つれづれに

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 昨日は、恒例の飲み会。 結局帰ったのは午前様近く。
少し二日酔い気味だが・・・ タクシーに乗ったことも憶えていない。


・・・・・・
1862, グーグル Google -2
2006年05月09日(火)
                  ε(´',_c')オハヨウ!
       ー読書日記
8年前に設立した小さなベンチャーが、彼らが持っていた新しい検索エンジン
テクノロジーが卓越していたため、瞬く間に15兆6千億の株式時価総額になってしまった。
2004年の株式公開時には、500億円が一年足らずで300倍になったというから
驚異というしかない。しかし、その実体を知れば何も不思議でないことではないことが解る。  
 この検索エンジンのお陰で、地方の零細企業が再生し、彼らに新たな顧客と以前の
数倍の売り上げを与えようとしている。
この本は、その実体を解りやすく書いてある。グーグルによって、
地方と中央はかき混ぜられ、全く新しい産業構造が生まれようとしている。
 --
 そこで先ずは、第一章 世界を震撼させた「破壊戦略」の概略をまとめてみる。
この章は全体の概要になっており重要なので、次回も引き続き書く。
グーグルの中で解りやすい例として取りあげるのが「グーグルニュース」である。
このグーグルニュースは、世界のメディア業界を震撼とさせている。
なぜならば、この新サービスは、新聞やTV,通信などがネット上で
展開しているビジネスを、崩壊させかねない可能性をはらんでいるからだ。
それでは、その「グーグルニュース」とは?
世界中の数千のニュース媒体から、様々な記事を集めてきて、一括表示してくれるサービスである。
日本語版もあり、国内の新聞社など600あまりのニュースホーム�より記事を収集している。
集められたニュースは、トップニュース、社会、国際、政治、経済、文化・芸能などの
カテゴリーに分けられ、グーグルニュースのHPにまとめて表示される。
 この表示方法は非常にうまく作られており、同じ出来事を扱った記事は、
代表的なものカテゴリーのトップに表示され、他媒体の同内容の記事は
「関連記事00件」というカタチで別ページに一覧表示される仕組みになっている。
もちろん、各新聞社の記事をコピーしているわけではない。
そうすれば、著作権侵害になってしまう。そうでなく、新聞社の記事の見出しだけを
コピーしてきてグーグルニュースに掲載して、その見出しをクリックすると、
もとの新聞社のHPに自動的に飛ぶようにしてある。
 サイトは十分ごとに更新され、目の前で世界が激動するのが実感できる。
おまけに過去記事も三十日分が保存されていて、キーワード検索できる機能もついている。
特定の出来事に対して、様々な新聞のニュースをすぐに読むことができる。
それだけでない、このグーグルニュースのお陰で、人々がニュースを読むスタイルが
明らかに変わってきている。フセイン元大統領に対するニュースもアメリカや、中国、
中東では自ずから違う。その違った国のニュースを、簡単に見ることが可能になった。
これは劇的なことである。
 このニュースの編集が、人間でなくコンピューターのプログラムによって
作られているというから驚きである。
 グーグルは、「グーグルロボット」という名前を付けられたロボットのような
自動巡回プログラムを、インターネットの海に放つ。
そして、このグーグルロボットが、世界中の新聞社やTV局のHPより、記事を集めてくる。
ここでグーグルが凄いのは、これらの記事がどの程度信頼置けるかの一種の格付けを
していることだ。その技術の手法は「トラストサーチ(信頼検索)」と呼ばれていて、
記事の内容の充実度や、その記事を提供しているマスコミの程度などを数値化して、
信頼度を計測に使っているらしい。それにしても、驚くことは、グーグルニュースの
HPの全てが自動的に作られているということだ。
 グーグルニュースのトップページを見てみればわかるだろうが。
デザインを含めて、これが人間の手を経由していないとは到底考えられないということだ。
             ー  つづく    バイ♪(ノ´∀`*)ノ
・・・・・・・
 2005年05月09日(月)
1497, いま・現在についてー5

ー「私の」生成ー[どうせ死んでしまう]の読書日記に戻る。
この著書の中の
ー[私の]の生成ーという内容の意味と、[いま]を重ねて考えると、面白い。
ーその一部を抜粋してみるー
「この」身体や[この]心の状態を
[私の]身体や[私の]心の状態に変形させるのはいったい何であろうか。
[いま]周辺を見回してもらいたい。そこには[私]は登場はしていない。
そこに認められるのは[この]身体の状態であり、[この]心の状態である。
それは[私]の身体の状態・心の状態ではない。
だが、一時間前の光景を思い出してもらいたい。
それを見ていたのは誰か。それは、いまこの光景を見ているものである。
この光景を見ている者がさっきあの光景を見ていたものである。
現在と過去という互いに否定的な関係がここに登場する。世界は過去と現在に炸裂する。
そして、同時にそこに[私]がこの炸裂を繋ぐものとして登場してくるのである。
「私」は知覚においては登場してこず(川を眺めているあいだは「私」は登場してこない)
川を眺め終わって帰る時に想起したときに初めて登場してくる。
痛みですら、現在と過去との炸裂で了解される。犬が[キャン]と鳴くことと、
[私]が[ウッ!」と呻くのではなく、適切に[痛い]という言葉を使用できるのは、
やがて痛みが治まったときに[痛かった]と言えることでもある。
そのつど刺激に対してのみ[痛い]という事ができ、[痛かった]という過去形を
使えない者は、実は痛いという言葉を理解していないのである。
こうして、「この」痛みが[私]の痛みに「なる」ためには、痛みがさったあとに
なお私が[痛かった]と語れることが必要である。
痛かった[あの]痛みが「私」の痛みなのである。
他者とは、[別の私]のことである。それは、知覚においてではなく想起において
はじめて登場する。犬は他者ではない。想起能力のない生物は、いかに私と同じような
身振りで苦しがっていても、他者ではない。他者とは、私と同じように、現在と
過去という楔を世界に打ち込むことができる存在者なのである。
 ーーー
ー以上である。
過去と未来を想起するものが[私]であり、
「いま」という時点で前の「いま」を想起しているものが[私]になる。
従って、その想起のできないものは[私]を持ち得ない。
人間以外の動物には、[過去]や[未来]の想起ができないから、[私]はないのである。
このことより考えてみても、
「いま」と[私]は非常に深く関連していることになる。
何気なく使っている[私]という言葉は、現在と過去という世界に
打ち込むことができる楔である。それも現在[いま]、において。
この連休は、「いま」と「私」について、徹底的に考えてみた。
「私」にとって、非常に有意義な「いま(時間)」であった。

・・・・・・
2004年05月09日(日)
1132, 「ライフレッスン」ー 12
 ー 幸福のレッスン
 不幸論なら書けるが、幸福論となると何か書きつらいものだ。
幸せ感なんてものは、一時の気分でしかないと思ってしまうからだ。
といって幸せを意識して求めてないと、その時間を知らないうちに過ごしてしまう。
また、せっかくの幸せを得る機会を失ってしまうことも事実である。
ハッピーはハプニングが語源という。
偶然におきた中に幸福を見出すセンスをいうのだ。
良い偶然を得たことを喜ぶ気持ちと感謝である。
考えてみたら、生まれてきたことも、いまあることも偶然?である。
後にある抜粋の、一番初めの「幸せを私たちは、不自然と感じ、それに値しないと
思い込むように子供の頃から洗脳されている」のかもしれない。
しかし、幸せ感を得ようとするなら、少しの訓練があれば、誰でも可能である。
心の底から「ありがとう」と言えているときが幸せなのである。
 幸せの格言の中にも多くの幸せに対する示唆がある。
「幸福人とは過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、
不幸人とはそれの反対を記憶している人々である。」という萩原朔太郎の言葉が
真髄をついている。それは、訓練でも可能になるのだ。
いま私が実行していることは、マイナスの気持ちや言葉が出てきたとき、
自動スイッチとして「ありがとう」という言葉を繰りかえしていうことにしている。
お陰で「ありがとう」という言葉を繰り返しいうことになってしまった。
知人に万年欝の人がいるが、過去の生涯の嫌なことだけを記憶している人である。
よく記憶していると感心するくらい憶えているのだ。
むしろ不幸にいることが、自分の存在意義であるようにさえおもえる。。
やはり基礎的な知識を持ってないからであろう。
それだけ深い心の傷をためこんでいるいるのだろう。
「愚人は終夜睡眠し、昼間は交際を楽しむ。いったい、苦悩を消滅するのは
何時のことか」という言葉もあるが・・。
 ー抜粋ー「ライフ・レッスン」

・幸福は人間の自然の状態なのだが、わたしたちは不幸な状態に安住するように
訓練されている。わたしたちは幸福になれてないのだ。
せっかく幸福の状態にあるのに、それを不自然と感じ、それに値しない人間とおもってしまう。
だからこそ、幸福の状態をいいことだと感じる訓練や幸福になる為の訓練が必要になる。
・幸福になるか不幸になるかは、周囲におこることによって左右されるのでなく、
おこることにどう対処するかによって左右される。
おこっていることをどう解釈し,どう了解し、こころにどう対処するかがその人の
幸福を決定するのだ。
そして、ものごとをどう了解するかは、その人がものごとのかかわり方によって決まる。
ものごとからレッスンを学び、ものごとと自己との真実を想起するバランス点はそこにある。
ものごとのや相手の状況の最悪の側面をみる傾向にあるか、最良の側面をみる傾向があるか
によって、事態は大きく変わる。
最良、最悪、いずれの側面をみるかの傾向も、その人のなかで育ち、大きくなる。
・不幸への最短経路は、ものごとを比較することにある。
比較というこの自己破壊な行為には、しかも、比較する他者さえ必要でない。
過去または未来の自分と比較するだけで,おなじ惨めさが味わえる。
ところが幸福は、だれと比較することもなくて、いまここで、ありのままの自分を
「これでよし」と感じるところからやってくるのだ。
・人は矛盾のかたまりである。つねに『もっと』を望みながら、一方では、
あるがままの自分をうけ入れ,愛そうとしている。
自分が霊的な存在でもあることを知っていながら、世俗的な経験が織りなす現実を
受け入れようとしている。苦しみながら、一方で苦しみを乗りこえようとしている。
わたしたちは多いものと少ないものの、優れたものと劣ったもの、足りないものと
豊かなもの、大きいものと小さいものに満ちた世界に住んでいる。
その両極に気づいたとき、わたしたちは以前より豊かになる。
宇宙の中のわたしたちという部分はつねに、みごとにバランスを保っている。
・・・・・・
ー幸福の格言
コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつ
あった時である。幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にある
のではない                  - F.M.ドストエフスキー
 ・人間は、死、悲惨、無知を癒すことができなかったので、
自己を幸福にするために、それらを敢えて考えないように工夫した。 -パスカル「パンセ」

・自分の仕事を愛し、その日の仕事を完全に成し遂げて満足した。
――こんな軽い気持ちで晩餐の卓に帰れる人が、世の中で最も幸福な人である。ーワナメーカー
・幸福の秘訣は、自分がやりたいことをするのではなく、
自分がやるべきことを好きになることだ。        ージェームズ・バリー
・幸福は対抗の意識のうちにはなく、協調の意識のうちにある。ージイド「文学と倫理」
・私達は踏みなれた生活の軌道から放り出されると、もうダメだ、と思います。
しかし、実際はそこに、ようやく新しい良いものが始まるのです。
生命のある間は幸福があります。             -トルストイ
・人は幸福を探し始めると、たちまち幸福を見つけられない運命に陥る。
しかしこれには不思議はない。幸福とは、あのショーウィンドウの中の品物のように、
好きなものを選んで金を払えば持って帰れるというものではない。 -アラン
 ・我々は、我々の幸福を我々の外部、他人の評判のうちに求める。他人はみな軽薄かつ
不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちていることを百も承知なのに、だ。-ラ・ブリュイエール
・人生における無上の幸福は、自分が愛されているという確信である。  ーユーゴー
 ・こいつが最初三十分ばかりの幸福なら、財布をはたいてでも買ってやるところだよ。
だがね、生涯つづく幸福!これには到底耐えられないね。この世の地獄だ。ーバーナード・ショウ
・幸福は小鳥のようにつかまえておくがいい。できるだけそっと、ゆるやかに。
小鳥は自分が自由だと思い込んでさえいれば、喜んでお前の手の中にとどまっているだろう。
                  -ヘッベル
・不幸な人は希望をもて。幸福な人は用心せよ。    -ラテンのことわざ
・一生の仕事を見出した人には、ほかの幸福を探す必要はない。ーカーライル
・今この瞬間にあなたが無常の喜びを感じていないとしたら、理由は一つしかない。
 自分が持っていないもののことを考えているからだ。
 喜びを感じられるものは、全てあなたの手の中にあるというのに。
                  -アントニー・デ・メロ
・幸運がもたらされても、その全てを使ってはいけない ーコンフューシアス
・自分自身を幸福だと思わない人は、決して幸福になれない。 ーサイラス

・幸せを語りなさい。あなたの苦悩を除いたところで、世界は悲しみに満ちているのだから。
                   -オリソン・スイート・マードン
・我々は、幸福になるためによりも、幸福だと人に思わせるために四苦八苦しているのである
-ラ・ロシュフーコー
・人間の幸福の二つの敵は苦痛と退屈である。-ショウペンハウエル
・人間はあらゆるものを発明することが出来る。ただし幸福になる術を除いては。-ナポレオン
・幸福人とは過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、
 不幸人とはそれの反対を記憶している人々である。      - 萩原朔太郎
 ・一日だけ幸せでいたいならば、床屋にいけ。一週間だけ幸せでいたいなら、車を買え。
一ヶ月だけ幸せでいたいなら、結婚をしろ。一年だけ幸せでいたいなら、家を買え。
一生幸せでいたいなら、正直でいることだ。          ー西洋の諺
・・・・・・
2003年05月09日(金)
765, 流砂の民
 いま中国を中心にSARS が猛威をふるっている。
誰かが「これはソ連のチュルノブイノである」と言っていた。
なるほど、そうなる可能性が大である。
孫文が中国人のまとまりのなさを喩えて流砂の民といった。
つかんでも手の指の間からサラサラと落ちていく。
今までの共産党は、むしろ中国の発展のためにプラスに働いた。
ところがこのSARSで、その体制がソ連の崩壊と同じ道を
たどるのではないかという指摘は的をえている。
いまの中国を頭の一部だけ赤い丹頂鶴に喩えたのも面白い。
あの磐石に見えた中国はこれをきっかけに、国として激動期に入る。
恐ろしいことである。
 昨日のニュースでWHOが死亡率が7�から14~5�に修正した。
65歳以上だと50�という。
子供がかかるケースが少ないことも不思議な現象である。
この成り行きによって世界は大恐慌に入る可能性がある。
ホテルなど誰が泊まっているか解らない。
もしSARSの患者が出たら、ホテルとして即死-倒産である。
スーパーやデズニーランドも一人出たら終わりである。
本当に恐ろしい時代になった。

・・・・・・
2002年05月09日(木)
401, 腰痛
昭和38年の三八豪雪の時、長岡高校の屋根の雪落としをしていて、
腰痛になってしまった。
母が腰痛もちで、よく腰が左右に曲がっていたのを見たが、
それがそのまま遺伝したようだ。腰の骨が本当に左右にずれるのである。
その時の痛みは言葉に言いがたく、脂汗がにじみ出る。
大体が季節の変わり目に出る。
その対策として15年前から散歩を始めたが、今は腰痛対策というより、
精神的肉体的両面の健康のすべての対策になっている。
散歩も一日30000歩を超えると、逆に腰痛になる。
人間の今の身体の構造は、歩く前提で出来ているという。
何かあったら歩くのが一番自然だ。
腰痛は猿が人間に進化する過程で、腰に不自然な力がかかるようになった。
その結果、人類共通の持病になってしまった。
歩行がその対策によいことは、15年続けての実績で解る。
しかし完治はしない。
腰痛が出はじめたら、ホッカイロをその部分に当てるのが一番効果がある。
(母の対策を見て知ったことだが)それで4~5日で直るからだ。
医者には一度もかかったことはない。あとは腰痛と仲良くしていくしかない。

・・・・・・・
<おわらい>
ー贈賄の勝利ー
 ある男が、弁護士に訊ねた。
「弁護士様、訴訟が始まる前に、裁判官にアヒルの立派な奴を一羽、
 名刺を付けて送っておいたらどうでしょう」
「とんでもない。そんなことをしたら贈賄となって、
 裁判は絶対にあなたの負けになりますよ」
この裁判は結局、勝訴となったので、男は大喜びで弁護士に言った
「あの時、先生には反対されましたが、
 やっぱり裁判官にアヒルを一羽送っておきました」
弁護士はびっくりして言った。
「しかし、あの謹直で知られた判事さんが、
 黙っていたとはどうしても信じられない」
「いやなに、名刺の方は訴訟相手の名前にしておいたんです」