フィッツ・ロイ

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 写真はフィッツ・ロイ
何とも年米らしい、神々しい山である。




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スローフード
2005年02月15日(火)

欧州でまず驚くのは、スローフードスローライフの生活パターンである。
最近、日本でもスローライフスローフードが流行りだした。

アメリカ発の便利・効率を優先するファーストフードに対して、
スローフードを見直す運動がおきてきた。

イタリアのブラという街で生まれた運動で、
日本スローフード協会によると、次の三つを指標にかかげている。

1、消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、
  質のよい食品、ワインなどの酒を守る。
2、質のよい素材を提供する小生産者を守る。
3、子供達を含め、消費者に味の教育を進める。

アメリカのコンビニエンスという考え方が、食べることにも及んで,
画一化が進みすぎて、ものごとを「味わう」ことが少なくなってしまっている。
その反省に立って、食事そのものを見直す運動である。

これは、人生にもいえることで、
スローライフ」の見直しも出てきた。
人生を画一的な面だけでとらえず、ジックリと味あう生き方である。
「それぞれのライフワークで、自分という素材を生かすことを優先していこう」
という考え方である。

先日見た映画の中で、船長と妙齢な婦人3人と母娘のディナーでの会話が素晴らしい。
それぞれが初対面で、違う国の出身。
一人一人が多くの過去を持っている。
それを何気なく自己紹介で言うのだが、何の嫌味もなく洒落を言いながら
食事をしながら話すセンスが素晴らしい。
スローフードの典型であろう。

欧州人は、ともに食事をすることを最も大事にしている。
生き方と食事に大きなつながりがあることを、長い歴史の上で体験的に知っている。
時間と手間隙をかけた心のこもった食事を、心を込めてとることこそが、
今の時代に求められているのだろう。

特にスペインは、一日の時間の組み立て方が、欧州の他の国と全く違っている。
朝は、他の欧米と同じ9時頃に始めるが、午後1時か2時から4時ぐらいまで
昼休みを取る。その間、一度家に帰ってシェスタという昼寝をする。
(セックスも、その時にすませる人が多いという。)
そして8時過ぎまで働く。

その後街に出て、バールと呼ばれる居酒屋でアンチョビなどのツマミで
いっぱい引っ掛けて、顔見知りや家族と楽しむ。
街中あちこちにバールがあり、その時間どこも満席である。
その後、家に帰って食事をする。
とにかくバールの値段が安い。
彼らにとって、スローフードスローライフは数百年続いている文化でしかない。

スローフードなどが流行りだすのは、イタリアやスペインなどと同じく
国が衰退を始めたということだ。
これも事実だから仕方がない。

新潟でも全国チェーンの湯葉料理の「梅の花」が出店した。
昼飯を二時間以上かけて主婦などのグループがとる。
五頭山の麓にある、釜飯の店など、その走りなのだろう。

金持ちの外食スタイルのカジュアル版ということか!

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2004年02月15日(日)
1047, 「22歳の日記」の終わりに

今日で学生時代の日記が終わっていた。
何時から何時までという日付の無いフリーの日記帳なのだが、
丁度よいタイミングで最後のページで、最終日の今日だけレポート用紙が
貼り付けてあった。いま一冊の日記帳にあと半年位は書いていたと思うが、
ハッキリした記憶が無い。

この日記を書き移していて「恵まれていた環境にいた」とつくづく思う。
「寮生活に、一ヶ月の欧州旅行、ゼミ、クラブ、教授、両親、友人」
と多彩な環境が重なっていたことに驚いた。
そこには地方出身の、土がタップリついた、純朴な姿がそのままあった。
この時期に培ったものが一生ついてまわることを、振り返って実感する。
それと真面目な姿も、今も昔も一緒である?

大学の専門分野の授業が結構面白かったことと、
全く知らない分野を、色いろ知ったのが最大の収穫であった。
また知識や情報や人脈の重要さをつくづく実感をした。
知的好奇心がこの時期にやっと芽生えたのだから、かなりの遅咲きであった。

大学の知識などは、実社会に出てからの経験や読書などの蓄積からみたら、
微々でしかない。
「大学を出てないから駄目だ」
という自分の思い込みという石をつくらないで済んだのも収穫であった。

当時の学生時代の背景が、昭和40年代前半だったというのも恵まれていた。
特別恵まれていたのではなく求めるものがあったから、見返りに対象が
反応した部分もあった。

この時代のポップスは黄金時代といわれている。
高度成長期の波に乗って、素晴らしい歌が次々出ていた。

恵まれた時代にあたった世代は、最後の最後まで恵まれるようだ。
年金も、丁度よいようになっている。
同世代の人をみていると、仕事などでハッピーエンドの人が多い。

学生時代に真面目に過ごした人は、その後の人生で順調のようだ。
マージャンや女性狂いをしていた人は、あまり恵まれた人生ではない。
知識や生活の基盤をつくっていなかったためだ。
その一人が自分でもあるが。

寮にクラブにアルバイトに酒にと、全て中途半端であった。
しかし、それに気づいて産能大に入りなおして基盤直しをした?が、
それでも取り返しがつかなかった。
それほど甘いものではない。
基盤はそう簡単には造り替える事はできない。

この日記から、温みを感じ取れるのも確かである。
私の人生を振り返って
「恵まれていた、ついていた、面白かった、ありがとう」
がキーワードにある。
この日記を見る限り学生時代も全く同じである。

この日記を、つまらないという人と、リアルで面白いという人が二分していた
ようだが、少なくとも私にとっては、リアルで面白い内容であった。
自分の地偕の、あるフロアーに迷い込んだようなものだからだ。
この日記の最後にも感想を書いてある。

もう、こんな赤裸々な日記は書けない!

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2003年02月15日(土)
まれに見るバカ
         -読書日記 -2

ー印象的なところを抜粋するとー

人はバカに生まれるのでない。バカになるのである。
親子という縦の系列によってバカになり、友人・社会という
横のつながりによってもバカになる。・・・
 
なぜ容易くバカになるのか。理由ははっきりしている。
人間は楽な事を選ぶ生き物だからだ。できることなら責任なんか
負いたくない。他人の心配などまっぴらである。
難しいことより易しいこと、苦しいことより楽しいこと。
不自由より自由。貧乏より裕福。まどろこしい事よりすぐ成果が見えること、
に流される。努力するのも金輪際イヤである。
 これらの諸条件を満たすのは必然的にバカになる。自分中心主義で、
物知らずに、自分の頭で考えることができない。考える努力もしない。
だから人に頼りたくなり、人の責任にしたくなる。
このようにして人はいとも簡単にバカを志向する。
だから親がバカだと子供はつらい。「バカ」を刷り込まれるからだ。

バカになるのに訓練や努力はまったく必要でない。
欲望と感情だけがあればよい。そしてどんな人間でも欲望と感情だけは
もっているのである。・・・
もしバカになったら、それはどこまでも自分の責任である。
責任がなくとも、自分で負わなくてはならない。
  ・・・・
バカがひとりで死ぬまで山の中で生きているのならどんな罪もない。
しかしそのときは「バカ」であることじたいが無意味であろう。
ひとりだけならバカも賢いもないのである。
バカの罪状以下のごとし。
ーつづく
感想ー2

・人間は他人のバカは見えても、自分のバカが見えないものである。
 他人のバカは、実を言うと自分バカを見ているにすぎない。
 「他者認識不可知論」ー他人の事を理解する事は不可能だ。
 理解したと同時にそれは自分自身のことでなるからー
 他者にみえるバカは、わが内なるバカを自己確認しているだけでしかない。
 自分の可笑しく悲しい影といってよい。
 だから書くほうも読むほうもお互いに共感をしてしまうのだ。

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2002年02月15日(金)
331、自分を愛すること

我々は「自分を愛することを罪悪」と知らないうちに,
教え込まれてこなかったか。
人間のいや生物の「遺伝子にはエゴイズムが書きこめれている」という。
まず自分のエゴイズムをハッキリと認めよう。
そしてそのコントロールをすべきだ。

自己への愛が自己陶酔やエゴイズムと混同され、否定されている。
私たちの大部分が、実は愛を経験していなかったのではないか?
経験してきたのは、実は[報酬]であった。

どこかの「チンドンヤ」のように第三者の容認を目指しているのを、
本当の愛といえるだろうか?
三者の影を探し続けている「子狐」的偽愛・偏愛を愛と勘違いしていた。

まず自分自身を愛し、魂を育てることが「愛」の第一歩である。
その前に人を愛そうとしたり、人に愛されることを求める。
それはオカシイと考えもしない、世界の大部分がそういう人で満ちている。

別にエゴイズムを勧めているのではない。
他人に対する愛の希求を、まず自分に向けよ!
自分の魂に慈愛を与えよ!である。
自分のやりたい事を見つけやることが、魂に慈愛を与えることになる。

それを第三者に求めることを「愛」と勘違いしている。
真にやりたいことを、第三者に求めていないか?

三者にそれがある訳が無いことを解ってない。
新約聖書に「汝を愛するように、隣人を愛せ」という最も象徴的な
真理がある。汝を愛せない人間が隣人を愛することができるのだろうか。
聖書もまず隣人を愛せとか、自分への愛を否定はしていない。
宗教的な文章になってきた。

それを知っている人間は他人のそれも解る。
自己欺瞞が世界に満ちている。
解ってない人間が奇麗事を言う。
他人のアラを探す、無能だからそれしかないのだ。
 
こういう一生を「無能松の一生」という。
私の知人に典型的な奴がいる。
もっとも、悲しいことに一番に自分に似ている!

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2月15日 1969年

昨夜のことで、本当に自分が嫌になる。
いい加減な自分に嫌悪感を感じる。

あとは、思い残すことなく社会に出よう。
学生時代は終わったのだ。

ーこれからの予定として
2月17日に先生のところに最後の挨拶
2月19日にゼミの工場見学
  11時~18時
その後、2日間長岡に帰る。

2月26日にジャスコ入社式のため四日市に出発
     3月2日まで、入社前教育

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以上で半年続いた日記が終わっている。

その続きを書いていたかどうかは記憶がない。
書いていたかどうかは五分五分である。
この一年後、カード型の分類日記を一年間書いた記憶がある。
その一年後、全てを捨ててしまった。
本当は捨てなければよかった。

この日記よりもっと激しいことが書いたあったようだ。
それだけ、その後の一年は激しい一年であった。
心身ともボロボロになっていた。
大學を出て、十数年は誰もがそうだろうが、一生分の問題を吐き出し
解決してきた。
三十代半ばからは楽だったのは、それまで精一杯生きたからだ。

それにしても、凄い?20代~30代を過ごしてきたものだ。
他の人のことは解らないが、私は限界ギリギリのところだった。
読んでいて気づいていると思うが、やはり背景は恵まれていたのだ。
時代に、両親に、そして先生に、友人に。

月並みの言い方になるが「ありがとうございます」という言葉の重みを
つくづく感じる。
今も、当時も一番足りない気持である。
「ありがとう」という言葉は、言っても言っても尽きないのが人生と
振り返って実感する。

この時代の人達に「ありがとうございます」と手を合わせて、
この青春日記を終了する。 
少なくとも書き写している間は当時にタイムスリップをしていた。
毎日続いた一時のタイムスリップも、今日で終わってしまった!
あまり過去に住むのは良くない。

今年の9月からの同月同日の日記として、再び貼り付けるかどうかは、
その時考えるが「もう見たくはない」のが現在の気持ちだ。
半年も経てば気持ちが変わる可能性があるが。

当時のこの男の頭をなぜてやりたい。
そして「35年前よ、さようなら!」と、
腕がちぎれるほど何時までも手を振りたい気持ちである。

 当時と同じように少し感傷的になってしまった!

「あたらしき 明日の来るを信ずといふ
 自分の言葉に うそは無けれど~  啄木」
  
この日記帳の表紙にデザインとして書いてあった詩である。
日記帳の下欄には、啄木の詩や日記や書簡集が印刷をしてあった。

しかし詩心は芽生えなかった!

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  明日からは、換わりに、次のシリーズとして、
 このホームページの「お笑いのコーナー」の、
 ジョークと小話を貼り付ける。
 少し品のないところもあるが!
 100話以上ある。5月まで続く予定である。