つれづれに

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 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=5ZRMbbTs_Zs

 昨日は、例年より一月も早く、春一番が吹き荒れた。
あと一mの積雪もないだろう。これで屋根の降雪もしないですむ。
あとは春の到来を待つだけ。毎日毎日、同月同日の書き物を読み直していると、
書き残こしておく価値を感じる。書いたと同時に、全てを忘れてしまうのだから・・
だから、面白い。3年前の自分、8年前の自分、44年前の自分が、ここにいる。
その時々の「自分」が、そこにたち現われる。いま時点の自分と、当時の自分。
その「分」が自ずから、自分ということになる。毎朝出会う、この人は、他人のようだ。

 写真は、図書館から借りてきた「うそつき」チャールズ・V・フォール著の表装。
相手の女性に手鏡をみせて、相手の顔をうつし出しているが、うつっているのが本人の顔。
相手は、だまされて、それが自分の顔と思い込んでしまう。
これは過去の文章からみえる己の顔が過ぎ去った自分で、赤い服が現在の自分。
だが、読み返しながら過去の自分を見ている赤い服の人が現在の自分の姿。
青の女性の目線に映っている、その人は、現在の私。 
あの時の私が現在の自分をみているような不思議な感覚。何をしている御前!と、
言っているような・・・ 哲学めいたか!?

 さてと今日の午後からはシネマ。幾つか見たいものがある、どれにするか?

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1040、 ドタ勘
2004年02月08日(日)

ある経営者の言葉の「ドタ勘」が印象に残った。ドタキャンをもじったもの。
土壇場の勘を信じて、決断していくしかない時代になった。そこまで日本経済は
追い込まれている。ぎりぎりのところで、思い切った現場からの叩上げの勘と
判断を信じて実行をしろといっているのだろう。
その感覚が今の日本に欠けているという。自信を失っているのだろう。
その場限りの対策しか立てられなくなっているのが、日本が現状だ。
アメリカ従属国家の末路のこの時期、日本に必要な開き直りの言葉でもある。
何度か創業を経験をしてきて、実際のところ格好いい理屈はなかった。
ドタン場の勘で、発狂状態?になって突き抜けてきた。
崖っぷちに立って初めて知恵と勘がでてくる。集中せざるをえないからだ。
積極一貫とは、前向きに極み(崖っぷち)を積み重ねることである。
しかし、その極み立つためには緻密な計画と長年の準備が必要である。
それが見えるのは、それをしてきた人間だけである。その他の人には、
それがドタバタ「勘」にしかみない。ついているという「運」の良さにしか見えない。
運が良いとは勘が良いということである。勘が良いとは、経験からくる暗黙知
良いということだ。暗黙知とは崖っぷちで積み重ねた知識と研ぎ澄まされた深い眼である。
 それこそがドタ勘である。 解ったような事をいえた柄でないか、本当!

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2003年02月08日(土)
675, ぶざまな人生ー3

ーおれ様の人生と馬の骨の人生ー
この本にはなるほどと合点する面白い内容がいくつもあった。
人間の存在とは
1、この世でたった一人しか存在しない人間ー「自分」・・「自分様・オレ様」
2、他人から見ると、その他大勢のなかの一人 ー「自己」・・「馬の骨」
この二つを同時にもつ存在である。この二つの認識を持つことが重要である。
個人主義とは、もともと集団的価値よりも個人的価値を上位に置く対集団的な考え方だが、
それが個人に向けられた時には、たった一人のオレ様である。お互いに馬の骨同士「個人」で
あるがゆえに、お互いの唯一性を尊重することになる。それが個人主義であり、その領分を
守るのが自分ー自らの領分である。利己主義は、自分だけがこの世でたった一人しか
存在しない人間としか認めない。他人と自分の領分も理解できない輩である。
以上が「オレ様と馬の骨論」である。
人と話していて驚くことがある、ある二代目が皮肉交じりに「お前は金儲けだけは上手いからな!」
と私に言ったことがある。この言葉の論外に「オレ様の仕事は金儲けでなく、お前ー馬の骨の
やっていることは金儲けでしかない」という自惚れの気持ちがありありであった。
「人間とは自分に都合のよいように自分を買い被っている存在に自分で気がついてない」と、
呆れたのを憶えている。この手前勝手さは誰もが、勿論自分も形を変えて基本にある。
それがこの馬の骨論で、ずばりと書いてあった。「みんなが大将!」というところか。
私が怒ると知らずと「あの馬鹿が!」とか、「あの馬鹿どもが!」という言葉が
頭をよぎるが、おれ様という意識がそう言わしめるのだろう。

以前「世間様」論を書いたことがあったが、世間様とは自分の領分をわきまえない
集団主義者のことである。いや集団主義というより仲間主義の連中である。

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2002年02月08日(金)
325、いまによくなるさ!必ず!

こういう時代だから、この言葉が大事だ!といって、これは手を打っての話だ。
「最善をつくして天命を待て」の時の言葉だ!
考えてみたら、心の奥で何時もこう呟いていた。歌に「明日がある、明日がある、
明日があるさ・・・」とかいう歌があった。「明日がある」も似た言葉だ。
「何とかなるさ」も同じ意味か。今更、一休和尚の話しをしても仕方がないが敢えてする。
「死んだ後どうにもならなくなったら開けよと、一通の封筒を
残して死んだ。そしてどうにもならない時に開けたら(どうにかなるさ!)と書いてあった」
実際今まで生きてきて何とかなってきた。そして良くなってきた。実際起こりうることより、
それに対する不安の方が10倍は大きい事は、誰も経験済みである。海外旅行ほどその段差を実感する。
今の悪い状態に対して悲観するのでなくて、よくなる方策を考え抜き
実行すればーーーー「今によくなるさ!」「今の日本はそれをやっているのだろうか?」

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2月8日  1969年
小林が寮に約束どおりに訪ねてくる。
彼と話しているうちに、若さとエネルギーの新鮮さに感化されてしまった。
私の卒論を見せると、構成のいい加減さをつかれる。私としては、昨日以上にショックであった。
一年がかりに書いた卒論も、基礎と基本のいい加減さを見透かされた。自分の為の自分の作文で
しかなかったのか。根本からやり直すことは今更むりである。先日の反撃をしたかったのだろうが。
いま気がついたことは、破ったと信じていた殻から、全く出てなかったことだ。
友人の批判に耐えられないレベルということか。批判者は批判者で気にすることはないが、
しかし隙をつかれてしまった。動揺が一日一日と激しくなる。卒業間近というのに。
いや間近だから動揺しているのだ。