つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=hmuJuTWUiuY&list=RD02Sipno8a4Vi4

 さて、明日からお盆に入る。とはいえ、寺参りぐらいしかイベントはないが。
今朝、信濃川一週のポタリングの帰り。大手通りを通ると、元の丸大前で
おばさんの人だかり、お盆用の花を臨時に売っていた。
で一把600円、価値的にみて半値に感じたので、三つ買うことにした。


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2005年08月12日(金)
1592, 幇間ー太鼓もち
 幼稚園の頃から高校を卒業するまで、実家の店では年越しの宴会をしていた。
そのため年末が子供ながら楽しみであった。芸者を何人かよんだり、近くの太鼓もちを呼んだりしていた。
といって長岡あたりではプロの太鼓もちはいない。近くの酒の好きな漬物屋の親父がセミプロとして
呼ばれていた。通称「八木漬物屋のオヤジ」である。彼がいないと場がしらけるほど存在感があった。
映画で観る幇間そのもので、芸者の三味線に合わせて色いろな芸をしていた。それをキッカケに、
他の人の芸が出てくる。家族や従業員・取引先など50~60人の宴会が何時も盛り上がっていた。
幼稚園の頃から日本酒を判らないようにコッソリと飲んだ記憶がある。幇間とは、いわゆる太鼓もち。
座敷に呼ばれて、芸者と同じように旦那衆におべっかを使って機嫌をとるのが仕事である。
落語によくでてくるヘラヘラしながら、しかし暖かい雰囲気を醸し出している技を持っている
男芸者である。愛嬌があって、人から何か好かれる魅力がなければならない。
そして宴会などを上手く盛り上げる座持ち役である。人間は誰でも、褒められ威張りたいものである。
太鼓もちは、その辺を熟知しており徹底的に自分を蔑みながらお客を持ち上げる。
これは余程の持って生まれた天性が無ければ勤まらない仕事である。
もう亡くなったが俳優の三木のり平の太鼓もちは絶品であった。
一度でよいから、この太鼓もちをやってみたいが、無理である。
営業のベテランは、その要素を経験から充分持っている人が多い。
話のキッカケは何か褒めることから始る。それも自然に、いつの間にか持ち上げられてしまう。
現在、プロの太鼓もちは、ほぼ絶滅?下町の旦那が余興で踊りなどを演じている位という。

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2004年08月12日(木)
1227, 新潟駅前ランチ事情
新潟駅前のランチ事情も変わってきた。この1~2年で、横浜軒、松屋ロイヤルホスト
き家、などのナショナル・チェーン店が進出してきた。それまでは、居酒屋やラーメン屋などが
ランチ定食を出していた。売上不振のフグ割烹の専門店までも昼飯を出し始めていた。
大体680円が相場であったが、最近は300~500円の店が増えてきた。私も、そのプライスの店に
行くようになった。朝食はウォーキングの後ということもあって、しっかりと食べる為か、
昼飯はジャンクション食と割り切っているので、手軽で済ませたいし、安い方がよい。
500円以下の店は混んでおり、700円以上のプライスの店はお客は少ない。
先日、事務所の近くに「定食の専門店」が出た。チェーン店ではないが、とにかく安くて、
自分で好きな惣菜をチョイスできるのがよい。大体400円~500円で済む。
私の場合、週一単位で店を使い分けている。回転寿司、蕎麦専門店、居酒屋、牛丼(豚丼)専門店、
定食屋、うどん専門店など10軒の店を、その日の気分で決めている。
駅前のサラリーマンにとって、昼飯を食べるのは大変である。
12時直後に、どこも満席になってしまうからである。最近は、昼飯を抜くか、
牛乳ですますケースが多いという。小遣いが節約ができるからである。
ランチの世界も、デフレの影響がモロに出ている。

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2003年08月12日(火)
860, プライド -1
 プライドについて考えてみる。プライドとか自負心を自分で意識する時は、「逆境の時」とか、
「あまり自分の意にそわない時期」に多い。プライドー自己尊厳ーとは程遠いと思われる人ほど、
プライドが高いのに驚いた経験をしたのは私だけでないだろう。新潟では長岡人を「異常な位プライドが高く、
閉鎖的で彼らだけで群れたがる」と評している。常に小さい世界で誰かを意識せざるを得ないからだ。
まあ地元の悪口になるから、長岡人の話はやめておく。
 プライドが何故マイナスの状態の時とか、マイナスの人の心の状態に現れてくるのか考えてみる。
「自分の子供がよい会社にいるのを誇りに思う」とか「自分のやってきたことに誇りを持っている」とかに表現される。
それは誰かとか、何かに対しての満足感を表す言葉である。その背後には、他と比べて、
・自分の収入は誰より多い
・誰よりも名声がある
・学歴は誰誰よりも高い  等々、常に比較の世界に生きている人の言葉である。
 自分の価値観をしっかり把握していれば、そんなことは如何でもよいことだ。
私が嫌っている「子狐」世界は、その比較の世界に生きているからである。
その小さい世界しか知らない無知の住人だからだ。そういう人ほど表面的利害を求めて彷徨っている。
それも隠しプライドー子狐の尻尾ーをたれ下げながら。彼らには本当の深い喜び、満足感、充足感はない。
 比較の世界に生きている人間に、自分の心の奥の芯の歓喜があろうはずがない。
彼らは、そのプライド故に嫉妬、羨望、憎しみが異常発生してくるのだ。比較の世界では、上から見下ろすだけでなく、
下からの歪んだプライドも出て来る。ある会など、見ても無残な歪んだプライドの世界である。常に誰かの悪口、
中傷の歪んだ暗い比較の世界である。真の価値観を持ち得ない人が、他者に対して持つ歪みが変形した世界になっている。
自己宣伝に精を出しているチンドンヤ、噂を餌に営業をしている?、太鼓持ちなど多士済々で面白いといえば面白いが。
それも如何でもよいことだが。
                            -つづく                           
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2002年08月12日(月)
485, 「我思う故に我あり」-1
 デカルトの「我思う故に我あり」という言葉はあまりに有名だが、フランスの‘生’の開祖と言われている
ビランが「我意欲す故に我あり」と、デカルトを否定して定義した。「キリストの求めよさらば与えられん」もこのことだ。
どこかの女子大の哲学の教授の「我笑う故に我あり」という本があるが、あまり面白い本ではなかった。
前回家内と「何で私らだけこれだけ感動に多く出会えるのだろ?」と話し合った。その時の答えは「求めたからさ!」
たったこれだけを殆どの人がしてない。
そこで自分で何か面白いものはないか考えてみた。
「我 実践す 故に我あり」
「我 行動す 故に我あり」
「我 祈る  故に我あり」
「我 感動す 故に我あり」
「我 愛する 故に我あり」
「我 夢みる 故に我あり」
「我 美食する 故に我あり」
「我 セックスする 故に我あり」
「我 読書する 故に我あり」
「我 前進する 故に我あり」
「我 遊ぶ 故に我あり」
「我 闘う 故に我あり」
「我 歌う 故に我あり」
幾らでも出てくる。
「我ーーーーー故に我あり」
自分にとってのそれは何か幾つか考え明確にしておくとよい。それが自分ともi云える。
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2001年08月12日(日)
[106] 坂之上小学校ー同級会
昨日小学校同級会、場所はかもがわ別館。25人参加。
かなり盛大であった。二次会は全員参加。楽しいひと時であった。
3クラス合同の会で100人強のうち4ぶんの1あつまったことになる。
5^6人が亡くなったようだ、それもこの2~3年で。
そういう時期になってきたと言う事か。5年に一回の会で丁度いい感じだ。
どうしても女性が多いのは、当然の事だろう。出席してよかった。