つれづれに
他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive
今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=ImjzRBNww5c
まあ、面白いように日々が早く経っていく。
プロ野球のセ・パ交流戦も終わろうとしている中、今度は
ワールドサッカーが開幕、そして7月になれば、大相撲と・・・
・・・・・・
1528, 生きて死んでいく重み
2005年06月09日(木)
最近、中島義道の哲学書をよく読んでいる。
そして、この日記にも何度か取り上げてきた。
同年齢ということもあって身近に感じられ、
似た考え方だから次々と図書館で借りてくることになる。
特に還暦を八ヶ月後に控えていることもあり、「人生とは何だったのか?」
という人生の総括が頭をよぎる。その時、中島がストレートに著書の中で答えてくれる。
大体は本を借りてくると、まずは目次と最後の10ページの中の要所を探す。
そして遇った、彼が真剣にいっている箇所が。
ー抜粋してみるー
オリンピックで金メダルをとっても、どんなに災害撲滅を見出しても、せいぜい二番目に
重要なことだと思います。
では、一番目に重要なことは何かというと「生きている」ことでしょう。
生きて死んでいくことでしょう。この絶対的な重みは、忘れてはならないと思います。
有名人が死ぬと、その人が何をしたということばかりが報じられますけれど、
そのすべては、ハッキリいいまして幻想です。何故かというと,全体を見ていないからです。
100億年もすれば全部なくなるわけです。そうすると、多分一回きりだと思いますけど、
自分の人生を、見ないようにして、仕事に逃れていくというのは、
もったいないのではないかと思うのです。
つまり、自分の持っている不適正、欠点をしっかり見ていくことです。
私は理不尽に人生を与えられしまった、その中でよいことをしようということでなくて、
それをごまかさないで見よう、そういうことです。
つまり、世間的には何も貢献しない、場合によってはマイナスのことをしてきたかもしれない。
でも、その人の生きてきた重みは、立派な建設をしたとか、トンネルを掘ったり、という
すべてをもっても代えられないものだ、と実感するんです。
私にとっては、生きる仕事以上の仕事はないわけですから、どんなに世間的に立派な
仕事でも、そんなに感動しないわけです。
働いて生きがいを感じ生き生きと生きる人生を、私は批判しませんし、そういう人を批判しません。
働くことが嫌でしようがない、あるいは働いても働いても報われないということを、
ごまかさないで徹底的にみてみると、そこから新しい視点が出てくるのではないかと思います。
ーーー
以上だが、これは私にとって、根こそぎ考え直さなくてはならない見方・視点である。
自分の中で、観ないふりをしていた自分の欠点や、自分を鼓舞するために
否定してきた考え方を含めて、「もう一度人生観を見直してみる必要のある問いかけ」をしている。
身近な人の死を経験した時、まず実感するのは
「人生は生きているうちが花!金持ちとか、肩書きとかいう社会的属性などは二次的なもの!
生きていることが、生きてきたことが、最も大事。この人は(亡くなった人)好きなことを
どれだけしてきたのか? その総量こそが人生である!人生は生きているうちである。
そして最後はたった独りで死んでいくのだ!人生などはかない。
常に死を思え!そして生きていること、生きてきたことを味わえ!」である。
中途半端に生きてきた人や、他人の批判だけが特性の人を徹底的に嫌い、
傍によらないようにしてきた。しかし身近な人の死で実感することは
生きること、生きていることが人生の第一の仕事ということだ。
「長く生きればよいということではない!」ではない。
「生きて死んでいくことそのことが、人生である!」人の人生を勝手に判断すべきではない。
当たり前のことだが、それぞれの人生があるのだ。
誰もが光の中を生きてきたのである。そして、光の元に戻るのである。
社会的属性や、行蔵も二の次でしかないのである。
しかし、小学生や中学生が、こんなことを親から学んで老成していたら、
おかしいんじゃないか?気の小さい優等生哲学者の戯言でしかない?
それとも、哲学病者の戯言じゃないか?とも思うが、その疑問自体が彼に
哲学を誘導されていることになる。
今朝の新聞の週刊誌広告の見出しに亡くなった二子山と二人の息子の確執が出ていた。
彼が何をしたかというより、家庭の揉め事も含めて全てが生きてきたことである。
揉め事結構!部屋を繁栄させたことも結構!
それが生きてきたことであり、亡くなった時にその重みの一端が顕れただけである。
一人一人を見れば、誰もが人生の荷物を抱えている。そして、それを抱えてこの世から消えていく。
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
2004年06月09日(水)
1163, JR-駅なか商店街
最近JRの駅がドンドン変わっている。
JR関連に知人がいる為に、駅内SCの内情を聞いていた。
パテオやセゾンなどの構内専門店街をつくって、いま勢いのあるテナントを誘致する
デベロッパーに変身している。
JRになって、一番変わったところだろう。
身近な新潟駅や長岡駅もこの十年で、全く様かわりをしてしまった。
駅前の「街」を、構内の「駅なか」に取り入れることによって、
根こそぎ顧客を奪ってしまうという発想である。
よいところに目をつけたものだ。
最近はビジネスホテルもつくり始めてきている。
見方によれば駅前商店街の最大の敵のはずだが、彼等はそれすら気がついてない。
まだまだ見ていると、幾らでもネタがある。
映画館・専門学校・カプセルホテル・専門病院、変わったところでは動物用ホテル、
託児所などある。
そういえば、私の学生時代に山手線の駅にステーション・デパートとかいう、
商売気のない専門店街があったが。
考えてみたら、自社でも駅構内の広告代で年300万も払っている。
バカバカしいが、といって駅からのお客が半分以上を占めているから、出さないわけには
いかない。駅前の25万のテナントの賃料と同じである。
最近、新幹線の席の前の網に2冊の通販のパンフレットを置いている。
来年から新潟駅の再開発が始まるが、そこで全く新しい街づくりが始まろうとしている。
オーバーにいえば、そこが新潟の一極集中の場になる可能性を秘めている。
新しい時代に対して、新しいコンセプトで、新しいテナントを組み合わせて、
国や、県、市の援助金をもらってやるのだから、上手くいって当然である。
といって国や県そのものが衰えれば、単なる空虚な空間になる。
最後の賭けになるかもしれない。
・・・・・・
2003年06月09日(月)
796, 至高体験ー読書日記ー2
「歓喜 ー> 理智 ー> 意志 ー> 気 ー>肉体」
至高体験=歓喜の体験、それを知った理智、そして意志にかわる、それが気になり、
肉体に反応する。たとえると野球で9回の裏逆転のホームランを打った。
そして歓喜する、その体験が理智になる、さらなるよい選手・バッターになる意志を固める、
それが気(気合)に変わり、練習をして積み重ねるようになり一流選手なっていく。
他には薬草や苔類を使う場合と、アルコールを使う場合や、禅などの修業で到達する
場合などがある。教祖様やシャーマンは、この歓喜体験を通して自己より解脱をして理智を得る。
好きなことを見つけ一生かけて続けるプロセスで、この歓喜体験をするケースが多くある。
女性の千人切りも好きな人には、歓喜体験ー至高体験を多くする事になるのだろう。
音楽会の会場が歓喜に包まれ、アンコールの嵐をTVなどで見かけるが、至高体験をしている。
この瞬間を味あう以前と以後位に感動するのだろう。
そういえば初めてロッキーに行った時も、旅行に行く以前と以後位に感動をした。
ー昨日とは別のホームページよりコピーしてみた。
・・・・・
■覚醒・至高体験とは(1)
◆事例集に入れる基準は?
「臨死体験・気功・瞑想」の中心になるのは、やはり「覚醒・至高体験の事例 集」です。
さまざまな文献や投稿のなかからこの事例集に入れるにふさわしいと思われるものを
Noboru(このサイトの作成者)が選んで載せています。
そのおおよその基準をまずここで明らかにします。
ところで「覚醒・至高体験」というときの覚醒と至高体験の違いは何でしょうか。
この点については私自身の中では明確な区別があります。最初にこの違いを明らかにしながら、
それぞれの意味を考えます。
◆自己実現した人間
覚醒と至高体験という二つの言葉は、はっきり区別できるものとして私自身は使用しています。
この区別は、人間性心理学の代表的な提唱者・マズローに負っています。
マズローによれば、人間は一般に心理的な健康に向かって成長しようとする強い内的 傾向を
持っています。そうした潜在的な可能性を完全に実現し、人格的に成熟し、到達 しうる最高の
状態へ達したと思われる人々のことを、彼は「自己実現した人間」と呼び ました。
しかし、心理的・精神的に「最高の状態」や「完全な発展」を問おうとすれば、何が
「最高の状態」で、何が「完全」であるのかという価値基準や判断の問題がつねについ てまわります。
そこでマズローは、客観的・分析的な心理学の方法ではなく、いわば循 環的方法を採用しました。
循環的方法とは何でしょうか。とりあえず世間一般で通用している言葉から優れた「人間性」を意味
するものを集め、その用い方や定義をつきあわせ、論理的にも事実の 上でも矛盾するところが
あればそれを除き、定義をしなおす。そしてその定義に適合すると思われる「自己実現した人間」
のデータを集め、それによってもとの定義をもう一 度検討する。
こうして修正された定義からさらにデータを見直すという作業を繰り返す。
このよう にラセン階段を登るように修正を繰り返して定義を検討していくのが、循環的方法です。
このプロセスをへて、最初はあいまいだった日常的な用語をますます厳密で科学的な のに
しながら研究を深めていくのです。
こうしてマズローは、たとえばアインシュタイン、シュバイツァー、マルティン・ブ ーバー、
鈴木大拙、ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、多くの自己実現し たと思われる
人々を研究しました。この研究を通してマズローが気づいたことの一つは、 高度に成熟し、
自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、大多数の平均的な 人々の日常的な
それとはっきりとした違いを示しているということでした。
平均的な人々の日常的な認識のあり方と区別される、自己実現人の認識のあり方を彼 は
B認識と呼びました。BとはBeing(存在・生命)の略です。こうした認識のあ り方が、
実は覚醒とか悟りとか呼ばれるものとぴったりと重なるといえるのです。
◆至高体験
ところで、マズローがこの研究を学問的に説得力のあるものにすることが出来たのは、
ごく少数の「自己実現した人間」の研究ばかりでなく、平均人の一時的な自己実現とでも
いうべき「至高体験」の研究をも同時に行ったからなのです。
「至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験 の
ことです。それは、深い愛情の実感やエクスタシーのなかで出会う体験かも知れませ ん。
あるいは、芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかで
体験されるかも知れません。
ともあれそれは、一人の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも
深い部分を震撼させ、その人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験でもある
といわれます。そうした体験をすすんで他人に話す人は少ないでしょうが、しかし、
マ ズローが調査をしてみるとこうした「至高体験」を持っている人が非常に多いことに
気 がついたというのです。
ここで大切なのは、いわゆる「平均的な人々」のきわめて多くが「至高体験」を持っ ており、
その非日常的な体験が、「自己実現」とは何かを一時的にではありますが、
あ る程度は垣間見せてくれるということです。何らかの「至高体験」を持ったことがある者は
誰でも、短期間にせよ「自己実現した人々」に見られるのと同じ多くの特徴を示す のです。
つまり、しばらくの間彼らは自己実現者になるのです。
私たちの言葉でいえば、 至高体験者とは、一時的な自己実現者、覚醒者なのです。
こうしてマズローは、ごく少数の人々にしか見られない「自己実現」の姿を、
多くの 人々が体験する「至高体験」と重ね合わせることにより、彼の研究の意味をより
一般的 なものにし、その内容をより豊かなものにしたのです。
以上で、覚醒と至高体験の区別をマズローに負っているという意味が理解いただけた でしょう。
至高体験とは、つかのまの覚醒を意味する言葉として使用しているのです。
・・・・・・
2002年06月09日(日)
432, スイス旅行
スイス旅行日程ー 7月3日(水)~12日(金) 新日本トラベル
http://www2.plala.or.jp/dontak/Swiss-AlCont.htm
http://www2.plala.or.jp/dontak/map01.html
1日目、 日本航空でチューリッヒへ。
-チューリッヒ泊
2日目、 リヒテンシュタインの首都ファドーツ散策と
「アルプスの少女ハイジ」の舞台マイエンフェルトで
ミニハイキングを楽しんだ後、サンモリッツへ。
夕食は郷土料理ビュントナー・ゲルステンズッペ。-サンモリッツ泊
http://www2.plala.or.jp/dontak/heidi-01.htm
3日目、 神秘的な白い湖を眺める”もうひとつの氷河特急”ベルニナ特急
とディアボレッツァ登頂観光の旅。夕食はマス料理。
http://www2.plala.or.jp/dontak/glacier1.html -サンモリッツ泊
4日目、スイスの観光列車の中でも最も人気のある氷河特急で
ツェルマットへ。夕食はチーズ料理ラクレット。 -ツェルマット泊
http://www2.plala.or.jp/dontak/mthr01.htm
5日目、登山電車でゴルナグラードへ登り”
ピラミッド”の愛称をもつマッターホルン(希望者は高原ハイキ
ング)。下山後モンブラン山麓のシャモニーへ。
http://www2.plala.or.jp/dontak/dan04.htm -シャモニー泊
6日目、 ロープウェーでエギーユ・デュ・ミディへ上がりモンブラン観光。
昼食はサヴォア料理。
午後、美しいシヨン城を観光しながらモントルーへ。
夕食はレマン湖産の魚料理とヴォー州産ワイン。 -モントルー泊
7日目、 風景の美しさで有名なパノラマ特急と”山峡の宝石”
と謳われてエッシネン湖観光を満喫後グリンデルワルドへ。
夕食はミートフォンデュ。 -グリンデルワルド泊
8日目、 登山電車で名峰ユウグフランヨッホ登頂観光
(希望者はアルプス高原ハイキング)。
下山後、中世都市ルッツェルン小観光。
夕食はゲシュネッツェルテス。 ールッツェルン泊
http://www2.plala.or.jp/dontak/Jungfr01.htm
9日目、チューリッヒへ。
チューリッヒ発日本航空で帰国の途へ。 -機内泊
10日目 成田到着
・・・・・・
2001年06月09日(土)
[47] シンクロ二シテ-
これは普通では考えられない、遇然の一致を言う。
‐意味ある遇然の一致と心理学で言う‐特にユングが深く研究ー
私の場合非常に多い。人間個人を考えれば、今生きている事こそ
奇跡‐遇然の一致の積み重ねである。
・ある自死をした元の部下の所に行ったとき起きた、不思議な遇然の一致の重なり
・柏崎の義父の葬式の帰り、そち峠で7回の‘虹の下’を通りすぎた考えられない出来事!
・従兄弟が自死をした時の納棺のおり、突風が吹き桜吹雪が舞い散った光景!
・大学を卒業して1年ぶりに池袋の本屋に行ったとき、たまたま学生時代の親友だった
男が目の前を歩いていた。
・家内の実家で展示会があり、いっしゅのお祭りで地元の道具やが出店を出していた。
そこの象 牙の仏像が気になり、帰ってから電話でそれを買いもとめた。
4~5日経ってから送られてきて、底をみたら
家内と同じ銘で恵子と彫ってあったこと。‐その時全身鳥肌が立った! 等々書けばきりがない。
遠藤周作などは、イギリスにある作家に興味があり、その地を訪ねた折ホテルのエレベーターで
ぶつかった相手がその作家だったと言う。葬式とか、自分が行きずっまって
ヒステリック状態の時とか、気持ちが異常に近いときに考えてみるとおき易い。
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive
今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=ImjzRBNww5c
まあ、面白いように日々が早く経っていく。
プロ野球のセ・パ交流戦も終わろうとしている中、今度は
ワールドサッカーが開幕、そして7月になれば、大相撲と・・・
・・・・・・
1528, 生きて死んでいく重み
2005年06月09日(木)
最近、中島義道の哲学書をよく読んでいる。
そして、この日記にも何度か取り上げてきた。
同年齢ということもあって身近に感じられ、
似た考え方だから次々と図書館で借りてくることになる。
特に還暦を八ヶ月後に控えていることもあり、「人生とは何だったのか?」
という人生の総括が頭をよぎる。その時、中島がストレートに著書の中で答えてくれる。
大体は本を借りてくると、まずは目次と最後の10ページの中の要所を探す。
そして遇った、彼が真剣にいっている箇所が。
ー抜粋してみるー
オリンピックで金メダルをとっても、どんなに災害撲滅を見出しても、せいぜい二番目に
重要なことだと思います。
では、一番目に重要なことは何かというと「生きている」ことでしょう。
生きて死んでいくことでしょう。この絶対的な重みは、忘れてはならないと思います。
有名人が死ぬと、その人が何をしたということばかりが報じられますけれど、
そのすべては、ハッキリいいまして幻想です。何故かというと,全体を見ていないからです。
100億年もすれば全部なくなるわけです。そうすると、多分一回きりだと思いますけど、
自分の人生を、見ないようにして、仕事に逃れていくというのは、
もったいないのではないかと思うのです。
つまり、自分の持っている不適正、欠点をしっかり見ていくことです。
私は理不尽に人生を与えられしまった、その中でよいことをしようということでなくて、
それをごまかさないで見よう、そういうことです。
つまり、世間的には何も貢献しない、場合によってはマイナスのことをしてきたかもしれない。
でも、その人の生きてきた重みは、立派な建設をしたとか、トンネルを掘ったり、という
すべてをもっても代えられないものだ、と実感するんです。
私にとっては、生きる仕事以上の仕事はないわけですから、どんなに世間的に立派な
仕事でも、そんなに感動しないわけです。
働いて生きがいを感じ生き生きと生きる人生を、私は批判しませんし、そういう人を批判しません。
働くことが嫌でしようがない、あるいは働いても働いても報われないということを、
ごまかさないで徹底的にみてみると、そこから新しい視点が出てくるのではないかと思います。
ーーー
以上だが、これは私にとって、根こそぎ考え直さなくてはならない見方・視点である。
自分の中で、観ないふりをしていた自分の欠点や、自分を鼓舞するために
否定してきた考え方を含めて、「もう一度人生観を見直してみる必要のある問いかけ」をしている。
身近な人の死を経験した時、まず実感するのは
「人生は生きているうちが花!金持ちとか、肩書きとかいう社会的属性などは二次的なもの!
生きていることが、生きてきたことが、最も大事。この人は(亡くなった人)好きなことを
どれだけしてきたのか? その総量こそが人生である!人生は生きているうちである。
そして最後はたった独りで死んでいくのだ!人生などはかない。
常に死を思え!そして生きていること、生きてきたことを味わえ!」である。
中途半端に生きてきた人や、他人の批判だけが特性の人を徹底的に嫌い、
傍によらないようにしてきた。しかし身近な人の死で実感することは
生きること、生きていることが人生の第一の仕事ということだ。
「長く生きればよいということではない!」ではない。
「生きて死んでいくことそのことが、人生である!」人の人生を勝手に判断すべきではない。
当たり前のことだが、それぞれの人生があるのだ。
誰もが光の中を生きてきたのである。そして、光の元に戻るのである。
社会的属性や、行蔵も二の次でしかないのである。
しかし、小学生や中学生が、こんなことを親から学んで老成していたら、
おかしいんじゃないか?気の小さい優等生哲学者の戯言でしかない?
それとも、哲学病者の戯言じゃないか?とも思うが、その疑問自体が彼に
哲学を誘導されていることになる。
今朝の新聞の週刊誌広告の見出しに亡くなった二子山と二人の息子の確執が出ていた。
彼が何をしたかというより、家庭の揉め事も含めて全てが生きてきたことである。
揉め事結構!部屋を繁栄させたことも結構!
それが生きてきたことであり、亡くなった時にその重みの一端が顕れただけである。
一人一人を見れば、誰もが人生の荷物を抱えている。そして、それを抱えてこの世から消えていく。
・・・・・・・・・・
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2004年06月09日(水)
1163, JR-駅なか商店街
最近JRの駅がドンドン変わっている。
JR関連に知人がいる為に、駅内SCの内情を聞いていた。
パテオやセゾンなどの構内専門店街をつくって、いま勢いのあるテナントを誘致する
デベロッパーに変身している。
JRになって、一番変わったところだろう。
身近な新潟駅や長岡駅もこの十年で、全く様かわりをしてしまった。
駅前の「街」を、構内の「駅なか」に取り入れることによって、
根こそぎ顧客を奪ってしまうという発想である。
よいところに目をつけたものだ。
最近はビジネスホテルもつくり始めてきている。
見方によれば駅前商店街の最大の敵のはずだが、彼等はそれすら気がついてない。
まだまだ見ていると、幾らでもネタがある。
映画館・専門学校・カプセルホテル・専門病院、変わったところでは動物用ホテル、
託児所などある。
そういえば、私の学生時代に山手線の駅にステーション・デパートとかいう、
商売気のない専門店街があったが。
考えてみたら、自社でも駅構内の広告代で年300万も払っている。
バカバカしいが、といって駅からのお客が半分以上を占めているから、出さないわけには
いかない。駅前の25万のテナントの賃料と同じである。
最近、新幹線の席の前の網に2冊の通販のパンフレットを置いている。
来年から新潟駅の再開発が始まるが、そこで全く新しい街づくりが始まろうとしている。
オーバーにいえば、そこが新潟の一極集中の場になる可能性を秘めている。
新しい時代に対して、新しいコンセプトで、新しいテナントを組み合わせて、
国や、県、市の援助金をもらってやるのだから、上手くいって当然である。
といって国や県そのものが衰えれば、単なる空虚な空間になる。
最後の賭けになるかもしれない。
・・・・・・
2003年06月09日(月)
796, 至高体験ー読書日記ー2
「歓喜 ー> 理智 ー> 意志 ー> 気 ー>肉体」
至高体験=歓喜の体験、それを知った理智、そして意志にかわる、それが気になり、
肉体に反応する。たとえると野球で9回の裏逆転のホームランを打った。
そして歓喜する、その体験が理智になる、さらなるよい選手・バッターになる意志を固める、
それが気(気合)に変わり、練習をして積み重ねるようになり一流選手なっていく。
他には薬草や苔類を使う場合と、アルコールを使う場合や、禅などの修業で到達する
場合などがある。教祖様やシャーマンは、この歓喜体験を通して自己より解脱をして理智を得る。
好きなことを見つけ一生かけて続けるプロセスで、この歓喜体験をするケースが多くある。
女性の千人切りも好きな人には、歓喜体験ー至高体験を多くする事になるのだろう。
音楽会の会場が歓喜に包まれ、アンコールの嵐をTVなどで見かけるが、至高体験をしている。
この瞬間を味あう以前と以後位に感動するのだろう。
そういえば初めてロッキーに行った時も、旅行に行く以前と以後位に感動をした。
ー昨日とは別のホームページよりコピーしてみた。
・・・・・
■覚醒・至高体験とは(1)
◆事例集に入れる基準は?
「臨死体験・気功・瞑想」の中心になるのは、やはり「覚醒・至高体験の事例 集」です。
さまざまな文献や投稿のなかからこの事例集に入れるにふさわしいと思われるものを
Noboru(このサイトの作成者)が選んで載せています。
そのおおよその基準をまずここで明らかにします。
ところで「覚醒・至高体験」というときの覚醒と至高体験の違いは何でしょうか。
この点については私自身の中では明確な区別があります。最初にこの違いを明らかにしながら、
それぞれの意味を考えます。
◆自己実現した人間
覚醒と至高体験という二つの言葉は、はっきり区別できるものとして私自身は使用しています。
この区別は、人間性心理学の代表的な提唱者・マズローに負っています。
マズローによれば、人間は一般に心理的な健康に向かって成長しようとする強い内的 傾向を
持っています。そうした潜在的な可能性を完全に実現し、人格的に成熟し、到達 しうる最高の
状態へ達したと思われる人々のことを、彼は「自己実現した人間」と呼び ました。
しかし、心理的・精神的に「最高の状態」や「完全な発展」を問おうとすれば、何が
「最高の状態」で、何が「完全」であるのかという価値基準や判断の問題がつねについ てまわります。
そこでマズローは、客観的・分析的な心理学の方法ではなく、いわば循 環的方法を採用しました。
循環的方法とは何でしょうか。とりあえず世間一般で通用している言葉から優れた「人間性」を意味
するものを集め、その用い方や定義をつきあわせ、論理的にも事実の 上でも矛盾するところが
あればそれを除き、定義をしなおす。そしてその定義に適合すると思われる「自己実現した人間」
のデータを集め、それによってもとの定義をもう一 度検討する。
こうして修正された定義からさらにデータを見直すという作業を繰り返す。
このよう にラセン階段を登るように修正を繰り返して定義を検討していくのが、循環的方法です。
このプロセスをへて、最初はあいまいだった日常的な用語をますます厳密で科学的な のに
しながら研究を深めていくのです。
こうしてマズローは、たとえばアインシュタイン、シュバイツァー、マルティン・ブ ーバー、
鈴木大拙、ベンジャミン・フランクリン等の著名人を含む、多くの自己実現し たと思われる
人々を研究しました。この研究を通してマズローが気づいたことの一つは、 高度に成熟し、
自己実現した人々の生活上の動機や認知のあり方が、大多数の平均的な 人々の日常的な
それとはっきりとした違いを示しているということでした。
平均的な人々の日常的な認識のあり方と区別される、自己実現人の認識のあり方を彼 は
B認識と呼びました。BとはBeing(存在・生命)の略です。こうした認識のあ り方が、
実は覚醒とか悟りとか呼ばれるものとぴったりと重なるといえるのです。
◆至高体験
ところで、マズローがこの研究を学問的に説得力のあるものにすることが出来たのは、
ごく少数の「自己実現した人間」の研究ばかりでなく、平均人の一時的な自己実現とでも
いうべき「至高体験」の研究をも同時に行ったからなのです。
「至高体験」とは、個人として経験しうる「最高」、「絶頂=ピーク」の瞬間の体験 の
ことです。それは、深い愛情の実感やエクスタシーのなかで出会う体験かも知れませ ん。
あるいは、芸術的な創造活動や素晴らしい仕事を完成させたときの充実感のなかで
体験されるかも知れません。
ともあれそれは、一人の人間の人生の最高の瞬間であると同時に、その魂のもっとも
深い部分を震撼させ、その人間を一変させるような大きな影響力を秘めた体験でもある
といわれます。そうした体験をすすんで他人に話す人は少ないでしょうが、しかし、
マ ズローが調査をしてみるとこうした「至高体験」を持っている人が非常に多いことに
気 がついたというのです。
ここで大切なのは、いわゆる「平均的な人々」のきわめて多くが「至高体験」を持っ ており、
その非日常的な体験が、「自己実現」とは何かを一時的にではありますが、
あ る程度は垣間見せてくれるということです。何らかの「至高体験」を持ったことがある者は
誰でも、短期間にせよ「自己実現した人々」に見られるのと同じ多くの特徴を示す のです。
つまり、しばらくの間彼らは自己実現者になるのです。
私たちの言葉でいえば、 至高体験者とは、一時的な自己実現者、覚醒者なのです。
こうしてマズローは、ごく少数の人々にしか見られない「自己実現」の姿を、
多くの 人々が体験する「至高体験」と重ね合わせることにより、彼の研究の意味をより
一般的 なものにし、その内容をより豊かなものにしたのです。
以上で、覚醒と至高体験の区別をマズローに負っているという意味が理解いただけた でしょう。
至高体験とは、つかのまの覚醒を意味する言葉として使用しているのです。
・・・・・・
2002年06月09日(日)
432, スイス旅行
スイス旅行日程ー 7月3日(水)~12日(金) 新日本トラベル
http://www2.plala.or.jp/dontak/Swiss-AlCont.htm
http://www2.plala.or.jp/dontak/map01.html
1日目、 日本航空でチューリッヒへ。
-チューリッヒ泊
2日目、 リヒテンシュタインの首都ファドーツ散策と
「アルプスの少女ハイジ」の舞台マイエンフェルトで
ミニハイキングを楽しんだ後、サンモリッツへ。
夕食は郷土料理ビュントナー・ゲルステンズッペ。-サンモリッツ泊
http://www2.plala.or.jp/dontak/heidi-01.htm
3日目、 神秘的な白い湖を眺める”もうひとつの氷河特急”ベルニナ特急
とディアボレッツァ登頂観光の旅。夕食はマス料理。
http://www2.plala.or.jp/dontak/glacier1.html -サンモリッツ泊
4日目、スイスの観光列車の中でも最も人気のある氷河特急で
ツェルマットへ。夕食はチーズ料理ラクレット。 -ツェルマット泊
http://www2.plala.or.jp/dontak/mthr01.htm
5日目、登山電車でゴルナグラードへ登り”
ピラミッド”の愛称をもつマッターホルン(希望者は高原ハイキ
ング)。下山後モンブラン山麓のシャモニーへ。
http://www2.plala.or.jp/dontak/dan04.htm -シャモニー泊
6日目、 ロープウェーでエギーユ・デュ・ミディへ上がりモンブラン観光。
昼食はサヴォア料理。
午後、美しいシヨン城を観光しながらモントルーへ。
夕食はレマン湖産の魚料理とヴォー州産ワイン。 -モントルー泊
7日目、 風景の美しさで有名なパノラマ特急と”山峡の宝石”
と謳われてエッシネン湖観光を満喫後グリンデルワルドへ。
夕食はミートフォンデュ。 -グリンデルワルド泊
8日目、 登山電車で名峰ユウグフランヨッホ登頂観光
(希望者はアルプス高原ハイキング)。
下山後、中世都市ルッツェルン小観光。
夕食はゲシュネッツェルテス。 ールッツェルン泊
http://www2.plala.or.jp/dontak/Jungfr01.htm
9日目、チューリッヒへ。
チューリッヒ発日本航空で帰国の途へ。 -機内泊
10日目 成田到着
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2001年06月09日(土)
[47] シンクロ二シテ-
これは普通では考えられない、遇然の一致を言う。
‐意味ある遇然の一致と心理学で言う‐特にユングが深く研究ー
私の場合非常に多い。人間個人を考えれば、今生きている事こそ
奇跡‐遇然の一致の積み重ねである。
・ある自死をした元の部下の所に行ったとき起きた、不思議な遇然の一致の重なり
・柏崎の義父の葬式の帰り、そち峠で7回の‘虹の下’を通りすぎた考えられない出来事!
・従兄弟が自死をした時の納棺のおり、突風が吹き桜吹雪が舞い散った光景!
・大学を卒業して1年ぶりに池袋の本屋に行ったとき、たまたま学生時代の親友だった
男が目の前を歩いていた。
・家内の実家で展示会があり、いっしゅのお祭りで地元の道具やが出店を出していた。
そこの象 牙の仏像が気になり、帰ってから電話でそれを買いもとめた。
4~5日経ってから送られてきて、底をみたら
家内と同じ銘で恵子と彫ってあったこと。‐その時全身鳥肌が立った! 等々書けばきりがない。
遠藤周作などは、イギリスにある作家に興味があり、その地を訪ねた折ホテルのエレベーターで
ぶつかった相手がその作家だったと言う。葬式とか、自分が行きずっまって
ヒステリック状態の時とか、気持ちが異常に近いときに考えてみるとおき易い。