つれづれに

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 今日のYoutube

 写真は、韓国の美人女優の顔のパーツを合成してつくったモンタージュ写真。
ある以上になると、あまりかわりばえはしない。 
 それより、鼻も、口も、目も、顔の輪郭も平均的なパーツを集めた合成写真を
見たことがあるが、これは美人だった。 どうでもよいことだが・・・
 「うんこ」をしているイメージが、出てこない人ほど美人というらしい・・・


・・・・・
2337, 郵便配達夫シュバルの理想宮  -1
2007年08月27日(月)
                ゚∇^*)オハヨ♪
 「郵便配達夫シュバルの理想宮 」-河出書房ー岡谷公二

図書館の返却コーナーで見つけ一昨夜読んだが、とにかく面白い!
以下は、シュバルの理想宮の概要であるが、私好みである。
最近は、普通の成功話など何とも感動などしないが、
こういう馬鹿と気違いの紙一重の話には興味をそそられる。
それもユング的な世界を、そのまま理想宮という形で33年間もかけて、
コツコツと創りつづけるなど、何と感動ものである。

ーまずは、その概要というとー
 --
1879年、フランス南部の片田舎のドローム県オートリーブの郵便配達夫
フェルディナン・シュヴァルがソロバン玉が重なったような奇妙な形をした石につまづく。
その時にその石から何らかのインスピレーションを得たシュヴァルは、それ以降、
配達の途上色いろな石を仕事が終わると拾いにいき、自宅の庭先に積み上げていく。
そしてそれから33年の月日を経て宮殿の「建設」は完了する。

村人達からは気違いざたとして白眼視されたが、マスコミに取り上げられ、
見物客が訪れるようになった。シュヴァル自身は、この宮殿には居住しなかった。
そこの地下に墓所を造り、 家族と一緒に「エジプトのファラオ」のように
埋葬されることを望んでいたが、 教会や村人たちの反対で断念した。
そこで村営墓地に、理想宮に似た小規模な墓所を造った。

彼の没後、シュールレアリスムの詩人アンドレ・ブルトンが「宮殿」を称賛、詩を作成。
その後は、フランス政府により国の重要建造物に指定され、修復も行われている。

彼はしがない田舎の郵便配達夫で、石工、建築の知識は全く持ち合わせていなかった。
徒歩で配達をしながら、時折、配達物の中に見られる絵葉書から、配達の道々、
頭の中で夢の宮殿を建てては壊していた。
彼にとって、それは夢であり、それが現実になろうとは思っていなかった。
しかし躓いた奇妙な石をみてシュヴァルは、自然がこんなものを作り出せるのなら、
自分にもできるはず、と考え現実のものへと変えるきっかけをつかんだ。
石につまづくことは誰にでもある。
しかし、彼はその「つまづきの石」を掘り起こし天啓を受けたと思い込んだところが違う。

この宮殿の素晴らしさは、図面などを頼らずに、夢などの潜在意識の導きに従い
創られていったことである。生の欲求のままつくられたから、意味があり、
ユング的な深い意識の地下から湧き出た建設だから、心打たれるのである。
著者の岡谷公二は画家のルソーと彼の類似をみている。
新しい絵画や、一切の理論に煩わされないで、ひたすら自分の生の井戸から
水を汲み続けたルソーと同じ無垢を、このシュバルに感じたようだ。

この時代に村の人から「気違い」扱いされながら、ただひたすら独り石を集め、
宮殿を創りつづけた男の魂の迸りに感動したのである。 それにしても、
この奇妙な宮殿を国の重要建造物に指定するフランスも、素晴らしい国である。 
日本でもマスコミに度々取上げられたそうだが、私はこの本を手にするまで
知らなかった。 「見ても見えず」だったのかも知れない?いや見てはいない!
一度、この建物をみたいものである。
                        byebyeヽ(o・ω・o)ノ
ーーーーーーー
2006年08月27日(日)
1972、 事業百訓ー1996年(10) H0801 新年にあたり

ずばり今年のキーワードは“今年は特に面白い!”である。
現在の日本そして世界の大混迷の起因は一九八九年の冷戦終了であるが、
その背景には情報化社会の潮流の到来である。
これは一万年前の農業革命以来の変革であるという事は今さら書くまでもない。
今年はじっくりと一歩さがって、その正体を観察したい。
これだけでも地球に遊びに来ただけの価値は十二分にある。
まさか冷戦の終了、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体が見れるとは思わなかった。
これだけでも充分価値があった。さらに去年よりの日本の国内での“大乱”である。

今年も“見せ場”になるのではないかという要素が多くある。
米国大統領選挙、日本の小選挙区制度下での衆院選挙、オリンピック、
金融社会主義の崩壊等々をきっかけとした大変動である。

また、身近でも酒屋、米屋、給油所、化粧品店、スーパー、一般小売店
飲食店等の規制撤廃よりくる大競争の本格化がはっきり表面化してくる年である。
この変化にむしろビジネスチャンスを自らの手で創造していく事こそ直面した問題となる。
その切迫感こそ“面白い!”のである。 もう一度言おう“今年こそ特に面白い年である!!”


H0805 エジプト、トルコ感激の旅  ーエジプト編ー 

 まさにタイム・スリップして数千年前の古代を旅している日々であった。
まず最初に訪ねたのがカルナック神殿であった。
“まさしく驚愕!”直径が二mの石の大列柱が百数十本並ぶ神殿。
これが三千数百年に本当に!周辺の王侯貴族を驚かす為に造られたというが、
今まさに自分が、目を丸くして驚いているのだ。
歴史が私という小さな存在を見下ろしているのだ。

 日本ではまだ縄文の時代、これを造りあげた高度の技術があったのだ。
そして壁に刻みこまれたレリーフ、古代文字、
現地のまだ若い日本人女性ガイドの熱心な説明も手伝って
古代文明の世界にタイムスリップした気分になってしまった。
空に天を指すオペリスクとラムセス?世などの王や神の像の数々、
今まで何度か海外旅行をしていながら、
何故ここにもっと早く来なかったのだろうか?と考えてしまったほどだ。
 
 次に行った“王家の谷”。ここは何代の王様の墓が、
 かくれるように数々掘られている集団墓地だ。
この中で英国の考古学者カーターの執念でつきとめられた
ツタンカーメンの墓室にも入ってみた。
 
 また、夕日の長い影を落としていたハトシェプスト女王の壮麗な葬祭殿と、
そこにやはり刻まれていたレリーフの数々。
その帰りにたちよったネクロポリスの麗に立つメムノンの二体の巨像
の神秘的な光景も印象的であった。
 
 その翌日行ったアブジンベルの大神殿、小神殿、のラムセス?等の
巨大な立像も実際そこに立ってみて古代歴史の深さを実感する事ができた。
またアスワンのナイル川で乗ったのんびりした“ファルーカ”という
小さな帆かけ舟の夕日の中での“ひととき”も、
一瞬の中に永遠を感じる事ができるようだった。

 旅の後半になってカイロに入ったが、ナポレオンが言ったという
“四千年が諸君を見下ろしている!”という、
まさに異様なイスラム社会が大きなカルチャーショックになった。
丁度、ラマダン(一ケ月間の日の出から日の入りの断食の行)という事もあり、
異様さがさらに目立ち、我々日本人は西欧社会に感化されているのが対比する事ができた。
 
 早朝、街中とどろくアラーラの祈りのスピーカーの音も異様そのものだった。
我々の目からみると、接するエジプト人全員が金に特に汚い詐欺師そのもの、
“騙すより騙されるのが悪い!”“車は轢かれるほうが悪い!”とか、
それがイスラム教という。

 カイロ郊外にある二百五十万個の巨石を積みあげたピラミッドも
本当にすばらしいの一言。
考古博物館のツタンカーメンの黄金のマスクと財宝をみた瞬間、
ゾクゾク身ぶるいをしてしまった。
まだ今にも起きあがりそうなラムネス?をはじめとする数々のミイラも
数千年をこえて、不死への激しい希求を魂に語りかけてくるようであった。

H0805 エジプト、トルコ感激の旅  -トルコ編 ー

 トルコといえばキノコ岩等の奇岩の群れのあるカッパドキアが有名である。
トルコ中央に位置しているアンカラの南東に広がる高原地帯にある。
中世にイスラム教徒の圧迫により逃れ逃れたキリスト教がたどりつき、
奇岩をくり抜き洞窟教会や住居をつくりあげた聖地である。
まさにSF映画やアニメ漫画に出てくるような現実ばなれした奇景そのもの。
“本当にここは地球上?”と息をのんでしまうほどだ。

 その近くにあった地下都市・カイマルクも異教徒からの目から逃れる為の秘密地下都市群。
あちこちに蟻の巣穴のように縦横に掘られており、地下のマンションと形容できた。
一万人以上が何世紀にわたり隠れ住んでいたという、信仰の深淵さをみた思いであった。
そして、その帰りのバスの中より夕景の“大きな 丸い真赤の月光”も
生まれて始めてみる生涯忘れられない光景であった。
 
 イスタンブールの地下宮殿と呼ばれている
地下水道の貯水池“イエレバタン・サライ”も非常に印象的なものであった。
十二列×八mの列柱が三百三十六本整然と並んでおり、その一本の柱の下に
神話に出てくる女神、メンドーサの石首が土台になっているのが神秘的だ。
バック・グランド・ミュージックにベートーヴェンの第九が厳かに流されていたが、
その場の雰囲気にぴったりであった。

 トプカプ宮殿では、かのオスマントルコ帝国が、
何世紀にわたって世界中より集めた秘宝がところ狭しく展示してあった。
リンゴ大の四十数カラットのダイヤモンドや純金の椅子には驚いた。
宮殿もその絢爛たる宮廷生活をしのばせ、
四〇〇年間のスルタン(皇帝)の日々が目に浮かぶようだ。
 
 また、イスラム寺院のブルーモスクやアヤソフィアも、
その荘厳な内部も圧倒された。私自身、気功をやっている為か、
右手がいたくなるほど、しびれがきたのには驚いた。

 これだけの深い歴史の国に四日間だけで、ほんの一部しか触れる事はできなかったが、
この国の“光”の一部はしっかり見たつもりである。
 
 最後に行った巨大市場、スークも面白かった。
五千の貴金属、みやげ物を売っているが、ほとんど偽物の金銀の貴金属商品という。
そういう目でみると逆に面白いものばかりであった。
殺人的なスケジュールの十日間の旅であったが、
中味の濃い感動・感動そして感激の日々であった。(H 8年.1月30日~2月8日)

H0807  インカ帝国<夢の旅> ーマチュピチュの遺跡編   

 ペルーはインカ帝国がスペインに滅ぼされるまで文字が一切ないという
不思議な文明の国であった。その為かプレインカ(インカ帝国以前の文明)と、
インカ帝国がより神秘的にナゾめいて来る。その圧巻がマチュピチュの遺跡である。
高度三千三百mのインカの首都であったクスコよりバス、登山列車、登山バスを
乗り継いで四時間あまりの行程。
四千~五千mの山々の谷間に、突然小さな(といっても二千三百m)山が見えてきた。

 そこに空中都市といわれるマチュピチュの遺跡が、
霊界のように造られていた。まさに地上世界ではなく「あの世」を思わせる
神秘的、霊的、宇宙的な別世界である。
エジプトのカルナック神殿をみた時の驚き!と同じか、
それ以上の驚嘆に一瞬につつまれてしまった。
あれだけTVドキュメントと写真でみていたのに、“現実にみると全く違う!”
神秘的あまりにも神秘的、いや霊的神性という言葉が、ぴったりとする!
本当に地球は広いそして深い!とあらためて実感した。

 この空中都市は、インカの人々がスペイン人より逃れる為と
復習の為の作戦都市といわれている。
そして突然、この都市を焼き払い奥地へと消えていき、
まだ発見されてない地に伝説のそして幻のビルカバンバの都市を建設したという。
マチュピチュを去る決意をした人々は老人と“太陽の処女”たちを殺し、
その一角の墓地に葬った。この遺体がこの遺跡が発見された時に一緒に発見されたという。
私もこれだけの異界文明の“すごみ”を経験するのは生涯で初めてであった。
まさにSF小説の地を夢で浮遊しているようであった。

H0807インカ帝国<夢の旅> -ナスカの地上絵編ー 

 AC百~六百年の昔、海岸から三百八十kmの乾燥地帯に一つの文化が栄えていた。
謎の地上絵で知られるナスカ文化である。
彼等は何を思ってか九百k?にわたる広大な大平原に直接、
三角形の図形と線の動物、虫、植物、宇宙人(?)の絵を描いた。
(その絵と同じものが当時の土器に描かれているので、
彼等の時代に描いたのが判明できたという。)

 その地上絵は飛行機ではじめて発見、判明された。それが何を意味しているのか、
宇宙人説、空飛ぶ人間説、星座をあらわすカレンダー説などあるという。
灰色の土地を十cmも削ると黄色の地面が出てくる。
それを三十cmの巾で十~三百mにおよぶ絵をえがいている。
その数がペルー全土で二百以上あるという。
そしてその多くがナスカに集中している。
 
 セスナ機で二十分位飛んだ大平原にあちこち見えてきた。
本当に宇宙人にみせる為としか思えない。“UFO”のまさに世界である。
少なくとも、このフライトの間は宇宙人は本当に存在しているのでは?
と確信したくなる光景であった。
ハチドリ、クモ、コンドル、サル、宇宙人の絵と、
その背後に何キロにわたる縦横に描かれた直線は、
誰に見せる為のものであろうか不思議そのものである。
 
 編みあげの髪の毛のインデォのおばちゃん、アンディスの山脈、
チチカカ湖にすむ原住民の素朴な生活。
そして世界の七不思議といわれる巨石建設の技術等に、
強烈なペルーの魅力的な世界が今でも脳裏にやきついてはなれない。
高山病に悩まされ死ぬ思いであったが、そんな事は些細に思わせるほどの
聖なる不思議な日々であった。
(次の南米はペルーの反対側にあるキアナ高原にある世界最後の秘境、
                          テーブル・マウンテン)
                 ーH08年6月6日~
H0809 大地の果て南アフリカ 

 はじめに南アフリカに注目した時、何と遠い国かと思ったが、
英国・ジンバブエ・ボツナワと飛行機を乗り継いで
本当に“遠くへ来たものだ!”と実感した。
わずか十一日の間にこれだけ多くの見聞と感激と驚きを経験できるとは…。

 ツアーの同行者十名が二十~五十回以上のリピーターが大部分で、
トラベルにつきもののトラブルを全員で逆に楽しむ強者ばかり。
そのためかストレスが最小に済んだ事もあって、非常に楽しく味わい深い旅行であった。

? 一番の圧巻はジンバブエにある世界三大瀑布の一つのビクトリア滝であった。
 リビングストンの発見したこの滝は幅千七百m、落差百五mあり、
 まさにあのイグアスの滝に匹敵する壮大かつ豪快な男性的な景観であった。
 またそこでの超恐怖体験のバンジージャンプは、
 この旅行のすべての記憶を消しさる位の強烈な体験であった。

? また次に行ったボツナワ共和国のチョベ国立公園でのサンセット・サファリと、
  翌朝のポート・サファリもケニア・サファリと違った味わい深いものであった。
  野生の象がハトやスズメのように街の中へ入りこみ、木の葉を食べているのには
  腰を抜かさんばかり驚いた。そしてロッジに帰ってくるとホテルの柵の入り口に、
  やはり五~六頭、  木の葉を食べていた。ケニアの殺気だった緊張感がまるでなく、
  田舎の、のんびりしたアフリカ…という感覚であった。
  ここでは象があまりに増えすぎ間引をしているという。

? 喜望峰も感激の連続であった。
  大地の果ての峰の左にインド洋、右に大西洋という。
  ここでしか見られない高台で海をみとれていると、
  何と!クジラが泳いでいるのが見えたのだ!
  これこそ喜望峰での最高の見ものであった。
  また喜望峰に来る途中でたち寄ったミニ・クルーズでの、
  数千頭のオットセイの群れの岩場も印象に残った。
  帰路にたち寄った小さな湾の野生ペンギンの群れに
  一~二m近くまで近づき顔をつきあわせたのも、
  自分が人間である事を一瞬忘れてしまいそうであった。

? 南アフリカといっても、ヨハネスブルクは一千万人近い
  ロスアンゼルスを思わせる大都会であった。
  ケープ・タウンも人口百三十万人の高速道路、
  高層ビルがたちならぶ超近代都市であった。
  反面、地方の大部分が超貧困層の黒人が占めており、
  まだ深刻な人種対立が根が深いようだった。
  現地の年配の英国人妻の日本人ガイドの視点よりみる、
  人種間の対立の話を聞くうち、あくまで我々は生活者でなく、
  旅行者(通行人)でしかない事を思い知った。
  まだまだほとんど書けないほど多様な旅行であったが、
  どこに行っても人間の普遍性とそれぞれの文化の多用性、特殊を
  見ることができるのが旅行の最大の収穫でもあった。
                  H 7.10/27~11/6
H0809 愛と憎しみと価値判断

「“愛”の反対語は“憎しみ”ではなく、“価値判断を下すこと”」
という言葉に接して、その深い含蓄ある意味を私なりに考えてみた。
この事よりまず愛の一面の意味として“価値判断を下ださずに、
1歩さがって見守る”という事になる。

“憎しみ”とは“価値判断を下す事”それより生じる壁を相手との間につくる事、
それはとりもなおさず自分の壁をつくる事につながる。
そしてそれはその壁を越えてくる(相手)、事象の拒否感情といえるのではないか。
この壁の内側は長い間の価値判断のくり返しにより、ますます卑小化していく。
そしてマイナス思考回路の習慣化と、その結果としての病気の誘発を供う。

価値判断を下さない事はそれでは可能なのだろうか!?
という疑問も残るが、対象を“あるがままの姿でみる
(きれいとみるでなく、きたないとみるのではなく、そのままみる目)が必要となる。

H0811  人生の楽しみ方

遊びの定義とは“自分の好きな事をして、それを楽しむ”というらしい。
人生五十年の実感として全く苦労した感が少ないのは、自分で目標をたて、
そのプロセスを楽しんだ為とハタッと思った。

 もっとも“自分の目標をたて、それを楽しむ”までの準備期間と、
そのエネルギ-は大変であったが。両親がこの達人であった。
仕事も趣味も本当に楽しみつくしていた。
“お金”とは楽しみの滓と父は常々いっていた。
母もありとあらゆる趣味を持っていた。そのほとんどが一流の域に達していた。

 そのポイントを聞いた事があるが、“好きになれるかどうか、
そして自分のモノになれるかどうか始める前に見きわめる事、
そして手をつけたら死んでもその域にいくまであきらめない。
そしてライバルをみつけて、その人についていく事”という。

 何事も遊びにまで昇華していく事がその主旨のようだ。
制約等でワクをはめられて“好きな事”ができないなら、“好きになる事”だ。
好きになれないのは自分の“主観”の固さでしかない。ある新興の大手企業で社是として
“おもしろ、おかしく”にしているのを知って驚いたが、単純だが奥ゆきの深さを感じる