つれづれに ーお盆

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 今日のYoutube

 今日は、柏崎の家内の実家の墓参り。途中で、ランチを食べて、郊外の
市営霊園の墓にお参りをして、家内の実家によって帰ってくる。
それが、恒例のお盆二日目の行事。 
 
 考えてみたら、お盆の13日の夕刻、自宅で酒を飲むが、
四人の平均年齢が65歳を超えた。 この年齢は、来年に再度、
四人が顔を合わせる保障は無い年齢である。 女性二人は、
まだまだ、逝きそうもないので、兄か私? そういう年齢になったということ。
学生時代の同期の三分の一は、古希を迎えている。 
自分も数ヶ月で古希になるが、実感はゼロ! 還暦前の55歳から
年齢がストップしているようである。

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1959, 人生を物語るとは? -1
2006年08月14日(月)

人生を物語るとは?
 自分の人生を振り返り、 現在への筋道をたどって、
 その意味を考えるという、 人生の総括である。

悪く言えば自分の人生を絶対肯定化、正当化しようということだ。
自信が無いからか? 
はたまたドブ沼のドロさらい? いや宝探し?
              
 自分の人生を物語ることが、
 自分の人生の意味づけなら、
「物語の意味は何か?」を、考えてみる必要がある。
哲学者のリクールは『時間と物語』の中で、
「物語」の本質は「筋」の存在にあり、
「筋」とは不調和なものを調和の中に組み込み、
そのことによって不調和なものを理解可能 なものとし、
感情の上でも受容できるようにするのだと論じている。
   
成る程!そういえばそうだ。哲学者は上手く真理をつくものだ。
「物語」とは「筋」に 沿って配列された出来事の連鎖ということになる。
たどってきた過去を振り返り、現在という到達点に至った道のりの
要所ごとの出来事を再編成していく作業が、その人の物語になる。

ーある本に「物語」について解りやすく書いてあった。
 先ず、それを紹介してみようー
 自分の人生を回想的に語るとき、
・第一に、
  私たちは人生において 経験したことのすべてを語ることはできなし、
  語ろうとも思わない。「語るに値すること」「語ってもよいこと」
 「語るべきこと」といったフィルターを通過した出来事のみが語られる。
  回想とは模写ではなく、抽象である。
・第二に、
  私たちは人生において経験したことを、たんに時間の順序に従って語るわけではない。
  一見、そう見えるかもしれないが、実は、出来事間の因果関係、
  起承転結というものがそこでは意識されている。
  語り手は、「人生上の出来事を因果の連鎖によって結びつけることによって、
  自分がかくかくしかじかの人生を歩み、別の人生を 歩まなかったのはなぜか
  ということを説明しようとしている」のである。

・第三に、
 私たちはそうした 因果関係の連鎖として語られる自分の人生に対して、
「幸せな人生だった」とか「つらい人生だった」
 とか―実際の評価はもっと複雑であろうが、何らかの評価を下している。
 このように個人が自分の人生を回想的に語る(抽象し、説明し、評価する)
 とき、そこには「人生の物語」のパターンが 先行的に存在している。
 だからこそ私たちは、それほど苦労することなしに
 自分の人生を語ることができるのである。

 また「人生の物語」のパターンは、人生を回想的に語る場合だけではなく、
これからの人生を どのように生きていこうかと考える場合にも役に立つ。
 子供は「人生の物語」と出会うことによって、「人生」に対して自覚的(目的論的)になる。
 日常生活を構成する諸々の活動が「人生」として 組織化されてゆくのだ。
「人生の物語」には四の類型に分けられる。
 ・まずは努力と上昇を二大要素とする
  「成功の物語」
 ・そして「幸運の物語」
 ・「挫折の物語」
 ・「堕落の物語」

「幸運の物語」とは「努力せずに上昇する(棚からぼた餅)」 物語であり、
「挫折の物語」とは「努力はしたが上昇できなかった」物語であり、
「堕落の物語」 とは「努力せずに下降していく」物語である。
 「成功の物語」こそが近代社会における「人生の物語」の正本であり、
他は正本の正統性を際立たせる ための異本である。
 とくに「堕落の物語」は反面教師として「成功の物語」と
 ワンセットで取り上げられることが多い。。
 ー以上である。
  実際の人生の総括とは、混沌としたドブ沼からこれらの要素を探し出して、
  ドロ(成功・失敗・挫折・幸福)を抜き出していく作業である。
  成功とか、挫折とか、堕落とか、幸福とかは、二次的なものでしかない!
                       つづく
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 2005年08月14日(日)
1594, 犬の散歩

毎朝、ウォーキングをしていると、犬の散歩の人と行き会う。
行き会う人の半数近い。
何時も思うのは、犬と飼い主が似ていることである。
特に年配の人と犬は、長年の付き合いのせいか、そっくりである。
顔つきや体型が似てしまうのは同じ環境にいるためだろう。
以前も、散歩の犬に関して少し書いたことがあるが、
時代時代に犬の流行があるようだ。
ハスキーが多い時期があったり、ラブラトール・リトリーバーや
ゴールデン・リトリーバーだったり、最近はポメラニアン
ミニチュア・ダックスフンドなどの小型卓上犬が目立つ。
実家では、必ず犬を飼っていた。そして、それぞれの犬の思い出が多くある。
まぎれこんだり、拾ってきた犬で、雄雌関係なく「コロ」という名前であった。
しかし結婚をしてからは、家内が犬が大嫌いで「飼うこと相成らぬ」である。
もし人生に幾つか悔いが残るとしたら、その一つが「犬が飼えなかったこと」である?
といって、いま現在では躊躇する。
そういえば、最近「雑種」をあまり見かけなくなった。
どういうことだろう?恐らく放し飼いが全く無くなって、チャンス?が無いのだろう。
ところで、雑種を三匹連れているオジサンが、いつも口笛をふきながら歩いているが、
その口笛が聞きほれるほど上手い。その三匹の犬、飼い主に似てか?すれ違う犬に
きく吠え掛かる。口笛と犬の吠え声で、その存在がわかる。
ところであるベストエッセイ集に「犬に似る」というエッセイが微笑ましい。
そしてプロの文章はすばらしい。
 最後の文章を抜粋してみる。
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 ー犬に似る
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 ついでだが、犬と飼い主はたいていの場合、そっくりである。
ずんぐりした人はずんぐりした犬をつれているし、短足胴長の犬の飼い主は短足で腹が太い。
 それでは、いつの間にか名前が平仮名の「そら」に落ち着いたわが家の犬はどうか。
しばらく前まで、スマートで端正な犬だとうぬぼれていたが、このところ、目の青色は
薄くなり、鼻の頭は白く乾いている。猫やカラスを追いかけるとすぐに息を切らす。
息を切らすと、はあはあと長く舌を出し、腹を大きく波打たせる。
どったと寝転がっていることも多い。 そのそらのようすは私にそっくりらしい。
いや、私がそらに近づいたのだろう。先日、家の前を通っている二人連れの会話が聞こえた。
「ここの犬、この家のご主人とそっくりよ。毛の色も一緒だし、体格もうりふたつ」
「へえ、じゃ、どっちが犬かわからないわね」 私は思わず吠えそうになった。
               (坪内稔典 俳人
最後の一文がきまっている。

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2004年08月14日(土)
1229, 死亡欄

この数年、新聞を見ていると死亡欄に目がいってしまう。
それも自分より年齢の下の数をさがしてしまう。
傾向として40歳台から死ぬ人がおおくなる。
反面90歳後半や100歳という人も結構多い。
時々、子供や20歳そこそこの死亡も目に付く。
やはり女性は80歳台、男性は70歳台が多い。
それぞれ一行の名前と年齢の中に、膨大の人生が詰まっていると思うと
人生の深さを感じる。
中学や高校の同級生では、大よそ15?が亡くなっている。
特に、50歳を過ぎてから多くなってきている。
そういう年齢になってきたのだ。
同級生のある葬式で、「もう、死んでも何で死んだと言わなくなったものな~」
というコトバが印象的であった。
最近は会うごとに同級生が老けていくようだ。まさか自分が、この連中と同じ歳と
思いつつ、トイレでつくづく鏡を見て、そうかそういう歳と納得する。
ところで、ほんの30~40年前まで人の寿命は50歳と相場が決まっていた。
それが一挙に80歳近くまで延びた。あと50年もしないうちに、なんと100歳になる。
100年もしないうちに2倍になる。それが良いかどうかは何ともいえないが、
人生50年より80年の方が良いから100歳の方が良い。確かに、人生が50年としたら短い。
50歳の時に、こんなものかと思ったから、間違いはない。
ところが80年なら長いと思うだろう。
シェークスピアは、人の一生を「束の間の灯火」と言った。今日は盆だ。

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2003年08月14日(木)
862、「財産を無くす人、財産を残せる人 」
 ーデフレ経済下21世紀の日本型蓄財術-           
           ー読書日記
清水洋/著
出版社名 アスカ・エフ・プロダクツ
出版年月 2001年7月 本体価格 1,500円
[目次]
PROLOGUE 危機の時代―「危ない」か「機=チャンスか」;
1 新たな資産家、没落する資産家―今、目の前の決断の差が資産作りの分水嶺になる;
2 デフレ時代のチャンスをつかむ人、逃す人―「平成の徳政令」を味方にする;
3 デフレ時代の「逆転の発想」―このチャンスを活かせる人、活かせない人;
4 身近なところから資産対策を始める人、できない人;
5 この先五年間、日本経済の最悪状況に生き残れる人、残れない人;
6 危機にあえぐ中小企業―雇用を創出する会社、雇用を無くす会社
ー私のマトメタ内容ですー
時代を見極めよ、そして早く決断を!
その為に日本の現在をどういう時代かを整理してみると
・「デフレ基調」に変わった。
・官僚型社会主義システムの崩壊過程にある。
・市場原理が支配する自由競争になるー競争の激化。
・レース型競争社会からゲーム型競争社会になる。
・圧倒的な「勝ち組」とその他大勢の「負け組」と分けられる。
・これから5年間は「最悪期」に入る。
国債の暴落とハイパーインフレの可能性が大である。
その結果
 ・不動産価格は5分の~10分の1
 ・株式は5分の1から20分の1
 ・ゴルフ会員権は5分の1から1000分の1
 ・失業率は15~20?
 ・消費税は15~20? になる。
以上はITなどの情報化や、それに伴うグローバル化が起因としている。
更にこの動きは拍車がかかるだろう。
企業としては、この流れに対して
・総資産の圧縮と借入金の圧縮
・知的集約の企業形態に変身
・固定資産を手持ち流動資金への変換
 ー手元キャッシュフロー流動性を高める。
・不良部門を徹底的に切り捨て、優良部門に集中する
・公的部門の民営化時代に先手を打つ
等への変身への決断をしなくてはならない。
以上であるが、以前この人の経営セミナーのパンフレットをみて
さっそく取り寄せて読んだ本である。
これを元に会社を変身しないと遅かれ早かれ消滅してしまう運命にある。
以前書いた随想日記をコピーしておきます。

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2003年01月17日(金)
649, 損切り
ある経営セミナーの案内のパンフレットが送ってきた。
題目が 「会社と個人の資産防衛策」
副題が ーいま「損切り」してこそ新しいチャンスがつかめるー
その内容がなかなか面白い。
このパンフレットに殆ど90?が含まれている?
その概要を書くと以下のとおりである。
・大清算時代ー含み損を吐き出してしまえ!
・個人も会社も、いまは「損切り」をしないと生き残れない。
 いまは有事の時、平時の常識を捨てなさい。
 -不採算部門の切捨て
 -不良資産の切捨て
 -不良幹部ーヘドロの切捨て
 ー倒産を恐れるな
・不動産は「短期の流動資産」と考えよ、決め手は利回り
 -まだまだ不動産の大放出が続くと思え
 -より安全で、より高利回りのものに切り替えよ
・銀行取引の全面見直し
 社長は先手を打って資産を守るべし
 ー次は地銀・第二地銀信金・・・金融機関の大編成が始まる。
   -貸してくれない銀行には返さないこと。
   -手元流動性資金の確保が絶対に必要
   -絶対に応じるなー追加担保と追加保証人
   -担保に入っている社長個人の不動産を会社に売却
・5年先を読むと先手必勝である。
 -国債の暴落から始まる大マネー戦争になる。
  その結果金利上昇・円安そしてハイパーインフレ・・
 -不動産の金融商品化が本格的に始まる。
 -円資産だけでは危ない時代。
  ゴールド・円でドル建て預金
 -事業こそ最大の資産だ。
  その事業を良くしておく事
  それはデフレに勝ている事業だ。
・以上がその内容である
「処分すべきは処分をして、徹底的にスリムな体質にすべきだ」という事だ。
去年から、個人の事業用資産を会社に譲渡して損だしのプロセスに入った。
次に、会社のデフレからきた損だしのプロセスに入るが?
ここで思い切ってやらねばならない時期が来たようだ。
体力あるうちに先手を打ってやるべしということだ。
先行きはもっと悪くなるのは自明のことだ。
こういう時代は知恵を絞って乗り切るしかない。
この数年は負け組みの最後の整理が控えている。

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2002年08月14日(水)
487,アメリカンインデアン

以前‘アメリカンインデアン’について書いてある本を読んで仰天した。
口伝で代々受け継がれてきた内容が3万年以前のものだたりする。
その内容がどうも正確なのだ。
特に「一万年前にシベリアを通ってベーリング海峡を渡る」の内容もあるという。
一万年前は氷河期で、海面の水位低くて、海峡は陸路渡れた。
その時の具体的な内容が口伝で詳しく語り継がれている。
その時の渡った員数が55人だったということまで伝えられている。
イロコイ族という種族で、その決まりは今のアメリ憲法の原案に影響したいう。
地震に襲われ各地をさまっよった末に、未開の大地の話を聞いて
シベリアの大地からベーリング海峡を渡る話は、一万年前の話としてもリアルのものだ。
インデアンというと、未開の野蛮人というイメージがあるが、彼らの世界に、
3万年以上の祖先の歴史が延々と語られてきた事実がある。
更にアメリカに渡った後の物語が延々と続いているという。
彼らの口伝ー物語の全体は「一族が学んできた`知恵’の物語」として構成されている。
「人は力をあわせれば、できない事も可能になる」とか「判断は迅速に」とか現代でも、
いや現代こそ学ぶべき事が多い。今一度彼らの教えをじっくり学ぶ時期に人類はきている。
奇麗事で言っているのではない、まさしくその時期である。

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2001年08月14日(火)
[107] 「私の死亡記事

「私の死亡記事」‐文芸春秋
図書館で何気なく借りてきた本だが、これが面白い!
各分野の有名人に「物故者の解説を、当の本人執筆という点である。」
そのお願いの文章が、前書きになっているところがまた面白い。
よくこれだけの有名人が真面目に、あるいはふざけて書いているのがいい。
まず自分の死亡時期の設定、そして死亡原因、生前の業績を当の本人が書くのだから。
どちらにしても真剣に書いてあることは文面よりわかる。特に生前の業績に対しては
意外と自己正当化しているのが可笑しい。 
-私も書き始めたが侘しくなってきた。死亡時期‐父と同じ71歳
(そうすると後16年の時間)
・死亡原因‐酒の飲みすぎによるショック死。
・生前の業績ー書くに値せず。
・葬式方法は葬式坊主に一円の金も払わないようにとの遺言の為に音楽葬
                         ただし身内のみで。
 近じか真面目に書いてみよう。