つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=YMoZugaon5E

 腰痛といえば、4年前に、かなり重いのがあってから、平静を保っている。
軽いのは、もう日常で、書斎のパソコン前に二時間以上座った後は、必ず
痛みが出る。ということは、早朝と、午前中、二回は軽い腰痛になるが、直ぐにひく。
 一年八ヶ月、ヨガを続けているのも、腰に良いが、何といってもベッドに
低反発マットを敷いたのが大きい。


  ・・・・・
 2003年11月13日(木)
953, 腰痛ー2
 腰痛のことは以前にも書いたが、一昨日の朝、例年どおり腰痛が出た。
いつも季節の変わり目に出るが、私の場合は寒さで体を冷やしてしまうのが一番の原因である。
いま一つは、パソコンを座って打っていると腰に負担がかかる。
今のところ時間をかけて暖めるしか方法はない。
 間接的には、パソコンと寒さがあるが散歩の後、屈伸とストレッチをしたのが悪かったようだ。
 腰痛について書こうと思って過去の随想日記を調べたら、去年の連休後に書いていた。
五月の連休後も例年腰痛が出るのだが、今年はどういうわけかなかったが。
 腰痛になると何もする気が起きなくなる。
また一回一回ごの痛みの内容が微妙に違う。しかし今まで一回も医者がかりはない。
経験上、暖めていると長くて10日で大体直ってしまうからだ。その治療法を40年近くしている。
 インターネットで調べたら、腰痛にも色いろある。デスクワークの人や、お産や生理が原因であったり、
内臓の負担からくるものや、運動のやりすぎ、等々ある。今朝おきたら3分の1位に痛みが減っていた。
全治四日の予測が当たっていたようだが、どうなることやら。
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401, 腰痛 - 1
 2002年05月09日(木)
昭和38年の三八豪雪の時、長岡高校の屋根の雪落としをしていて、腰痛になってしまった。
母が腰痛もちで、よく腰が左右に曲がっていたのを見たが、それがそのまま遺伝したようだ。
腰の骨が本当に左右にずれるのである。その時の痛みは言葉に言いがたく、脂汗がにじみ出る。
大体が季節の変わり目に出る。
その対策として15年前から散歩を始めたが、今は腰痛対策というより、精神的肉体的両面の
健康のすべての対策になっている。 散歩も一日30000歩を超えると、逆に腰痛になる。
人間の今の身体の構造は、歩く前提で出来ているという。何かあったら歩くのが一番自然だ。
腰痛は猿が人間に進化する過程で、腰に不自然な力がかかるようになった。
その結果、人類共通の持病になってしまった。
歩行がその対策によいことは、15年続けての実績で解る。しかし完治はしない。
腰痛が出はじめたら、ホッカイロをその部分に当てるのが一番効果がある。
(母の対策を見て知ったことだが)それで4~5日で直るからだ。
医者には一度もかかったことはない。 あとは腰痛と仲良くしていくしかない。

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579,ある時間の断片ー11
- 2002年11月13日(水)
1968年 9月29日ー日曜
8時起床、午前中は部屋と寮の大掃除。 気持ちもすっきりした。
午後は3時間、明日のための準備の読書だ。
そういえば最近寮の他の人との距離が出てきたようだ。
仕方がないのかもしれないが、あまり開放をしていると
  
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[233] イチロウ
2001年11月20日(火)
「今の天才と言われる新人類は,皆コンピューター付きマシーンを使っている」と美輪?が言っていた。
バッテングマシーンに,何か工夫をしているのではないかとは思っていた。
それが昨日のBSNHKのイチロウ特集で、その秘密の一部を知る事が出来た。それは何か!
「テニスボールを投げ込むマシーン」であった。 それで230㌔のテニスボールを投げ込み、
  スピードに対し目を作ることと、反射の訓練をしていたのだ。これが彼の秘密のかなり本質の部分と直感。
スピードに目を慣らすのだ。実際に球がきた時に、緩く見えるまで訓練するのである。
  そこに赤と黒で数字が書いてあった。 それが見えるまで訓練するのだろう。
バッテングと守備の捕球に対して、球の見極めができるよう訓練をしていた。
子供の時から、そのマシーンを使っていたのではなかろうか。
脳と身体のサイボーグ化をしていたのだ。脳作業もしっかりしていた。
もちろんそれだけでは、あれだけのプレーはできない!その上に努力を人一倍重ねたのだろう。
  努力は誰もできる、ようはその方法を如何見つけるかだ。
イチロウは自分の練習を人に見られるのを極端に嫌っていた。他にも彼なりの科学的方法を
  積み重ねていたのだろう。 3年前に森監督の講演を聞いた時、「イチロウは王・長島とは格違いの
レベル」と言っていた。そのとうりになってきた。 自分の世界が保てない。彼らは彼らの価値観があるのだ。
当然のことだが、20数年お互いに違う道を歩いてきたのだから仕方がないことだ。
これからもまったく違う道をお互い歩くのだから。 そのことを考えれば今の疑問が少しは晴れるだろう。


1968年  
9月30日ー月曜
8時10分前起床、学校に出発をする。
武澤ゼミに参加する。 武澤先生に皮肉を言われたー少なくとも私のいい加減さを指摘されたと感じた
-気持ちだけは積極的になっているが、その実はやっていることは、いい加減だということだ。
ゼミ終了後、図書館で卒論のまとめをする。 気持ちが落ち着かず中途半端であった。
校庭であった奥野と中野と話をする。
試験がその後あった、ここは出ないと思っていたところが出てしまった。
もっと駄目押しをしておけばよかった。70点ぐらいだろう。
兼子と池袋駅まで一緒であった。 バスで帰るがこの風景もあと半年で終わりだ。
帰寮後夕食に行くと、寮の佐藤嬢がいる。 少しの時間だが食事をして話をする。
何か毎日が矛盾だらけだ、今日の先生の皮肉が聞いたのか気持ちの動揺が残っている。
現在の自分はゼミと卒論に気持ちが集中している。
それと就職のことがーこのまま就職してよいのだろか?
今の寮生とあまりに気持ちが違っている、これも仕方がないか?