つれづれに

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 午前中、小雨がパラツク中、ポタリングへ。
辛うじて、大降りにならないで済んだ・・・
さすが、殆ど誰も歩いている人はいなかった。
早朝のポタリングは、来春まで無理である。

 話題も、金曜日のシネマと、ポタリングと、天候ぐらい。
それでも、充実していた感がある。面白い本に出会うこともある。

 最近、図書館で目に入るのは「老後の・・・」とか、「老いる・・・」
とかの老いに関するものが多い。思ったより老いていくのは大変のようだ。 
知識として、これまで本を読んできたので、老後の心配は少ないが、やはり
軽くはない重い問題である。経済的、精神的、肉体的に、弱体していきざるを
えない現実がある。 生、老、病、死の四苦が複合的に覆い重なってくる時期。


・・・・・・
2068, あたりまえなことばかり -19
2006年12月01日(金)

    哲学的にみると、トラウマ「心的外傷」に対して、
    心は物理的に存在していないのだから、外傷と言えないという。
    しかし深い悩みを持った人は、心を肉体に喩えると大きな傷を負っている。
    大きな傷として仮定して、その傷口を消毒し、外科的な手当てが必要である。
    それが精神科であり、セラピーの役割となる。
    それぞれの立場・見方も必要である。
    
        以前は、癒しなどの言葉は無かった。
        精神科があっても、セラピーなどあったのだろか。
        手相などの占いが、昔流のセラピーの役割をしていたのだろう。
        私の場合の心の危機の場合、読書、音楽、ウォーキング、酒を飲んだり、
        このHPなど、癒しそのものである。
    最近は、これに早朝の曼荼羅モーニング・ページである。
    それに毎朝の仏壇の前の祈りもある。
    ストレスなど溜まるわけがないが、それでも少しは溜まる。
    
        自分の連れ添いが自殺したり、子供が自分のミスで死んだりした時に、
        癒しなどという言葉は、あまりにも甘く聞こえてくる。
        自分で自分を救う以外ないだろうが、自分で自分を癒すなどできはしない。
    そう考えると、癒しとは「目先の心の傷を応急処理すること」ということになる。
    それも大事なことである。
    それをしなかったため、精神病になる糸口になるからである。

   まあ、この本の抜粋もなかなか面白いが・・・
   
ーーーーーーーーーーー
どうすれば癒されるのか  -①
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癒しは「ストレス発散」「コンプレックス解消」に比べると、
具体性に欠ける。ストレス解消のためカラオケに行く。
コンプレックス解消のために化粧をするという具体性は無い。
何となくふわふわと浮わついた「雰囲気気」、それが当の癒しであると
するならば何となく納得する。
だとしたら、癒されるべき傷などどこにも無かったか、その程度のものである。
具体的なものが見えないから、漠然とした物欲しげなそこへ、
各種のグッズやセラピーが商品として流通するという構図である。

    しかし、受動態「癒される」の主語あくまでも「自分」なのだから、
    主語を支点にこれを能動態に変換すれば、「自分が自分を癒す」になる。
   「癒し」とは、各種グッズやセラピーによって、自分で自分を癒す能動的行為
    であると言うこともできる。

自分で自分を癒すとは、どういうことであろうか。
癒すためには癒されるべき傷がなくてはならない。
傷とは何であろうか。
傷ついているのは自分である。
そう思っているのは誰だろうか。
「自己治癒」という、いっけん明瞭なようなこの概念は、
日常レベルの予測をはるかに超えた、広がりと奥行きと複雑さを持っている。
それは、一般的な問いのある種の逆転によって垣間見られる。

   「私とは何か」   ->「何が私であるのか」
   「心とは何であるか」->「何が心であるか」

   「心はどこにあるか」ではない。「何が心であるか」である。
   「どこに」は、既に三次元空間内にそれがある存在していることを
    前提としている。脳も心もこの三次元空間内の物体である。
    しかし、心の痛みは、その痛みはそのものは、物理的な存在ではない。

本来、物理的な存在でないものを、物理的な存在であるように表象する、
もしくは表象させるそのような命名が、多くの誤解を生じさせている。
トラウマ「心的外傷」、その視覚的イメージが、何がしかの塊り状のものが、
傷口を空けているという光景である。
心的外傷、すなわち心が外から受ける傷である。
物理的でないものの、「外」、その「内」とは、どのような区分であろうか。
「心の外」とは、どこを指すのであろうか。

   「心」に外と内があるというのは、これも長い我われの錯誤は、
   「私」が身体であるという一方の強力な錯誤と手を組んで、
   「私の心は体の内側に存在する」、その主観である。
    そしてそれは客観としての世界もしくは他者とは関係しないか対立する、
    という錯誤の世界像として定着する。
    したがって、「私の心に傷を与えるのは、世界もしくは他者である」。

トラウマ理論とは、あるいは、主客二元の世界観に典型的な、
短絡的解釈ではないだろうか。
幼少期に虐めを受けたから性格はこうなった、という遠い原因から、
あなたにそういわれたから私は傷ついた、という近い原因まで、
そこに共通しているのは、「心の外」に、「傷の原因」を求められるという、
それ自体が一種病的な捉え方である。
なぜなら、「心」は身体のうちに存在していないからである。
「私」もまたこの身体ではないからだ。すると傷ついているのは誰なのか。
それは「誰」の傷なのか。

    したがって、私は私であり、私の心は私の身体の中にあるという錯誤の世界像を
    思い込んでいる人だけが、各種のセラピーグッズやセラピーによって
   「癒される」。癒されたと思いこむことができる。
    心の傷は外から与えられるものであり、その傷は外からの癒しによって
    癒されるものと思い込んでいるからだ。
    おそらく、「本当の傷」を負った人々は、そのような単純な主客二元の
    処方せんでは治癒できず、「本当」のかの問いに直面することになる。
    すなわち傷ついているのは誰なのか。

  ---
  心に外傷というのもオカシナモノだが、
  心が痛むというのはあって当然ではないか。
                 \(^▽^*)バイ!
・・・・・・・
2005年12月01日(木)
1703, 政府系金融機関の統合
              (~O~)ふぁ
政府系金融機関が三年後に統合されることになった。
 郵政民営化にともなう郵貯の出口の縮小処置である。
  悪く言えば、中小金融機関への貢ぎもの(中小企業の債権)である。
                         ヽ(ヽ゚ロ゚)ヒイィィィ!!!    
   思いきった人員整理も断行されるから、
    政府系金融機関の職員は仕事にはならない。 
     統合は地方の切捨てでもある。        (@_@;)
      戦後60年、地方への過剰投資が目にあまったことも事実。
       四国への三本の大橋の建設は、この象徴である。                          (=_=;)
      糖尿体質の現在の地方には、過激な手術になるが、
     グローバルの時代に中途半端な体質変換では、
    日本そのものが衰弱死をしてしまう。

 先日BS・TVで、公務員削減と合理化についての
 地方の自治体の取り組みの放送をしていた。
  横浜市の一万人当たりの公務員が97人に対して、大阪市が180数名という。
    市町村の大合併は、地方公務員の大削減になる。
                            """(_ _,)/~~"" "     
     民間企業が、この十数年生死をかけたリストラを実施してきた。
    公務員も当然リストラをせざるをえなくなっただけ。
   まずは政府系金融機関から手始めにということだ。 (′O`)~

    今回のテーマからは少しはずれるが、
     新潟県も「2010年問題」急浮上してきた。
      先日書いた北陸新幹線の開通に伴う、
       新潟県の横丁化ー衰退化の問題である。
        商工会議所などを中心として、のんびりしていた新潟県民も
         さすがに事の重大さに気づいたようだ。  Σ(゚ロ゚;)
   ( )     
     ∥┓  ((  
    (_)  匚P 
    ━┻    
   ♪~♪~ 県単位だけでなく、日本いや世界単位で
       2,007年から2010年にかけて、大問題が山積みをしている。
      ハイパーインフレや、銀行閉鎖もありうるのかもしれない。
                                `ν°)・;'.
     私が一線から一歩退く時期と重なっているから、なお不気味である。
   心配しても仕方ないが、今から手をうつのが役割である。 
  他人事のようだが徹底して行革を断行して、自民は下野をすれば良い!
 それが長年かけて日本を最悪に導いた罪滅ぼしになる。 
 ¬_¬)ちらっ    三年前の金の価格が、130㌫に上がっていた。
             これから5年は、さらに波乱含みになる。
             
                              (^_^)/~~
・・・・・・
2004年12月01日(水)
1338, 「自分を活かす極意」ー 読書日記-2 
ー自分のクセを技に変えるー

 三色ペンの技法に次いで、この言葉が印象的である。
  その文章を抜粋して考えてみる。

  ーでは、ふつうに日常生活を営み、ある程度の年齢に達成した
    私たちには何を技にすればよいのだろうか。
     私は究極的には「クセの技化」だと考えている。
      武道や芸道ではクセを直して技を身につける。
       しかし、年齢を重ねると、クセはほとんど直らないものである。
      それを直そうとするよりも、それを芸にする、技化することを考えた方が現実的だと思うのだ。
    それがクセなのか、技なのか、その分かれ目は
   全体に対してクリエーティブな働きをしているかどうかである。
  その人のある種のクセが周りをクリエイティブにしていれば、それはもはや技化しているといえる。
たとえば「卑屈さ」さえも技化できる。
 卑屈さというのはそのままでは軽蔑の対象になるものだが、
  タイミングよく下出に出ることがうまい人がいると、
   場全体が円滑に回ることがよくあるものである。
   そう考えると、新たな技を身につけるより、一見ネガティブにみえるものを
    技化し、自分なりのスタイルを確立するほうが、社会全体をトータルに
     見たときにクリエイティブといえよう。
画家にしても、二流の人にはスタイルがない。
 プロ野球の選手でも、スタイルは一流選手しか持っていない。
  その典型がイチロウ選手である。彼のバッティングは完全にクセが技になっている。
    このクセは、バッテングセンターで早い球を打つために、
     あの体全体をスライドさせる打ち方になったという。 野茂投手の投げ方も同じである。
   世の中、クセを技化して、自分のスタイルを作った者の勝ち、というところもある。
 ふつうはあまり推奨されない発想だが、人間、残り少ない人生になってきたら。
自分なりの味を出して、「あの人のやることだから・・・」
  と周りに認めさせるようになればよいではないか。
ーー
 以上である。
 この文章を読んでいて、100㌫認めてよいか疑問であるが、
  クセを逆に技化してしまう考え方は面白い。
   特に、ある程度の年齢を過ぎてしまえば、焼き直さなくてはクセを
    変えろというほうが難しい。
     それなら、それを技としてしまうのがよい。

    母親が、部屋の飾りに近くの川から流木を拾ってきて、
   そのクセのある枝を逆に飾りとして置物にしていた。
  何とも風情であった。

 落語家が年配になってくると、何ともいえない性格そのものが
  笑いになってしまう。
   晩年の林家三平とか、今では林家円鏡がそうである。

    間違ってはいけないのは、年配の癖は「守・破・離」の
    〔離」でしかないということだ。
   クセー我流をスタイルに変えればよいだけだ。
  一番難しいことだが。

 ー斉藤スタイルという、スタイルもクセと大して違わないのでは?
   いや技化しているから違うのか!

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2003年12月01日(月)
971, ナレッジマネジメントー2

 「マルコムボルドリッヂ国家品質賞」について

 ナレッジマネジメントといえば、まず頭に浮かぶのが
「マルコムボルドリッヂ国家品質賞」である。
アメリカが1980年代前半に大不況に見まわれていた時に、
 日本のTQCに倣って経営の品質管理を推奨した
 「マルコムボルドリッヂ国家品質賞」を国家戦略でつくった。
  現代の「エクセレント・カンパニー」の勲章といえる。
   今までには、モトローラゼロックス、インスツルメンツ、IBM,
    メリルリンチ、など一流企業が受賞している。

   この賞の凄さは、1700人のビジネスマンが一同に会して、
  経営の品質の向上の秘訣を知識共有にする仕組みにある。
 受賞企業は、その成功の秘訣を産業界にオープンにすることを義務付けられている。
 3日間の会合のほとんどが質疑応答に割かれる。
 この審査基準に準拠した表彰制度は,現在世界50カ国以上で実施されている。
 
 経営品質の向上のための考え方、枠組み、規準などの知識を共有し
  アメリカ産業会の競争力向上のために、この審査基準書は公表され、
   今までに百数十万部がアメリカの企業に無料で配布されている。
    こういう国家戦略の下積みが、現在のアメリカの強さの背後にあるのだ。

    現在、業績の良い会社は、正しくナレッジマネジメントの結果である。
   情報社会になって「ヒト」が労働力としてでなく、知識の源として認識されてきた。
  企業活動を「物やサービスの流れ」と見るのではなく「知識や知恵が流れている」
 と考えれば、それを適切にマネージすることが経営の質を向上させることになる。
 知識ワーカーが仕事の中心になったのである。
 知識や知恵をどのように活用するかが、この情報化社会では最も重要になった。

  同業、異業種の最も優れた業務手法を取り入れ続けなくては、
   会社はすぐに陳腐化していく時代である。
    同業他社は全て、そうしている。

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 2002年12月01日(日)
597, スーパー床屋 -2

そこで働く人たちはほぼ全員椅子貸しの契約社員
 TVで見た範囲の知識だが、頭の洗いは省略をして掃除機のような
  もので吸い取ってしまう。髭そりもオプションになっているようだ。
   一人当たり10~15分で仕上げてしまう。

    特に土曜と休日に集中するという。
   それなら美容院もあってもよいのではと思ったら
  新潟にも全国チェーンで「クイーン&キング」という名で
 青山にあるという。
 これなら家族でいける。


知人が最近スーパー床屋に切り替えたと言っていた。
 月に一回行っていたのを2回行くようになったとか。
  それでも安いという。
  「将来殆どがスーパー床屋にきりかわるだろう」と言っていた。
    自宅の近くのSCゾーンの一角にスーパー銭湯が開店するが、
     その中にスーパー床屋が併設されると家内が言っていた。
     500円の銭湯に1500円の床屋で2000円である。
    それでも床屋の半額なら大部分がそちらを選ぶだろう。


    今の回転寿司と寿司屋の使い分けの状態ににてくる。
   寿司屋も数年前に80㌫は回転寿司に取って代わると食堂専門誌に
  書いてあった。現在その流れが加速している。
 年に1~2度寿司屋に行って、月に1~2度回転寿司に行く
 パターンになってきている。

 学生時代の事を思いだした。
 池袋駅の地下に半額に近い床屋があった。
  多くの若い女性の従業員がいて広い店であった。
   いつも満杯であった。
    ただ一回で二度と行かなかった。

    若い女性にミニスカートに胸の開いたブラースを
   着せて色気を売っていた店がある時期流行ったという。
  クラシックを流している床屋もあった。

 何か床屋談義になってきた。

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[253] イケスの魚
    2001/12/01 10:23

北欧のある国に本当にあった話。
 あるイケスの魚が元気がよく、
  そこの魚は特に高くれていた。
   その秘訣を聞いても誰にも絶対教えなかった。


そして死ぬ時、息子に初めて明かした秘密とは
 「雷魚などの、食肉魚を一定の割合で入れとおく」という。
   魚は何時襲われるかもしれない為、緊張感を常に強いられ泳ぎ回っている。
    その為活きがいい状態に保てるためだ。なるほどと唸った。

    我々は食べられた損失に目が行き、
    全体の利益ー活性を忘れてしまう。


   組織論でよく事例に使われる喩えだ。
  かなりの危機がないと、その中は
 逆に全体が死に瀕してしまう。
 仲良しクラブになってしまうからだ。

 生もしかり、
  常に死への危機感を持ってないと‘生’が活きてこない。
   内なる危機を常にもっている事は必要であり、
    それこそ外から入れても
    その状態にしておかなければならない。

ーーーーー
ある時間の断片
12月1日(日曜) 
   1968年
今日から今年最後の月である。
私にとって色いろやらなくてはならない事が山積をしている。
卒論に、他いろいろである。
11時に起床。
17時まで、中途半端な時間を過ごす。
勉強に集中できない。
これでは計画通りにいかないのにどうしたことか。