にとって、「庭を石で一杯にしている哀れな狂人」となる。
しかし村民が、彼の宮殿の建設を無害な道楽と笑って見逃していたとは思われない。
彼自身言っているように、「人々は自分の理解できないものを迫害する」(ノート)からだ。

彼は近隣から、陰に陽にこのような迫害を受けたに違いない。
彼が、人々の寝静まる深夜に仕事をしたのは、「人々の嘲笑を避けるため」
であったという彼自身の言葉をモーリス・ヴェリヨンは記録している。
宮殿を建設しているあいだ、彼がもっとも苦しまねばならなかったのは、
このような周囲の冷眼と嘲弄であったろう。周囲のきびしさに背を向け、
孤独な子供が部屋に閉じこもるように、彼は仕事に閉じこもる。
周囲のきびしさは、彼を仕事へと向かわせた原動力だったとも言いうる。
「やつらは俺を気違い扱いした。しかし復讐してやる。やつらを駄目にしてやる」
ボンコンパンは、シュヴァルの親戚の一人から、シュヴァルのこうした激語をきいている。

周囲が耐えがたいものになればなるほど、宮殿の細部が豊かになり、息づいてくる。
いや、そうならなければならない。彼には、宮殿以外に生きる場所がないのだから、
こうして彼は意志に凝りかたまる。
彼は宮殿の回廊の壁に「人生は戦いだ」と記しているが、
この言葉には無量の感慨がこめられていたはずである。
彼が詩を作るのも・三十三年の感慨は・詩の形でしかあらわせないからに違いない。
私の意図のため私の体はすべてに立ち向かった時閻にも批判にも歳月にも仕事が
私の唯一の栄光人たちもいれば、ペタンクをする人たちもいます。
ーーー
以上だが、それにしても素晴らしい。
彼が、この宮殿を創れたのは材料費が殆どゼロだったことあるが、
やはり一人黙々と自分の意思のまま、作業を続けることに生甲斐を感じたからである。
この随想日記も少し似ているか? 毎日、続けることに関してだが、
しかし、これは少しは意味のあることは誰の目にも明らかであるうえに、
多くの人が実行していることに過ぎない。

・・・・・・・・
2006年09月22日(金)
1998, 「私」のための現代思想  -2  
   (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ~  -読書日記

第一章 「私」を縛るものは何か ー?
 ーまずは問題とはー

まず「我われの世界は正しいのか」という問題をまず考えなくてはならない。
我われの世界には正しい部分と、腐った部分がある。
《「世界」と「私」は、ともに腐っていく》という方が解りやすい。
この世界で自分が腐っていくのを実感することは、
さらに腐敗にまみれないようにするためには、非常に重要である。
我われを拘束する要素として、<言葉><価値><社会>が考えられる。

ー言葉ー
私たちは<言葉>を使ってこの世界を認識し、他者に何かを伝えます。
言葉は「思考の枠組み」であり、便利な道具ではあるものの、
逆にその「枠」の外には出られないという意味で束縛となる場合がある。

    ー価値ー
    私たちは何らかの、<価値>を求め、それに照らし合わせて
    自分の行動を決定したり選択したりします。
    自分が重要だと考えている<価値>そのものが、
    私たちを束縛している場合がある。

ー社会ー
この枠組みは、私たちがよりよく生きるために構築されてきたもの
ですが、そこに窮屈感や閉塞感が出ることがある。
これらは「束縛」となる場合と、「自由になるための武器」になる場合がある。
 この束縛から脱するには、これらを得なくてはならない。
 得るためには、まずは言葉・価値・社会とは何か知らなければならない。

まずは
ーー《言葉》についてーー

言葉の機能の中心には「分類」があります。
これは、言葉は「私たちが知覚したものを分類する」ために用いられるという意味である。
私たちが「何かを学ぶ」ということは、
ー社会において重要とされている分類基準を自分のものとするー
ということを意味しています。このとき私たちは、少しだけ「自分を殺す」ことになります。
それが「大人になる」ということであり、「社会化する」ということです。
    
    フランスの精神分析家のピエール・ルジャンドル
    =換言すれば、    
   「 自己と世界に対する関係は言葉のスクリーンを経由する 」ということです。
    人間のアイデンティティには複数の水準がありますが、
    自己への同一化(それが主観的なアイデンティティ形成です)と、
    世界の同定および世界への同一化ということです。
    その全てにとって前提となるのが言葉のスクリーンなのです。

自由に「思考」するためには
=「他人の考えるように考える」ということは、重要である反面、
「他の人が考えるようにしか考えられない」という状況を発生させてしまう。
そのときに人は「言葉による束縛」もしくは「言葉の専制」を実感します。
そうならないために、‘社会の側の分類規準は便宜的なものでしかない’
ことを、しっかりと把握しておかなくてはならない。
自分を殺さずに、社会の側の分類規準と上手くやっていかなければならないが、
そのとき重要なことは、「言葉の主人は自分である」という意識を持ち続けることである。

すなわち言葉は、
  自分を拘束するものではなく、認識の道具であり、
  意思伝達の道具であり、思考の道具である。

    言葉が「意思」伝達の手段である時、
    私たちは社会の側の分類基準に従わなくてはなりません。
    しかし言語が「認識や思考」の手段であるとき、私たちはそれに必ずしも
    従う必要はありません。問題は、認識と思考のための道具である言語を、
    伝達のための道具として使ってしまったところにあるわけですから、
    その用途を明確に区別することができれば、その束縛から逃れることが可能になる。
    しかし、実のところ容易なことではありません。
 
 ここで、思考や認識は、単に「思考し、認識すること自体」を目的とするのでなく、
 <価値>という基盤の上に存在する営みだということに注意が必要です。
 私たちは言葉を使って何らかの<価値>を実現しようとしています。
 
 次には、 その<価値>について考えていくことにします。
 ー感想ー
 この随想日記を書き続けることの束縛が、反対に言葉の束縛を一つずつ開放してくれる。
 一つの束縛が、一つの開放の獲得になる。
 要は、それぞれの束縛が物語としての基盤になっていれば、
 それが人生の物語の完遂になっていく。
 まずは、言葉による自分の物語の構想を若いうちからしておくべきである。
 それが、その人の価値観になるのである。
             ヽ(●´ω`●)ノ。バイ!
・・・・・・・
2005年09月22日(木)
1633, 閑話小題

ー雲を消すー
私が、雲を消すことができるというと、頭がおかしくなったと思うだろう。
しかし消せるのである。 まずは雲の消し方を紹介しよう。
晴れた日にたくさん浮かんでいる雲のうち、3センチくらいに見える雲を指さして
「消えろ、消えろ……」と念じると、だいたい三分ほどで雲が消えてしまう。
ぜひやってみると面白いはずだ。
小さな雲は、常に発生したり消えたりを繰り返している。
指をさして念じなくとも、小さな雲は三分くらいで消えるもの。
そうした現象の種明かしをしらないと、実際に雲が消えたように見えて、
念動の存在を信じてしまう。 実際、それを信じている人もいるから面白い。

ーあのビルの臭いー
爆破当時にニューヨークの9・11の貿易センタービルの下を通っていた地下鉄で
電車が通過する時に、ものすごい臭いがしたという。
何千?人分の腐った人間の出汁の臭いとか。
思い出したくない地元の人は生ゴミの臭いと言っていたという。
(マスコミにはあまり出てこないはなし)
また、その翌年アフガンでは10万人以上が餓死したというが、
そのことは殆んど新聞には報じられなかった。

ー晩婚化と高齢化ー
現在の晩婚化は高年齢化に深く関係しているという。
もうかなり以前だが、『人生ゴムバンド』という説があった。
高齢化になったぶん、人生の節目と節目の期間が延びたという。
なるほどと肯いた。私の知人数人が30代半ば結婚したが、現在も子供が学生である。
65歳までは収入は落とせないと言っているが、そう話しながらでも本人は嬉しそうである。
下の子供が大學を卒業した時にホッとしたと同時に、何か物足くなった。
年金が満額出るのはあと三年だが、その時は・・・

・・・・・・・・・・
2004年09月22日(水)
1268, 大相撲に思うーつれづれに

大相撲が始まると、相撲について書くのが恒例になってしまった。
場所ごとに刻々と、相撲の様相が変わっている。
最近は、朝鮮相撲、モンゴル相撲、レスリング、そして日本相撲の
「国別異種格闘技」の様相に変ってきている。
外国人の出身地もハワイ、アメリカ大陸から、モンゴル・旧ソ連圏になってきた。
彼等は、お金を稼ぐという目的がハッキリしていて、ハングリーなのだ。
それと骨格も違うのだから、日本人がどの面から見ても勝つ要素が少ない。

異種格闘技のK-1では、日本人がほぼ駆逐されてしまったが、
相撲も、あと一年で大関横綱はほぼ外人で独占されるだろう。
国別異種格闘技として割り切って大相撲を見ると、むしろ面白い。
日本人も個性的な面白い力士が出始めてきている。
小さくて、その小ささを武器にしている力士や、
気力を売りにして神がかり的相撲をとる高見盛などである。

一つ気になるのが、「一部屋に外国人一人の制限」である。
ある新聞の冗談とも、本音ともいえる提言が書いてあった。
「外人枠を撤廃をして、東西それぞれを日本対外国人に分けて対抗戦にしたら!」
なるほど、そのとおりにすべきである。前半は外人対日本人、後半交流戦とかして。
これこそ、グローバル化である。

これに、今のプロ野球を重ねると、面白い姿が見えてくる。
このプロ野球の恩恵を受けていたのが、日本のトッププレーヤーである。
グローバルに見れば二流選手(大リーグからみた)でしかない。
2Aか3Aクラスの選手が、二倍以上の年収を受けていた事実が判明した。
今回の騒動の中で、それが露出されるだろうから皮肉なものだ。
相撲も、プロ野球も大きな曲がり角にきている。
TVでは巨人戦を開幕来、殆どみていない。しかし大リーグは結構見ている。

一リーグ戦にすべし!
今、反対意見を言っているのは、目先しか見てないファンか、選手ごときと、
それをネタにしているマスコミである。
大リーグと契約をして、公式の交流戦に参加すればよい。
アメリカの方が断る可能性があるが、といって日本の市場ができるから
彼等にもメリットがあるはずだ。 話はかなり逸れてしまった。

ー後記ー
書き終わって去年と一昨年の随想日記をコピーしていたら、
三年続けて同日に相撲のことを書いてあった。
それにしても奇遇である。潜在意識が呼び寄せるのだろう。
年々、内容が変化しているのが面白い

・・・・・・・・・
2003年09月22日(月)
901, 相撲を考える

 大相撲が昨日で千秋楽、朝青龍が優勝をした。
他の格闘技も多くできたこともあるが、最近の大相撲はつまらなくなった。
つまらなくなったという点で、今のプロ野球に似ている。
NHKのBSでメジャーリーグを見るようになってから、全く見なくなった。
 
 以前、「過去の相撲の大一番」を特集していた。
子供の時から相撲が好きであった事もあって、ラジオやTVで大一番は殆ど見ていた。
・私が見た中での大一番は「栃若の千秋楽の全勝の一番」である。
大鵬柏戸の千秋楽の全勝同士の一番も素晴らしい一番であった。
・生まれる前なので見てないが、歴史に残るのが双葉山が69連勝の
 後、安芸の海に負けた相撲も大一番といえる。
 
 栃若が全勝で向かえた千秋楽の前日の逸話がある。
栃錦があまりのプラッシャーに「一人でこっそりと映画に行ったところ、
前の席にやはり若乃花がいた」という。
大乃国双羽黒・保志・小錦が一度に昇進していく時期も面白かった。 

 相撲は、立合いの一瞬に大方が決まってしまう面白さである。
また数秒間の中に、それまでの二人の全てが圧縮されて出てくる。

 いま人気の高見盛の相撲が面白い。
特に「入魂の儀式」としての、最後の仕切り前の気合を入れる仕草が
人気をよんでいる。それが神憑りになるから見ていて面白い。
緊張を気合に転換するための、純粋な仕草さが受けているのだ。
勝てば胸を張って退場するし、負ければ泣きそうな顔をして引きあがる姿が
滑稽で、忘れかけた人間の原点を見せ付けられるようだ。

 今場所、横綱をかけていた魁皇が逆上せ上がって自滅していった姿が
印象的であった。高見盛の人気に対して個人的嫉妬がアリアリで、
軽くいなそうとしてヒンシュクをかってしまった。
勝負の世界は一瞬の隙がチャンスを潰してしまう。

 ・・・・・・・
2003年03月12日(水)
707, モンゴル大相撲

 先場所の各段の優勝は序二段を除いて全て外人が取ってしまった。
今場所からは、両横綱とも外人である。
外人力士が50数名いるうち8割がモンゴル出身である。
-以下字数の関係でカットー2007年9月22日

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2002年09月22日(日)
527, 大相撲ー頑張れ武蔵丸

 まさか貴乃花が千秋楽で同点決勝に持ち込めるとは思ってなかった。
もし優勝をしたら大騒ぎになるだろう。
こういう時に勝つのが大スターであるが、彼はそれを持っている。
しかし心情からみたら武蔵丸の勝利が望ましい。

 前回あまりにも貴乃花が劇的すぎた!
武蔵丸のその時の姿がリアルにある記事に書いてあった。
おまけにその為に貴乃花を大怪我をさせてしまい、
かれが負けると、場内に座布団が荒れ飛ぶ。

 この一年余り、独り横綱も大変であったろう。
それが7場所も休んだ主役に優勝をさらわれたら、余りに気の毒である。
もし彼が勝ったら、盛り上がった今場所に水を差すことになる。

 貴乃花が勝ったら、一応彼の人生の大きな節目になるのではないだろうか。
横綱の道を歩く為には、今日は負けた方がよいだろう。
大鵬の30回の優勝に向けて、身体を作り直すチャンスだ。
勝てば他の力士に焦点を当てられてしまう。

 それにしてもスターの要素を持った若手がいない。
このままでは、ますます人気の陰りが増すだろう。
幕下と十両に元学生横綱の個性派と外人が数人いるが、輝いているかというとどうか?
他の格闘技で面白のが、どんどん放映されているから八百長体質
があるなら、相撲人気はますます落ちていくだろう。

・・・・・・・・・
[154] 性善説性悪説   2001/09/22

 以前、身近に[おれは性善説だ]と口癖の男がいた。
本当に性善なら‘それを売り言葉に使うのがおかしい’という事も解らない。
人間なんぞ性善も性悪もごちゃ混ぜになっているもの。
光のあて方でどうにもとれる。「性悪の路線の上を性善で走れ」
あたりが少しもっともらしいのかもしれない。

 善良は、ある状態ー苦労やぎりぎりのところに立ってない状態ー
でいっている戯言でしかないというと、言い過ぎか。
善悪とは、多様にあり解釈の結果でしかない。
詐欺師やその手合いはその事を熟知している。
従って善良という言葉の衣服を綺麗に着こなす。

 本当に世の中、悪がいる!芯からの悪党がいる。
その人間が‘俺こそは実は性善’だと信じていたら、手のつけられない
悪党になれる。それか、政治家いや政治屋向きであろう。

 自分中に隠れ住んでいる‘邪悪なるものと神聖なるもの’と、とことん付き
あってみれば、性善説性悪説は見方の一片でしかない事にきずくはずだ。
 どうでもいいことだが、言葉の遊びレベルでいっているだけだが。