つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=-raiJem8w9U
http://www.youtube.com/watch?v=XFLrwEszsdw

 今日の写真は、偶然見つけた居酒屋の写真だが、25~30坪タイプの一番スタンダードの
レイアウトのもの。40席~45席。メインとおりなどの関係でカウンターと小上がりの
座卓の位置が左右、変わる。 小上がりは4卓。 奥に小座敷が見えるが、4卓ほどだろう。
カウンター内には見えないが、手前に大型の冷蔵庫があり、板場がある。 
煮物のガス台が奥の左手にみえる。その横にビールを入れるケースもある。奥のドアは倉庫。
ガス台で、煮物をしながら女将が、カウンターの外の客に酒や料理を出す。これも見えないが、
奥の右手にトイレがある。まだ新しい店で、中の上クラスの居酒屋か小料理屋。
 40年近く前に千葉の千城台という団地の商業地区で貸しビルを建てた。そこの1Fの一角で
養老の滝のFC店を開いた。そこが、ほぼ同じレイアウトで店内は酷似している。
当時の店への投資は1000万、今では、この程度だと、1500~2000万。(保証金は別途)
右手の小上がりが椅子席以外は、ほぼ同じ。朝7時から23時まで必死に働いたことを思い出した。
 飲み屋は、叩き上げがやるもの。素人のやるものでない。しかし、創業の勉強にはなった。
小さな店でも経営の全ての要素が必要になり、不足すると直接跳ね返ってくる。
振返ると、色いろの事業を、よくやったと思う。絶体絶命の場に身を置くと信じられない力が出てくる。
 二年前の経験も、これらから見れば何とことはない。立ち上げの激しさから見れば10分の1以下。 
倒れ方もあるが・・ 振返って、いずれも面白い! といえるだけ、良かったということか。

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2005年03月01日(火)
1428, ワインの話-1
 思索紀行ーぼくはこんな旅をしてきた  
        ー読書日記
飛行機の中や、ホテルで国ごとのワインを飲んできたが、ー美味い、不味い。辛口、甘口。
酸味の濃厚さ。口当たりが良い、悪い。香りの良し、悪し。白・赤・ローゼー位の語彙しかなかった。
勿論、一万円を一本飲むより、1千円を10本飲んだほうが良い。サエゼリアのグラスの一杯80円の
ハウスワインで良しと思っているようでは、何おか言わんやだ。
ハウスワインとして割り切っていれば、それで充分だが。
この本を読んで、一本数万、いや数百万のワインを飲む意味が少しは解ったような気がした。
ワインに対する知識は、昨年ウィーンに行って少し聞きかじった位だ。
「良いワインを飲む回数が重ねた分だけ、少しは味がわかってきた」と思っていた。
しかし立花隆のこの章を読んで「何も解ってないということが解った」。
映画で、金持ちが地下にワイン貯蔵庫を持っていて、それを一人密かに飲むのを楽しみにしている
場面を見たことが何回かある。欧米の大金持ちの道楽の一つになっている。
欧州の紹介番組みで、ワインの酒蔵の醸造オーナーが、数十年前の取って置きのワインを
レポーターの飲ませる場面を見た。レポーターは涙を溜めてその美味しさを話していたが。
この本で知ったことだが、世界のワインの有名産地に殆ど行っていたのだ。
南アフリカ、スペイン、ドイツ、チリ、イタリア、フランス、オーストリアなどなど。
この知識があったら、その楽しみも増えたのにと残念至極である。「人生は知らないということを
知るプロセス」だが。知らないということは、多くの経験の機会を損失をしていることになる。
それも一生を終える時に、つくづく実感をするのだろう。
これから書く内容は、この本の第三章「『ガルガンチュア風』暴飲暴食の旅」のワインについての
記載をまとめたものである。20年前に書かれていた、この文章に解りやすくワインの話が書かれていた。
 (字数制限のためカット2013年3月1日)
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2004年03月01日(月)
1062, 「まず街灯の下を探せ」
野口悠紀雄の「超」整理日記「デフレとラブストーリーの原則」の「まず街灯の下を探せ」が面白!
-暗い夜道を歩いていて、鍵を落としたことに気づいたとする。 どこを探せばよいか ?
物理学者のアドバイスは、「まず街灯の下を探せ」ということだ。
数学の試験問題を解くには、この「街灯の下原則」に頼るしか方法はない。
「当面している問題は、過去に解いたどの問題と同じタイプか」と考え、
それに当てはめて解くのである。最初の発見者は十分な時間をかけたはずだ。
それと同じことを、限られた試験時間内にやるというのは、無理なのである。
つまり、「学校の数学は暗記」ということだ。必要なのは、問題のパターンを覚えることだけである。
「自分で考えて解かなければならない。しかし、私にはできない。だから、私には数学的な能力がない」
と思い込んで数学から離れていく人がなんと多いことだろう。暗記した問題のパターンに当てはめれば
解けると確信すれば試験の成績はよくなる。事例問題を暗記しておくのがよい。
 「街灯が事例問題」の例である。
ー以上であるが、
まずは知らない街に行ったとする。そうすると、何かの本かのTVか雑誌で聞いたことがある店に行く。
知らない店に行くより外れの確立は少ないだろからだ。経営でも考えられる。
何かを新規にしようとしたらベストの事例(灯り)を見つけ、そこの灯を頼りに鍵を探すことだ。
街灯を知識・情報以外に、考えられないだろうか。意志だろうか、それとも愛だろうか、知恵だろうか、それとも?
情報化社会ほど、情報と知識と、それを活用する知恵が必要とされる時代である。
まずは光り(情報・知識・意志・愛・?)が一番重要になる。この街灯が情報社会の到来で、世界中に灯ったのだ。
その為には、まずは目指す街灯を探さなくてはくては!

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2003年03月01日(土)
696, ルーツ -1
ー我家の家系
自分のルーツを探って行けば、ビッグバンにいきあたる。そして宇宙の創造、地球の起源、
生物の起源、動物の起源、人間の起源、日本人の起源、そして家系、自分になる。
家系といえば最近「家」の崩壊が始まっている。
数年前に佐藤愛子の「家系」が数年前にベストセラーになった。10数年前にアメリカでも、
ある黒人のルーツ探しのTV映画が放映されて、ルーツ探しがブームになった。
私の家の家系の話をしてみる。30数年前に父のところに遠い親戚の変わった?おじいさんが訪ねてきた。
「自分ー堀井のルーツを調べたいのだが、小千谷に郷土研究家から詳しい事を調べたい。
そのためにはまとまったお金が必要だ。資金援助をしてくれ」とのことだった。
その場で断ったが、父は「自分が調べて解ったら教える」と約束した。
そしてその小千谷の郷土研究家のところに行って調べてもらった。
そのコピーを子供たちや親戚に配った。勿論私も貰って手元に今もある。
実家の店の屋号が「池津屋」で、道具屋を戦前までしていた。父は「山本五十六」や「ツガミ社長の津上退助」や
「野本互尊」との付き合いがあった。戦前戦後と長岡ではこの「屋号」は老舗として一目置かれていた。
母が実家に嫁いだ時の資産が八萬円だったというから、地方ではミニ資産家だったようだ。
小千谷の近郊に「池津」の村があり今でも30代続いている「大本の本家」がある。
その時に両親が訪ねて行ったと聞いた。幕末にある先祖が長岡に出てきて古道具屋を開いた。
その孫娘が婿をとって、分家の道具屋を開いたのが2代前の祖父祖母である。本家筋はもう商売を
7~80年前にやめた。両親は戦争中に道具屋から仏壇屋に転進、戦死が多く大繁盛したという。          
                 ー続く
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2002年03月01日(金)
346, 20歳の頃ーある教授との出会いー3
       武澤信一教授  人事管理ゼミ
私の人生で最大の師は大学の恩師武澤先生である。もう亡くなられて7年になる。
イメージはキザな気取り屋で、底知れぬ教養人です。話しているだけでコンプレックスの塊になる。
特に人事管理の世界的権威のレベルと聞いていた。先生との出会いがなければ、30数年間一日平均
2~3時間の読書を続けられなかったと思う。知的コンプレックスを脳の中心に叩き込まれたためだ。
非常に印象は冷たく、傍にいるだけで居たたまれなくなる人だったと思います。
親分肌の正反対のタイプだ。あだ名は「絹布団」自分でも気にっていたとか。
初めは冷たく感じるが、長く付き合ってもらえれば温みが感じられる。目上の人で筆不精の私が何回も、
手紙や葉書をやり取りしたのは先生が初めてであった。
                - 遺稿文を載せてみるー
 さようなら武澤先生ー   ー武澤先生ご遺稿・追悼文集ー「はげみ」より
武澤信一先生、そして懐かしい武澤ゼミ、八王子ゼミナール、はげみの会、最終のゼミナールとその晩のコンパ。
そして先生の退職時のはげみの会(最後のゼミナールと称して参加者の全員の自己紹介と経緯の説明)等々、
様々なことが思い出されます。私の学生時代、いや50年の人生で恩師武澤先生をのぞいて考えられない位、
大きい存在でした。‘ご遺稿・追悼文集’発行の手紙をいただいた時「よかった」と思わず言葉が出てしまいました。
先生に対する追悼の思いを表現する場が、もやもやした中途半端な気持ちにあったからです。
立大3年の終わり頃、親友だった石川譲冶さんより「今入っている武澤ゼミ、素晴らしいから、面接に来ないか」
と誘われまま、気楽に試験に行ったのが武澤ゼミとの出会いでした。そして入ってまもなく大学3年間の、
いや人生の22年間の不勉強に、呆然としてしまいました。そして2学期から卒論を書くにあたって、
知的コンプレックスは極限に達してノイローゼの一歩手前の状態になってしまいました。進路もこのまま果たして
このまま進んでいいものか?直接その迷いを先生にぶつけてしまいました。その時の武澤先生の一言が
「迷いを数字で表現してみなさい!」でした。その時の自分の答えが忘れることができません。「51対49」でした。
すかさず先生は「それなら、51の方を選ぶべきです!」しかしその後、最終的に選んだのは49の就職の方でした。
「それなら初めから相談に行く必要がなかったのではないか」という矛盾でした。その後就職をしたのですが、
その後そこを辞め大学に編入しなおし、再び就職後事業を起こしました。そして現在に至っています。
そのプロセスの中でいつも先生の影が、自分を追い立てていたようです。また「51対49」が
私の人生観の一つになりました。何事も「51対49」と考えると、迷いも冷静に対処できるのです。
好き嫌い「51対49」差し引き2。正しい、間違い「51対49」差し引き2・・・・。

1989年の夏、先生が新潟大学で第19回の労務学会全国大会で議長をされました。
その時、私のホテル(シングルイン新潟)に泊まっていただきました。
そして「卒業後の30年のつもる話」を、させていただいた事を忘れる事ができません。
そして新潟の夜をハシゴをして飲み歩いた事も。ところで武澤先生と最後にお会いしたのは、1993年の
「はげみの会」でした。二次会で先生が異様に元気がないのが、気になっていました。そして、
その会の帰りがけにエレベーターの前