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午前中は家内のお供で、新潟県立近代美術館の「ルーベンス展」を見てくる。
説明書には、
《 ールーベンス―栄光のアントワープ工房と原点のイタリアー
17世紀バロック絵画の巨匠ルーベンス(1577-1640)は、ベルギーのアントワープで親方資格を得た後、
イタリアに8年間滞在し、宮廷画家として活躍しながら古今の芸術を学びました。アントワープに帰郷後、
大規模な工房を構えて、数々の傑作を生み出します。本展は、イタリア時代の作品をはじめ、ルーベンス自筆の
卓越した作品、工房作品、彼が直接指導して制作させた版画などを通じて、偉大なる画家の真の姿を紹介する
日本初の試み。》とあった。
よく、これだけルーベンスの絵画を持ってきたと感心するほど。一点一点をジックリみるに
一時間半ほどかかった。なるほど素晴らしい。
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2005年08月06日(土)
1586, 日本経済恐ろしい未来
ー 読書日記
「日本経済 恐ろしい未来」
この本を図書館から、何回か借りてきた。そして読み返しながら、日本経済の行方の参考にしている。
全ての問題を先送りにしようとする日本の将来に大きく警鐘をしている。
冷戦が終了しアメリカの特待生であった日本が、アメリカなどに政治的に利用するだけされても、
まだ体質を変えることができない事態。この本が書かれて3年経っているが、その後に何ら改善されていない。
いやマスマス悪化しているのが実情である。目先、中国のバブルによって、日本からの輸出が増えて一見
景気が良さそうだが。さらに改革の大元の郵政法案が揺らいでいる。
あるHPから、この本の概略をコピーしておきます。
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2004年08月06日(金)
1221, 運について-2
何回か「運について」(後にコピーしてある)を書いてきたが、再び書いてみる。
運にも二種類ある。受身の運と、積極的に自分からつかみとる運である。
・受身の運は、「結果として何時も運がついている運」性格とか、親の愛情が本人に染み付いているとか、
宗教的な環境の中で育っていて良い結果をもたらす運である。
ー性格の明るく良い人。良家の子女(躾がゆきとどいている人)。
・積極的な運は、「何事にもポイントがある、それを見逃さないよう努力をする。意志こそ運の原動力、原因」
という運である。ここで取りあげる運は、両者を重ねもつ運である。両方が揃って初めて開ける運である。
私の周辺の女性に、美人で性格が明るくて一生懸命に生きているが、そのわりに、状況が不幸せの人が何人もいる。
やっと幸せを手に入れたと思ったら、すぐに不幸のどん底に落ちてしまう。
よく見ていると、両親が不仲だったり等、色いろの理由がハッキリみえる。
「ある程度耐える」という家系からくる知識・体質を持ってない。
「ありがとう」を繰り返し言いつづけることは、耐えることの呪文である。
運が上向く以前に、耐えることが出来ない習慣を変える作用がある。
いま一つ、言葉の重要性を知らない。「自分は、ついている(運がある)」と、毎日こころの底から
思っていれば、そして、「ついている」と現に言葉に出していれば、ツキが回ってくるに。
「俺はついてない」「どうしようもない」「世の中が悪い」「あいつのせいで、こうなった。あの畜生め」と、
あけてもさめても唱えていれば、不運しかこないのは当然である。もし幸運がきても、
それが見えなくなってしまっている。世の中の八割そうだから、それで良いのかもしれないが。
チョッとしたことなのに、せっかくの人生、あまりにも勿体ない。
運は因縁と似ている。因は直接の原因、縁は間接原因をいう。
これが重なって結果がきまってくる。多くの因縁の中で、良いものを選択するのも本人である。
やはり良い本、良い人、良い芸術、大自然にシャワーのように浴びるしかないのか。
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2003年08月06日(水)
854, 閑話休題
全くテーマが浮かばず如何してよいか解らない日がある。まあほとんど毎日だが。そこが面白い面もあるが。
それでも強引に書いた文章ほど後で読むとよいから不思議なものだ。そうこう考えていたら、
あるホームページに「閑話休題」というテーマがあった。
これから無理にテーマを決めないで、時々「閑話休題」で書きはじめることにした。
書いた後でテーマを書き換えればよいし、そのまま閑話休題としてもよい。
野口悠起雄の「超文章法」の中で、テーマの探し方に
「窓から飛び降りそうなくらい大変なものである、考え尽くしてひねり出すしかない」
と書いてあったが、それを読んで学者でもそうかとほっとした。
それと「文章上達は量をこなして、校正と推敲を重ねるしかない」と本音で書いていた。
結局は努力努力努力しかない。
一見なにげなく書いてある文章に、それだけのエネルギーと時間が入っている。
逆にいえば、プロほど想像を絶するほどの絶対量と、その校正と推敲を重ねているのだ。
これはすべての分野にいえることで、プロの世界はそうそう甘くはない。
気楽な「閑話休題」を、時たま挟み込むのも本音がでて面白いだろう。
いまもテーマを意識しないためか次々とキーが動いてくる。
話は変わるが、昨日隣家で建前があった。100坪の敷地に二階建てで延べ50坪位の結構大きい家だ。
夕方帰宅したら、屋根の下地も含めて建前が終わっていた。
家内が言うには「20~30人が蟻のように取り付いていた」とか。
夕方には子供たちを集めて、上棟の祝いで何かをばら撒いていたという。
大きいクレーン車が次々と加工された材木を吊り上げ、鳶が組み立てていく。
いま流行の何とか工法という奴で遠くの工場で加工して持ってくるのだろう。
新しい家は、その人たちにとって仮の天国の世界の創造である。本人達はいまが一番嬉しい時期だ。
いままでは隣家に広い庭の空間があったが、これからは光が少なくなる。仕方がないが。
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2002年08月06日(火)
479, 楽観と意志
「楽観は意志、悲観は感情」
この言葉と出会って、「楽観の意味」が始めて理解できたようなきがした。
そういえば若い時ー理想に燃えていた時、その背後には悲観という不安が大きな口を開けて足元にあった。
若い時期の楽観はあくまでも虚構のような夢の世界であった。その正体が意志であった事が
この言葉を知るまで解ってなかった。それだけ強烈な言葉であった。悲観はただ流されている
喜怒哀楽でしかない。そういう悲観に占められていた時期の自分は、ただ感情的世界でしかなかった。
鬱の自分はそう感情の世界にドップリつかっている意志喪失の自己の世界である。
常に鬱の人は教養のない感情に支配されている人が多い。また非行動的の人が多い。
行動の、行は仏教語で判断という。動はあくまで動物の動きでしかない。行動は意志が入った動きだ。
行動的ということは楽観が勝っている状態と云える。
私の周辺の80㌫の人は悲観的な感情に支配されている人だ。また非行動的の人が多い。
行動的かつ楽観的の人はその背後に強烈な意志が隠されている。
楽しかった過去を思い出し楽しみ、将来の楽しみの計画をたてている今。それに過去の計画を実践している今。
それが楽観であり、意志である。
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2001年08月06日(月)
[100] あら!たのし
難しいことをやさしく!
やさしいことを深く!
深いことを愉快に! (井上やすし)
井上やすしの本を読んでいて納得して、彼のように紙に書いて机の電気スタンドに張ってある。
彼の言葉じゃなくて誰かの言葉を彼なりに変えた言葉だが。コツとか要領を旨くついている。
天才はそれぞれこの方法を子供の時より造りあげていた。考えている対象の文章化とか、ゲーム化とか
絵画化とかして。楽しみまで高めるのはそう簡単ではないが、でもやってやれないことはない。