つれづれに

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 今日から大相撲が始まる。最近は真剣勝負が多いので、けっこう面白い。
そろそろ、若手の中で面白そうなのが出てきそうだが。
 ところで松井に国民栄誉賞、まだコーチとか、監督の線があるのに、
早まったのではないか? もう終わった人を一線に持ってこられないのに。
何にも考えてないのだろう、やる方も、貰う方も。

 

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 2004年05月12日(水)
1135、「ライフ・レッスン」-13
 ー遊びのレッスン

 遊びは仕事とともにもっとも大事にしなくてはならないことである。何のために働くのかと問われれば、
遊ぶために働いてますと真から答えることができ、何のために遊ぶのですかと問われれば仕事をじゅうぶん
できるために遊ぶのです、と答えることが理想といえる。 遊びとはつかの間の気楽な時間ではなく、
遊びのためだけに捧げられた、じっさいの時間である。私にとって、この随想日記を書くことじたい遊びである。
遊びでなくては絶対に1000回も書くことは無理であった。 散歩もわたしにとって、最大の遊びである。
初めは腰痛対策であったが、いつの間にか遊びに昇華。歩いて楽しいのだ。
 晩年になって過去を振り返ったときに、あの時は良かったという記憶に残るのはやはり無心で遊んでいた時。
それぞれの年代において、それぞれの遊びの中で我を忘れて楽しんでいた時である。
ー抜粋
・われわれは趣味や遊びが何であるか忘れている。家具つくりを趣味でしている人が、ある日突然
「これを仕事にしよう」と思い立つ。好きなことをして、それが仕事になれば、というかもしれない。
しかし趣味とは成果を気にしないで純粋に楽しむものである。売るための家具をつくれば、もう趣味といえない。
それは仕事である。そのことに気づかずに、好きなことを、純粋に楽しめないことにゆがめていく人が少なくない。
・おもしろくって、一日中でもやっていたい、本当に好きなことをやらずに、欲求を最大限おさえて生きていくなんて、
何ておぞましい人生だろう。遊びにかけているサファーを、われわれは並以下の人間に感じる。
しかし、真剣に問われるべきは、われわれの大半が遊びのない世界に住んでいるのは何故かということだ。
・自分自身に上質な時間をあたえてほしい。
愛する人とすごす上質な時間が必要だということを、誰もが知っている。ところが、自分だけのための、
ひとりですごす上質な時間もまた必要なのだ。ひとり取り残された時間でも、気がついたらひとりになっていた
でもなく、純粋にひとりを楽しむ時間が一番大事だということを知ってほしい。
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以前書いた文章
 ー遊びについて
人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。
まずその達人を事例で考えてみる。一番身近では母がそのプロ?であった。
戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、父とともに苦労の連続であった。
そして長男、次男の連続の不幸な死で今の重症のノイローゼーなった。心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。
亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。
それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。約40年近く遊びきって亡くなった。
日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。
子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。遊びの重要さもそのため学んだ。
父は「働く人」、母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。ただ父も仕事の合間に結構遊びを作っていた。
「遊び」を儒教的影響の為か、キリスト教的倫理観の為か、罪悪と教えられてなかったか。子供のころ誰もが、
毎日目を光らせて遊んでいた。ただただ無心に遊んでいた。あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。
人間は生きていかなくてはならない。その為に働かなくてはならない。競争に打ち勝たなくてはならない。
その為に勉強もしなくてはならない。
しかしそれだけでは、それだけの人生だ。それがクロなら、その対象の白が必要になる。
どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。それを特に母の生き様から学んだ。
一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。
どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。そして厄介な不安という心理がある。
その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、「馬鹿な?生き物」である。
遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。そうすると、仕事も遊びになりうる?
天才はその典型であろう。
あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。何でも遊びの対象にした「遊び心」を。
純真の心を失っているからだ。「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。
「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」と暗示をかけられてないか?
私の趣味の一つにウオーキングある。初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。
純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。
その中に純真な遊び心が躍動を始める。何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。
それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。パソコンもそうだ、このホームページもそう。
そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。「遊びになるまで集中する」という事か。 これから散歩だ!
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2002/01/05
 一人遊び
孤独に強い人、一人遊びができるかどうかにある。一人で楽しみを見つけ・・・
書いていて気がついた、それって「お宅」でないか。似ているがやはり違う。
それは一人遊びのできない人が表面を見て、いっているのではないか? 
結局中途半端のそれをいうのではないか?字のとおり、部屋に引きこもって自分の殻にこもった状態をいう。
山登りや釣りはやらないが、これなど一人遊びの典型である。別にそれをお宅といわない。
読書好きの人もお宅といわない。自分の強みは孤独に強いことだ。人に何かを求めないこと、求めても
そこに何もないことを、経験上知っているためだ。結局人間最後は一人だ。そこでボールを一人で
バウンドさせていくしかない。そうしていれば、人が面白そうと自然に寄ってくるものだ。
「禅」とは、その修行によって、字のとおり単(一人)ということを示すことだ「示単」。これはある有名な
禅僧から直接聞いたことだ。そこで自分の好きのことを見つけ、それを楽しむことから始めなくてはならない。
その積み重ねが個性を作る。
ノイローゼになる人をみていると、これができない人だ。常に人に何かを求めているか、頼っているからだ。

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2003年05月12日(月)
768, 規制緩和
 この国が狂っているのは誰もが解っている事である。たまたまホテル業界は全くの規制がない世界。
その事が今になってみれば自分をすくうことになっている。ホテルは完成した時がベストの状態で、
必ず右下がりになっていく装置産業といってよい性格がある。
そこにもし規制があって、解除されたら後発の装置に対応ができない。
 小売業をみてみると、過去に存在した大店法が流通業界そのものの脆弱な体質をつくった。
一店舗を出店するのに多くの規制がある。そのために業界は出店が自由に出来なくなり、
競争が最小になってしまっていた。
既存小売店を守るためというより政治家と役人の?意味合いが強いものであった。
ところが実際は既存の大手チェーン店の利益を守るものになってしまった。
それがダイエーやニチイや長崎屋の間接的な弱体化の要因になった。
現在西友の買収というカタチで、アメリカのウオルマートが進出をしてきたが、
ジャスコヨーカ堂が合併しても太刀打ちできない事は自明である。
規制ー許認可緩和が、いま日本が直面している典型的な基本の問題である。
その規制で権力と利益を得ている役人と政治家が、今だに権力に執着しているのが現状である。
それでも酒屋・タバコ・ガソリンスタンド・米屋などアメリカの圧力で規制緩和がなされている。
既存の業者は壊滅状態である。今でも多くが利権保持の圧力団体からの票と献金規制緩和が維持されている。
それがこの不況の一つの原因になっている。
 経済を多くの規制でコントロールしようというのは、社会主義的規制社会である。
大きな政府になりざるを得ないのである。しかし情報化社会はグローバル化を止める事はできない。
それは自由化、競争の激化をいみする。それに対応するには競争力をつけるしかない。
規制社会はその力をそぎ落としてしまう。その為には規制緩和をするしかない。
いまの自民党を中心とした政府を潰さない限り不可能である。野党を中心とした政府になっても
大して変わらない。しかしこの失われた10年を考えてみると、政府が何回か交代をする必要
であったのだ。他人事ではないが、新陳代謝が国も会社も個人も必要である。

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2002年05月12日(日)
404, 結婚と離婚ー3
   -夫婦というもの-
人生の永遠のテーマの為か、過去に多くのエピソードが多くのこっている。
まずはソクラテスの妻は悪妻で知られている。「哲学者になりたかったら、悪妻を持て」
というジョークがある。徳川家康の築山御前は、愛人と謀反を企て殺された。あと息子も殺してしまった。
夫婦の間には、永年の間に底なしの泥沼になってしまう。
一時の熱で、一生後悔の人生を過ごさなくてはならないのは、悲劇より喜劇といってよいのかもしれない。
それが解ってたら誰も結婚をしないから、「恋愛という高熱の麻痺」を神が創りあげたのだろう。
誤解で結婚をして理解で離婚するのが、夫婦のある一面かもしれない。
といって一生の連れ添いは必要である。やはり生きていくうえでなくてはならない存在である。
特に離婚した人や死に別れをした人を見ていると、そう感じる。
やはり家庭ーそれも夫婦という基本形は大事にしなくてはならない。
しみじみ感じる年頃になってきたということか!「また生まれたらもらってね!」といって
知人の奥さんが亡くなった。いい言葉だ。
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2001年05月12日(土)
新潟木鶏クラブ
 新潟木鶏クラブを創立13周年経った。
 1・この会は‘到知’という月刊誌の愛読者が隔月ごとに会合を開いている。
 2・奇数月の第二土曜日(16  時~19時)大体10人前後出席。ー会員は20人位ー 
 3・共通の雰囲気があり、身近の因縁を超えた接点ー業種・職業をこえた視点の多様性ーが
  持てる事が最大の利点である。
 4・利害を超えた友人がほしい人とか、あたらしい視点世界を求めている人にぴったりです。
 5・場所はシングルイン新潟の予約センターです。全国に支部があり新潟県には
  新潟、長岡、柏崎,上越にあります。会社社長、コンサルタント、僧師、学校の先生、
  気功の先生、サラリーマン等々異色の人が来ています。
 6・年れいは30~70歳まで幅があります。女性常時2~3名は出席しています。   
 7・1時間もしないうちにアルコールも出て、かなり伯仲した議論になります。
  13*6=78回開かれ1度も中断した事はあり