つれづれに

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 今日のYoutube

 お盆である。毎年、4時に起床し、随想日記を書いて、アップをした後に、寺参り。
前日に買った花を持って、3つの寺の墓参り。 結構、大変である。 
 夕方17時前に、再び、家内と墓参りの後、家で兄夫婦と酒を飲む。
そして、明日は家内の実家の墓参りで、お盆は終わり!


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1958, 今日はお盆ー2
2006年08月13日(日)
                 \(^▽^*)おはよう
「今日はお盆」というテーマで書こうと思ったが、
この日に、そのテーマで書いてないわけがないと
振り返ってみたら、4年前にチャンと書いてあった。
(あとにコピーしてあります)
気がついてないで書いていたら、80?は同じ内容だったろう。
4年も経って、大して成長していない?自分の脳が見えてくる。
まあ、後退しないだけでも有難いと思わなくてはならないか?                     
 レジャーの無かった時代の盆・暮れという里帰りのシステム、
当時の長期?休暇だったのだろう。考えてみれば良い文化である。
一年に1~2度、田舎に帰り家族や幼馴染に会ったりするのも良い。
先日、学生時代のゼミの後輩と酒を飲んで聞いた話だが・・
ーM氏は東京の中野に住んでいるが、小学校の同級会を開こうと
思い立って同級生と三人と名簿を調べたら、63人の同級生が、
他に一人しか見つからなかったという。都会は、それだから良い!
と思うのか? いや寂しいと思うのか?やはり後者だろう。
 田舎は、スローライフという意味では住みやすいが、刺激が少ない。
そこでセカンドハウスを出身地に持とう!という運動が起きている。
生家をセカンドハウスにして、地方で働き時々都会生活をするパターンだ。
しかし、それだけの余裕が持てる人が何人いるのだろうか?
さっき、デジタル・カメラの写真を整理していたら、高校の同級生の個人の
墓の写真が偶然出てきた。今年になって三度、散歩の途中に立ち寄っていたが、
今日の特別のコースで行って見るか? 今年は、その故人の会社も潰れたし・・・
 お盆の「懐かしのメロディー」を聴きながら下書きの、この文章を
書いているが、まあお盆!に良い番組である。
これを見ていると、年々歳をとっている自分に気づかされる。
  さてと、墓参りに行こうか!
              
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2005年08月13日(土)
1593, ひらがな思考術 -1
         -読書日記     
図書館から借りてきた本だが、目から鱗の本である。
著者はコピーライター、シンクタンク社長、コミュニケーション学部教授、
という三つの経歴を持つから言葉に説得力がある。
ひらがなでわざわざ文章を書いてみたら、なるほどドンドンかけるのだ。
いままで何をしていたのだろうと、驚いてしまった。
とくに ひらがな三語 日記は面白い。ー今日の三語日記というと
たかしかえる おぼん おおあめがたたきつけている 
これで今日の大方がわかる。
ーこの本の概要というとー
「ひらがなで考えてみないか」それが、この本のメッセージで、
「ひらがなで表す言葉が、骨太で人の心を掴むのに適している」というのが大筋である。
漢字や英語が多用される専門語に寄りかからないで、手持ちのことばをかみしめ、
ゆっくりと味わっていくと、いま抱えている問題を考える方向性がうっすらと見えてくる。
そうすれば受身ではなく、こちらから打ってでることができる。
ひらがなで考えることは、
「現状打破」
「情報収集」
「創造的発想」
「効果的表現」
「自己変革」に役立つ。
ひらがなでは ごまかしがききにくい。意味を考えるには考えの筋道が必要である。
ひらがなだと、それができるし、内側にはたっぷりとメッセージが含まれる。
日本語で書かれているのに、難しくてわからない時にひらがなを交えて
わかりやすい文章に直したら、読みやすい言葉として、人の心に訴えかけてくる。
そのため、ひらがなで考えてみる練習をするといい。
難しい文章に出会ったら、簡単な言葉に置き換えるとよい。
著者がコピーライターの仕事をしていてコピーが一行も出てこなかった時に、
書店で偶然手にした詩集の一行一行がしみとおっていったという。
ひらがなで考えをつきつめていく思考術を著者が身につけたのは、これがキッカケという。
もっと ひらがなで考えるようにして、ゆっくり思考をめぐらす時間を持ってみることを
勧めている。幼児がよく使う擬音語、擬態語、ユラユラ、ガサガサ、ヨタヨタなどは、
動作そのものの様子をよく表している。
考えてみたら内語や発想は、ひらがなでしているようなものだ。
難しい言葉もいちど、ひらがなに翻訳してみるとよい。
言葉は飾れば飾るほど伝わらないものである。
ひらがなは心の壁をつくらない働きがある。
この随想日記も、可能なかぎり難しい問題をやさしく噛み砕いて、
自分の脳に入れ込むために書いている。
やさしくとは、噛み砕くとは、「ひらがな」にすればよいのだ。
脳は幼児に例えると解りやすいという。
やさしい言葉で、繰り返し、愉しく続ければ無限の能力を発揮する。
ひらがな言葉は、無限の可能性の入り口になる。
私の、この随想日記も、文体がこれで大きく変わるだろう。
ひらがな言葉が多くなる?
              つづく
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2004年08月13日(金)
1228, 広松渉(3)
 哲学についてー27
ー人生舞台の役・割について
「実践するとはどういうことか」の(「行為の存立構造」の人生劇場))の概略を
前回書いたが、行為の存立構造をなしている「役・割」について、私の説を書いてみる。
「役・割」が一番鮮明で解りやすいのが嫁姑の関係である。永遠の人生の課題といってよい。
結婚は二人だけの関係と思っていたのが、その取り巻く複雑な人間関係がついてくる。
それに舅・小姑が絡んでくるから、その役・割をこなす事は並大抵ではない。
離婚は互いの相性もあるが、この複雑に入り組んだ関係もある。
演技者も「外面・内面」を使い分けなくては、下手な役者になってしまう。
長い年月かけて育て上げた息子が、バカ嫁に結婚を機会に取られてしまうのだから、
コトは複雑である。嫁の立場からすれば亭主の母子関係も、べたべたしたマザコンにみえる。
その母親は、いつまでも子離れをしない嫌な存在になる。
家という制度が強い時代ならまだしも、今のように個人が主体という時代では、
嫁姑の関係はこじれるケースが多い。
正に人生劇場における集約された「役・割」で、お互いにぶつかる場面になる。
地方のような固定社会では、なおさら役・割が固定化するから、
行為の存立構造は露わになるケースが多い。
・小さな世界が全世界と信じて疑わない「子狐」のミニ・テリトリーの
 因習の世界で因果関係の芝居が演じられる
・「おれは田舎のプレスリー」的存在の地方(?呆)名士役
・必死になって小さな世界で肩肘を張って自己宣伝に終始している
 「チンドン屋」役と、それについて回っている「茶坊主」や「芸者」役
・ドブの中に発生する「ぼうふら」の群れー噂世界に浮く幼虫?役
人生舞台も、このようにしてみると面白いものである。
といって突き詰めれば、どの役も大同小異の存在でしかない。
石が個性個性といったところで、所詮は砂利でしかないが。
石ころそれぞれが、自分の正義を持ち、それに従って価値観を持って
自分の舞台で役・割を演じることが、人生を生きることである。
ところで、いま書いてきた役は、私の勝手に創りあげた主観の世界?
「あまりにも偏見でしかないだろうか?」と疑問を自分で投げかけてみる。
社会、世間としても、それぞれの汗と涙で出来上がっている。
それを、面白おかしく創りあげた私の心象風景でしかないのではないか。
蛇には蛇(その地に縛られている象徴)の生き方、存在理由があるはずだ。
そんなものは対比の問題でしかないのでは、と。その通りである。
それぞれの役を、面白おかしく演じていればよいのである。
イタリアのベニスのカーニバルで、仮面を被って練り歩く。
自分とは違った仮面の人を演じていると、面白い心理状況になるという。
また逆に、イスラム教徒の女性がベールを被ると、自分という存在が
消えてしまった空気のような、透明人間になったような妙な気分になるという。
面白いものだ。

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2003年08月13日(水)
861, プライドー2
 プライドは失意のどん底の時とかマイナスの状態の時に出てくる膿でもある。
その状態が逆にエネルギーになる場合もある。その為には、常に本を読み
続けなくてはならい。心の膿がたまっている状態が「子狐」にしてしまうのだ。
したがって子狐は本を読まない人ともいえる。「プライドを捨てるだけのプライドを持て!」と、
ある飲食チェーンの創業オーナーが言っていた。「表面的な面子などのプライドを捨て、
心の奥の芯ー真ーの自己尊厳としてのプライドを持て」
「捨てて捨てて捨てて、最後に残るプライドを持て」という意味だ。
自信のない人、失敗ばかりしている人ほどプライドが高いのは、捨てられるだけの実績と
自信がないからだ。
 捨てられない典型としては二代目とか、中途半端なインテリに多い。
何でプライド?と考えたら、彼等は表面的繕いとしてのそれしかないからである。
といって表面的繕いのプライドを捨てられないのが人間の人間たる由縁であるが。
表面的繕いとしてのプライドと真のプライドとの隔離が若い頃の特徴である。
それを一生続けて死ぬときに「自分の人生は何だったのだろうか!」と悔やむ人がいる。
それが失敗の人生である。
 「そういうお前こそ、その歪んだプライドが尻尾に出ているぞ!」と誰かに看破されている
のかもしれない。自分の姿は見えないし、私も相対で言っているだけだからだ。
「最後の拠りどころのプライドを持つのがどこが悪いのか、それを否定したら人間
生きていけないのではないか?」という声が聞こえてくる。
最後の最後、表面的繕いのそれしかないのだから、それで仕方がないともいえるが!
「夢」「志」を持てなかった人は、それでもよいのだろう。
 「おいプライド!
  たかがプライド!
  されどプライド!
  あ~あプライド!」
 
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2002年08月13日(火)
486, 今日はお盆

13日のお盆の朝の夢は面白い夢を見る。
両親の夢が多いが、祖先の霊の夢を見ることもある。
祖先の霊が、仏壇から居間の仏像のほうに数人浮いて流れていく夢とかだ。
毎年、早朝お参りにいつも行くから、その緊張感が夢を誘発するのだろう。
今朝も少し見たがあまり印象に残ってない。明日の朝あたりが面白そうな
夢が出てきそうだが。13日の朝はいつも3箇所のお寺にお参りに行く。
両親の墓と母親の実家の墓だ。その中でいま一箇所の墓参りの話しをしてみる。
幼児のときから、父が叔父叔母だけで毎年お盆近くに法事をしていた。
父が言うには、「戦前ある土地を買った時その地主から、父が生きている間に、
自分たちの墓参りする約束をした」とのこと。全く親戚縁者がいなかったのだ。
どういう訳か解らないが、いつも姉兄の間でいつも私だけが出席していた。
その時のご馳走が楽しみであった。当時は法事とか葬式はお祭りでもあった。
母が元気なうちは、母といつもお参りをしていた。母が言うに「永代経のお金を
払ってあるから、私が死んだらお参りをしなくてもよい」とのことであった。
しかしお盆の時になると、どうしてもお参りに立ち寄ってしまう。
この世では私以外誰もお参りに来ないのだ。やはりその人の念が60年~70年
たっても通っていることになる。長岡の千住の浄福寺で、名前は福原兵?さん、
明治25年と墓に書いてあった。
今日のサロンでその墓の写真を貼り付けておく。

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2001年08月13日(月)
[107] 「私の死亡記事

図書館で何気なく借りてきた本だが、これが面白い!
各分野の有名人に「物故者の解説を、当の本人執筆という点である。」
そのお願いの文章が、前書きになっているところがまた面白い。
よくこれだけの有名人が真面目に、あるいはふざけて書いているのがいい。
まず自分の死亡時期の設定、そして死亡原因、生前の業績を当の本人が書くのだから。
どちらにしても真剣に書いてあることは文面よりわかる。特に生前の業績に対しては
意外と自己正当化しているのが可笑しい。 
 -私も書き始めたが侘しくなってきた。死亡時期‐父と同じ71歳
(そうすると後16年の時間)
・死亡原因‐酒の飲みすぎによるショック死。
・生前の業績ー書くに値せず。
・葬式方法は葬式坊主に一円の金も払わないようにとの遺言の為に音楽葬                        ただし身内のみで。
 近じか真面目に書いてみよう。